ビターシロップ

ゆりすみれ

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“和食は沁みる”

2-3 今日の夜は長いですから

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 あの雪の夜から少しずつ時間は進み、気づけば琉架と和唯の互いの利益のための同居は始まりからひと月ほど経っていた。

 最初必要なものを少しだけ取り出してリビングの隅に置いていた和唯のスーツケースとボストンバッグは、いつの間にか中身をすべてしかるべき場所に収納したあと、琉架のスーツケースが置かれている倉庫に一緒に並べられた。夜の冷え込みが続き和唯が寒いと言ったので、ソファで眠るために使う毛布はもう一枚追加で購入され、もこもこのあたたかそうなルームウェアも支給された。

 相変わらず琉架は多忙で夜中に帰ってきては昼まで眠る生活をくり返していたが、和唯の用意した食事はどんなに遅くに帰ってきても欠かさずとり、時間が合えばダイニングテーブルで向かい合って和唯の食事の様子をうかがった。

 すっかり琉架の家に慣れてきた和唯は晴れた日にはシーツやクッションカバーを洗濯したり、少し遠いスーパーにお買い得品を買いに出掛けたり、換気扇の掃除をしたりと一歩踏み込んだ家事も自然とこなすようになっていた。求人情報誌を今度こそちゃんと和唯はコンビニで買ってきたが、どれもピンと来ないのか少しパラパラと眺めただけであとはリビングのローテーブルの上に放置していた。琉架もそれを知ってはいたが、特に話題にすることもなかった。

 ソファに並んで座ると、琉架は働きに見合うだけのあまい対価を和唯に与えた。隙あらば和唯は左耳を舐めようとしたが、3回に2回はムッとした顔の琉架にこばまれた。それでも引き下がらずにしつこく左側に座り続ければ、3回に1回くらいはしょうがねぇなぁと呆れたように笑って、琉架はピアスを抜いてくれた。

 最上級ランクと称されている琉架の体液は、他のケーキを知らない和唯にさえ最高級品であろうことがわかるほど濃厚で胸やけしそうなほどのあまさだった。夜にだけ許されている唾液をもらうためにひとたび琉架の口内へ舌を挿し入れると、和唯は気が狂いそうなそのあまさに酔って毎度キスのやめどきを見失い、軽く息を乱した琉架にいつも叱られていた。琉架を舐めている間だけは、和唯はフォークの絶望を忘れられた。一秒でも長く和唯はそれを忘れていたかった。琉架との穏やかな生活の中でも、一度襲ってきた絶望はずっと和唯にまとわりついていて離れない。

 唾液でこのあまさか……と和唯は時々めまいを覚える。これよりもあまいものがあると琉架は言っていた。これより上を行く白濁の蜜のことを想像すればよだれが出るが、軽々しく欲しいとねだることは和唯にははばかられた。見合うだけの仕事をすれば、もしくは大金を払えば、琉架はもしかしたら何も考えずにくれるのかもしれない。客に与えるのと、なんら変わりなく。

 その想像は和唯を少し弱らせた。





「ただいまー」

 普段の帰宅時間よりもだいぶ早くに琉架が仕事から帰ってきた。【Vanillaヴァニラ】の稼ぎ頭である琉架も今夜はたまたま予約が入らなかったようで、休日以外で一般的な夕食の時間に琉架が家にいるのはとても珍しかった。

「え? めっちゃいい匂いすんだけど……」

 リビングに入るなり琉架は鼻をくんくんさせ、部屋中に充満したどこか懐かしい香りに驚く。急いでコートを脱ぎポールハンガーに掛けると、吸い寄せられるようにダイニングテーブルへ向かった。

「どうしたのこれ!? なんのお祝い!?」

 テーブルにところせましと並べられたおもてなしメニューに、琉架が高揚した大声を上げる。

「あ、おかえりなさい」

 まだキッチンで夕飯の支度をしていた和唯が、琉架の驚嘆の声に気づき、手を止めてキッチンから出てきた。

「すっげぇ豪華じゃん!? 何? おまえ今日誕生日なの?」

 自分の誕生日でないことは確かなので、琉架はうれしそうに和唯に訊く。

 和唯が用意してくれる食事はいつも丁寧で申し分ない出来だったが、いわゆる日常の家庭料理の範疇はんちゅうだった。別に琉架も本格的なものを期待して和唯をここに置いているわけではないので今までの食事で充分だったのだが、何故か今日の食卓は異様な贅沢さで帰宅した琉架を迎えている。

「今日琉架さん早く帰ってくるって聞いてたんで、はりきっちゃいました」

 驚かせようと思って、と和唯が笑って言う。

「こんな豪華なのに誰のお祝いでもねぇの? すげー」

 つられて琉架も笑う。テーブルに並べられた料理の量は、正直二人で食べきれるかわからないくらいだった。

「……今の自分にどこまでできるか、試したいのもあって」

 和唯がぽつりとそう付け足した。和唯が複雑な味付けのものを出すのを怖れていたのは琉架も知っていたので、和唯が少しだけ前を向けたのだと琉架はほっとする。

「でもさすがに作り過ぎましたね。食べきれない分は作り置きにします」

 一度スイッチが入ると加減ができなくなるところは働いていた頃と変わらないなと、和唯が苦笑した。気の済むまでとことん突き詰めてやってしまう。そうやってただ実直に料理と向き合ってきたのだ、唯一のプライドだった味覚を失うまでは。

「明日からもこの豪華なやつ続くの? 最高じゃん! ……ね、もう食っていい?」

 わくわくが止まらない琉架が、料理をのぞき込んで和唯に訊く。

「手洗ってきたらいいですよ」

「おぅ、そうだった」

 慌てて洗面所へ向かう琉架を見て、誰かが自分の料理を楽しみにしてくれている喜びを和唯は懐かしく思い出す。料理人から離れてまだたったふた月ほどなのにその感覚はもうずいぶんと遠くに行ってしまっていたようで、今久しぶりに取り戻した感じがした。

 琉架を喜ばせたい。琉架は笑ってくれるだろうか。

 そんなことを考えながら、和唯はまだテーブルに運び切れていない料理を取りにキッチンへ戻った。





 ローストビーフの和風カルパッチョ、牛肉のしぐれ煮、高野豆腐と海老の煮物、ふろふき大根の肉味噌のせ、かぶと長ねぎのすり流し、さんまの竜田揚げ、うなぎと湯葉の天ぷら、野菜あんの茶碗蒸し、鯛と生姜の土鍋炊き込みごはん。

 呪文のように説明されたが琉架にはあまり理解できず、ただ目の前に並ぶ料理がとてもうまそうという感想しかなかった。和食でまとめられたおもてなしの料理は、琉架の家にあるシンプルで飾り気のない食器でも最大限美しく見えるよう計算されて盛り付けられている。本当にこういうことを仕事にしていたのだと改めて教えられ、琉架は和唯の人を感動させることのできる手を少しだけうらやんだ。

「いただきます」

「どうぞ、召し上がれ」

 和唯がテーブルの向かいで見守るなか、琉架は箸を手に取り食事を始めた。黙々と、いろんな種類を試すように少しずつ食べていく。あまりじっと見つめていても悪いかと思い、和唯も自分のために用意した分に箸を付け始めた。何ひとつ味はわからないが、向かい合っているときはちゃんと食べないと琉架に叱られてしまう。

 しばらく経っても琉架は黙ったまま食べ続けていた。毎回細かく料理の感想を言う人ではないし、和唯も大袈裟に褒めてもらいたいわけではなかったが、さすがにもう少し明るい反応があるような期待はあったので和唯は急に不安になる。琉架のことだから、たとえ失敗していても笑って許してくれるような気がしていたのに。

 何かひどくまちがえてしまったのかと、和唯が料理から顔を上げておそるおそる向かいの琉架を見ると。

 琉架は、静かに泣いていた。

「! 琉架、さん……?」

「……っ、ごめんっ……」

 琉架自身もほとんど無意識だったようで、和唯に名を呼ばれてから自分でも驚いた。勝手に流れてきた涙を、箸を持ってない方の左手の甲で乱暴にごしごし擦る。

「琉架さんごめんなさい、嫌いなものでしたか? 俺知らなくて……」

「はぁ!? 嫌いなもん出されて泣く大人がいるかよ……」

 見当違いもはなはだしいと琉架が訂正する。

「じゃあ、まずかったで……」

「うまくて!」

 和唯の心許なげに揺れた声を察して、琉架が被せるように強く言った。

「違う、ごめん、……めちゃくちゃうまくて、びっくりして……」

 うつむいて、琉架が続ける。

「どれも全部やさしい味がして、すげぇびっくりした……こんなにうまいものを、ちゃんとうまいって思える自分が、うれしくて……」

 丁寧に作られた料理からやさしさがどくどくと流れ込んできて、舌が悦ぶ感覚をしっかりと思い出して琉架が驚く。

「あぁ……オレ、この街に出てきてからずっと、めちゃくちゃな食生活しかしてこなかったからかもしんねぇな……」

 いつからか琉架は味わうことの喜びをなくしていた。食べることは生きることで、何を口に入れようが腹が満たされるのならなんでもよかった。琉架は味覚をなくしたフォークではないというのに。

「……オレもまだこうやってうまいもんちゃんと味わえるんだって思ったら、驚いて、うれしくて、でも今までのいろいろ、急に思い出して、……っ、ごめん……」

 良くない思い出に当てられたのか、琉架の瞳からまた勝手に涙が落ちた。琉架が何かを伝えたがっているように思えて、和唯は目の前にいるお人好しで少し強がりな青年をやさしく促す。

「つらい思い出ですか? それ、俺に話すことで楽になりませんか?」

「……聞いても、おもしろい話じゃねぇよ……」

 止まらない身勝手な涙に戸惑いながら、和唯にそう言われて本当はずっと誰かに聞いてほしかったのかもしれないと琉架が気づく。誰にも話したことがない陰湿な記憶。ずっと自分の胸の中だけに仕舞ってきた、けがらわしいこと。それなのに今和唯に甘えて、涙と一緒に全部それを吐き出してしまいたくなる。

「どんな話だって琉架さんの生きてきた一部です。……俺だってあのとき、琉架さんに話聞いてもらって気が楽になりましたよ。今度は琉架さんの番じゃないですか?」

 涙のわけを受け止めたいと和唯が願った。あの雪の夜に、見知らぬ男の絶望にじっと耳を傾けてくれたこの人のように。

「……和食はずりぃよなぁ」

 深く沁みていく味で凝り固まっていた心を動かしてしまうなんてずるいと、琉架は泣きながら複雑な顔で苦笑した。和唯の料理にはそういう力がある。

「ゆっくりでいいです、話すの。今日の夜は長いですから」

 琉架が早く帰ってくるのを、和唯はいつも望んでいた。帰ってきてくれさえすれば、そのあと和唯は誰のものでもない琉架を独占できた。不特定多数のフォークにもてあそばれてきたとしても琉架は毎晩ここへ帰ってきて、和唯の作ったごはんを食べて、対価を渡して、眠る。ただそれだけのことが、いつまでも絶望から解放されない和唯を支えて生かしている。

「ホントにどうしようもねぇ話だよ……オレの昔の、クソつまんねぇ話……。多分、オチもねぇし……」

「それでも聞きたいです。……俺に聞かせてください」

 琉架を独占している今、聞く時間はたっぷりとある。重たく残っているものを吐き出させて琉架が楽になれるなら、そうすべきだと和唯は思った。

 あなたが早く帰ってきてくれたから、今日は夜がとても長い──。
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