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“和食は沁みる”
2-5 でもこれ、俺のなんで
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「あーぁ、初めてしゃべったわ、こんなこと」
和唯をわざわざ引き剥がすのも面倒で、琉架は和唯のぬくもりを背に感じたまま話し続ける。箸もずっと持ったままだった。
「……つうか、飯ンときに変な話して悪い。せっかくおまえが頑張っていろいろ作ってくれたのにさ」
まるでパーティーだった華やかな食卓を自分のつまらない過去の話でどんよりさせてしまったように感じ、琉架が申し訳なさそうにする。
「俺が聞きたいって言ったんですよ、気にしないでください。それに……」
この料理であわよくばおいしいと言って屈託なく笑う琉架の顔が見たいと思っていたが、正直それ以上のものを引き出してしまったと和唯は思う。人の心に訴えかける味がまだ作り出せるのだと舞い上がり、もう手放さねばと思っていた夢をまた見てしまいそうになる。
「それに?」
「……琉架さんの泣き顔見れて得しちゃいました。これでおあいこですね」
「はぁ? それのどこが得なんだよ……」
夢を見てしまいそうになったことはまだ言えず、和唯はすり替えた別の感想を琉架に渡す。
「……にしても、なんで今和唯に言っちゃったんだろ……家族にだって未だに言えてねぇし、店長にも店のやつらにもこんなこと話したことなかったのにな」
あまいだけが取り柄のほぼ家出少年だった琉架を拾ってくれた親身な店長にも、廃ビルでの悪夢は話していなかった。店長は特に事情も聞かず、食べるのに困っていた琉架をただ店に置いてくれた。
「こういうのは身内とか近い人とかには逆に話しにくいですからね、俺くらいの距離の人がちょうどいいんですよ。……知り合って間もない、家事代行屋の同居人くらいが」
和唯がそう言って気楽なものにしてくれたので、琉架もそういうものかと納得しようとした。
もう時効だと思ったのか、それとも相手が和唯だったからなのか。琉架はわからない。
それでも順を追って整理しながら話せたことで、ずいぶんと長いこと抱えていたもやもやがなんとなく晴れたような気はしていて、やはり本当はずっと誰かに話したかったのかもしれないと琉架は気づく。話して、可哀想だったねと同情されたかった。それでも腐らずに足掻いているのを、認めてもらいたかった。いざ話すとなると言葉はいつも外に出るのを怖がったが、和唯の前ではちゃんと言語化できた。
「……オレ甘えてんだね、おまえに」
話せる人に出会えるのをずっと待っていたのかもしれない、と琉架は思う。
「……俺嫌いじゃないですよ、琉架さんに甘えられるの」
琉架からまた胸をぎゅっとされる言葉を頂戴してしまって、和唯はうれしくて琉架の背を抱く力をさらに強めた。
「ん……話聞いてくれて、ありがと。すっきりした」
珍しく素直な琉架に、この長い夜が、琉架を抱きしめたままずっと終わらなければいいのにと和唯は願う。
「どういたしまして。……でも琉架さん、この話、俺には結構ブーメランですよ?」
こんなにも琉架との生活に馴染み始めてはいるが、和唯は琉架に無理やりくちづけた雪の夜をもちろん忘れたわけではなかった。和唯の過ちは、琉架の人生をねじ曲げた既婚者フォークの男となんら変わりない。己の欲のままに琉架を辱めて、あまいのを勝手に奪った。
「こっち出てきてからはそういうのちょくちょくあったから、別にいい。おまえのことはホントにもう気にしてねぇから」
「ちょくちょく……って、それそんな雑に片付けていいことなんですか? ……いや、これもブーメランですけど。他に、たとえば何があったんですか?」
何を言っても自分に返ってくる気まずさを感じながらも、琉架がそんな頻繁に危険な目に遭っていると聞けば和唯は心穏やかではいられなかった。
「ニュースで騒がれてるようなやばいのはねぇけど……道で突然腕引っ張られて知らねぇ人に顔とか指とか舐められたのもあったし、路地裏連れてかれてキスされたのもあったし……フォークの男が率いる集団に拉致られて輪姦されそうになったりとかもあったっけ」
「ま、まわされ……」
聞き慣れない乱暴な単語に、和唯の顔から血の気が引いた。
「まぁそれは、そいつら全員殴って逃げてきたから未遂だったんだけど」
ボーイやってんのバレて狙われたんだよなぁと、琉架がなんてことないように言う。
「あと、ストーカーっぽいのにしつこく付け回されたこともあるわ。元々は店の客だったんだけど、頻繁には金落とせねぇからって店通さずにオレと接触しようとしてきてさ。そいつはマジで結構やばかった……いろんな人に助けてもらって無事に解決はしたけど」
想像以上の壮絶そうな過去が次々と出てきて、和唯がどんどん青ざめていく。自分のしでかしたこともこんなゲスどもの蛮行と同じなのだと思うと、もういっそ琉架にめちゃくちゃに責め立ててほしい気もしてくる。
「俺、本当に……さっきの既婚者変態フォークのこと、非難できない立場でした……」
居たたまれなくなり、和唯が弱々しく言う。
「ガキの頃と今じゃ全然話が違うだろ。あっちはガキ相手に変な薬品使ってきたんだぞ? 拘束だってしてきたし、計画的犯行だし、完全に悪」
琉架がきっぱりとそう言い切った。
「でも俺だってあのとき、体重かけて琉架さんが逃げないように床に押しつけて……」
「あのなぁ、オレだって男だからな? 本気出せばおまえくらい突き飛ばせるっつうの。それこそ殴ったってよかったんだし」
実際に暴漢たちを殴って逃げた実績もある。
「オレはあのとき、暴走してたおまえを吹っ飛ばすことだってできたんだ、ホントは」
無力のあまり変質者の口に吐精を許してしまった子供の頃とはもう違うと、琉架が思い出す。
「しなかったのは……余計なことして大事にしたくなかったのもあるけど……」
突然くちづけられたあの雪の日の感情を琉架はなんとか呼び戻そうとするが、それはもううまく思い出せない。
「……しなくてもいいって、思ったからだと思う」
琉架の言葉に、和唯は目を見張った。
「それ、どういう意味ですか……?」
吹っ飛ばされることも、殴られることもなかった理由を知りたくて。琉架の背を抱く和唯の腕が、少しだけ強張る。
「……どういう意味、だろうな……?」
和唯に訊かれた琉架はほんの少しだけ思考を巡らせてみるが、本当にわからなくてすぐに考えるのを放棄した。わからなくて、どういうことだろうなと左側を振り返り、自分の背にべったりと引っついたままの和唯を見る。
近いところで目が合って、何か物言いたげにせつなく自分を見る和唯の美しい瞳に、琉架は吸い込まれそうになった。危うく見惚れそうになっても、問われたことに対する答えはやはりうまく見つけられない。
「……ごめん、わかんねぇ、んだけど……」
本当にわからないという顔をしている琉架に、腕の緊張を解いた和唯はふっと口元を緩ませた。一体どんな答えを期待していたというのか。あまい琉架を貪るだけの低俗なフォークのくせに、自惚れるにもほどがある。
まだ不思議そうに自分の顔を見ている琉架の瞳のふちに、先程の涙の残りを和唯が見つけた。腫れて微かに赤く、まだ乾き切っていない琉架の目は、誰かを誘うように激しく潤んでいる。ふとまたあのあまく濃い香りが、暴力のように和唯の鼻に届く。
誘われていると錯覚し、衝動的に和唯は琉架の瞳に舌を這わせた。この衝動には覚えがある。抗えなくて理性を飛ばす、心とはまるで結びついていないただの搾取。身の程知らずのフォークには似合いの行為だと、和唯は自嘲気味に琉架の瞳のふちを舐める。
「ちょっ、なに……」
急に目のまわりを舐められ、驚いた琉架が反射で目を瞑った。それを琉架の許しだと勝手に解釈した和唯が、ふちに残る涙をすべて器用に舌で掬い取る。
「おい、……っ」
戸惑う琉架を置き去りにして、和唯の舌はいつものように、琉架に本気で叱られるまで止まらない。
「おいしいです。あまい……もっと……」
皮膚よりは少しあまく、唾液よりはあまさが控えめ。涙を啜るのは初めてだったが、この繊細な違いを和唯ははっきりと認識できた。すべての味がわからなくなってしまったが、わずかな味の差を敏感に感じとる非凡な能力だけはそのまま残ってくれていたようで、おかげで琉架のあまさをきっとどのフォークよりも深く堪能できている自信がある。琉架に乱暴を働く下衆とは、違う。
この無色透明な世界を刺激するのは、琉架だけなのに。琉架しかいないのに。
自分だけがみっともなく琉架にすがっていて惨めだったが、フォークの本能を言い訳にどんな欲も、どんな淡い感情も、ここに隠してしまえばいいと和唯が覚える。
フォークなのだから、ケーキを食べたいのは仕方がない。それ以外に理由はないという、振りをする。
「和唯、……ちょっ、と……」
「ルール破ってますね、ごめんなさい……」
対価をもらっているのに、琉架に事前の許可も取ってないし、ソファの上でもない。嫌がることはしない約束だったのに、不安そうに名を呼ばれてもやめてあげられない。
「……でもこれ、俺のなんで」
ごはんがおいしくてうれしいと流してくれた涙を、和唯は自分のものだと強く主張した。自分の作った料理たちが呼んだ涙を琉架本人にさえ渡したくはないと、皮膚ごと綺麗に少しも残さず舐め上げる。
「な、に、おまえ……暴走してんの?」
「そう、かもしれないです……」
瞳のまわりを這った和唯の舌は、頬に涙が伝った跡を見つけると、そのままその筋をなぞりながら下降していった。琉架の白いなめらかな頬に吸いついた舌は自我を持ったように勝手に動き、あまい涙が幾重にも通った道を容赦なく進む。口のあたりまで下がってくると、その中にもっとあまいものがあることを知っている和唯の舌は、迷わず琉架の口の中に入ろうとした。
「ま、まって、ちょ、ストップ! まだ飯食ってるって……」
箸を持ったままキスされそうになり、琉架が今度こそ和唯をしっかりと制する。
「せっかく作ってくれたの、ちゃんと全部食いたいから……」
ただでさえ自分の情けない話で場を沈ませてしまったのだから、せめてこのあとは明るい気持ちでたくさん食べてやりたいと琉架が思う。
「ごはん食べたあとならいいですか……?」
和唯にそっと訊かれ琉架は一応考える素振りをしたが、答えは最初から決まっていた。
「しょ、しょうがねぇなぁ、今日はめちゃくちゃうまい飯いっぱい作ってくれたから、いいよ。……好きにすれば?」
「好きに……? ホントに好きにしていいんですか?」
「って、だいたいおまえ、いつも勝手に好きにしてるじゃねぇか。今だって勝手に顔舐めてくるし……何を今さら」
「……うれしいです。好きに、します」
和唯は琉架の耳元でそれだけ告げると、ようやく琉架の背中から離れた。
「ごはん冷めちゃったの、あたため直しますね」
と、和唯は皿を二つ手に取るとキッチンへ向かう。
「あ、おまえもしっかり食ってからだからな! あと、ソファで!」
「……はいはい、わかってますよ」
冷めた食事をレンジであたためながら、目の前の料理ではなく、その先に待つ琉架の唾液を思って和唯は舌舐めずりをする。
好きにしていいという意味をちゃんとわかっているのか琉架に訊きたかったが、さっきの感じだとまた本当にわからないという顔をされそうだと和唯はあきらめた。琉架はおそらく本当に何も考えていない。単にそれがケーキの義務であるかのように、むやみにあまいのをばら撒く。
誰にでもそうする。そういう仕事もしている。わかっている。自惚れてはいけない。あまいのをくれるのは対価だから。
自惚れてはいけない、のに──。欲張りになる。
いろいろと思うところはあるがそれでも琉架を食べたい欲は抑えられるはずもなく、和唯はテーブルに戻ったら、味のしない見た目だけ派手な料理を一気にかき込もうと心に決めた。
和唯をわざわざ引き剥がすのも面倒で、琉架は和唯のぬくもりを背に感じたまま話し続ける。箸もずっと持ったままだった。
「……つうか、飯ンときに変な話して悪い。せっかくおまえが頑張っていろいろ作ってくれたのにさ」
まるでパーティーだった華やかな食卓を自分のつまらない過去の話でどんよりさせてしまったように感じ、琉架が申し訳なさそうにする。
「俺が聞きたいって言ったんですよ、気にしないでください。それに……」
この料理であわよくばおいしいと言って屈託なく笑う琉架の顔が見たいと思っていたが、正直それ以上のものを引き出してしまったと和唯は思う。人の心に訴えかける味がまだ作り出せるのだと舞い上がり、もう手放さねばと思っていた夢をまた見てしまいそうになる。
「それに?」
「……琉架さんの泣き顔見れて得しちゃいました。これでおあいこですね」
「はぁ? それのどこが得なんだよ……」
夢を見てしまいそうになったことはまだ言えず、和唯はすり替えた別の感想を琉架に渡す。
「……にしても、なんで今和唯に言っちゃったんだろ……家族にだって未だに言えてねぇし、店長にも店のやつらにもこんなこと話したことなかったのにな」
あまいだけが取り柄のほぼ家出少年だった琉架を拾ってくれた親身な店長にも、廃ビルでの悪夢は話していなかった。店長は特に事情も聞かず、食べるのに困っていた琉架をただ店に置いてくれた。
「こういうのは身内とか近い人とかには逆に話しにくいですからね、俺くらいの距離の人がちょうどいいんですよ。……知り合って間もない、家事代行屋の同居人くらいが」
和唯がそう言って気楽なものにしてくれたので、琉架もそういうものかと納得しようとした。
もう時効だと思ったのか、それとも相手が和唯だったからなのか。琉架はわからない。
それでも順を追って整理しながら話せたことで、ずいぶんと長いこと抱えていたもやもやがなんとなく晴れたような気はしていて、やはり本当はずっと誰かに話したかったのかもしれないと琉架は気づく。話して、可哀想だったねと同情されたかった。それでも腐らずに足掻いているのを、認めてもらいたかった。いざ話すとなると言葉はいつも外に出るのを怖がったが、和唯の前ではちゃんと言語化できた。
「……オレ甘えてんだね、おまえに」
話せる人に出会えるのをずっと待っていたのかもしれない、と琉架は思う。
「……俺嫌いじゃないですよ、琉架さんに甘えられるの」
琉架からまた胸をぎゅっとされる言葉を頂戴してしまって、和唯はうれしくて琉架の背を抱く力をさらに強めた。
「ん……話聞いてくれて、ありがと。すっきりした」
珍しく素直な琉架に、この長い夜が、琉架を抱きしめたままずっと終わらなければいいのにと和唯は願う。
「どういたしまして。……でも琉架さん、この話、俺には結構ブーメランですよ?」
こんなにも琉架との生活に馴染み始めてはいるが、和唯は琉架に無理やりくちづけた雪の夜をもちろん忘れたわけではなかった。和唯の過ちは、琉架の人生をねじ曲げた既婚者フォークの男となんら変わりない。己の欲のままに琉架を辱めて、あまいのを勝手に奪った。
「こっち出てきてからはそういうのちょくちょくあったから、別にいい。おまえのことはホントにもう気にしてねぇから」
「ちょくちょく……って、それそんな雑に片付けていいことなんですか? ……いや、これもブーメランですけど。他に、たとえば何があったんですか?」
何を言っても自分に返ってくる気まずさを感じながらも、琉架がそんな頻繁に危険な目に遭っていると聞けば和唯は心穏やかではいられなかった。
「ニュースで騒がれてるようなやばいのはねぇけど……道で突然腕引っ張られて知らねぇ人に顔とか指とか舐められたのもあったし、路地裏連れてかれてキスされたのもあったし……フォークの男が率いる集団に拉致られて輪姦されそうになったりとかもあったっけ」
「ま、まわされ……」
聞き慣れない乱暴な単語に、和唯の顔から血の気が引いた。
「まぁそれは、そいつら全員殴って逃げてきたから未遂だったんだけど」
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「あと、ストーカーっぽいのにしつこく付け回されたこともあるわ。元々は店の客だったんだけど、頻繁には金落とせねぇからって店通さずにオレと接触しようとしてきてさ。そいつはマジで結構やばかった……いろんな人に助けてもらって無事に解決はしたけど」
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「でも俺だってあのとき、体重かけて琉架さんが逃げないように床に押しつけて……」
「あのなぁ、オレだって男だからな? 本気出せばおまえくらい突き飛ばせるっつうの。それこそ殴ったってよかったんだし」
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「オレはあのとき、暴走してたおまえを吹っ飛ばすことだってできたんだ、ホントは」
無力のあまり変質者の口に吐精を許してしまった子供の頃とはもう違うと、琉架が思い出す。
「しなかったのは……余計なことして大事にしたくなかったのもあるけど……」
突然くちづけられたあの雪の日の感情を琉架はなんとか呼び戻そうとするが、それはもううまく思い出せない。
「……しなくてもいいって、思ったからだと思う」
琉架の言葉に、和唯は目を見張った。
「それ、どういう意味ですか……?」
吹っ飛ばされることも、殴られることもなかった理由を知りたくて。琉架の背を抱く和唯の腕が、少しだけ強張る。
「……どういう意味、だろうな……?」
和唯に訊かれた琉架はほんの少しだけ思考を巡らせてみるが、本当にわからなくてすぐに考えるのを放棄した。わからなくて、どういうことだろうなと左側を振り返り、自分の背にべったりと引っついたままの和唯を見る。
近いところで目が合って、何か物言いたげにせつなく自分を見る和唯の美しい瞳に、琉架は吸い込まれそうになった。危うく見惚れそうになっても、問われたことに対する答えはやはりうまく見つけられない。
「……ごめん、わかんねぇ、んだけど……」
本当にわからないという顔をしている琉架に、腕の緊張を解いた和唯はふっと口元を緩ませた。一体どんな答えを期待していたというのか。あまい琉架を貪るだけの低俗なフォークのくせに、自惚れるにもほどがある。
まだ不思議そうに自分の顔を見ている琉架の瞳のふちに、先程の涙の残りを和唯が見つけた。腫れて微かに赤く、まだ乾き切っていない琉架の目は、誰かを誘うように激しく潤んでいる。ふとまたあのあまく濃い香りが、暴力のように和唯の鼻に届く。
誘われていると錯覚し、衝動的に和唯は琉架の瞳に舌を這わせた。この衝動には覚えがある。抗えなくて理性を飛ばす、心とはまるで結びついていないただの搾取。身の程知らずのフォークには似合いの行為だと、和唯は自嘲気味に琉架の瞳のふちを舐める。
「ちょっ、なに……」
急に目のまわりを舐められ、驚いた琉架が反射で目を瞑った。それを琉架の許しだと勝手に解釈した和唯が、ふちに残る涙をすべて器用に舌で掬い取る。
「おい、……っ」
戸惑う琉架を置き去りにして、和唯の舌はいつものように、琉架に本気で叱られるまで止まらない。
「おいしいです。あまい……もっと……」
皮膚よりは少しあまく、唾液よりはあまさが控えめ。涙を啜るのは初めてだったが、この繊細な違いを和唯ははっきりと認識できた。すべての味がわからなくなってしまったが、わずかな味の差を敏感に感じとる非凡な能力だけはそのまま残ってくれていたようで、おかげで琉架のあまさをきっとどのフォークよりも深く堪能できている自信がある。琉架に乱暴を働く下衆とは、違う。
この無色透明な世界を刺激するのは、琉架だけなのに。琉架しかいないのに。
自分だけがみっともなく琉架にすがっていて惨めだったが、フォークの本能を言い訳にどんな欲も、どんな淡い感情も、ここに隠してしまえばいいと和唯が覚える。
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「ルール破ってますね、ごめんなさい……」
対価をもらっているのに、琉架に事前の許可も取ってないし、ソファの上でもない。嫌がることはしない約束だったのに、不安そうに名を呼ばれてもやめてあげられない。
「……でもこれ、俺のなんで」
ごはんがおいしくてうれしいと流してくれた涙を、和唯は自分のものだと強く主張した。自分の作った料理たちが呼んだ涙を琉架本人にさえ渡したくはないと、皮膚ごと綺麗に少しも残さず舐め上げる。
「な、に、おまえ……暴走してんの?」
「そう、かもしれないです……」
瞳のまわりを這った和唯の舌は、頬に涙が伝った跡を見つけると、そのままその筋をなぞりながら下降していった。琉架の白いなめらかな頬に吸いついた舌は自我を持ったように勝手に動き、あまい涙が幾重にも通った道を容赦なく進む。口のあたりまで下がってくると、その中にもっとあまいものがあることを知っている和唯の舌は、迷わず琉架の口の中に入ろうとした。
「ま、まって、ちょ、ストップ! まだ飯食ってるって……」
箸を持ったままキスされそうになり、琉架が今度こそ和唯をしっかりと制する。
「せっかく作ってくれたの、ちゃんと全部食いたいから……」
ただでさえ自分の情けない話で場を沈ませてしまったのだから、せめてこのあとは明るい気持ちでたくさん食べてやりたいと琉架が思う。
「ごはん食べたあとならいいですか……?」
和唯にそっと訊かれ琉架は一応考える素振りをしたが、答えは最初から決まっていた。
「しょ、しょうがねぇなぁ、今日はめちゃくちゃうまい飯いっぱい作ってくれたから、いいよ。……好きにすれば?」
「好きに……? ホントに好きにしていいんですか?」
「って、だいたいおまえ、いつも勝手に好きにしてるじゃねぇか。今だって勝手に顔舐めてくるし……何を今さら」
「……うれしいです。好きに、します」
和唯は琉架の耳元でそれだけ告げると、ようやく琉架の背中から離れた。
「ごはん冷めちゃったの、あたため直しますね」
と、和唯は皿を二つ手に取るとキッチンへ向かう。
「あ、おまえもしっかり食ってからだからな! あと、ソファで!」
「……はいはい、わかってますよ」
冷めた食事をレンジであたためながら、目の前の料理ではなく、その先に待つ琉架の唾液を思って和唯は舌舐めずりをする。
好きにしていいという意味をちゃんとわかっているのか琉架に訊きたかったが、さっきの感じだとまた本当にわからないという顔をされそうだと和唯はあきらめた。琉架はおそらく本当に何も考えていない。単にそれがケーキの義務であるかのように、むやみにあまいのをばら撒く。
誰にでもそうする。そういう仕事もしている。わかっている。自惚れてはいけない。あまいのをくれるのは対価だから。
自惚れてはいけない、のに──。欲張りになる。
いろいろと思うところはあるがそれでも琉架を食べたい欲は抑えられるはずもなく、和唯はテーブルに戻ったら、味のしない見た目だけ派手な料理を一気にかき込もうと心に決めた。
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