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“傷のつけ方”
4-1 痛くしないで
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駅から徒歩3分ほどの路地裏にある少し寂れたビルの2階で、フォーク専用ウリ専【Vanilla】は今日もひっそりと営業していた。路地裏には似たような風俗店が何軒もあり、このエリアはフォークの男の間ではかなり有名なグルメスポットだった。単純に性的欲求を満たしながらケーキを深く貪りたい男はもちろん、味覚のない口内があまりにも淋しいゆえにまるでお菓子をつまむ感覚で軽くケーキを舐めに来るライトな層も皆このエリアに足を運ぶ。ここでは本当にケーキはただの商品で、すべてがビジネスだった。
「ルカ……」
【Vanilla】の個室についている清潔感のある風呂で、琉架は今日もいつものように接客していた。たっぷりと湯を張った浴槽に客と前後に並んで入り、後ろから客に抱きしめられている。やさしく琉架の名を呼んだ客は、背後から琉架の首筋に顔を寄せると、そこに軽くキスを落とした。舐められる。
「……っ」
「ルカのあまさは本当に異常だよね。何度食べたって全然飽きないよ」
また、最高で最悪の褒め言葉を琉架は聞く。
ホテルなどへ出向いてサービスを提供する出張型のウリ専が多い中【Vanilla】が店舗型の個室で営業しているのは、突発的なフォークの暴走に即座に対応できるようにしているためである。ケーキのあまさに当てられて理性を失う客は多く、特にフォークを発症したばかりの者は自制の仕方がまるでわからずボーイをめちゃくちゃにしてしまいがちだった。万が一出張先のホテルでフォークが暴走してしまった場合ボーイの救出が遅れてしまうため、フォーク専用のウリ専ではこの店舗型の形態をとっていることが多い。【Vanilla】の個室には緊急事態用の呼び出しブザーがあり、何かあれば事務所にいるスタッフや別のボーイがすぐに駆けつけられる仕組みになっていた。
「……ねぇルカ、ちょっとだけ傷つけてもいい? 血欲しい……」
「シンさん、またっスか? 血、好きですね」
琉架にシンと呼ばれたこの男は、ここ数ヵ月で【Vanilla】によく来るようになった30代前半の常連客だった。少し不健康そうな青白い肌に、短い金髪、耳にはごつごつとしたピアスがいくつか飾られており、左腕には太陽モチーフの黒いタトゥーが控えめに入っている。
「シンさんくらいっスよ、そんなに血欲しがるの。ヴァンパイアなんスか?」
琉架が軽く笑いながら訊いた。ケーキが提供できる体液のメニューに血液も入ってはいるが、料金が高いうえに少量しか提供できないため注文する客はほとんどいなかった。痛みが苦手なボーイは最初から血液提供をNGにしている者もいるくらいで、NGにしたところで売り上げにほとんど影響はない。ただ精液に次ぐ高い糖度なので、シンのようなマニアックな客にはそれなりに需要があるようだった。
「……ヴァンパイア? ふふっ、そうかもね。ケーキのいろんなところの中で、ボクは血がいちばん好きだよ」
琉架の背後でシンもくすっと笑う。シンが何をやっている人か琉架は知らなかったがとにかく信じられないほど金払いがよく、琉架だけでなく他のボーイもたくさん指名するし、他のウリ専や別の風俗にも多く通っているようだった。
「あとで追加料金払ってくれるなら、まぁ」
「払うよ、いくらでも払う。……いい?」
「あんま痛くしないで……」
琉架の許可を得たシンは、わざと鋭くカットしている親指の長い爪を琉架の首筋に当てた。皮膚の薄そうなところを敢えて選び、ナイフを入れるようにすっと爪を大きく動かす。
「いっ……」
琉架は痛みに片目を細め、小さく声を上げた。強く引っ掻かれたところから鮮やかな血がじわっと滲み出す。シンはしばらく血が浮かび上がってくる様子をうっとりと眺め、そして首筋に口を寄せた。歯を立てて周りの皮膚を圧迫しもっと血を出させながら、舐める。
「……っ、……」
風呂なので血は止まりにくく、どんどん滲み出てくる琉架の血をシンは器用に舌で絡め取っていく。
「……はぁ……やっぱりルカの血がいちばんあまい……」
「……どうも」
「そんな淡々としないでよ、本当だよ? 今までいろんなケーキを食べてきたけど、ルカに勝るケーキはどこにもいないんだ。ボクの舌を本当に満足させられるのは、この世でルカだけなんだよ」
「大袈裟っスね……うちの店、ランクの高い子結構揃ってますよ。おすすめの子紹介しましょうか?」
「つれないな……ボクの愛の告白なのに」
「えー、なんスかそれ」
琉架は苦笑して、ゆらゆらと不安定に揺れるにごり湯をぼんやりと眺めた。本当に自分にはこのあまさしか取り柄がないのだと、また思い知らされる。もし自分がまずいケーキだったらきっと、シンのようなグルメなフォークにはまったく見向きもされていないのだろう。
「……そういえばルカ、……最近男できた?」
「え?」
まだうっすらと滲み続ける血を舐めながら、シンがふと思い出したように琉架に訊いた。
「この前コンビニで一緒にいるとこ、外から見かけたよ。ちょっと背の高いひょろっとした、黒い髪の……」
「……見かけたんスか?」
いつ見られていたのかと、琉架が少しぞくっとする。
「ルカは華やかで、どこにいても目立つからね」
職場が生活圏内にあるので仕方ないのだが、プライベートをこっそり見られるのはあまりいい気分ではなかった。遠い昔の、嫌な記憶が琉架の頭にありありと戻ってくる。琉架は以前、元客にしつこく付きまとわれたことがあった。
「……和唯と一緒のときかな。シンさん声掛けてくれればよかったのに」
「カズイ、っていうの? 新しい男」
コンビニの店主といい、シンといい、何故みんな和唯を新しい男にしたがるのかと琉架は首を傾げてしまう。店主もシンも、和唯がフォークであることを知らないからそんなことを言うのだ。和唯はフォークになりたてで、味のしない世界を心細く思っていて、それでただ味のする自分に懐いているだけなのに。
「違いますよ、あいつは……」
なんだっけ? と琉架の言葉が途切れた。家事代行屋として雇ってる? ケーキのあまい体液を餌に家のことをやるように縛りつけてる? なのに、寝た。和唯は精液を欲しがらなかったのに。和唯のことをなんと説明するのが正解なのか、琉架にはよくわからない。
肌を重ねたあの長い夜、和唯の手つきがとてもやさしくて、少なくともあの時間だけはまるで愛されているように琉架は錯覚してしまった。そんなわけないのに、と自分に言い聞かせる。
『琉架さんみたいな極上のケーキを無視するフォークなんて、いませんから』
『対価なんでしょう?』
『効率よく一緒に処理するためのセックス、ですよね?』
和唯があの日に散りばめたたくさんの言葉たちがそれを教えている。手は情熱的に琉架に触れていたのに、言葉は時々冷静で辛辣だった。
正直なところ、先日のセックスは和唯は乗り気ではなかったと琉架は思う。あれは自分の最高にずるい言葉で誘って、無理やりしたようなものだ。
『……オレみたいな、どこの誰とやってんのかわかんねぇようなやつとは、無理か……?』
こんな風に訊かれたら、いつも自分を甘やかす和唯は、そんなことないと否定して渋々でも自分を抱くしかない。気を遣われたのだ。誘った自分を惨めにさせないようにする和唯の思いやりだったのだと琉架は捉え、卑怯な手で従わせてしまったことをただ悔やむ。
それでもあまいのをやれば、和唯は喜ぶと思ったのに。いちばんあまい極上の蜜をいらないと言われて、琉架は深く傷ついた。フォークはみんな欲しがると思っていたのに。フォークに拒絶されたことなど今まで一度もなかったのに。あまいのを与えることでしか誰かを喜ばせることができないと本気で信じている琉架が、あの夜を思い返しては何度も肩を落とす。何をすれば和唯が喜ぶのかわからない。……オレの、欲しかったんじゃねぇのかよ。
「……ねぇ、シンさん」
結局和唯との関係に名はつけられず、琉架は説明をうやむやにしたままシンを呼んだ。
「なぁに?」
自らが琉架の首筋につけた傷をいとおしそうに撫でながら、シンが応じる。
「……オレの精液って、ちゃんとあまいですよね……?」
「?」
なんでそんな当たり前のことを? とでも言いたげに、シンが不思議そうな顔をした。
「え、っと、……きゃ、客、……お客さんでね、精液分の料金払ったのに味見もせず飲まずに帰っちゃった人がいて……なんでだったんだろうなって、ずっとモヤモヤしてるんスよね。……ほら、ホントにあまいのか自分じゃわかんねぇから、ちょっと不安になったというか……」
フォークのことはフォークに訊いてみるかと、琉架が恥を忍んでシンにわだかまりを打ち明ける。
「ルカのセーエキ飲まずに帰るなんて、そいつ本当にフォーク?」
信じられないと、シンが目を丸くした。
「ルカの濃いあまさに飲み込まれない人がいるなんて、ちょっと考えられないな。ケーキを食べ慣れてるボクでさえ、ルカのあまさには毎回狂いそうになるのに。ルカに射精させるだけさせて帰ったの? ひどい男だね」
「オレ、その人になんか気に入らねぇことしちゃったのかなって。……あ、えと、今後のサービス向上のために参考にしたくて……」
「ふふっ、ルカは仕事熱心だね。大丈夫、ルカのあまい蜜はちゃんと最高級品だよ」
琉架を安心させてやるように、シンがゆったりと事実を述べる。
「そうだな……単純にその人は、やっぱりそこまではルカを求めてなかったってことなんじゃない? 興味本位で料金まで払ってはみたものの、やっぱいいやって思っただけでしょ。普通の食事だってそういうことはあるよね? 注文してから食べられないってことはあるよ。味が好みじゃなかったり、量が多くて食べ切れなかったり」
シンのわかりやすい説明には妙な説得力があった。
「それにいくらあまいって言っても、本当は飲んだり舐めたりするものじゃないしね。抵抗があったんじゃない? ボクみたいなケーキ愛好家はもう、感覚麻痺しちゃってるからなんでもいけるけど」
だから琉架はそんな些細なことを気に病まなくていいんだよと、耳元でシンが告げる。
「……参考に、なります……」
そこまでは求めていなかった、か。そうかもしれないと琉架が納得した。ただ一方的に、押しつけるように、こちらが与えたかっただけだった。和唯の喜ぶ顔が見たくて。そもそも喜ぶかどうかなんてわからないのに。なんて、傲慢。
こういうのをなんと言うんだったかと、琉架が慣れない言葉を探す。……そう、独り善がり。お人好しがエスカレートしてこうなってしまうことは琉架の今までの人生でも時々あって、厄介な悪癖だと自分を責める。
馬鹿みたいだと、琉架は自身を嘲笑った。あのやさしい手で触れてきた男に受け入れられなかったことが、少し、苦しい。
「その客が気になるの?」
ふとシンが、拗ねたような声を出した。琉架の背を抱く手に力が入ったのがわかった。離してやらないと、シンの手が訴える。
「ボクと一緒のときに他の客の話なんてしないでよ」
「あ……、オレ……ごめんなさい、何言ってんだろ……」
機嫌を損ねてしまったかと琉架が焦った。客の前で他の男の話をするなんてどうかしている。
「ボクはおまえを、身請けみたいにしたっていいって本気で思ってるんだから」
「み、身請け……?」
もちろん意味を知ってはいたがそんなことを本当に口に出してくるのはシンが初めてで、琉架は動揺のあまりとぼけてみせた。
「知らないの? この店から金でおまえを買い取って、ボクのそばにずっと置いておくんだ」
シンの手が背後から伸び、湯の中で琉架の太腿をいやらしく撫でる。少し怖くなって、珍しく琉架のからだに緊張が走った。冗談だとわかってはいるが、シンは本当にそれを実現できるくらいに、おそらく金を持っている。
「そしたらもう、他の気持ち悪い男たちに抱かれなくて済むよ。ボクにだけあまい血をくれればいい。ルカはボクの用意した家で一生遊んで暮らせばいいしね。そんなに悪くない話だと思うけどな」
触られている太腿が最高に気持ち悪く、琉架は今すぐ浴槽を飛び出したかった。怖い。大金に目が眩んだ店長が自分をシンに売ったらどうしようと、有り得ない想像まで勝手に脳裏に浮かんでくる。怖い。昔廃ビルで変態フォークに拘束されたように、逃げられず、助けを求める声も出せず、シンに囚われ、弄ばれ、一生あまい血を吸われ続け、……そしたらきっと、もうあの男には二度と会えない。怖い。怖い──。
「……っ、かず……」
誰の名で助けを呼ぼうとしたのか驚いて、琉架は口を開いたまま停止してしまった。息がうまく吸えなくて苦しい。急に呼吸が下手になる。なんで、呼ぼうとした……?
「ルカ? どうしたの? ……ふふっ、冗談だよ。おまえの気持ちを無視してそんなことしないよ。もちろん、おまえが望むならすぐにでも買い取ってやるけど」
琉架の様子がおかしいことに気づいたシンが、笑って冗談にしてやる。そこまで冷酷無情なシンではない。
「……っていうか、シンさん恋人いるじゃないスか。オレにそんなこと言うなんて悪い人だよね。恋人が悲しむよ」
シンが笑ったことで琉架も我に返った。ここで誰かの名を呼んでもなんにもならないのに。ここで助けを呼びたいときは、緊急事態用の呼び出しブザーを押すしかないのに。咄嗟に出てきた名に、琉架自身がいちばん驚く。
「ボクの恋人はケーキじゃない、普通の人間だよ……あまくないんだ」
そのことを恥じているような言い方で、シンが教えた。
「フォークにはね、ルカみたいなあまいのが必要なんだ。もう理屈じゃないよ、本能だから」
シンがまた、さっきつけたばかりの琉架の傷跡に触れる。血を舐め尽くしたそこは、乾いた赤い線となって皮膚の上に痛々しく残っている。
「追加料金、2倍払うね……」
もう琉架の許可は得ず、シンは勝手に皮膚に鋭い爪を当てた。赤い線の上をなぞるように、また同じところを爪で乱暴に引っ掻いていく。
「……、痛っ……」
痛い。痛くしないでって言ったのに。……痛ぇよ。
「ボクはね、ルカが欲しいんだよ」
シンの本気なのか冗談なのか判別できない言葉を背後で聞いてから、深い傷になった首筋を強く吸われる。
「……っ」
呼びたい名があった。こういう怖くて、心細いとき。
呼べばきっと駆けつけて、背中にぴったりとくっついてきて、また左耳に口唇を寄せて、怖かったですね、頑張りましたね、偉かったですね、と褒めてくれるような気がした。
家に帰ればすぐ会えるのに。
早く会いたい、と琉架は思った。
「ルカ……」
【Vanilla】の個室についている清潔感のある風呂で、琉架は今日もいつものように接客していた。たっぷりと湯を張った浴槽に客と前後に並んで入り、後ろから客に抱きしめられている。やさしく琉架の名を呼んだ客は、背後から琉架の首筋に顔を寄せると、そこに軽くキスを落とした。舐められる。
「……っ」
「ルカのあまさは本当に異常だよね。何度食べたって全然飽きないよ」
また、最高で最悪の褒め言葉を琉架は聞く。
ホテルなどへ出向いてサービスを提供する出張型のウリ専が多い中【Vanilla】が店舗型の個室で営業しているのは、突発的なフォークの暴走に即座に対応できるようにしているためである。ケーキのあまさに当てられて理性を失う客は多く、特にフォークを発症したばかりの者は自制の仕方がまるでわからずボーイをめちゃくちゃにしてしまいがちだった。万が一出張先のホテルでフォークが暴走してしまった場合ボーイの救出が遅れてしまうため、フォーク専用のウリ専ではこの店舗型の形態をとっていることが多い。【Vanilla】の個室には緊急事態用の呼び出しブザーがあり、何かあれば事務所にいるスタッフや別のボーイがすぐに駆けつけられる仕組みになっていた。
「……ねぇルカ、ちょっとだけ傷つけてもいい? 血欲しい……」
「シンさん、またっスか? 血、好きですね」
琉架にシンと呼ばれたこの男は、ここ数ヵ月で【Vanilla】によく来るようになった30代前半の常連客だった。少し不健康そうな青白い肌に、短い金髪、耳にはごつごつとしたピアスがいくつか飾られており、左腕には太陽モチーフの黒いタトゥーが控えめに入っている。
「シンさんくらいっスよ、そんなに血欲しがるの。ヴァンパイアなんスか?」
琉架が軽く笑いながら訊いた。ケーキが提供できる体液のメニューに血液も入ってはいるが、料金が高いうえに少量しか提供できないため注文する客はほとんどいなかった。痛みが苦手なボーイは最初から血液提供をNGにしている者もいるくらいで、NGにしたところで売り上げにほとんど影響はない。ただ精液に次ぐ高い糖度なので、シンのようなマニアックな客にはそれなりに需要があるようだった。
「……ヴァンパイア? ふふっ、そうかもね。ケーキのいろんなところの中で、ボクは血がいちばん好きだよ」
琉架の背後でシンもくすっと笑う。シンが何をやっている人か琉架は知らなかったがとにかく信じられないほど金払いがよく、琉架だけでなく他のボーイもたくさん指名するし、他のウリ専や別の風俗にも多く通っているようだった。
「あとで追加料金払ってくれるなら、まぁ」
「払うよ、いくらでも払う。……いい?」
「あんま痛くしないで……」
琉架の許可を得たシンは、わざと鋭くカットしている親指の長い爪を琉架の首筋に当てた。皮膚の薄そうなところを敢えて選び、ナイフを入れるようにすっと爪を大きく動かす。
「いっ……」
琉架は痛みに片目を細め、小さく声を上げた。強く引っ掻かれたところから鮮やかな血がじわっと滲み出す。シンはしばらく血が浮かび上がってくる様子をうっとりと眺め、そして首筋に口を寄せた。歯を立てて周りの皮膚を圧迫しもっと血を出させながら、舐める。
「……っ、……」
風呂なので血は止まりにくく、どんどん滲み出てくる琉架の血をシンは器用に舌で絡め取っていく。
「……はぁ……やっぱりルカの血がいちばんあまい……」
「……どうも」
「そんな淡々としないでよ、本当だよ? 今までいろんなケーキを食べてきたけど、ルカに勝るケーキはどこにもいないんだ。ボクの舌を本当に満足させられるのは、この世でルカだけなんだよ」
「大袈裟っスね……うちの店、ランクの高い子結構揃ってますよ。おすすめの子紹介しましょうか?」
「つれないな……ボクの愛の告白なのに」
「えー、なんスかそれ」
琉架は苦笑して、ゆらゆらと不安定に揺れるにごり湯をぼんやりと眺めた。本当に自分にはこのあまさしか取り柄がないのだと、また思い知らされる。もし自分がまずいケーキだったらきっと、シンのようなグルメなフォークにはまったく見向きもされていないのだろう。
「……そういえばルカ、……最近男できた?」
「え?」
まだうっすらと滲み続ける血を舐めながら、シンがふと思い出したように琉架に訊いた。
「この前コンビニで一緒にいるとこ、外から見かけたよ。ちょっと背の高いひょろっとした、黒い髪の……」
「……見かけたんスか?」
いつ見られていたのかと、琉架が少しぞくっとする。
「ルカは華やかで、どこにいても目立つからね」
職場が生活圏内にあるので仕方ないのだが、プライベートをこっそり見られるのはあまりいい気分ではなかった。遠い昔の、嫌な記憶が琉架の頭にありありと戻ってくる。琉架は以前、元客にしつこく付きまとわれたことがあった。
「……和唯と一緒のときかな。シンさん声掛けてくれればよかったのに」
「カズイ、っていうの? 新しい男」
コンビニの店主といい、シンといい、何故みんな和唯を新しい男にしたがるのかと琉架は首を傾げてしまう。店主もシンも、和唯がフォークであることを知らないからそんなことを言うのだ。和唯はフォークになりたてで、味のしない世界を心細く思っていて、それでただ味のする自分に懐いているだけなのに。
「違いますよ、あいつは……」
なんだっけ? と琉架の言葉が途切れた。家事代行屋として雇ってる? ケーキのあまい体液を餌に家のことをやるように縛りつけてる? なのに、寝た。和唯は精液を欲しがらなかったのに。和唯のことをなんと説明するのが正解なのか、琉架にはよくわからない。
肌を重ねたあの長い夜、和唯の手つきがとてもやさしくて、少なくともあの時間だけはまるで愛されているように琉架は錯覚してしまった。そんなわけないのに、と自分に言い聞かせる。
『琉架さんみたいな極上のケーキを無視するフォークなんて、いませんから』
『対価なんでしょう?』
『効率よく一緒に処理するためのセックス、ですよね?』
和唯があの日に散りばめたたくさんの言葉たちがそれを教えている。手は情熱的に琉架に触れていたのに、言葉は時々冷静で辛辣だった。
正直なところ、先日のセックスは和唯は乗り気ではなかったと琉架は思う。あれは自分の最高にずるい言葉で誘って、無理やりしたようなものだ。
『……オレみたいな、どこの誰とやってんのかわかんねぇようなやつとは、無理か……?』
こんな風に訊かれたら、いつも自分を甘やかす和唯は、そんなことないと否定して渋々でも自分を抱くしかない。気を遣われたのだ。誘った自分を惨めにさせないようにする和唯の思いやりだったのだと琉架は捉え、卑怯な手で従わせてしまったことをただ悔やむ。
それでもあまいのをやれば、和唯は喜ぶと思ったのに。いちばんあまい極上の蜜をいらないと言われて、琉架は深く傷ついた。フォークはみんな欲しがると思っていたのに。フォークに拒絶されたことなど今まで一度もなかったのに。あまいのを与えることでしか誰かを喜ばせることができないと本気で信じている琉架が、あの夜を思い返しては何度も肩を落とす。何をすれば和唯が喜ぶのかわからない。……オレの、欲しかったんじゃねぇのかよ。
「……ねぇ、シンさん」
結局和唯との関係に名はつけられず、琉架は説明をうやむやにしたままシンを呼んだ。
「なぁに?」
自らが琉架の首筋につけた傷をいとおしそうに撫でながら、シンが応じる。
「……オレの精液って、ちゃんとあまいですよね……?」
「?」
なんでそんな当たり前のことを? とでも言いたげに、シンが不思議そうな顔をした。
「え、っと、……きゃ、客、……お客さんでね、精液分の料金払ったのに味見もせず飲まずに帰っちゃった人がいて……なんでだったんだろうなって、ずっとモヤモヤしてるんスよね。……ほら、ホントにあまいのか自分じゃわかんねぇから、ちょっと不安になったというか……」
フォークのことはフォークに訊いてみるかと、琉架が恥を忍んでシンにわだかまりを打ち明ける。
「ルカのセーエキ飲まずに帰るなんて、そいつ本当にフォーク?」
信じられないと、シンが目を丸くした。
「ルカの濃いあまさに飲み込まれない人がいるなんて、ちょっと考えられないな。ケーキを食べ慣れてるボクでさえ、ルカのあまさには毎回狂いそうになるのに。ルカに射精させるだけさせて帰ったの? ひどい男だね」
「オレ、その人になんか気に入らねぇことしちゃったのかなって。……あ、えと、今後のサービス向上のために参考にしたくて……」
「ふふっ、ルカは仕事熱心だね。大丈夫、ルカのあまい蜜はちゃんと最高級品だよ」
琉架を安心させてやるように、シンがゆったりと事実を述べる。
「そうだな……単純にその人は、やっぱりそこまではルカを求めてなかったってことなんじゃない? 興味本位で料金まで払ってはみたものの、やっぱいいやって思っただけでしょ。普通の食事だってそういうことはあるよね? 注文してから食べられないってことはあるよ。味が好みじゃなかったり、量が多くて食べ切れなかったり」
シンのわかりやすい説明には妙な説得力があった。
「それにいくらあまいって言っても、本当は飲んだり舐めたりするものじゃないしね。抵抗があったんじゃない? ボクみたいなケーキ愛好家はもう、感覚麻痺しちゃってるからなんでもいけるけど」
だから琉架はそんな些細なことを気に病まなくていいんだよと、耳元でシンが告げる。
「……参考に、なります……」
そこまでは求めていなかった、か。そうかもしれないと琉架が納得した。ただ一方的に、押しつけるように、こちらが与えたかっただけだった。和唯の喜ぶ顔が見たくて。そもそも喜ぶかどうかなんてわからないのに。なんて、傲慢。
こういうのをなんと言うんだったかと、琉架が慣れない言葉を探す。……そう、独り善がり。お人好しがエスカレートしてこうなってしまうことは琉架の今までの人生でも時々あって、厄介な悪癖だと自分を責める。
馬鹿みたいだと、琉架は自身を嘲笑った。あのやさしい手で触れてきた男に受け入れられなかったことが、少し、苦しい。
「その客が気になるの?」
ふとシンが、拗ねたような声を出した。琉架の背を抱く手に力が入ったのがわかった。離してやらないと、シンの手が訴える。
「ボクと一緒のときに他の客の話なんてしないでよ」
「あ……、オレ……ごめんなさい、何言ってんだろ……」
機嫌を損ねてしまったかと琉架が焦った。客の前で他の男の話をするなんてどうかしている。
「ボクはおまえを、身請けみたいにしたっていいって本気で思ってるんだから」
「み、身請け……?」
もちろん意味を知ってはいたがそんなことを本当に口に出してくるのはシンが初めてで、琉架は動揺のあまりとぼけてみせた。
「知らないの? この店から金でおまえを買い取って、ボクのそばにずっと置いておくんだ」
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「そしたらもう、他の気持ち悪い男たちに抱かれなくて済むよ。ボクにだけあまい血をくれればいい。ルカはボクの用意した家で一生遊んで暮らせばいいしね。そんなに悪くない話だと思うけどな」
触られている太腿が最高に気持ち悪く、琉架は今すぐ浴槽を飛び出したかった。怖い。大金に目が眩んだ店長が自分をシンに売ったらどうしようと、有り得ない想像まで勝手に脳裏に浮かんでくる。怖い。昔廃ビルで変態フォークに拘束されたように、逃げられず、助けを求める声も出せず、シンに囚われ、弄ばれ、一生あまい血を吸われ続け、……そしたらきっと、もうあの男には二度と会えない。怖い。怖い──。
「……っ、かず……」
誰の名で助けを呼ぼうとしたのか驚いて、琉架は口を開いたまま停止してしまった。息がうまく吸えなくて苦しい。急に呼吸が下手になる。なんで、呼ぼうとした……?
「ルカ? どうしたの? ……ふふっ、冗談だよ。おまえの気持ちを無視してそんなことしないよ。もちろん、おまえが望むならすぐにでも買い取ってやるけど」
琉架の様子がおかしいことに気づいたシンが、笑って冗談にしてやる。そこまで冷酷無情なシンではない。
「……っていうか、シンさん恋人いるじゃないスか。オレにそんなこと言うなんて悪い人だよね。恋人が悲しむよ」
シンが笑ったことで琉架も我に返った。ここで誰かの名を呼んでもなんにもならないのに。ここで助けを呼びたいときは、緊急事態用の呼び出しブザーを押すしかないのに。咄嗟に出てきた名に、琉架自身がいちばん驚く。
「ボクの恋人はケーキじゃない、普通の人間だよ……あまくないんだ」
そのことを恥じているような言い方で、シンが教えた。
「フォークにはね、ルカみたいなあまいのが必要なんだ。もう理屈じゃないよ、本能だから」
シンがまた、さっきつけたばかりの琉架の傷跡に触れる。血を舐め尽くしたそこは、乾いた赤い線となって皮膚の上に痛々しく残っている。
「追加料金、2倍払うね……」
もう琉架の許可は得ず、シンは勝手に皮膚に鋭い爪を当てた。赤い線の上をなぞるように、また同じところを爪で乱暴に引っ掻いていく。
「……、痛っ……」
痛い。痛くしないでって言ったのに。……痛ぇよ。
「ボクはね、ルカが欲しいんだよ」
シンの本気なのか冗談なのか判別できない言葉を背後で聞いてから、深い傷になった首筋を強く吸われる。
「……っ」
呼びたい名があった。こういう怖くて、心細いとき。
呼べばきっと駆けつけて、背中にぴったりとくっついてきて、また左耳に口唇を寄せて、怖かったですね、頑張りましたね、偉かったですね、と褒めてくれるような気がした。
家に帰ればすぐ会えるのに。
早く会いたい、と琉架は思った。
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喫茶店でアルバイトをしている鷹木翠(たかぎ みどり)。ある日、喫茶店に初恋の人、白河朱鳥(しらかわ あすか)が女性を伴って入ってきた。しかも朱鳥は翠の事を覚えていない様で、幼い頃の約束をずっと覚えていた翠はショックを受ける。
そして恋心を忘れようと努力するが、昔と変わったのに変わっていない朱鳥に寧ろ、どんどん惚れてしまう。
一方朱鳥は、バッチリと翠の事を覚えていた。まさか取引先との昼食を食べに行った先で、再会すると思わず、緩む頬を引き締めて翠にかっこいい所を見せようと頑張ったが、翠は朱鳥の事を覚えていない様。それでも全く愛が冷めず、今度は本当に結婚するために翠を落としにかかる。
そんな二人の、もだもだ、じれったい、さっさとくっつけ!と、言いたくなるようなラブロマンス。
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家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!
灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。
何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。
仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。
思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。
みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。
※完結しました!ありがとうございました!
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