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“神様の気まぐれ”
5-4 意味ねぇんだよ
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「和唯ー、オレも買い出し一緒に行くわ」
そう言いながら、琉架がリビングにひょこっと顔を出した。
春がそろそろ本気を出してきたあたたかい土曜の午後、出勤までまだ時間に余裕のあった琉架は食材の買い出しを手伝おうと、キャメルの薄手のブルゾンを手にスリッパを鳴らしてリビングにやって来た。買い出しを終えたらそのまま職場に向かうつもりだったので、須磨子の理想のボーイでいるために今日もきちんと髪や服装を整え、客に触れられないように左耳には防御のフープピアスを入れている。
リビングでは、もうすっかり同居人の寝床兼対価受け渡し用になっているL字ソファで、和唯が険しい顔をしてスマホと向き合っているところだった。
「買い出し行かねぇの?」
返事のない和唯に近づいて琉架がもう一度声を掛けると、
「……!? あ、ごめんなさい……全然、気づかなくて」
と、近寄ってきた琉架を今認識したように少し驚いて見上げる。反射的にスマホの画面を胸の辺りに当てて隠すような動きをした和唯を、琉架は見逃さなかった。
「何? なんかトラブってる? おまえがスマホにべったりなの珍しいじゃん」
何かとこだわったりしつこかったりする男なのにスマホにはあまり執着しない現代人らしからぬ和唯が、今日はさっきからずっと頻繁にスマホを確認しているのが琉架は少し気になっていて、野暮だとは思いつつ思いきって訊いてしまった。
「……あ、……え、っと……」
訊かれて、和唯の顔がほんのり曇る。言うか言うまいか迷っているような和唯に、しまった、と琉架が気まずそうにした。同居人時々セフレ程度の自分が和唯のスマホの中身を気にするのはさすがに鬱陶しがられたかと、琉架が盛大な愛想笑いで誤魔化す。
「悪ぃ、今のナシ! 答えなくていい!」
詮索とかクソダセェだろ……と思いながらも、和唯相手だと琉架はどうしても言動の制御が下手くそになってしまう。日に日に膨らんでいく淡い想いに、琉架自身も戸惑っている最中だ。
「いえ、別に……やましいことではないので、言えるんですけど……」
失敗ばかりの自分を琉架が常に案じていることは知っているので、和唯は素直に現状を伝えようとした。先日のキッチン破壊事件があったばかりなので、おそらくこの脆弱な精神を信用されていないのだろうと和唯は思う。
「……その、えぇと……連絡来てて。……藤岡から」
その名を聞いた途端、琉架の心臓がどくっと跳ねた。先日教えてもらったばかりのその名に馴染みなんてまるでなかったが、琉架を凍りつかせるのに充分なパワーワードではあった。
「は……? おまえ前の職場の人、ほぼブロックしてるって言ってなかった……?」
「してたんですけど、この間、その……琉架さんにあまいのでたっぷり慰めてもらったら、なんかもうブロックとか本当にくだらないなって思ってしまって。自分のやってることの器の小ささと不誠実さに腹が立ってきて、……みんなのブロック解除しちゃいました」
おい、なに解除してんだよ! と琉架は心の中で叫ぶが、そのきっかけが自分だと思うと、どこに不満をぶつけたらいいのかわからない。
「まぁ解除したところで……と思ってたんですけど、さっそく、藤岡からメッセージが来てしまって……」
「……そのやり取りに没頭してたってこと? 買い出しのことも忘れて」
動揺中の琉架は、不覚にも少しとげのある言い方をしてしまう。和唯が他の男と連絡を取り合うのがこんなにもおもしろくないなどと、思ってもみなかった。普段スマホに依存していない分、和唯が今大事そうにスマホをぎゅっと握っているのが、せつない。
大切なやつ……か。意識しないように努めてはいたが、いざ存在がちらつくと思った以上にダメージを食らうなと、琉架は和唯にわからないくらいの小さなため息をついた。この後に出勤するから須磨子のお眼鏡に適うように身なりを整えたのもあるが、本当は和唯と並んで外を歩けるのがうれしくてちゃんとしてきた。近所のスーパーだって、琉架にとってはもうちょっとしたデートだったのに。
「別に没頭っていうほどじゃ……ちょっと、返信に困る内容だったので」
「……そいつ、なんて?」
あぁまた余計なこと訊くじゃん、何訊いてんのオレうざ……と、琉架がまた自己嫌悪に陥る。その琉架の落ち込みには気づかず、和唯が素直に内容を告げた。
「……戻ってこないかって、言われてます、……【sugar plum】に」
「っ!?」
本日二度目の、心臓が跳ぶ音を琉架は聞いた。戻る……? 和唯が、レストランに、戻る……?
「は……? 引き戻されてんの……?」
琉架の声は少し震えていた。
「俺スマホ苦手で、メッセージの文章考えるのもすごい苦痛で、どう返せばいいのか迷ってしまって……なのに藤岡からガンガン文字で追い詰められるし、ちょっと困ってました」
和唯が苦笑して、助けを求めるように琉架を見上げる。
「……なんて、返す、つもりなんだよ……え、……戻りてぇの?」
「戻りませんよ、役立たずなのに」
琉架の不安に反して、和唯の答えは明確だった。自分の武器が舌だけだと思っている和唯は、武器をなくした自分にあの戦場のような規模の大きい環境で誰かを満足させる仕事ができるとは、到底思えなかった。
「……そう伝えようと思ってるんですけど、文字だとやっぱりうまくまとまらなくて。……なので、一度藤岡と会って話してこようと思ってます」
琉架が目を見開いて和唯を見た。
「俺本当に最低で、ろくに相談も挨拶もせず自分勝手に辞めて、友達なのに連絡も拒否して……とにかく不誠実極まりないって感じなので、ちゃんと話したいです。……向こうはもう俺を見限ったと思いますけど、俺にとってはやっぱり大切な友人、なので」
和唯があまりにも清々しい表情でそう言うので、琉架ももう何も言えなくなってしまった。少しずつ前を向いてフォークの絶望から立ち上がろうとしている和唯の気持ちは尊重したい。でも。
「いつ会うの?」
琉架が、和唯から視線を逸らして何気なく訊いた。でも。琉架は、和唯がその男と会うのが怖かった。
「? まだ決めてないですけど」
「……それ、明日にしろ」
「え?」
「オレも行く。明日休みだから」
和唯の動きが一瞬止まり、怪訝な顔で琉架を見た。
「え? なんで……」
本当に意味がわからなくて、和唯が戸惑う。コンビニに行くんじゃないんですよ……? と、偉そうに言い放ったくせに少し気まずそうにしている琉架をまじまじと見てしまう。
「なんであなたはいつもついてこようとするんですか……これは本当に俺自身のことで、琉架さんには関係な……」
「関係ないって言うな……って、おまえが先に言ったんだろうが」
琉架が首筋に深い傷をつけられて帰ってきた日、和唯はひどく傷ついた顔をしてそう琉架に伝えた。
「オレももう関係ないとか言わねぇから、おまえも言うなよ。関係ないって、なんか、……結構傷つく」
視線を外していたはずの琉架がいつの間にか自分を見つめていて、和唯は驚いた。
「……それに、この話は、オレ関係なくねぇだろ」
「は?」
「……だってオレ、おまえの雇用主だし」
「!?」
「飯作ってもらう代わりに、あまい報酬渡して、衣食住の保証してる。おまえが痩せ細って餓死しそうになってたのも知らずに、今さら平然と引き戻そうとするなんてずりぃだろ」
「いや、断りに行くつもりなんですけど……」
「いーや、なんかうまく言いくるめられて、ノーって言えない雰囲気に流されて、断れなくなるかもしれねぇだろ。……有り得る……和唯たまにぼーっとしてるとこあるし、全然あるわそれ。やっぱオレも行く」
想像したら本当にそうなる未来が見えて、琉架は気持ちを固めた。
──んな簡単に渡すかよ。オレが拾って、大事にしてんだよ。
名しか知らない男に勝手に対抗心を燃やしながら、琉架は明日の戦略をあれこれと考え始めた。
「……琉架さん、今日なんか……やけに気合い入ってませんか……?」
翌日の日曜の午後、結局琉架は本当についてきて、駅前のカフェで和唯と一緒に藤岡を待った。四人用のテーブル席に通され、藤岡と向かい合って話すために琉架と和唯は隣同士に座る。待ち合わせ時間よりも早く到着していたので、先にブレンドを二つ頼んでいた。
「は? どこが?」
「だって、なんかごついネックレスしてるし、指輪もしてるし、……いつもとピアスも違いますよね? 髪だって、ワックスつけ過ぎでは……?」
和唯が不思議そうに琉架の装飾品の数々を眺める。元々存在自体が華やかで容姿にもきちんと気を遣う琉架だったが、今日はいつも以上にゴテゴテと着飾っているような気がして和唯は首を傾げた。
「もしかして、藤岡に会うの楽しみにしてました?」
「っ、んなわけねぇだろ!?」
見当違いも甚だしいと、琉架が和唯をキッと睨みつける。和唯の指摘通り気合いを入れているのはご明察で、藤岡とかいうやつにナメられてはたまらないと、琉架なりに武装してきたつもりだった。
「ヘンな琉架さん」
和唯はそう言ってテーブルに置かれたカップを手に取り、味のしないコーヒーを一口啜った。
「そういうおまえはもっと自分に気ぃ遣った方がいいんじゃねぇの? ほら、髪もちゃんと、セットしてさ! ほらほら、ちゃんとしたら和唯も結構いい感じの男に……」
琉架はそう言いながら和唯のいい加減な黒髪に手を伸ばし、わしゃわしゃと戯れに掻き回してやる。
「ちょ、っと、コーヒーこぼれる……」
「オレが髪やってやろっか?」
「はぁ? なんで? 人をおもちゃにしないでくださいよ。別に俺はこれでいいんで……ちょっと、もう、触んないで……」
「……あの!」
傍から見たら、テーブル席なのにわざわざ隣同士に座ってじゃれ合っているカップルのようにしか見えない二人のもとに、ハキハキとしたよく通る声が降ってきた。
「藤岡……」
和唯が改まって声の主を呼び、手にしていたカップをそっと置く。琉架も和唯の髪からゆっくりと手を離すと、ついに現れた男をじっと見つめた。
和唯の正面に座った藤岡のもとに程なく三つ目のブレンドのカップが置かれると、先に藤岡が琉架に向かって口を開いた。
「藤岡匠海と言います。汐屋とは専門学校からの友人で、ついこの間までホテルビュッフェの同僚でした」
賢そうな男だと琉架は思った。小動物のような憎めない印象の小柄な男で、料理人らしく髪は清潔に短く切り揃えられている。人当たりの良い柔和な顔立ちをしているが、澄んだ瞳の力には妙な凄みがあって何事にも屈しないような雰囲気をまとっていた。自分にしっかりと自信があって、まちがったことなど何ひとつ提示しないような、人を惹く能力に長けていそうな男だ。こういう人が世間では仕事ができて人望が厚いと言われるのだろうと、和唯が憧れのような淡いものを抱くのも琉架はわかる気がしてしまう。
「咲十琉架です。ごめんね、無理やり同席しちゃって。……汐屋くんのこと、オレにもちょっと関係ある話かなって思ったからさ。ホントに邪魔だったら帰るから、遠慮なく教えて?」
よそ行きの、最強の愛嬌で琉架が藤岡に伝える。藤岡は藤岡で、琉架をじっくりと観察していた。今までの人生でほとんど関わったことがないようなタイプの華やかなウルフカットの茶髪男に、少し、いやだいぶ気後れする。気を許したら最後、手玉に取られて抜け出せなくなるような不自由さが琉架の奔放な笑顔には秘められている感じがして、藤岡は冷静に警戒した。少し対峙しただけでも、同じ男でもうっかり引き込まれそうになる魅力があるのがわかる。怖い人だと、単純に藤岡は思った。
「昨日も少し言ったけど、今ちょっと琉……咲十さんのところで、いろいろ……本当に何から何までお世話になってて……」
「うん、わかってる。……咲十さん、ちょっと汐屋と二人で話してもいいですか?」
何をどこまでわかっているのか、藤岡はあっさりと琉架の同席を受け入れ、和唯との対話を求めた。
「どうぞ?」
琉架は余裕ぶって、藤岡に甘く笑んで答える。
藤岡は改めて和唯をまっすぐに見ると、凛とした力強い眼を真正面から友人にぶつけた。
「おれは、本当に……めちゃくちゃ、怒ってる」
それまでの琉架への温和な態度から一変し、藤岡は声のトーンを下げて和唯を責めた。
「……ごめん」
「おれになんの相談もなくひとりで勝手に辞めて、……いや、辞めるのは、よくはないけどまぁいいよ、おまえの人生だし。でもそのあと一切連絡取れなくなるって何? 社宅出た後の行方まったくわかんねぇし、実家も知らねぇし、おまえの生存確認どうしたらよかったの? 普通にすげぇ心配したんだけど」
「……ごめん。……最低だった自覚はある」
自覚はあったが、あの頃の絶望まみれの自分には他人のことを考える余裕はまったくなかったと和唯は思い返す。突然味がしなくなって、自分が自分でなくなるような感覚に、怖れしか感じられなかったあのとき。
「おれら、友達じゃなかったのかよ……」
凄みのある眼をしたまま、藤岡は少し寂しそうに言った。そういうときこそ頼って欲しかったと、藤岡が悔やむ。
「……ごめん」
「もう、ごめんばっかじゃん。……まぁ、もういいよ。おまえが元気そうに生きてるのわかって安心した、よかった」
「……っ」
ひどい裏切りをしたのにこうして許してくれる藤岡に、和唯の声が詰まる。人生を終えてもいいと軽はずみに思ったあの雪の夜を思い出し、自分はなんて愚かだったのだろうと和唯は泣きたくなった。拾ってくれるお人好しもいれば、案じて叱ってくれる友人もいる。恵まれた自分に、胸がただ苦しい。
「……汐屋、フォーク発症したんだってな」
「!?」
藤岡の言葉に、和唯が動揺を隠せず震えた。
「ごめん、松島さんから無理やり聞き出した。おまえの退職理由口止めされてるから言えないってずっと拒否られてたけど、おまえと連絡も取れないし、おれがあんまりしつこいから、おれだけにこっそり教えてくれたよ。おまえら仲良かったからしょうがないなって」
直属の上司の名を出され、和唯も大人しく降参する。藤岡とまた会ってしまったのだから、この先もう隠し通せることでもない。
「だからおれも謝りたかった。多分おれ、最後の方でおまえ傷つけるようなことたくさん言ってたと思う。なんでわかんねぇの、とかさ。ほんとに味わかんなかったんだよな……ごめん」
「そんなの、……正直に言えなかった俺が悪いんだよ。藤岡は何も悪くない」
「……戻ってこいよ」
「……無理、だよ」
和唯の低い声がさらに掠れて、弱々しく告げる。
「おまえがあそこで毎日真面目に頑張ってたのみんな知ってるからさ、みんなきっと受け入れてくれるよ。おれが松島さん説得して、みんなにも説明してやる。難しいことはフォローだってする」
「そこまで迷惑掛けられないって……」
「あそこにはコック以外の仕事もいっぱいある」
「……っ」
コック以外、と言われて、和唯が目を伏せた。
「厨房で活躍するの難しくても、あそこにいれば、食にはずっと携われるだろ?」
幼い頃から料理が好きだった。自分の手が作り出したもので、誰かが笑顔になるのを見るのが好きだった。味覚には自信があった。おいしいものを提供しているというプライドがあった。料理人としての矜持は、藤岡にも負けていないつもりだった。
「味わかんなくても、できることいろいろあるよ。おまえがコックじゃなくたって、おれは汐屋とまた一緒に働きたい」
「……」
和唯は肯定も否定もできなくなった。自分ではっきりと断ることができると思っていたのに、急に口の中に重たい石を放り込まれたように言葉が出ない。
「……ダメだ」
うまく言葉を繋げられなかった和唯の代わりに口を挟んだのは、琉架だった。
「……っ!?」
急に琉架の声がして、和唯が驚いて隣の琉架を見る。
「汐……和唯は、今オレが雇ってるからダメ」
取り繕うのも面倒で、琉架はいつも通りの呼び方で隣の同居人を呼ぶ。
「和唯はオレ専属のコックだから、レストランには戻んねぇよ」
「あなたには聞いてない! おれは汐屋に聞いてます」
正義を振りかざすように、藤岡が琉架を睨みつける。和唯にとっての正解が【sugar plum】で共に働くこの道であると、藤岡は信じて疑わない。
「あなたに汐屋の何がわかるんですか……おれたちが今までどれだけ努力してきたか、何も、知らなくて、何も、わかんないくせに……」
「わっかんねぇよ、……オレ、おまえたちの世界のことなんてなんもわかんねぇけど! ……でも、和唯と一緒にいて、わかったこともある」
琉架も藤岡をじっと見た。声は多少荒々しかったが、琉架の思考は落ち着いていた。
「藤岡くんさ……和唯とずっと一緒に働いてて気づいてねぇのかよ」
「え……」
藤岡がふと顔を曇らせる。
「和唯はさ、飯が作りたいんだよ」
「!?」
その言葉に驚いてびくっとしたのは、和唯の方だった。
「どんなにいいレストランで、どんなにいい環境で、どんなにいい金もらったって、……こいつにはコック以外の仕事じゃ意味ねぇんだよ」
放たれた琉架の迷いのない言葉に、藤岡も和唯も何も言えなくなる。短い沈黙が降りて、周りのざわめきがひどくクリアに聞こえた。
「……帰るぞ」
言いたいことだけ一方的に言って、琉架は帰ろうと伝票を手に取り、すっと立ち上がった。
「金払って外で待ってる。早く来いよ」
「……咲十さん、あのっ……」
「今日はお兄さんの奢りな。じゃあね、藤岡くん」
何か言いかけた藤岡を遮って、琉架は先に席を外した。琉架の背中が見えなくなってから、藤岡が大きなため息をつく。ため息は深くついたが、藤岡の顔はどこか晴れ晴れとしていた。
「……はぁ、なんなの、あの人」
藤岡が信じて疑わなかった正義は、別の正義によってあっさりと砕かれた。どちらの正義も結局は和唯のためのものだったので、藤岡は正直どっちが勝ってもいいと思っていた。
「すごくお人好しでお節介なんだ、あれで」
「あれで、ねぇ。あんな派手でキラキラした男とよく一緒にいられるな。……おまえフォークになって、なんか変わったんじゃない?」
藤岡が改めてどこかギラついていた琉架を思い出し、少し笑う。心なしか敵意を向けられているように感じていた藤岡は、やはりこういうタイプは苦手だと苦笑した。それでも和唯がこうして元気に過ごせてまた自分と会おうとしてくれたのは、まちがいなく琉架のおかげなのだろうと、藤岡ももう和唯の引き戻しをあっさりとあきらめる。
「それは、うん……そう」
和唯もつられて少し笑った。フォークになったから琉架に出会えた。琉架に出会って、きっと変われたこともある。
「戻ってこいって言われてうれしかったよ、ありがとう。みんなと働くのもすごく楽しかったから、お世話になりましたってみんなに伝えてほしい」
お世話になったみんなにろくに挨拶もせず辞めてしまった後悔を、和唯はまだ心に残していた。
「はいはい」
「……あと、藤岡の夢の力になれなくてごめん。でもおまえなら絶対うまくいくって信じてる」
いつか桜の下でもらった約束を、謝りながら和唯は藤岡に丁寧に返した。ずっと手に持っているとまた思い出して悲しくなってしまうからと、この機にもうすっぱり手放そうと決める。
「うまくいくなんて当然だろ、おれが出す店なんだから。……でも、おれも安心したかも。おまえが料理やめてなくて」
「俺には結局、これしかないからね」
──ね、オレに飯作ってよ。
──おまえ行くとこねぇならここ来る? 住み込み! 住み込みの、オレ専属のコック!
絶望に彷徨ってすべてをあきらめかけていたとき、料理をやめさせてくれなかったのは琉架だ。琉架が人生を繋いでくれた。
「どんなに小さなことでも続けてたらさ……いつかまたどこかで道が交わることもあるだろ」
「……そうかもね」
「とりあえず、もう絶対ブロックはすんなよ」
わかったわかったごめんと、和唯がばつの悪そうな顔をする。
「おれが店出したら連絡するから。そしたら花持って祝いにでも来てよ、……あの人と二人でさ」
和唯は一瞬だけ面食らったが、すぐにゆったりと目元を緩ませて、大切な友人に最上の笑顔を向けた。
そう言いながら、琉架がリビングにひょこっと顔を出した。
春がそろそろ本気を出してきたあたたかい土曜の午後、出勤までまだ時間に余裕のあった琉架は食材の買い出しを手伝おうと、キャメルの薄手のブルゾンを手にスリッパを鳴らしてリビングにやって来た。買い出しを終えたらそのまま職場に向かうつもりだったので、須磨子の理想のボーイでいるために今日もきちんと髪や服装を整え、客に触れられないように左耳には防御のフープピアスを入れている。
リビングでは、もうすっかり同居人の寝床兼対価受け渡し用になっているL字ソファで、和唯が険しい顔をしてスマホと向き合っているところだった。
「買い出し行かねぇの?」
返事のない和唯に近づいて琉架がもう一度声を掛けると、
「……!? あ、ごめんなさい……全然、気づかなくて」
と、近寄ってきた琉架を今認識したように少し驚いて見上げる。反射的にスマホの画面を胸の辺りに当てて隠すような動きをした和唯を、琉架は見逃さなかった。
「何? なんかトラブってる? おまえがスマホにべったりなの珍しいじゃん」
何かとこだわったりしつこかったりする男なのにスマホにはあまり執着しない現代人らしからぬ和唯が、今日はさっきからずっと頻繁にスマホを確認しているのが琉架は少し気になっていて、野暮だとは思いつつ思いきって訊いてしまった。
「……あ、……え、っと……」
訊かれて、和唯の顔がほんのり曇る。言うか言うまいか迷っているような和唯に、しまった、と琉架が気まずそうにした。同居人時々セフレ程度の自分が和唯のスマホの中身を気にするのはさすがに鬱陶しがられたかと、琉架が盛大な愛想笑いで誤魔化す。
「悪ぃ、今のナシ! 答えなくていい!」
詮索とかクソダセェだろ……と思いながらも、和唯相手だと琉架はどうしても言動の制御が下手くそになってしまう。日に日に膨らんでいく淡い想いに、琉架自身も戸惑っている最中だ。
「いえ、別に……やましいことではないので、言えるんですけど……」
失敗ばかりの自分を琉架が常に案じていることは知っているので、和唯は素直に現状を伝えようとした。先日のキッチン破壊事件があったばかりなので、おそらくこの脆弱な精神を信用されていないのだろうと和唯は思う。
「……その、えぇと……連絡来てて。……藤岡から」
その名を聞いた途端、琉架の心臓がどくっと跳ねた。先日教えてもらったばかりのその名に馴染みなんてまるでなかったが、琉架を凍りつかせるのに充分なパワーワードではあった。
「は……? おまえ前の職場の人、ほぼブロックしてるって言ってなかった……?」
「してたんですけど、この間、その……琉架さんにあまいのでたっぷり慰めてもらったら、なんかもうブロックとか本当にくだらないなって思ってしまって。自分のやってることの器の小ささと不誠実さに腹が立ってきて、……みんなのブロック解除しちゃいました」
おい、なに解除してんだよ! と琉架は心の中で叫ぶが、そのきっかけが自分だと思うと、どこに不満をぶつけたらいいのかわからない。
「まぁ解除したところで……と思ってたんですけど、さっそく、藤岡からメッセージが来てしまって……」
「……そのやり取りに没頭してたってこと? 買い出しのことも忘れて」
動揺中の琉架は、不覚にも少しとげのある言い方をしてしまう。和唯が他の男と連絡を取り合うのがこんなにもおもしろくないなどと、思ってもみなかった。普段スマホに依存していない分、和唯が今大事そうにスマホをぎゅっと握っているのが、せつない。
大切なやつ……か。意識しないように努めてはいたが、いざ存在がちらつくと思った以上にダメージを食らうなと、琉架は和唯にわからないくらいの小さなため息をついた。この後に出勤するから須磨子のお眼鏡に適うように身なりを整えたのもあるが、本当は和唯と並んで外を歩けるのがうれしくてちゃんとしてきた。近所のスーパーだって、琉架にとってはもうちょっとしたデートだったのに。
「別に没頭っていうほどじゃ……ちょっと、返信に困る内容だったので」
「……そいつ、なんて?」
あぁまた余計なこと訊くじゃん、何訊いてんのオレうざ……と、琉架がまた自己嫌悪に陥る。その琉架の落ち込みには気づかず、和唯が素直に内容を告げた。
「……戻ってこないかって、言われてます、……【sugar plum】に」
「っ!?」
本日二度目の、心臓が跳ぶ音を琉架は聞いた。戻る……? 和唯が、レストランに、戻る……?
「は……? 引き戻されてんの……?」
琉架の声は少し震えていた。
「俺スマホ苦手で、メッセージの文章考えるのもすごい苦痛で、どう返せばいいのか迷ってしまって……なのに藤岡からガンガン文字で追い詰められるし、ちょっと困ってました」
和唯が苦笑して、助けを求めるように琉架を見上げる。
「……なんて、返す、つもりなんだよ……え、……戻りてぇの?」
「戻りませんよ、役立たずなのに」
琉架の不安に反して、和唯の答えは明確だった。自分の武器が舌だけだと思っている和唯は、武器をなくした自分にあの戦場のような規模の大きい環境で誰かを満足させる仕事ができるとは、到底思えなかった。
「……そう伝えようと思ってるんですけど、文字だとやっぱりうまくまとまらなくて。……なので、一度藤岡と会って話してこようと思ってます」
琉架が目を見開いて和唯を見た。
「俺本当に最低で、ろくに相談も挨拶もせず自分勝手に辞めて、友達なのに連絡も拒否して……とにかく不誠実極まりないって感じなので、ちゃんと話したいです。……向こうはもう俺を見限ったと思いますけど、俺にとってはやっぱり大切な友人、なので」
和唯があまりにも清々しい表情でそう言うので、琉架ももう何も言えなくなってしまった。少しずつ前を向いてフォークの絶望から立ち上がろうとしている和唯の気持ちは尊重したい。でも。
「いつ会うの?」
琉架が、和唯から視線を逸らして何気なく訊いた。でも。琉架は、和唯がその男と会うのが怖かった。
「? まだ決めてないですけど」
「……それ、明日にしろ」
「え?」
「オレも行く。明日休みだから」
和唯の動きが一瞬止まり、怪訝な顔で琉架を見た。
「え? なんで……」
本当に意味がわからなくて、和唯が戸惑う。コンビニに行くんじゃないんですよ……? と、偉そうに言い放ったくせに少し気まずそうにしている琉架をまじまじと見てしまう。
「なんであなたはいつもついてこようとするんですか……これは本当に俺自身のことで、琉架さんには関係な……」
「関係ないって言うな……って、おまえが先に言ったんだろうが」
琉架が首筋に深い傷をつけられて帰ってきた日、和唯はひどく傷ついた顔をしてそう琉架に伝えた。
「オレももう関係ないとか言わねぇから、おまえも言うなよ。関係ないって、なんか、……結構傷つく」
視線を外していたはずの琉架がいつの間にか自分を見つめていて、和唯は驚いた。
「……それに、この話は、オレ関係なくねぇだろ」
「は?」
「……だってオレ、おまえの雇用主だし」
「!?」
「飯作ってもらう代わりに、あまい報酬渡して、衣食住の保証してる。おまえが痩せ細って餓死しそうになってたのも知らずに、今さら平然と引き戻そうとするなんてずりぃだろ」
「いや、断りに行くつもりなんですけど……」
「いーや、なんかうまく言いくるめられて、ノーって言えない雰囲気に流されて、断れなくなるかもしれねぇだろ。……有り得る……和唯たまにぼーっとしてるとこあるし、全然あるわそれ。やっぱオレも行く」
想像したら本当にそうなる未来が見えて、琉架は気持ちを固めた。
──んな簡単に渡すかよ。オレが拾って、大事にしてんだよ。
名しか知らない男に勝手に対抗心を燃やしながら、琉架は明日の戦略をあれこれと考え始めた。
「……琉架さん、今日なんか……やけに気合い入ってませんか……?」
翌日の日曜の午後、結局琉架は本当についてきて、駅前のカフェで和唯と一緒に藤岡を待った。四人用のテーブル席に通され、藤岡と向かい合って話すために琉架と和唯は隣同士に座る。待ち合わせ時間よりも早く到着していたので、先にブレンドを二つ頼んでいた。
「は? どこが?」
「だって、なんかごついネックレスしてるし、指輪もしてるし、……いつもとピアスも違いますよね? 髪だって、ワックスつけ過ぎでは……?」
和唯が不思議そうに琉架の装飾品の数々を眺める。元々存在自体が華やかで容姿にもきちんと気を遣う琉架だったが、今日はいつも以上にゴテゴテと着飾っているような気がして和唯は首を傾げた。
「もしかして、藤岡に会うの楽しみにしてました?」
「っ、んなわけねぇだろ!?」
見当違いも甚だしいと、琉架が和唯をキッと睨みつける。和唯の指摘通り気合いを入れているのはご明察で、藤岡とかいうやつにナメられてはたまらないと、琉架なりに武装してきたつもりだった。
「ヘンな琉架さん」
和唯はそう言ってテーブルに置かれたカップを手に取り、味のしないコーヒーを一口啜った。
「そういうおまえはもっと自分に気ぃ遣った方がいいんじゃねぇの? ほら、髪もちゃんと、セットしてさ! ほらほら、ちゃんとしたら和唯も結構いい感じの男に……」
琉架はそう言いながら和唯のいい加減な黒髪に手を伸ばし、わしゃわしゃと戯れに掻き回してやる。
「ちょ、っと、コーヒーこぼれる……」
「オレが髪やってやろっか?」
「はぁ? なんで? 人をおもちゃにしないでくださいよ。別に俺はこれでいいんで……ちょっと、もう、触んないで……」
「……あの!」
傍から見たら、テーブル席なのにわざわざ隣同士に座ってじゃれ合っているカップルのようにしか見えない二人のもとに、ハキハキとしたよく通る声が降ってきた。
「藤岡……」
和唯が改まって声の主を呼び、手にしていたカップをそっと置く。琉架も和唯の髪からゆっくりと手を離すと、ついに現れた男をじっと見つめた。
和唯の正面に座った藤岡のもとに程なく三つ目のブレンドのカップが置かれると、先に藤岡が琉架に向かって口を開いた。
「藤岡匠海と言います。汐屋とは専門学校からの友人で、ついこの間までホテルビュッフェの同僚でした」
賢そうな男だと琉架は思った。小動物のような憎めない印象の小柄な男で、料理人らしく髪は清潔に短く切り揃えられている。人当たりの良い柔和な顔立ちをしているが、澄んだ瞳の力には妙な凄みがあって何事にも屈しないような雰囲気をまとっていた。自分にしっかりと自信があって、まちがったことなど何ひとつ提示しないような、人を惹く能力に長けていそうな男だ。こういう人が世間では仕事ができて人望が厚いと言われるのだろうと、和唯が憧れのような淡いものを抱くのも琉架はわかる気がしてしまう。
「咲十琉架です。ごめんね、無理やり同席しちゃって。……汐屋くんのこと、オレにもちょっと関係ある話かなって思ったからさ。ホントに邪魔だったら帰るから、遠慮なく教えて?」
よそ行きの、最強の愛嬌で琉架が藤岡に伝える。藤岡は藤岡で、琉架をじっくりと観察していた。今までの人生でほとんど関わったことがないようなタイプの華やかなウルフカットの茶髪男に、少し、いやだいぶ気後れする。気を許したら最後、手玉に取られて抜け出せなくなるような不自由さが琉架の奔放な笑顔には秘められている感じがして、藤岡は冷静に警戒した。少し対峙しただけでも、同じ男でもうっかり引き込まれそうになる魅力があるのがわかる。怖い人だと、単純に藤岡は思った。
「昨日も少し言ったけど、今ちょっと琉……咲十さんのところで、いろいろ……本当に何から何までお世話になってて……」
「うん、わかってる。……咲十さん、ちょっと汐屋と二人で話してもいいですか?」
何をどこまでわかっているのか、藤岡はあっさりと琉架の同席を受け入れ、和唯との対話を求めた。
「どうぞ?」
琉架は余裕ぶって、藤岡に甘く笑んで答える。
藤岡は改めて和唯をまっすぐに見ると、凛とした力強い眼を真正面から友人にぶつけた。
「おれは、本当に……めちゃくちゃ、怒ってる」
それまでの琉架への温和な態度から一変し、藤岡は声のトーンを下げて和唯を責めた。
「……ごめん」
「おれになんの相談もなくひとりで勝手に辞めて、……いや、辞めるのは、よくはないけどまぁいいよ、おまえの人生だし。でもそのあと一切連絡取れなくなるって何? 社宅出た後の行方まったくわかんねぇし、実家も知らねぇし、おまえの生存確認どうしたらよかったの? 普通にすげぇ心配したんだけど」
「……ごめん。……最低だった自覚はある」
自覚はあったが、あの頃の絶望まみれの自分には他人のことを考える余裕はまったくなかったと和唯は思い返す。突然味がしなくなって、自分が自分でなくなるような感覚に、怖れしか感じられなかったあのとき。
「おれら、友達じゃなかったのかよ……」
凄みのある眼をしたまま、藤岡は少し寂しそうに言った。そういうときこそ頼って欲しかったと、藤岡が悔やむ。
「……ごめん」
「もう、ごめんばっかじゃん。……まぁ、もういいよ。おまえが元気そうに生きてるのわかって安心した、よかった」
「……っ」
ひどい裏切りをしたのにこうして許してくれる藤岡に、和唯の声が詰まる。人生を終えてもいいと軽はずみに思ったあの雪の夜を思い出し、自分はなんて愚かだったのだろうと和唯は泣きたくなった。拾ってくれるお人好しもいれば、案じて叱ってくれる友人もいる。恵まれた自分に、胸がただ苦しい。
「……汐屋、フォーク発症したんだってな」
「!?」
藤岡の言葉に、和唯が動揺を隠せず震えた。
「ごめん、松島さんから無理やり聞き出した。おまえの退職理由口止めされてるから言えないってずっと拒否られてたけど、おまえと連絡も取れないし、おれがあんまりしつこいから、おれだけにこっそり教えてくれたよ。おまえら仲良かったからしょうがないなって」
直属の上司の名を出され、和唯も大人しく降参する。藤岡とまた会ってしまったのだから、この先もう隠し通せることでもない。
「だからおれも謝りたかった。多分おれ、最後の方でおまえ傷つけるようなことたくさん言ってたと思う。なんでわかんねぇの、とかさ。ほんとに味わかんなかったんだよな……ごめん」
「そんなの、……正直に言えなかった俺が悪いんだよ。藤岡は何も悪くない」
「……戻ってこいよ」
「……無理、だよ」
和唯の低い声がさらに掠れて、弱々しく告げる。
「おまえがあそこで毎日真面目に頑張ってたのみんな知ってるからさ、みんなきっと受け入れてくれるよ。おれが松島さん説得して、みんなにも説明してやる。難しいことはフォローだってする」
「そこまで迷惑掛けられないって……」
「あそこにはコック以外の仕事もいっぱいある」
「……っ」
コック以外、と言われて、和唯が目を伏せた。
「厨房で活躍するの難しくても、あそこにいれば、食にはずっと携われるだろ?」
幼い頃から料理が好きだった。自分の手が作り出したもので、誰かが笑顔になるのを見るのが好きだった。味覚には自信があった。おいしいものを提供しているというプライドがあった。料理人としての矜持は、藤岡にも負けていないつもりだった。
「味わかんなくても、できることいろいろあるよ。おまえがコックじゃなくたって、おれは汐屋とまた一緒に働きたい」
「……」
和唯は肯定も否定もできなくなった。自分ではっきりと断ることができると思っていたのに、急に口の中に重たい石を放り込まれたように言葉が出ない。
「……ダメだ」
うまく言葉を繋げられなかった和唯の代わりに口を挟んだのは、琉架だった。
「……っ!?」
急に琉架の声がして、和唯が驚いて隣の琉架を見る。
「汐……和唯は、今オレが雇ってるからダメ」
取り繕うのも面倒で、琉架はいつも通りの呼び方で隣の同居人を呼ぶ。
「和唯はオレ専属のコックだから、レストランには戻んねぇよ」
「あなたには聞いてない! おれは汐屋に聞いてます」
正義を振りかざすように、藤岡が琉架を睨みつける。和唯にとっての正解が【sugar plum】で共に働くこの道であると、藤岡は信じて疑わない。
「あなたに汐屋の何がわかるんですか……おれたちが今までどれだけ努力してきたか、何も、知らなくて、何も、わかんないくせに……」
「わっかんねぇよ、……オレ、おまえたちの世界のことなんてなんもわかんねぇけど! ……でも、和唯と一緒にいて、わかったこともある」
琉架も藤岡をじっと見た。声は多少荒々しかったが、琉架の思考は落ち着いていた。
「藤岡くんさ……和唯とずっと一緒に働いてて気づいてねぇのかよ」
「え……」
藤岡がふと顔を曇らせる。
「和唯はさ、飯が作りたいんだよ」
「!?」
その言葉に驚いてびくっとしたのは、和唯の方だった。
「どんなにいいレストランで、どんなにいい環境で、どんなにいい金もらったって、……こいつにはコック以外の仕事じゃ意味ねぇんだよ」
放たれた琉架の迷いのない言葉に、藤岡も和唯も何も言えなくなる。短い沈黙が降りて、周りのざわめきがひどくクリアに聞こえた。
「……帰るぞ」
言いたいことだけ一方的に言って、琉架は帰ろうと伝票を手に取り、すっと立ち上がった。
「金払って外で待ってる。早く来いよ」
「……咲十さん、あのっ……」
「今日はお兄さんの奢りな。じゃあね、藤岡くん」
何か言いかけた藤岡を遮って、琉架は先に席を外した。琉架の背中が見えなくなってから、藤岡が大きなため息をつく。ため息は深くついたが、藤岡の顔はどこか晴れ晴れとしていた。
「……はぁ、なんなの、あの人」
藤岡が信じて疑わなかった正義は、別の正義によってあっさりと砕かれた。どちらの正義も結局は和唯のためのものだったので、藤岡は正直どっちが勝ってもいいと思っていた。
「すごくお人好しでお節介なんだ、あれで」
「あれで、ねぇ。あんな派手でキラキラした男とよく一緒にいられるな。……おまえフォークになって、なんか変わったんじゃない?」
藤岡が改めてどこかギラついていた琉架を思い出し、少し笑う。心なしか敵意を向けられているように感じていた藤岡は、やはりこういうタイプは苦手だと苦笑した。それでも和唯がこうして元気に過ごせてまた自分と会おうとしてくれたのは、まちがいなく琉架のおかげなのだろうと、藤岡ももう和唯の引き戻しをあっさりとあきらめる。
「それは、うん……そう」
和唯もつられて少し笑った。フォークになったから琉架に出会えた。琉架に出会って、きっと変われたこともある。
「戻ってこいって言われてうれしかったよ、ありがとう。みんなと働くのもすごく楽しかったから、お世話になりましたってみんなに伝えてほしい」
お世話になったみんなにろくに挨拶もせず辞めてしまった後悔を、和唯はまだ心に残していた。
「はいはい」
「……あと、藤岡の夢の力になれなくてごめん。でもおまえなら絶対うまくいくって信じてる」
いつか桜の下でもらった約束を、謝りながら和唯は藤岡に丁寧に返した。ずっと手に持っているとまた思い出して悲しくなってしまうからと、この機にもうすっぱり手放そうと決める。
「うまくいくなんて当然だろ、おれが出す店なんだから。……でも、おれも安心したかも。おまえが料理やめてなくて」
「俺には結局、これしかないからね」
──ね、オレに飯作ってよ。
──おまえ行くとこねぇならここ来る? 住み込み! 住み込みの、オレ専属のコック!
絶望に彷徨ってすべてをあきらめかけていたとき、料理をやめさせてくれなかったのは琉架だ。琉架が人生を繋いでくれた。
「どんなに小さなことでも続けてたらさ……いつかまたどこかで道が交わることもあるだろ」
「……そうかもね」
「とりあえず、もう絶対ブロックはすんなよ」
わかったわかったごめんと、和唯がばつの悪そうな顔をする。
「おれが店出したら連絡するから。そしたら花持って祝いにでも来てよ、……あの人と二人でさ」
和唯は一瞬だけ面食らったが、すぐにゆったりと目元を緩ませて、大切な友人に最上の笑顔を向けた。
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