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“傷のつけ方”
4-3 指先あたりを少しだけ
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シミュレーションした通り、寄り道せずまっすぐに帰宅した琉架が玄関のドアを開けると、開けてすぐの玄関ホールに和唯が立っていた。
「おかえりなさい」
不意打ちで顔を合わせたので琉架は面食らう。なんでこんなとこに、という疑問は湧いたが、とりあえず。
「……ただいま」
言いたいと思っていた言葉を、今夜も無事この男に渡せたことに琉架はほっとしていた。和唯は今日もこの部屋にいてくれる。他のケーキのところではなく、ここにいてくれる。
「なんで玄関にいんの? コンビニ行くとこだった?」
「もうそろそろ琉架さん帰ってくる頃かなって思って。お出迎えです」
柔らかな笑顔でにっこりと和唯にそう言われ、琉架は思わず咄嗟に瞳を伏せてしまった。待っていた、と暗に言われて胸がざわつく。今日はずっと、なんだか和唯のことばかり考えていたような気がして、琉架はきちんと目を合わせられない。
それでもゆっくりとまつげを上げて和唯を上目遣いで見上げると、一段高いところから同じように自分を見つめている和唯の整った切れ長の瞳と引き合うように出会い、その美しい瞳に溺れそうになる。拾った頃から綺麗だと思っていて、もう見慣れているはずのその目が、今夜はどういうわけかいつもよりきらめいて見える。こんなにも人を誘い寄せるような目だっただろうかと、じっと視線を投げてくる和唯の静かな熱に琉架は心を乱された。
──和唯ってこんな……きらきら、してたっけ……?
「? 琉架さん? 入らないんですか?」
靴を脱ごうともせず、玄関のたたきに突っ立ったままぼうっと自分を見上げている琉架に、和唯が不思議そうな目を向けた。
「えっ、あ……うん、入るけど」
こんな玄関先でうかつにも見惚れていた事実に驚き、琉架は軽く頬を染めながら慌てて靴を脱ぎ始める。
いやいやいや、ぜってぇ変なフィルターかかってるだろ……と呆れ、一緒にいて楽しいと意識した途端これとは……と参ってしまう。こんなの、まるで──。
「今日のごはん、四川風麻婆豆腐ですよ。琉架さんの好きな、すごーく辛い本格派のやつです」
「お、ラッキー、それ好き。めちゃくちゃ辛くしてくれてる?」
やっと靴を脱ぎリビングへと続く廊下を琉架が歩き始めると、後ろに続く和唯が家主の背にそう教えた。いつの間にか自然と琉架の好物を覚えていった和唯は、琉架を甘やかすために毎晩腕を振るう。何ひとつ味はわからなかったが、琉架が喜んで食べているのでおそらくそれなりのものは作れているのだろうと和唯は自負していた。
「その、意味わかんないくらいに辛くするの、元料理人としてはホントはあんまり推奨したくないんですけど」
元々の旨味を辛さの暴力で上書きするのはほどほどにしてほしいと和唯が呆れる。共に過ごしていく中で、和唯は琉架の激辛好きを知った。あまいあまい本体をしている琉架が本当はひどく辛いものが好きだなんて、店に琉架を舐めに来る客たちはきっと知らないだろうと思うと、和唯はこの立ち位置に優越感を覚える。そうやって琉架のことを少しずつ覚える作業は、和唯にとって至福の時間だった。
「辛いものは正義だからもうしょうがねぇの! 甘いものも嫌いじゃねぇけど、そこまでなんだよなぁ」
「同族嫌悪ですかね。……俺はあまくておいしい琉架さん好きですよ」
「……はぁ!? ば、ばっかじゃねぇの……」
ほら、こんな風に琉架をからかって、楽しくて、この生ぬるい世界に浸かっていればきっとずっと幸せだと和唯は思う。琉架にそういう対象として見られていないことはこの前の思いつきでしたようなセックスで痛感したが、あんな風に交わってしまってもまだ自分をここに置いてくれている事実だけで和唯は充分救われていた。きっと、少なくとも、嫌われてはいない。家事をやる都合のいい男という琉架にとっての利益で、いい。
琉架との時間を重ねるたびに、どんどん、この日常を壊したくなくなった。穏やかで、生ぬるくて、フォークという厄介者にとても理解があるやさしいこの世界に、このまま骨を埋めてしまいたかった。あまりにも毎日がお手本のような幸いに満ちていて、生きづらそうな外の世界に出るのがもう和唯は怖くなっている。あなたを自分だけのものにしたいと琉架にわがままを言ったら、最上級ランクのケーキは困った顔をして、きっとこの世界はあっけなく壊れてしまうから。……壊したくない。でも壊す覚悟がなければ、琉架に想いを伝えるなんて到底できない。情けないとわかっている。コンビニ店主にも応援されているのに。失うのは、怖い。
この日常が本当に壊れたら、何も持たない愚かなフォークは、一体どこへ行けばいい?
「あー、腹減ったー。和唯もう食った?」
「まだですよ。一緒に食べようと思って待ってました」
「オレと同じレベルの辛さ食えるやつ、レアだからな」
「味しないので、どのレベルでもお付き合いしますよ」
たわいないことを話しながら琉架がモカブラウンのチェスターコートを脱いでポールハンガーに掛けるのを、和唯は後ろでそっと見届けていた。
──!?
コートを脱いだ琉架の後ろ姿に目ざとく違和感を見つけた和唯が、ぬるま湯でふやけたようなだらしない顔をふと険しくする。そのまま手を洗いに洗面所へ向かおうとした琉架の腕を、和唯は思いきり掴んで引き止めた。
「な!?」
突然腕に強い力が加わって驚いた琉架が、何事かと和唯を振り返る。
「……これ、なんですか?」
少し長めの襟足に隠れちらちらと見える程度だったが、琉架の首筋に真新しい深い傷が見えた。まっすぐな、何か尖った鋭いもので引っ掻かれたような赤い線状の長い傷跡を、和唯が何かときつめに問う。朝に玄関で見送ったときに琉架の背中は見ているが、こんな傷はなかったはずだ。自分で引っ掻いたというレベルではない不自然な痛々しいそれに、和唯が嫌な胸騒ぎを覚える。
「あ……えと、傷のこと……?」
和唯の視線が捉えているのが自分の首の後ろの辺りだとすぐに気づいた琉架が、気まずそうに下を向いて問い返した。
「……はい。どうしたんですか、これ」
「あー、やっぱ目立つかぁ。自分じゃ見えねぇとこだから、あんま気にしてなかったんだけど」
「……怪我、じゃないですよね」
偶然できたような傷でないことは、見てすぐに和唯にもわかった。
「……血をね、欲しがる客がいんだよ。メニューにあんの、血液の提供ってのがさ」
「血……」
メニューにあると言われ、そういえば居候し始めた頃にケーキの体液について話してくれたことがあるのを和唯は思い出した。血液は精液の次に糖度が高いのだと言っていたような覚えがある。血液がメニューにあるとして、何故琉架の首筋にこんな傷がつくのか和唯は理解できなかった。……正しくは、理解したくなかった。
「お客さんにやられたんですか……?」
「そ。いつもはもっと目立たねぇ場所なんだけど、今日はなんか、変なとこやられたわ……」
ばつが悪そうに苦笑して琉架が言った。真緒に先輩面をして偉そうなことを言ったくせに、自分だってシンに強く出られなかったのを情けなく思い返す。
「いつ、も……? いつもこんな風にわざと血を出すんですか? からだを、無理に、傷つけて……?」
和唯の声が心なしか震えた。共にいる時間はまだまだ浅いにしても、知らないところでそんな非道なことが行われていた事実に打ちのめされる。あの気後れするほどに美しい琉架のからだが、そんな戯れの中でむやみに傷つけられていいはずがない。
「いつも……ってそんな頻繁にはやられねぇよ? 血はあんま人気ねぇから。たまに物好きが注文するだけ」
「それでも、ひどい……です。何で切られたんですか……? 尖ったもの? カッターみたいなものですか……? ……痛かったですよね? 怖かったですよね……?」
琉架の腕を強く掴んだまま、和唯が悲しげに質問ばかりする。
「別に、傷なんて数日すりゃ消えんだろ」
いちばん悲しいのは、琉架がそのすべてを受け入れていることだった。痛いことも怖いこともその身に受けて、琉架が当たり前のように、なんてことないように平然としていることが和唯は悔しくてたまらない。もっと痛がって、もっと怖がって、助けを求めてくれればいいのに。助けを呼ばずなんでも許容してしまうプロの琉架が、和唯はとても悲しかった。
「……数日? 数日も、俺は……」
傷が癒えるまでの数日間、他の男がつけた傷を見続けるなんて狂いそうだと和唯は思う。傷が目に入るたびに、琉架が淫楽の果てに知らない男に痛めつけられ、舐め回されたことを思い出さなければならないなんて、地獄だ。たとえ皮膚の傷が無事に癒えても、何も知らなかった頃にはもう戻れない。琉架がまた誰かに傷つけられてしまうかもしれないと、毎日怯えて暮らせというのか。好きな人が傷つけられるのを、この先も黙って見過ごせというのか。
「和唯……? なんでおまえがそんな顔すんの……?」
顔を歪ませてせつなげに自分を見つめてくる和唯に、琉架が遠慮がちに訊く。掴まれている腕も痛くて、琉架は落ち着かない。
「……俺、どんな顔してますか…?」
「なんか、痛そうな顔してる。……仕事のことは、別におまえには関係ねぇだろ」
関係、ない──?
「痛いのオレなんだけ……ど、っ……」
琉架がそうこぼしたとき、和唯は掴んでいた琉架の腕を思いきり引っ張り、ポールハンガーのそばの壁に連れていった。そのまま琉架の背を壁に押しつけて、壁際に追い込む。琉架の前に立ちはだかり逃げ場を消した和唯は、少しだけ下にある琉架の瞳を睨むように強く見つめた。自分がひどく苛立っているのが、頭だけは恐ろしいほどクリアな和唯にはよくわかる。
「な、に……?」
壁と和唯に閉じ込められた琉架が、少し怯えた目をして和唯を見上げた。
「関係ないなんて、言わないで……」
何に苛立っているのか。琉架を傷つけた客か、自分を大事にしない琉架か、こんなにそばにいるのに守ってやれない自分か。
「ケーキにだったら、客のフォークは何をしてもいいんですか……?」
金さえ払えば、こんな目立つところに悪意ある傷をつけるのも許されるのか。
「……俺は、あなたを大事にしたいのに……」
「……っ!?」
真摯に伝えられた言葉に、琉架の目が大きく開かれる。未だ顔を歪ませて自分をじっと見つめてくる和唯から、目が逸らせない。
「これは……お金のためですか?」
こんな風に傷つけられてまで琉架が仕事をする意味を短い時間で必死に探して、和唯は最悪な事実に行き着いてしまった。それは生ぬるい世界にどっぷりと浸かって、しばらく見て見ぬ振りをしてきたことだ。
「血を売れば、お金がたくさんもらえるんですか……? お金、必要ですよね……もしかして、俺のせいですか……? 俺がここにいるせいですか……?」
居候の存在が琉架に負担を掛けているのではと、和唯は恐々と訊く。
「……勘違いすんなって。和唯のためにやってるわけじゃねぇよ。おまえがここに来る前から血も普通に売ってたし」
どこか思い詰めたように青ざめていく和唯に、視線を逸らさないまま琉架がぶっきらぼうに教えた。
「もちろん最初は生きてく金のために始めて、今も生きるためにやってるけど、……今はもう、それだけじゃねぇんだよ」
琉架の脳裏には、癖の強い派手な女が浮かんでいた。母代わりのその人に恩を返したいし、彼女の成功に力添えしたいと純粋に思っている。店の同僚や後輩たちも、ライバルではあるがそれ以上に店を盛り上げるための大切な仲間だ。
「……っ、お金のためじゃないなら、なんで、こんな……琉架さんが痛い目に合うの、俺、嫌です……」
「だから、なんでおまえがそんな顔すんだよ……」
いっそ金のためだと言ってくれたらよかったと和唯は思う。それ以外の理由を琉架が持っているなら、ただの居候の和唯に口を出す権利は本当にない。そもそも琉架にとっての何者でもない和唯には、何ひとつ意見することは許されない。
しばらく、壁際で見つめ合った。和唯はひどく参ったような眼で琉架を見つめ、そっと指先を琉架の首筋に這わせた。傷には触れないようにその近くを癒やすように撫でると、琉架はまぶたを軽く下げて男の指の行き先を肌の上で追う。たかが傷くらいで和唯がこんなにも感情的になるなんて思わなかった琉架は、和唯が放った言葉の真意を測りかねて戸惑い、ただじっと壁に背を預けるしかなかった。
「……傷、早く治りますように」
「もういいから。……おまえ過保護すぎだって」
琉架の傷ついた肌に軽く触れたまま和唯は、幸せにしてやりたいと願った深夜のコンビニを思い出した。琉架を守る騎士になりたいと、浮かれ気味に、無邪気に願ったあのまばゆい夜。なのに俺は。この人を守りたいはずなのに、この人にからだを売らせて、その金で生かしてもらっている最低な矛盾に今さら改めて気づき、和唯は己を支える下肢から力が抜けていくのを感じた。目に見える傷を見せられるまで気づかないなんてバカにもほどがある。琉架はずっと、知らない誰かに舐め回されることで、行き場のない自分をこの部屋で守ってくれていたというのに。
全部、自分が何も持たない愚かなフォークのせいだと和唯は思った。職も家もない、ただぼんやりと毎日を過ごしているだけの何もない自分が、琉架を幸せにしたいなどとどの口が言うのかと呆れる。フォークを発症したことに甘え、被害者ぶって絶望して、何もしようとしてこなかった。このままずっとこの生ぬるくてやさしい世界にいられると、錯覚していた。
「……どうすれば、琉架さんがこれ以上傷つけられずに済みますか……?」
答えを求めない弱々しさで、和唯がひとりごとのようにつぶやく。
「おまえ、今日、なんかヘン……」
この先傷つけられない方法を提示できない琉架もまた、ひとりごとのように小さく言う。
ぬるま湯の世界を壊したくないなんて腑抜けたことを考えている場合ではなかったと、和唯は気づく。壊す覚悟で琉架に想いをぶつけて、この人がもう傷つけられることのない未来に無理やりにでも導きたかった。そのためには、せめて、琉架と同等の立場で在らねば。現実から逃げてばかりの愚かなフォークでは、琉架のそばにいる資格すらない。
「……ねぇ」
琉架が和唯のシャツの裾を引っ張り、自分に注目させた。
「……なんで和唯が、オレに傷がつくの、そんなに嫌がんの……?」
琉架が、少し上にある和唯の目を見上げて尋ねる。
「……対価が傷だらけになるのが気に食わねぇの? ……自分が食うときに萎える、から……?」
「……っ」
何もわかっていない琉架に和唯は腹が立った。怒りに任せ、首筋に触れていた手を肩にずらし、琉架の肩をぐっと強く掴む。……萎えるだと? ふざけるな。この人はケーキとして食われ過ぎていて、ただの男がただのあなたを欲しがっていることをまるで信じようとしないと、和唯が嘆く。
苛立ちを消化するために、和唯は琉架の両肩を押さえつけるように強く掴み、顔を寄せた。首に角度をつけて、琉架の口唇にまっすぐ向かう。あと数センチで口唇が重なるというところで、ふと我に返り、和唯はすっと動きを止めた。近づけた顔を離し、琉架の肩に置いた手も自分の元に回収する。
「ごめんなさい、俺、またルール破りそうになって……」
勢い任せでくちづけようとしたが、今の自分には琉架に触れる権利も資格もないような気がして、和唯は琉架からそっと離れた。琉架に拾ってもらったあの雪の夜にフォークとして生きていくと決めたのに、あれから何ひとつ成し得ていない。
「……距離感、ちょっと考えた方がいいですね。ごめんなさい、バグらせたの、俺のせいですね」
胸を張って琉架の隣にいられるような、きちんと社会に必要とされるまともな人間になれるまでは、もうむやみに近づいてはいけないと和唯は自分を戒める。
「なんだよ、今さら距離感って……。出会った日からバグってたじゃねぇか」
「だから、もう直さないと。……普通同居人はキスもセックスもしないですよ」
「……っ!?」
告げられた言葉に、今度は琉架がひどく顔を歪ませた。その顔を見た和唯が、
「どうしてあなたが、そんな傷ついたような顔するんですか……?」
と問うが、琉架は何も言葉を生み出すことができずに黙ったままうつむく。
「……あの、ごめんなさい、大事な用を思い出したので俺やっぱり今からコンビニ行ってきますね」
琉架のマンションに転がり込んでから、何度もコンビニには求人情報誌を買いに行った。いつ見ても何もピンと来なくて、結局自分のやりたいことはひとつしかなくて、ずっと先延ばしにしていた。でももうそんな悠長なことは言っていられない。琉架を理不尽な痛みから守れる男に、琉架に好きだと言える男になるために前へ進まなければと和唯は奮起する。早く、今すぐにでも動き出したい。早く、早く。
「……あ、うん、……どうぞ」
いつかの日のようにオレもついていくとは言えない雰囲気で、琉架は和唯にそれだけ伝えた。
「対価はまたあとで、……そうですね……指先あたりを少しだけ舐めさせてください。あと、ちゃんとソファでしましょう」
ごはん先に食べててくださいねと普段通りの口調で付け加えると、和唯は琉架から離れ、ポールハンガーから自分の黒いアウターを手に取りさっきまでいた玄関ホールに戻っていった。
玄関のドアが開き、また閉まる音を聞いてから、琉架は壁にもたれたままその場にへなへなと座り込んだ。自分の口唇に指を這わせて、小さく震える。
──キス、されるかと思った、のに。
完全にキスをするモーションだったのに、なんで? あんな中途半端に、途中でやめるなんて……ルールだって守ったり守らなかったりでいつも好き勝手するくせに、……なんで?
和唯の口唇に触れてもらえなかったことが思った以上に堪えて、琉架は混乱する脳内を必死になだめようとあれこれ考えを巡らせる。
拒絶されたのだろうかと、琉架がシンにつけられた傷跡を触った。触るとまだ少し痛い。この傷を見て嫌になった? 客の男に傷つけられて舐め回された、穢らわしいケーキだから?
──指先……? もう、唾液もいらねぇってこと? だからキスもしねぇの……?
和唯があまいのをいらなくなったらもうここに繋ぎ止めておく術がないと、琉架は焦った。心臓をぐっと掴まれたように胸が痛い。こんなのはシンがつけた傷の比ではないと、琉架が傷跡に強く爪を立てる。どうすればいい? オレにはあまいのしかないのに。
あまいのを与えたいと思えば思うほど、和唯がどんどん離れていく。精液も唾液もいらないフォークを、どう喜ばせてやればいいのかまるでわからない。そんなこと、したことがない。
和唯が家で待っていてくれると思うだけで仕事だって頑張れて、早く家に帰りたくなって、楽しくてうれしくて、一緒にいたいだけなのに。……どこで、何を、まちがえた?
琉架はその場で膝を抱え、途方に暮れた。オレにはこれしかないのに。和唯はもう、オレを食いたくねぇの?
こんなの、まるで。
そう気づき始めた気持ちに、名をつけるのが琉架は急に怖くなってしまった。
こんなの、まるで──、恋なのに。
離れていかないで。オレを拒絶しないで。……オレを食ってよ。
まじないのようにそう何度も唱えながら、ひざを抱えた琉架は、和唯がちゃんとここに戻ってくることだけをただ必死に祈り続けた。
「おかえりなさい」
不意打ちで顔を合わせたので琉架は面食らう。なんでこんなとこに、という疑問は湧いたが、とりあえず。
「……ただいま」
言いたいと思っていた言葉を、今夜も無事この男に渡せたことに琉架はほっとしていた。和唯は今日もこの部屋にいてくれる。他のケーキのところではなく、ここにいてくれる。
「なんで玄関にいんの? コンビニ行くとこだった?」
「もうそろそろ琉架さん帰ってくる頃かなって思って。お出迎えです」
柔らかな笑顔でにっこりと和唯にそう言われ、琉架は思わず咄嗟に瞳を伏せてしまった。待っていた、と暗に言われて胸がざわつく。今日はずっと、なんだか和唯のことばかり考えていたような気がして、琉架はきちんと目を合わせられない。
それでもゆっくりとまつげを上げて和唯を上目遣いで見上げると、一段高いところから同じように自分を見つめている和唯の整った切れ長の瞳と引き合うように出会い、その美しい瞳に溺れそうになる。拾った頃から綺麗だと思っていて、もう見慣れているはずのその目が、今夜はどういうわけかいつもよりきらめいて見える。こんなにも人を誘い寄せるような目だっただろうかと、じっと視線を投げてくる和唯の静かな熱に琉架は心を乱された。
──和唯ってこんな……きらきら、してたっけ……?
「? 琉架さん? 入らないんですか?」
靴を脱ごうともせず、玄関のたたきに突っ立ったままぼうっと自分を見上げている琉架に、和唯が不思議そうな目を向けた。
「えっ、あ……うん、入るけど」
こんな玄関先でうかつにも見惚れていた事実に驚き、琉架は軽く頬を染めながら慌てて靴を脱ぎ始める。
いやいやいや、ぜってぇ変なフィルターかかってるだろ……と呆れ、一緒にいて楽しいと意識した途端これとは……と参ってしまう。こんなの、まるで──。
「今日のごはん、四川風麻婆豆腐ですよ。琉架さんの好きな、すごーく辛い本格派のやつです」
「お、ラッキー、それ好き。めちゃくちゃ辛くしてくれてる?」
やっと靴を脱ぎリビングへと続く廊下を琉架が歩き始めると、後ろに続く和唯が家主の背にそう教えた。いつの間にか自然と琉架の好物を覚えていった和唯は、琉架を甘やかすために毎晩腕を振るう。何ひとつ味はわからなかったが、琉架が喜んで食べているのでおそらくそれなりのものは作れているのだろうと和唯は自負していた。
「その、意味わかんないくらいに辛くするの、元料理人としてはホントはあんまり推奨したくないんですけど」
元々の旨味を辛さの暴力で上書きするのはほどほどにしてほしいと和唯が呆れる。共に過ごしていく中で、和唯は琉架の激辛好きを知った。あまいあまい本体をしている琉架が本当はひどく辛いものが好きだなんて、店に琉架を舐めに来る客たちはきっと知らないだろうと思うと、和唯はこの立ち位置に優越感を覚える。そうやって琉架のことを少しずつ覚える作業は、和唯にとって至福の時間だった。
「辛いものは正義だからもうしょうがねぇの! 甘いものも嫌いじゃねぇけど、そこまでなんだよなぁ」
「同族嫌悪ですかね。……俺はあまくておいしい琉架さん好きですよ」
「……はぁ!? ば、ばっかじゃねぇの……」
ほら、こんな風に琉架をからかって、楽しくて、この生ぬるい世界に浸かっていればきっとずっと幸せだと和唯は思う。琉架にそういう対象として見られていないことはこの前の思いつきでしたようなセックスで痛感したが、あんな風に交わってしまってもまだ自分をここに置いてくれている事実だけで和唯は充分救われていた。きっと、少なくとも、嫌われてはいない。家事をやる都合のいい男という琉架にとっての利益で、いい。
琉架との時間を重ねるたびに、どんどん、この日常を壊したくなくなった。穏やかで、生ぬるくて、フォークという厄介者にとても理解があるやさしいこの世界に、このまま骨を埋めてしまいたかった。あまりにも毎日がお手本のような幸いに満ちていて、生きづらそうな外の世界に出るのがもう和唯は怖くなっている。あなたを自分だけのものにしたいと琉架にわがままを言ったら、最上級ランクのケーキは困った顔をして、きっとこの世界はあっけなく壊れてしまうから。……壊したくない。でも壊す覚悟がなければ、琉架に想いを伝えるなんて到底できない。情けないとわかっている。コンビニ店主にも応援されているのに。失うのは、怖い。
この日常が本当に壊れたら、何も持たない愚かなフォークは、一体どこへ行けばいい?
「あー、腹減ったー。和唯もう食った?」
「まだですよ。一緒に食べようと思って待ってました」
「オレと同じレベルの辛さ食えるやつ、レアだからな」
「味しないので、どのレベルでもお付き合いしますよ」
たわいないことを話しながら琉架がモカブラウンのチェスターコートを脱いでポールハンガーに掛けるのを、和唯は後ろでそっと見届けていた。
──!?
コートを脱いだ琉架の後ろ姿に目ざとく違和感を見つけた和唯が、ぬるま湯でふやけたようなだらしない顔をふと険しくする。そのまま手を洗いに洗面所へ向かおうとした琉架の腕を、和唯は思いきり掴んで引き止めた。
「な!?」
突然腕に強い力が加わって驚いた琉架が、何事かと和唯を振り返る。
「……これ、なんですか?」
少し長めの襟足に隠れちらちらと見える程度だったが、琉架の首筋に真新しい深い傷が見えた。まっすぐな、何か尖った鋭いもので引っ掻かれたような赤い線状の長い傷跡を、和唯が何かときつめに問う。朝に玄関で見送ったときに琉架の背中は見ているが、こんな傷はなかったはずだ。自分で引っ掻いたというレベルではない不自然な痛々しいそれに、和唯が嫌な胸騒ぎを覚える。
「あ……えと、傷のこと……?」
和唯の視線が捉えているのが自分の首の後ろの辺りだとすぐに気づいた琉架が、気まずそうに下を向いて問い返した。
「……はい。どうしたんですか、これ」
「あー、やっぱ目立つかぁ。自分じゃ見えねぇとこだから、あんま気にしてなかったんだけど」
「……怪我、じゃないですよね」
偶然できたような傷でないことは、見てすぐに和唯にもわかった。
「……血をね、欲しがる客がいんだよ。メニューにあんの、血液の提供ってのがさ」
「血……」
メニューにあると言われ、そういえば居候し始めた頃にケーキの体液について話してくれたことがあるのを和唯は思い出した。血液は精液の次に糖度が高いのだと言っていたような覚えがある。血液がメニューにあるとして、何故琉架の首筋にこんな傷がつくのか和唯は理解できなかった。……正しくは、理解したくなかった。
「お客さんにやられたんですか……?」
「そ。いつもはもっと目立たねぇ場所なんだけど、今日はなんか、変なとこやられたわ……」
ばつが悪そうに苦笑して琉架が言った。真緒に先輩面をして偉そうなことを言ったくせに、自分だってシンに強く出られなかったのを情けなく思い返す。
「いつ、も……? いつもこんな風にわざと血を出すんですか? からだを、無理に、傷つけて……?」
和唯の声が心なしか震えた。共にいる時間はまだまだ浅いにしても、知らないところでそんな非道なことが行われていた事実に打ちのめされる。あの気後れするほどに美しい琉架のからだが、そんな戯れの中でむやみに傷つけられていいはずがない。
「いつも……ってそんな頻繁にはやられねぇよ? 血はあんま人気ねぇから。たまに物好きが注文するだけ」
「それでも、ひどい……です。何で切られたんですか……? 尖ったもの? カッターみたいなものですか……? ……痛かったですよね? 怖かったですよね……?」
琉架の腕を強く掴んだまま、和唯が悲しげに質問ばかりする。
「別に、傷なんて数日すりゃ消えんだろ」
いちばん悲しいのは、琉架がそのすべてを受け入れていることだった。痛いことも怖いこともその身に受けて、琉架が当たり前のように、なんてことないように平然としていることが和唯は悔しくてたまらない。もっと痛がって、もっと怖がって、助けを求めてくれればいいのに。助けを呼ばずなんでも許容してしまうプロの琉架が、和唯はとても悲しかった。
「……数日? 数日も、俺は……」
傷が癒えるまでの数日間、他の男がつけた傷を見続けるなんて狂いそうだと和唯は思う。傷が目に入るたびに、琉架が淫楽の果てに知らない男に痛めつけられ、舐め回されたことを思い出さなければならないなんて、地獄だ。たとえ皮膚の傷が無事に癒えても、何も知らなかった頃にはもう戻れない。琉架がまた誰かに傷つけられてしまうかもしれないと、毎日怯えて暮らせというのか。好きな人が傷つけられるのを、この先も黙って見過ごせというのか。
「和唯……? なんでおまえがそんな顔すんの……?」
顔を歪ませてせつなげに自分を見つめてくる和唯に、琉架が遠慮がちに訊く。掴まれている腕も痛くて、琉架は落ち着かない。
「……俺、どんな顔してますか…?」
「なんか、痛そうな顔してる。……仕事のことは、別におまえには関係ねぇだろ」
関係、ない──?
「痛いのオレなんだけ……ど、っ……」
琉架がそうこぼしたとき、和唯は掴んでいた琉架の腕を思いきり引っ張り、ポールハンガーのそばの壁に連れていった。そのまま琉架の背を壁に押しつけて、壁際に追い込む。琉架の前に立ちはだかり逃げ場を消した和唯は、少しだけ下にある琉架の瞳を睨むように強く見つめた。自分がひどく苛立っているのが、頭だけは恐ろしいほどクリアな和唯にはよくわかる。
「な、に……?」
壁と和唯に閉じ込められた琉架が、少し怯えた目をして和唯を見上げた。
「関係ないなんて、言わないで……」
何に苛立っているのか。琉架を傷つけた客か、自分を大事にしない琉架か、こんなにそばにいるのに守ってやれない自分か。
「ケーキにだったら、客のフォークは何をしてもいいんですか……?」
金さえ払えば、こんな目立つところに悪意ある傷をつけるのも許されるのか。
「……俺は、あなたを大事にしたいのに……」
「……っ!?」
真摯に伝えられた言葉に、琉架の目が大きく開かれる。未だ顔を歪ませて自分をじっと見つめてくる和唯から、目が逸らせない。
「これは……お金のためですか?」
こんな風に傷つけられてまで琉架が仕事をする意味を短い時間で必死に探して、和唯は最悪な事実に行き着いてしまった。それは生ぬるい世界にどっぷりと浸かって、しばらく見て見ぬ振りをしてきたことだ。
「血を売れば、お金がたくさんもらえるんですか……? お金、必要ですよね……もしかして、俺のせいですか……? 俺がここにいるせいですか……?」
居候の存在が琉架に負担を掛けているのではと、和唯は恐々と訊く。
「……勘違いすんなって。和唯のためにやってるわけじゃねぇよ。おまえがここに来る前から血も普通に売ってたし」
どこか思い詰めたように青ざめていく和唯に、視線を逸らさないまま琉架がぶっきらぼうに教えた。
「もちろん最初は生きてく金のために始めて、今も生きるためにやってるけど、……今はもう、それだけじゃねぇんだよ」
琉架の脳裏には、癖の強い派手な女が浮かんでいた。母代わりのその人に恩を返したいし、彼女の成功に力添えしたいと純粋に思っている。店の同僚や後輩たちも、ライバルではあるがそれ以上に店を盛り上げるための大切な仲間だ。
「……っ、お金のためじゃないなら、なんで、こんな……琉架さんが痛い目に合うの、俺、嫌です……」
「だから、なんでおまえがそんな顔すんだよ……」
いっそ金のためだと言ってくれたらよかったと和唯は思う。それ以外の理由を琉架が持っているなら、ただの居候の和唯に口を出す権利は本当にない。そもそも琉架にとっての何者でもない和唯には、何ひとつ意見することは許されない。
しばらく、壁際で見つめ合った。和唯はひどく参ったような眼で琉架を見つめ、そっと指先を琉架の首筋に這わせた。傷には触れないようにその近くを癒やすように撫でると、琉架はまぶたを軽く下げて男の指の行き先を肌の上で追う。たかが傷くらいで和唯がこんなにも感情的になるなんて思わなかった琉架は、和唯が放った言葉の真意を測りかねて戸惑い、ただじっと壁に背を預けるしかなかった。
「……傷、早く治りますように」
「もういいから。……おまえ過保護すぎだって」
琉架の傷ついた肌に軽く触れたまま和唯は、幸せにしてやりたいと願った深夜のコンビニを思い出した。琉架を守る騎士になりたいと、浮かれ気味に、無邪気に願ったあのまばゆい夜。なのに俺は。この人を守りたいはずなのに、この人にからだを売らせて、その金で生かしてもらっている最低な矛盾に今さら改めて気づき、和唯は己を支える下肢から力が抜けていくのを感じた。目に見える傷を見せられるまで気づかないなんてバカにもほどがある。琉架はずっと、知らない誰かに舐め回されることで、行き場のない自分をこの部屋で守ってくれていたというのに。
全部、自分が何も持たない愚かなフォークのせいだと和唯は思った。職も家もない、ただぼんやりと毎日を過ごしているだけの何もない自分が、琉架を幸せにしたいなどとどの口が言うのかと呆れる。フォークを発症したことに甘え、被害者ぶって絶望して、何もしようとしてこなかった。このままずっとこの生ぬるくてやさしい世界にいられると、錯覚していた。
「……どうすれば、琉架さんがこれ以上傷つけられずに済みますか……?」
答えを求めない弱々しさで、和唯がひとりごとのようにつぶやく。
「おまえ、今日、なんかヘン……」
この先傷つけられない方法を提示できない琉架もまた、ひとりごとのように小さく言う。
ぬるま湯の世界を壊したくないなんて腑抜けたことを考えている場合ではなかったと、和唯は気づく。壊す覚悟で琉架に想いをぶつけて、この人がもう傷つけられることのない未来に無理やりにでも導きたかった。そのためには、せめて、琉架と同等の立場で在らねば。現実から逃げてばかりの愚かなフォークでは、琉架のそばにいる資格すらない。
「……ねぇ」
琉架が和唯のシャツの裾を引っ張り、自分に注目させた。
「……なんで和唯が、オレに傷がつくの、そんなに嫌がんの……?」
琉架が、少し上にある和唯の目を見上げて尋ねる。
「……対価が傷だらけになるのが気に食わねぇの? ……自分が食うときに萎える、から……?」
「……っ」
何もわかっていない琉架に和唯は腹が立った。怒りに任せ、首筋に触れていた手を肩にずらし、琉架の肩をぐっと強く掴む。……萎えるだと? ふざけるな。この人はケーキとして食われ過ぎていて、ただの男がただのあなたを欲しがっていることをまるで信じようとしないと、和唯が嘆く。
苛立ちを消化するために、和唯は琉架の両肩を押さえつけるように強く掴み、顔を寄せた。首に角度をつけて、琉架の口唇にまっすぐ向かう。あと数センチで口唇が重なるというところで、ふと我に返り、和唯はすっと動きを止めた。近づけた顔を離し、琉架の肩に置いた手も自分の元に回収する。
「ごめんなさい、俺、またルール破りそうになって……」
勢い任せでくちづけようとしたが、今の自分には琉架に触れる権利も資格もないような気がして、和唯は琉架からそっと離れた。琉架に拾ってもらったあの雪の夜にフォークとして生きていくと決めたのに、あれから何ひとつ成し得ていない。
「……距離感、ちょっと考えた方がいいですね。ごめんなさい、バグらせたの、俺のせいですね」
胸を張って琉架の隣にいられるような、きちんと社会に必要とされるまともな人間になれるまでは、もうむやみに近づいてはいけないと和唯は自分を戒める。
「なんだよ、今さら距離感って……。出会った日からバグってたじゃねぇか」
「だから、もう直さないと。……普通同居人はキスもセックスもしないですよ」
「……っ!?」
告げられた言葉に、今度は琉架がひどく顔を歪ませた。その顔を見た和唯が、
「どうしてあなたが、そんな傷ついたような顔するんですか……?」
と問うが、琉架は何も言葉を生み出すことができずに黙ったままうつむく。
「……あの、ごめんなさい、大事な用を思い出したので俺やっぱり今からコンビニ行ってきますね」
琉架のマンションに転がり込んでから、何度もコンビニには求人情報誌を買いに行った。いつ見ても何もピンと来なくて、結局自分のやりたいことはひとつしかなくて、ずっと先延ばしにしていた。でももうそんな悠長なことは言っていられない。琉架を理不尽な痛みから守れる男に、琉架に好きだと言える男になるために前へ進まなければと和唯は奮起する。早く、今すぐにでも動き出したい。早く、早く。
「……あ、うん、……どうぞ」
いつかの日のようにオレもついていくとは言えない雰囲気で、琉架は和唯にそれだけ伝えた。
「対価はまたあとで、……そうですね……指先あたりを少しだけ舐めさせてください。あと、ちゃんとソファでしましょう」
ごはん先に食べててくださいねと普段通りの口調で付け加えると、和唯は琉架から離れ、ポールハンガーから自分の黒いアウターを手に取りさっきまでいた玄関ホールに戻っていった。
玄関のドアが開き、また閉まる音を聞いてから、琉架は壁にもたれたままその場にへなへなと座り込んだ。自分の口唇に指を這わせて、小さく震える。
──キス、されるかと思った、のに。
完全にキスをするモーションだったのに、なんで? あんな中途半端に、途中でやめるなんて……ルールだって守ったり守らなかったりでいつも好き勝手するくせに、……なんで?
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──指先……? もう、唾液もいらねぇってこと? だからキスもしねぇの……?
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あまいのを与えたいと思えば思うほど、和唯がどんどん離れていく。精液も唾液もいらないフォークを、どう喜ばせてやればいいのかまるでわからない。そんなこと、したことがない。
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こんなの、まるで──、恋なのに。
離れていかないで。オレを拒絶しないで。……オレを食ってよ。
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