ビターシロップ

ゆりすみれ

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“神様の気まぐれ”

5-1 ごめん、わかんない

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汐屋しおや、これどうかな?』

 耳馴染みのあるよく通る声を、和唯は思い出す。

 なんでもハキハキと受け答え、なんでもテキパキと効率よくこなし、時々人とズレてしまう要領の悪い自分をいつも正しい方向に引っ張ってくれる男だった。男の中ではずいぶん小柄な方で、動き回る姿は小動物に似てほわほわした憎めない雰囲気だったが、利発的で、何事にも挑戦的で、自信があって、リーダーシップも兼ね備えた自慢の友人でありライバルだった。

『……また新しいの考えたの? 藤岡、すごいね』

 藤岡匠海ふじおかたくみは調理専門学校での同期だった。最初の授業でたまたま席が近くで、同い年で、料理に対する熱量が似ていたこともあって、入学当初からなんとなくよく一緒にいるようになった。

 料理に対して強い好奇心を持つようになったのはいつからだっただろうと、和唯は自分のルーツをたどるように思い返す。きっかけはとてもありふれたものだった。両親が自分の作ったごはんを食べて、笑っておいしいと言ってくれた、ただそれだけだ。よくある話すぎて、話の種にもならない。

 料理の基礎は料理好きだった祖母が丁寧に教えてくれた。両親が共働きだったため、幼少期母方の祖母の家によく預けられていた和唯は、自然とそこで料理の楽しさと喜びを知っていった。同級生が携帯ゲームやサッカーに夢中になっている頃、和唯はひとり料理にのめり込んでいった。

 作った料理を親に出すと、和唯上手だね、和唯天才! と、いつも満面の笑みで褒めてくれた。今思えば子供が一生懸命作った料理に本気でダメ出しする親はいないだろうし、どんな盛り付けでどんな味だろうと最大級に褒めるに決まっているのだが、それでも親が驚いたり感動したりしてくれるのがとにかくうれしくて、食べているときの幸せそうな満たされた笑顔が大好きで。自分の手が作り出したものが誰かの心を動かす奇跡に、いつしかそういう仕事に就きたいと夢を持つようになった。両親が和唯を天才天才とおだててかわいがったので、褒めて伸びるタイプを証明するかのように和唯の料理の腕と料理に対する情熱はぐんぐん上がっていった。

 高校時代はイタリアンカフェの厨房でバイトをし、なるべく早く現場で経験を積みたいと考えていた和唯は、高校卒業後一年制の専門学校に入り、そこで藤岡匠海と出会った。

 専門時代は毎日が本当に楽しかった。高校の友達やバイトの友達とはできなかった料理の話を、ここでなら誰とでもいつまでも話していられる。皆が同じ志を持って、着実に未来に歩んでいくことができる小さな狭い世界は、和唯にとって居心地がよかった。両親も、祖母も、和唯が料理の道に進んだのを喜んで、応援してくれていた。

『新しくはない。これはほとんど既存のレシピ真似ただけなんだけど……』

 藤岡が和唯に差し出したのは、完熟アボカドを揚げたパンにのせたお洒落なアボカドトーストだった。専門学校では自主トレーニング用に調理実習室が解放されていて、朝や放課後に授業の復習や苦手分野の克服などに自由に使えるようになっていた。同期たちが授業終わりにカラオケや買い物に繰り出すのを横目に、和唯と藤岡は使える時間すべてを実習室に籠もって過ごすような変わり者同士の生徒だった。

『へー、見た目いい感じだね。やっぱ藤岡のセンス好き』

 放課後の実習室で出されたプレートをのぞき込んで和唯が言う。鮮やかなグリーンのアボカドペーストとアボカドスライスに、形の整ったポーチドエッグとレッドオニオン、コリアンダーリーフが芸術品のように品よくトッピングされている。

『食べてみてよ』

 だいたい新しいレシピに挑戦するのが藤岡で、和唯はそれを試食して意見していく。そうやって課題でも復習でもなんでもない自習としてのメニューを完成に近づけていくのが二人の放課後の楽しみだった。

『オリーブオイルで揚げてあるんだ? マルチグレイン・サワードウブレッドだよね、これ』

『うん、そう』

『シーソルト、ライム汁、黒胡椒……あとひとつ何か欲しいって感じするな』

『汐屋もやっぱそう思う? おれもなんか足りない感じしてて』

 藤岡との自習中、和唯はいつもB5ノートを作業台に広げていて、気になったことや気づいたことや注意点など、どんな細かいことでもノートにたくさん書き付けていた。藤岡が作ったアボカドトーストを試食して、今回も和唯はノートに、レシピや盛り付けのイラストや感じたことを雑多にさらさらと書き込んでいく。

『そうだな……あ、そういえば』

 少し考えて、和唯は思い出したように自分のかばんから何かの瓶を取り出した。

『調味料持ち歩いてんの? 調味料オタじゃん……』

 藤岡が若干引いているのも気にせず、和唯は瓶の蓋を開けてアボカドトーストに少しだけそのスパイスをふりかけた。藤岡の方にプレートを向け、食べてみてと促す。

『……え、うま』

 トーストを口に入れた藤岡が目を丸くする。足りないピースがぴたっとハマった爽快感に、藤岡と和唯が瞳を合わせて笑う。

『正解あったね。これ、アレッポ唐辛子……アレッポペッパーだよ。何かに使えないかなって思って、しばらく持ち歩いてた甲斐あったな』

『やっぱおまえの感性? 味覚? すげぇよ。おれの思いつかないとこ出してくる』

 藤岡が興奮気味に言った。

『料理の腕では藤岡に勝てないからさ、せめて舌だけは負けたくない』

『ははっ、それな。……でも冗談抜きでおまえの舌は信用できるよ。めちゃくちゃ繊細だし正確だと思う。他のやつらも先生たちも、汐屋のこと結構評価してるし。大事にしろよな、その、……舌?』

『何それ』

 放課後の実習室でそう笑い合ったのが懐かしい。大切なライバルが大事にしろと言って認めてくれた、味覚。藤岡の言う通りにとても大事にしたかったのに、それはその後、和唯の中から容易に抜け落ちることになる。





 調理専門学校を卒業した和唯は、ホテルビュッフェ【sugar plumシュガープラム】に藤岡と共に就職した。別に示し合わせたわけではないのだが、この地域のホテルでいちばん規模が大きく難関と言われている就職先に、成績が常に上位だった料理馬鹿二人が入ったのはごく自然なことだった。

 まだどの分野に進むか決め兼ねていた和唯は、世界各国の料理が覚えられるビュッフェスタイルのレストランで、堅実に、着実に料理人としてのスキルを上げていった。藤岡もまた、専門時代から変わらぬ抜群の料理センスと、持ち前のリーダーシップで、上司や同僚からも慕われる【sugar plumシュガープラム】にとってなくてはならないコックになっていった。

『まだ桜見えっかな……』

 二年目の春、退勤後の帰り道で和唯は藤岡に夜桜を見に行こうと誘われた。途中のコンビニで缶チューハイを買い、近くの公園に向かう。ほぼ深夜の公園には誰も居らず、和唯と藤岡は桜が見えるベンチに座って缶チューハイを開けた。おつかれ、と軽く缶と缶を当てる。

『おまえさ、この先どうするとか考えてる?』

 缶チューハイにちびちびと口をつけながら、藤岡が和唯に訊いた。

『せっかちだね』

 まだ二年目の春なのにと、和唯が小さく笑う。

『おれはさ、やっぱ将来は自分の店出したいと思ってる。……汐屋は?』

『俺は……まだそこまでは考えてないかな。まだまだ覚えたいことも、知りたいことも、やりたいことも絶えなくて』

 ホテルビュッフェは規模も大きく、やりがいのある仕事だった。極めるにはまだまだ全然時間が足りないと思った。

『真面目だねー、料理バカじゃん』

 藤岡は笑って、ほとんど葉桜になってしまっている桜木をそっと仰いだ。

『じゃあさ、いつかおれが店を出すとき、おまえ引き抜いてもいい?』

『え……』

 夜桜を見上げてそう言う藤岡の、芯の通った美しさに、和唯は不覚にも動揺した。

『おれの腕と、おまえの舌があったら、どこにも負けない最強の店作れるだろ。おまえとだったら絶対やれると思う』

 舌が欲しいと言われているだけなのに、自分を求められているように錯覚して、和唯は目を伏せた。

『買いかぶりすぎでしょ』

『……やれるよ、おれたちなら』

 酔っているのか藤岡はいつもよりずいぶん素直で、和唯は参ってしまう。

『……給料による。今より高ければ喜んで行くよ』

『ははっ、だよな。おまえ引き抜けるように、おれも頑張んねぇと』

 思わぬ夢ができたなと、和唯も夜桜を見上げた。この自信家な友人に恥じない自分でいられるように、藤岡を支えてやれる自分でいられるように、和唯はそっと桜に祈った。





 【sugar plumシュガープラム 】に就職して三年目になった。和唯も藤岡もようやくメニュー開発に携われるようになった矢先に、和唯はフォークを発症した。

 最初はバレないようにいつも通り働いていた。今まで作ってきたものなら味を覚えているし、想像で微調整は可能だし、なんとか誤魔化せると思っていた。

 せっかくここまでやってきて、これからいろいろ自由に挑戦できるようになったのに、和唯はこの道を簡単に手放せるはずがなかった。周りが遊んでいたって惑わされず、料理バカと言われて敬遠されても構わず、ただひたすらに技術と知識をこつこつ積み重ねてきた。やっと、やっと、人を笑顔にさせる料理を、誰かを感動させる料理を、この手で生み出せると思っていたのに。……桜の下でもらった夢が、あったのに。

 閉店後の厨房で、いつかの実習室のように、藤岡が新メニュー作りに和唯を誘ってきた。新しいレシピを考えてきた藤岡が、あの日のように和唯に試食と意見を求める。

『これ隠し味、なんだと思う?』

 藤岡は終始無邪気だった。特にここ最近は新メニュー作りを任されているのもあって、藤岡は自分の得意分野に生き生きとしていた。

『ま、これは隠し味のレベルじゃないな。わかりやすく使ったから、汐屋なら秒でわかるね』

 信用されていることが、ただ苦しかった。

 促されて口に運ぶが、和唯はもう何もわからない。

『……』

『……汐屋? どうしたの? ……なんか、最近、ヘンだよ……』

 藤岡の顔がみるみる曇っていく。

『……ごめん、わかんない』

 和唯はこの言葉を絞り出すことしかできなかった。

『これ、おまえが教えてくれたやつだよ……本当に、どうしたんだよ……?』

 ……アレッポペッパーか。もう、何もわからない。

 これ以上藤岡をあざむくのは無理だと和唯は思った。フォークを発症したと言ったら、自分に目を掛けていてくれたやさしい藤岡は、自分を切り捨てることに痛みを覚えて前に進めなくなってしまうかもしれない。同情はされたくないし、何より彼の夢の邪魔をすることだけは絶対に許されない。藤岡には、夢を叶える人でいて欲しかった。

 和唯は直属の上司にだけ事情を話し、他のスタッフにはフォーク発症を伝えないで欲しいと丁寧にお願いし、藤岡や仲のよかったスタッフをすべてブロックし、【sugar plumシュガープラム】を退職した。
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