ビターシロップ

ゆりすみれ

文字の大きさ
上 下
4 / 33
“拾った男は【フォーク】だった”

1-3 怖かったよな

しおりを挟む
「え……?」

 頬に降ってきたしずくに驚いて琉架が見上げると、和唯は琉架の顔を見ながら静かに泣いていた。隠すこともせず、ぬぐう余裕もなく、勝手にあふれてきてしまう涙をぽたぽたと琉架の頬に落とす。理性を飛ばして琉架をすすっていたさっきまでの和唯は、もうどこにもいなかった。

「もう二度と、味はしないと思ってました……」

 ひどく心細そうに和唯が告げる。

「味、しました……あまいあまい味が、しました。……よかった」

 この先もう二度と知ることができないと思っていた味に触れ、和唯は安堵のあまり泣いていた。

「和唯……」

 初めてケーキのあまさを知った客が暴走して琉架をめちゃくちゃにすることはよくあったが、泣かれたのはこれが初めてだった。琉架はただ驚いて、自分の上に乗り上げたまま、ぼろぼろ泣いている和唯をじっと見つめることしかできない。

「俺、ついこの間……ほんのひと月前にフォークを発症しまして……」

 泣いてかすれてしまう声で、言葉を探しながら和唯がゆっくりと話し始めた。

「食べ物の味が、突然何もしなくなって……それでも最初は無理やり、ごはん食べてたんですけど……」

 伝えるのにも勇気がいるだろうにと、琉架は懸命に伝えようとしてくれる和唯の言葉にじっと耳を傾ける。

「だんだん、ごはんがうまく食べられなくなって……何も感じない舌が、食べるのをあきらめてしまって……」

 なんで食わねぇのかと理由も訊かず責めてしまったことを、琉架が悔やむ。

「栄養、うまくとれなくなりました……どんどん痩せてしまって、ふらふらで、道で倒れてしまって……正直、もうこのまま雪に埋もれて人生終わってもいいやって、思ってたのに……」

 和唯の涙はまだ止まらない。

「あなたが……琉架さんが、見つけてくれました……」

 誰もあの道を通らなかったら、通りがかったのが自分ではなかったらと思うと、琉架はその仮定にぞっとした。自分のお人好しを今だけは存分に褒めてやる。

「あの、ごめんなさい、わかってて、ついてきました……」

「え……」

「道で琉架さんに、顔近づけられたとき、気づいたんですけど……」

 初めて嗅ぐ香りだったが、和唯はそれをまちがえようがなかった。フォークにしか感じられないという、殴って誘ってくるような、強いあまい香り。

「自制はできるって聞いていたので、不安でしたけど、お言葉に甘えて、ついてきてしまいました……でも琉架さんを前にしたら、止められませんでした……理性なくして、ごめん、なさい……」

 親切で部屋に上げてくれた琉架になんてひどいことをしてしまったのかと、和唯がその罪を素直に謝る。

「……俺、やっと料理人として、軌道に乗ってきて……自分の舌だけを信じて、これまでたくさん頑張ってきたのに、なんでこんなことに……って、すごく、落ち込んで……」

 フォークは性別も年齢も関係なく、ケーキ以外の誰もが発症する可能性を持っている。若いときに発症すればそこから死ぬまで味覚をなくしたまま、取り戻すことは一生ない。

「落ち込むってレベルじゃねぇだろ……」

 和唯が失ったものの大きさに打ちひしがれて、琉架が思わず口をはさむ。コックが味覚を失うということがどれだけ致命傷なのかは、あまり学がない琉架にもさすがにわかった。

「絶望、しました。今も、ずっと、しています……」

 思い出せばまたみじめになるのか、和唯はまた大きく鼻をすすった。

「でも、味がしたんです、今」

 死ぬまで無色透明の中に閉じ込められると思っていた世界での、唯一の刺激。

「あまいって、はっきりわかったんです」

 フォークという未知の人間に突如分類されて、自分が自分でなくなっていくような感覚に和唯は怖れしか感じられなかった。それなのに。

「まだ味がするものがあるってわかって、それだけでもう充分です」

 下にいる琉架を見つめて、和唯はそう言って泣きながら少しだけ微笑んだ。

 見つめられて、琉架の指先が自然と和唯の瞳に伸びた。親指で和唯の涙をぬぐってやる。

「……怖かったか?」

 琉架は和唯に組み敷かれたままそう訊いた。小さく何度も、和唯がうなずく。

「怖かったよな、こんなの」

 味覚をなくすという絶望を、ケーキの琉架は今までちゃんと想像したことがなかった。ケーキである琉架がフォークを発症することはなく、想像は意味のないことだった。

 それでも想像をすれば、琉架が今まで相手をしてきたフォークは皆この絶望の中であまさを求めて、時には気まぐれにケーキを愛したり、時にはうかつにケーキを傷つけたりしてきたのかもしれないと気づかされ、琉架は参る。

 自分だけがいつも被害者のような顔をしていた。本当はすべてがそうではなかったのかもしれないのに。

「味がして、よかったな」

「……はい」

 こんな自分にも救えるものがあったのだと驚いて、琉架はケーキとして生まれてきたことを初めて、ほんの少しだけ誇らしく思ってしまった。

「オレ、あまかった?」

 琉架が戯れに訊く。もう数え切れないほど言われてきたその感想を、何故か琉架は和唯からはっきりと聞きたいと思った。

「……はい、琉架さんは、とってもあまかったです」

 和唯がようやく穏やかに、そう琉架に教える。

「……あー、もうっ、おまえもう泣くなって。オレびっちゃびちゃなんだけど」

 和唯の大量の涙を頬で受け止めたり、口唇がれ上がるほどキスをされたりと、琉架の顔面はこの短時間で相当ひどいことになっていた。

「あ……はい、ごめんなさい……えっと、もう、いろいろごめんなさい……」

 徐々に落ち着きを取り戻してきた和唯が、一体何から謝ればいいのかと狼狽うろたえる。

「オレも事情知らずにひどいこと言って悪かった。舌肥えてる、とかさ。……和唯、とりあえずオレの上から退いて? んで、今度こそおまえの話ちゃんと聞かせて?」

 自分とは対極にいるような異種の男への単純な興味ではなく、琉架は和唯のことをもっと知りたくなっていた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

Take On Me

マン太
BL
 親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。  初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。  岳とも次第に打ち解ける様になり…。    軽いノリのお話しを目指しています。  ※BLに分類していますが軽めです。  ※他サイトへも掲載しています。

家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!

灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。 何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。 仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。 思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。 みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。 ※完結しました!ありがとうございました!

どうして、こうなった?

yoyo
BL
新社会として入社した会社の上司に嫌がらせをされて、久しぶりに会った友達の家で、おねしょしてしまう話です。

塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)

ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。 そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。

日本一のイケメン俳優に惚れられてしまったんですが

五右衛門
BL
 月井晴彦は過去のトラウマから自信を失い、人と距離を置きながら高校生活を送っていた。ある日、帰り道で少女が複数の男子からナンパされている場面に遭遇する。普段は関わりを避ける晴彦だが、僅かばかりの勇気を出して、手が震えながらも必死に少女を助けた。  しかし、その少女は実は美男子俳優の白銀玲央だった。彼は日本一有名な高校生俳優で、高い演技力と美しすぎる美貌も相まって多くの賞を受賞している天才である。玲央は何かお礼がしたいと言うも、晴彦は動揺してしまい逃げるように立ち去る。しかし数日後、体育館に集まった全校生徒の前で現れたのは、あの時の青年だった──

モテる兄貴を持つと……(三人称改訂版)

夏目碧央
BL
 兄、海斗(かいと)と同じ高校に入学した城崎岳斗(きのさきやまと)は、兄がモテるがゆえに様々な苦難に遭う。だが、カッコよくて優しい兄を実は自慢に思っている。兄は弟が大好きで、少々過保護気味。  ある日、岳斗は両親の血液型と自分の血液型がおかしい事に気づく。海斗は「覚えてないのか?」と驚いた様子。岳斗は何を忘れているのか?一体どんな秘密が?

処理中です...