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20【海斗Diary】二本の傘
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朝は青天高く爽快に晴れていたのに、午後からは一転してどしゃ降りの雨になった。ただし朝の天気予報ではこの雨を正確に予想していたし、ましてや梅雨の最中なのだ、注意深い人はちゃんと傘を携帯していくはずだろう。あの、粗暴な長兄を除いては。
朝食のたまご焼きを頬張りながら亜楼に傘を持っていけと散々言ったのに結局持っていかなかったため、海斗は亜楼が勤めるデザイン事務所『Studio Coolish』に傘を届けに行くところだった。置き傘などという丁寧な準備を亜楼がしているとも思えず、事務所の近くに傘を買えるようなところもなかったと海斗は記憶している。傘がないならないでずぶ濡れで帰ってくるワイルドな兄だとは思ったが、その状況を把握していて放っておくのもなんだか居心地が悪かったので、海斗は終業時間に合わせてついここまで足を運んでしまった。
Coolishには何度か忘れ物などを届けたことがあるので、自宅から駅三つ分あるが行き方はちゃんと知っていた。海斗は自分の紺色の傘を肩にのせながら亜楼の黒い傘をしっかりと持って、意気揚々と事務所に向かう。
がんばると決めたからにはきちんと行動で示したいと、海斗は亜楼に関わるあらゆることに必死になろうと心に誓っていた。やっぱり弟扱いしかしてくれない亜楼に、まずは自分の想いが一時の気の迷いなんかではない本物の気持ちだということを信じてもらわなければと、どんなに些細なことにでも真摯に向き合おうと海斗は考える。頭でぐるぐる考えるのは苦手だが、こうやって亜楼のために動くのは嫌いじゃない。亜楼喜んでくれるかな、気が利くやつだって見直してくれるかな、と海斗は亜楼に傘を差し出したときの情景をあれこれ想像しては顔を緩ませる。弟扱いを嫌がるくせに、結局褒めてもらいたい弟気質が抜けていない自分に気づき、どしゃ降りの雨の中海斗は苦笑した。
二階にある事務所に着きガラス張りのドアをノックして中に入ろうとしたとき、ガラス越しにちょうど亜楼が社長のところに向かって歩いているのが見えてしまって、海斗はノックするはずの手を思わず止めてしまった。
Coolishの社長・浅井涼とはあいさつを数回交わしたことがあるだけで海斗はちゃんと話したことはなかったが、ずいぶん若いうちに父親からこの会社を譲り受け、先代に負けず劣らず活躍している敏腕社長としての評価は亜楼の口からしばしば聞かされていた。中性的な細いからだのラインと、時々人を嘲るように光る吊り気味な猫目が印象強く海斗にも残っている。未だに抜けない坊っちゃん気質の高飛車さからはとても想像できない有能さの持ち主らしく、亜楼は涼に対して強い憧れを抱いているようだった。
終業時間を過ぎている事務所には亜楼と涼しかもう残っていないようだが、二人の間に流れる空気がなんだか妙であることを察し、海斗は中に入るタイミングを失ってしまった。何が起こっているのか気になって、気づかれないようにこっそりと数センチだけガラス戸を開けると、しゃがみ込み、扉の横に置かれていた背の高い観葉植物に隠れながら中の様子をうかがった。
……亜楼のやつ、仕事ミスってやり直しとかさせられてんのかな。社長に絞られてる最中か……?
海斗が軽い気持ちで盗み見していることに気づくはずもなく、亜楼は涼のデスクの前にたどり着いた。
「社長、出来上がったこれ、チェックしておいてください」
亜楼が配布用のパンフレットを涼の目の前に差し出すと、涼はのぞき込んでいたパソコンから目線だけを上げ、うんありがとう、と受け取った。涼はすぐにまた双眸をディスプレイに戻すが、冊子を渡し終わっても自分のデスクに戻ろうとせず立ち尽くす亜楼に気づいて、怪訝そうに部下の顔を仰ぎ見た。
「どうかした?」
問われた亜楼は柄にもなく、次に発すべき言葉をためらっているようだった。口唇を噛みしめてうつむき、言おうか言うまいか迷っている。それでも涼に真意を問うためにここに立っているのだからと己を奮い立たせ、亜楼は涼に詰め寄るように訊いた。
「……涼さん、なんで結婚なんかした?」
亜楼の威圧的な訊き方に、涼は呆れて大きなため息をこぼした。大きな子供をなだめるように、涼はやさしく言って聞かせる。
「キミ、結構あきらめ悪いね。仕方ないでしょ、もうどうしようもないんだよ」
「でもやっぱ俺……納得できねぇから」
「大丈夫、キミはなんにも心配しなくていいんだよ。だってボクたち別れる必要ないでしょ。亜楼はボクのことがスキ、ボクは亜楼を気に入ってる、どうして別れる必要がある? 全部今まで通りでいいんだから、ねぇ?」
涼は艶っぽく笑んだ。何もまちがってはいないと自信たっぷりに、いちばん可愛がっている部下の心細げに怒る表情を楽しそうに見ている。
そんな涼を見た海斗は物陰に身を潜めたまま、うっかり声が出ないようにと両手で強く口を塞いでいた。顔面からみるみる血の気が引いていくのが、自分でもはっきりとわかる。
……っ!? 亜楼……この人と、つ、付き合ってる!? え、ウソだ、ろ……。
「あんた正気じゃねぇな。今まで通りって簡単に言うけどな、俺は……」
なだめても機嫌を直さない亜楼に、涼はやれやれと目を伏せる。こんなに聞き分けのない子だっただろうかと過去を振り返り、普段はもっと従順だったはずだと涼は少しうんざりした。かわいいかわいいとそばに置いてきたが、慕われすぎるのも問題である。
「何度も説明したけど、これはこのボクでさえ抗うことのできなかった、親同士で決めたくだらない結婚だ。ボクは結婚の自由と引き換えにこの会社を親からもらった。最初からそういう約束だったんだ。今さらどうすることもできないんだよ。早く現実を受け入れて、大人になりなさい、ね?」
「それならそれで……せめて籍入れる前に言ってくれよ。……事後報告なんてあんまりじゃねぇか」
自分は一体涼のなんなのか、亜楼は噛みしめた口唇の下で自問する。確かに涼は自分を好きだと言ってくれたことはないけれど、それでも自分は涼にいちばん近しい存在だと自負していた。からだだけを淡々と重ねていた七年間だったけれど、まさかひと言の相談もなく嫁をとるとは思いもしなかった。俺はあんたのなんだったのか。
「あれでメグミは賢い女でね……」
涼が含みのある言い方で妖艶に笑み、亜楼が初めて耳にする女の名を滑らかに口にした。
「……親の言う通り結婚さえしちまえばあとは自由、互いに暗黙の了解で好き勝手やるってことかよ。……それでもあんたは」
社長相手に舌打ちをしそうな勢いで吐き捨て、亜楼は伏し目がちに言葉を続けた。
「それでもあんたは、嫁を抱くんだろう?」
「そうだね、気が向いたらね」
男女問わず愛せる涼は、後ろめたさのかけらも見せずはっきりと答える。あっさり言うなよ……と亜楼がうなだれた。
「俺は嫌なんだ、涼さんが誰かを抱くなんて耐えらんねぇ。……あんたは、俺にだけ抱かれてればいい」
涼は一瞬目を大きく見開くが、すぐに色香を漂わせたあでやかな微笑を顔に盛る。涼は座ったまま、デスクの前に突っ立っている亜楼の腕を引っ張りそばに引き寄せた。そのままぐいっと亜楼の顔に口唇を近づけ、デスク越しに深いキスを与えてやる。少しだけためらいを見せた亜楼も、やがてキスになじんでいく。
「じゃあ亜楼が、ボクの気が向かないようにしてくれればいいんじゃない? 亜楼がボクを満足させて?」
「……ここでそういう殺し文句を言わないでくれ」
「今夜、抱いてくれる?」
亜楼は少し考えたのち、今日はやめとく、とだけぽつりと言った。涼もまた、そう、とだけ短く答えた。涼が腕を離し亜楼を解放すると、二人の間におだやかな静寂がすとんと舞い降りる。
それでも亜楼は自分のデスクには戻らずに、涼の周りをうろうろしていた。涼は亜楼が持ってきた冊子に目を通しながら、
「雨、すごいね」
と、窓の向こうをちらっと見て言った。まだ外はどしゃ降りのまま、世界は厚い雲に覆われてどんよりとしていた。言われて亜楼も窓の外に視線を投げる。
「あぁ、すごいな」
「キミ、傘持ってる?」
「忘れた。そういや弟が朝、傘持ってけってうるさく言ってたな。ちゃんと聞いとけばよかった」
「ここ、置き傘もないんだよね。キミ、駅までびしょ濡れになるね」
「だな」
「雨が弱くなるまでもう少しここにいれば?」
「……ん、そうする」
亜楼が素直に甘える姿を初めて目にし、海斗はこの世の終わりのような顔をしてひっそりと事務所をあとにした。傘を渡すことは、できなかった。
海斗は傘をさすのも忘れて、ただ呆然と来た道を戻っていた。傘を二本も手にしているのにびしょ濡れになって歩いている海斗を、すれ違う人々が訝しげにちらっと横目で見ていく。
……亜楼、好きな人いたんだ……そりゃあ、好きになってもらえるわけねぇよな。
そういえばどうしてその可能性を考えなかったのか、海斗は自分の単純バカぶりにほとほと呆れてしまう。自分が亜楼をいとおしいと思うように、亜楼にもいとおしい人がいる。それなのに自分の気持ちを押しつけるばかりで、亜楼のことを何も知ろうとしていなかった。何ががんばる、だ。何が覚悟を見せる、だ。
家族には決して見せることのない亜楼の甘えた表情を思い出し、海斗は冷たい雨の中で打ちひしがれる。恋人だけが知る、すべてを委ねた柔らかい顔つき。自分には亜楼にあんな顔をさせることはできない。いつも困らせて怒らせてばかりだ。
何やってんだオレ……と、海斗は雨なのか涙なのか、もうすっかり混ざってしまった水を乱暴にごしごし拭った。それでも亜楼への想いが止められるはずもなく、ただつらい恋に身を置くしかない自分に惨めさを覚えながらとぼとぼと家路を進む。ふと、握っている二本の傘の柄を見た。
傘を渡せていたら、亜楼は早く帰ってきてくれたかな……。
雨宿りを言い訳にして涼のそばに残った亜楼を思い、海斗は弱々しく笑うしかなかった。
朝食のたまご焼きを頬張りながら亜楼に傘を持っていけと散々言ったのに結局持っていかなかったため、海斗は亜楼が勤めるデザイン事務所『Studio Coolish』に傘を届けに行くところだった。置き傘などという丁寧な準備を亜楼がしているとも思えず、事務所の近くに傘を買えるようなところもなかったと海斗は記憶している。傘がないならないでずぶ濡れで帰ってくるワイルドな兄だとは思ったが、その状況を把握していて放っておくのもなんだか居心地が悪かったので、海斗は終業時間に合わせてついここまで足を運んでしまった。
Coolishには何度か忘れ物などを届けたことがあるので、自宅から駅三つ分あるが行き方はちゃんと知っていた。海斗は自分の紺色の傘を肩にのせながら亜楼の黒い傘をしっかりと持って、意気揚々と事務所に向かう。
がんばると決めたからにはきちんと行動で示したいと、海斗は亜楼に関わるあらゆることに必死になろうと心に誓っていた。やっぱり弟扱いしかしてくれない亜楼に、まずは自分の想いが一時の気の迷いなんかではない本物の気持ちだということを信じてもらわなければと、どんなに些細なことにでも真摯に向き合おうと海斗は考える。頭でぐるぐる考えるのは苦手だが、こうやって亜楼のために動くのは嫌いじゃない。亜楼喜んでくれるかな、気が利くやつだって見直してくれるかな、と海斗は亜楼に傘を差し出したときの情景をあれこれ想像しては顔を緩ませる。弟扱いを嫌がるくせに、結局褒めてもらいたい弟気質が抜けていない自分に気づき、どしゃ降りの雨の中海斗は苦笑した。
二階にある事務所に着きガラス張りのドアをノックして中に入ろうとしたとき、ガラス越しにちょうど亜楼が社長のところに向かって歩いているのが見えてしまって、海斗はノックするはずの手を思わず止めてしまった。
Coolishの社長・浅井涼とはあいさつを数回交わしたことがあるだけで海斗はちゃんと話したことはなかったが、ずいぶん若いうちに父親からこの会社を譲り受け、先代に負けず劣らず活躍している敏腕社長としての評価は亜楼の口からしばしば聞かされていた。中性的な細いからだのラインと、時々人を嘲るように光る吊り気味な猫目が印象強く海斗にも残っている。未だに抜けない坊っちゃん気質の高飛車さからはとても想像できない有能さの持ち主らしく、亜楼は涼に対して強い憧れを抱いているようだった。
終業時間を過ぎている事務所には亜楼と涼しかもう残っていないようだが、二人の間に流れる空気がなんだか妙であることを察し、海斗は中に入るタイミングを失ってしまった。何が起こっているのか気になって、気づかれないようにこっそりと数センチだけガラス戸を開けると、しゃがみ込み、扉の横に置かれていた背の高い観葉植物に隠れながら中の様子をうかがった。
……亜楼のやつ、仕事ミスってやり直しとかさせられてんのかな。社長に絞られてる最中か……?
海斗が軽い気持ちで盗み見していることに気づくはずもなく、亜楼は涼のデスクの前にたどり着いた。
「社長、出来上がったこれ、チェックしておいてください」
亜楼が配布用のパンフレットを涼の目の前に差し出すと、涼はのぞき込んでいたパソコンから目線だけを上げ、うんありがとう、と受け取った。涼はすぐにまた双眸をディスプレイに戻すが、冊子を渡し終わっても自分のデスクに戻ろうとせず立ち尽くす亜楼に気づいて、怪訝そうに部下の顔を仰ぎ見た。
「どうかした?」
問われた亜楼は柄にもなく、次に発すべき言葉をためらっているようだった。口唇を噛みしめてうつむき、言おうか言うまいか迷っている。それでも涼に真意を問うためにここに立っているのだからと己を奮い立たせ、亜楼は涼に詰め寄るように訊いた。
「……涼さん、なんで結婚なんかした?」
亜楼の威圧的な訊き方に、涼は呆れて大きなため息をこぼした。大きな子供をなだめるように、涼はやさしく言って聞かせる。
「キミ、結構あきらめ悪いね。仕方ないでしょ、もうどうしようもないんだよ」
「でもやっぱ俺……納得できねぇから」
「大丈夫、キミはなんにも心配しなくていいんだよ。だってボクたち別れる必要ないでしょ。亜楼はボクのことがスキ、ボクは亜楼を気に入ってる、どうして別れる必要がある? 全部今まで通りでいいんだから、ねぇ?」
涼は艶っぽく笑んだ。何もまちがってはいないと自信たっぷりに、いちばん可愛がっている部下の心細げに怒る表情を楽しそうに見ている。
そんな涼を見た海斗は物陰に身を潜めたまま、うっかり声が出ないようにと両手で強く口を塞いでいた。顔面からみるみる血の気が引いていくのが、自分でもはっきりとわかる。
……っ!? 亜楼……この人と、つ、付き合ってる!? え、ウソだ、ろ……。
「あんた正気じゃねぇな。今まで通りって簡単に言うけどな、俺は……」
なだめても機嫌を直さない亜楼に、涼はやれやれと目を伏せる。こんなに聞き分けのない子だっただろうかと過去を振り返り、普段はもっと従順だったはずだと涼は少しうんざりした。かわいいかわいいとそばに置いてきたが、慕われすぎるのも問題である。
「何度も説明したけど、これはこのボクでさえ抗うことのできなかった、親同士で決めたくだらない結婚だ。ボクは結婚の自由と引き換えにこの会社を親からもらった。最初からそういう約束だったんだ。今さらどうすることもできないんだよ。早く現実を受け入れて、大人になりなさい、ね?」
「それならそれで……せめて籍入れる前に言ってくれよ。……事後報告なんてあんまりじゃねぇか」
自分は一体涼のなんなのか、亜楼は噛みしめた口唇の下で自問する。確かに涼は自分を好きだと言ってくれたことはないけれど、それでも自分は涼にいちばん近しい存在だと自負していた。からだだけを淡々と重ねていた七年間だったけれど、まさかひと言の相談もなく嫁をとるとは思いもしなかった。俺はあんたのなんだったのか。
「あれでメグミは賢い女でね……」
涼が含みのある言い方で妖艶に笑み、亜楼が初めて耳にする女の名を滑らかに口にした。
「……親の言う通り結婚さえしちまえばあとは自由、互いに暗黙の了解で好き勝手やるってことかよ。……それでもあんたは」
社長相手に舌打ちをしそうな勢いで吐き捨て、亜楼は伏し目がちに言葉を続けた。
「それでもあんたは、嫁を抱くんだろう?」
「そうだね、気が向いたらね」
男女問わず愛せる涼は、後ろめたさのかけらも見せずはっきりと答える。あっさり言うなよ……と亜楼がうなだれた。
「俺は嫌なんだ、涼さんが誰かを抱くなんて耐えらんねぇ。……あんたは、俺にだけ抱かれてればいい」
涼は一瞬目を大きく見開くが、すぐに色香を漂わせたあでやかな微笑を顔に盛る。涼は座ったまま、デスクの前に突っ立っている亜楼の腕を引っ張りそばに引き寄せた。そのままぐいっと亜楼の顔に口唇を近づけ、デスク越しに深いキスを与えてやる。少しだけためらいを見せた亜楼も、やがてキスになじんでいく。
「じゃあ亜楼が、ボクの気が向かないようにしてくれればいいんじゃない? 亜楼がボクを満足させて?」
「……ここでそういう殺し文句を言わないでくれ」
「今夜、抱いてくれる?」
亜楼は少し考えたのち、今日はやめとく、とだけぽつりと言った。涼もまた、そう、とだけ短く答えた。涼が腕を離し亜楼を解放すると、二人の間におだやかな静寂がすとんと舞い降りる。
それでも亜楼は自分のデスクには戻らずに、涼の周りをうろうろしていた。涼は亜楼が持ってきた冊子に目を通しながら、
「雨、すごいね」
と、窓の向こうをちらっと見て言った。まだ外はどしゃ降りのまま、世界は厚い雲に覆われてどんよりとしていた。言われて亜楼も窓の外に視線を投げる。
「あぁ、すごいな」
「キミ、傘持ってる?」
「忘れた。そういや弟が朝、傘持ってけってうるさく言ってたな。ちゃんと聞いとけばよかった」
「ここ、置き傘もないんだよね。キミ、駅までびしょ濡れになるね」
「だな」
「雨が弱くなるまでもう少しここにいれば?」
「……ん、そうする」
亜楼が素直に甘える姿を初めて目にし、海斗はこの世の終わりのような顔をしてひっそりと事務所をあとにした。傘を渡すことは、できなかった。
海斗は傘をさすのも忘れて、ただ呆然と来た道を戻っていた。傘を二本も手にしているのにびしょ濡れになって歩いている海斗を、すれ違う人々が訝しげにちらっと横目で見ていく。
……亜楼、好きな人いたんだ……そりゃあ、好きになってもらえるわけねぇよな。
そういえばどうしてその可能性を考えなかったのか、海斗は自分の単純バカぶりにほとほと呆れてしまう。自分が亜楼をいとおしいと思うように、亜楼にもいとおしい人がいる。それなのに自分の気持ちを押しつけるばかりで、亜楼のことを何も知ろうとしていなかった。何ががんばる、だ。何が覚悟を見せる、だ。
家族には決して見せることのない亜楼の甘えた表情を思い出し、海斗は冷たい雨の中で打ちひしがれる。恋人だけが知る、すべてを委ねた柔らかい顔つき。自分には亜楼にあんな顔をさせることはできない。いつも困らせて怒らせてばかりだ。
何やってんだオレ……と、海斗は雨なのか涙なのか、もうすっかり混ざってしまった水を乱暴にごしごし拭った。それでも亜楼への想いが止められるはずもなく、ただつらい恋に身を置くしかない自分に惨めさを覚えながらとぼとぼと家路を進む。ふと、握っている二本の傘の柄を見た。
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