サクラ・エンゲージ

ゆりすみれ

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「……にらんで悪かった」

 桜助は百瀬の背中に向けてそう言った。

 百瀬の教育実習も残りあと二日となった放課後、桜助は百瀬を屋上に呼び出していた。すべての真実を知る必要はないと思っているので都合の悪いことには耳をふさごうと決めていたが、百瀬と二人きりになるのは本当は少し怖かった。

「……理由は言えない。けど、一方的過ぎたと思う。悪かった」

 フェンスに指を引っ掛けてグラウンドの方を眺めている百瀬は、ぽつりと告げられたその謝罪を背中で聞く。

 桜助は例のだんまりルールにのっとって何を言われても肯定するつもりはなかったが、授業中と紘夢のアパートの階段で不躾ぶしつけにらんでしまったことだけは謝らなければいけないとずっと思っていた。この盲目的な八つ当たりをそもそも百瀬は気にもしていないかもしれないが、このまま学校を去られてもなんだか後味が悪い。

 それに一度くらいはまともに会話をしておかないと前に進めないとも桜助は思った。考えてみたら百瀬のことは何も知らない。裏サイトに書かれていた虚像のような百瀬しか知らない。同じ過ちをくり返さないためにも、もう紘夢にあんな哀しい顔をさせないためにも、まずは目の前の背中を乗り越えておかなければと桜助は奮い立つ。たとえ百瀬が紘夢の昔の男だったとしても、紘夢と改めて想いを確かめ合った今なら、1ミリくらいは受け入れられるような気がした。

「理由は言えない……ね。まぁワケありならしょうがねぇよな。……じゃ、ここからは俺のひとりごとだ」

 こんな風に屋上に呼び出されたことにも、桜助に謝罪されたことにも、百瀬は特に驚いてはいなかった。むしろこうして会話するのを予期していたかのように淡々と、そして流暢りゅうちょうだった。まるで桜助に伝えるためにあらかじめ準備していたような、こぼれ落ちていくたくさんの言葉。

 桜助に背を向けたまま、フェンスの向こう側に広がる街を見つめて百瀬は勝手に話し始める。

「……好きだったんだ、徳ちゃんのこと」

 実習中の今はきちんと徳田先生と呼ぶ百瀬が、学生時代に呼んでいたであろう愛称で二年D組の担任を呼んだ。

 一瞬面食らうが、桜助は口をはさまずに百瀬の次の言葉を待つ。

「高二のときの担任だったあの人を、真面目に好きだった。俺はそれなりに必死で、振り向かせるためにいろいろやったつもりだったけど、あの人はまったく相手にしてくれなかった。いつも軽くあしらわれて、誤魔化されてた。告白もして、多分気持ちはちゃんと伝わってたとは思うけど、まぁ……今思えばそうやって冗談みたいにするしかなかったんだろうな。応えられない想いには深く触れないようにして、俺をむやみに傷つけないように配慮してくれたんだと思う。なんせ、教師と生徒だったし」

 紘夢のその配慮には桜助も覚えがあって、最初どんなに好きだと伝えても、担任教師はいつだって涼しい顔で駄目と無理をくり返した。手応えのなさに幾度も落胆した日々を桜助が思い出す。

「無理やり気持ち押し付けても、あの人は最後までやさしかった。俺を拒絶することもなく、でも近づき過ぎない距離を保って、俺がなるべく顔を上げていられるようにしてくれた。気持ちを受け取らないっていうマイナスの行為だって、すげぇパワー使うのにな」

 夕暮れの少し湿った風に乗って聞こえてくる百瀬の声は、授業中に聞く無愛想のかたまりのような低音とは違い、愛を知った柔らかさがあった。かつてのいとしい人を思い返しながらつぶやく百瀬のひとりごとは、何故か桜助の胸にすんなりと落ちていく。

「誰にでも分け隔てなくやさしくて、たくさんの生徒たちから頼りにされて、頼りにされた分生徒たちに愛情を注ぎ返して……教師として文句なく優秀な人だと思う。世界中のどこを探してもあの人には特別なんていないんじゃないかってくらい、残酷に平等だった」

 平等の意味を知って絶望した若き日を思い出し、百瀬は目を伏せる。目を閉じると、グラウンドからは微かに部活動のざわめきが聞こえてきた。

「だから、生徒は相手にしないんだって思ってたんだ、言い訳みたいに。俺があの人を振り向かせられないのは生徒だからだって、出会った場所が悪かったんだって言い聞かせて、無理やり自分を納得させた」

 懐かしい部活動のざわめきに、百瀬は急速に時を巻き戻されたような感覚を抱く。制服に身を包み、焦がれた人の背中ばかりを追いかけて、夢中で恋をしていたあのとき。

「……けど、違ったみたいだな。生徒を相手にしなかったんじゃなくて、俺が相手にされなかっただけだ。すごく……必死だったけどな」

 百瀬の声が少しくたびれたもののように聞こえて、桜助はたたずみながらひっそりと驚く。

 百瀬から必死という言葉が出てくるなんて思わなかった。授業実習でのあの堂々とした態度から、百瀬はいつも冷静になんでもそつなくこなす人だと勝手に思い込んでいた。なんにでも余裕があって、自分の思い通りに淡々と、無理なく器用に生きているような印象があった。そんな百瀬が必死になって紘夢を振り向かせようとしていたなど想像もできない。思い返して少しくたびれてしまうほどとは、一体どれだけ必死だったのか。

 百瀬は不意にポケットからたばこと携帯灰皿を取り出し、くわえた一本に火を入れた。一度大きく煙を吐き出したあと、初めて桜助を振り返る。

「あ? 屋上って禁煙か? ……まぁいいか、すげぇいい話してやってんだから今は一本くらい許せ。告げ口するなよ」

 細々と香ってくる紫煙の匂いは確かに紘夢の嗜好品しこうひんと同じで、桜助は抱いてもいない紘夢のからだからたばこの匂いがしたと思って恋人を疑ってしまったあの夜を思い出した。紘夢の言っていたことは事実で、本当に百瀬が吸っていただけだったのだろう。移り香で疑って、紘夢の言葉も信じないで、あの日は一体紘夢の何を見ていたのかと桜助はまた自分に呆れ果てる。

「……おまえも必死だったんだろ? 俺のこと威嚇いかくするくらいに」

「……っ」

 桜助が口唇を噛んで何か言いたそうな眼をしたので、百瀬はやれやれとまた煙を吐いてから桜助を見た。

「怒んなって。敵視する対象として俺を見てたってことだろ? あの人を振り向かせられなかった俺には、身に余る光栄だ」

 百瀬は少し弱ったまま続ける。

「……おまえはもう充分手に入れてんだから、自信持てばいいと思う。俺のことはいくらでも威嚇いかくすりゃいいけど、あの人は困らせてやるな……何があっても」

 充分手に入れていると百瀬に言われても、桜助はルール通り肯定も否定もしない。

 どうして知ったのかも、どこまで知っているのかも、聞けない。険しい表情で口唇を固く引き結び、それでも桜助は初めて誰かにはっきりと認められたことにひどく安堵していた。

「おまえが揺らぐと、あの人が弱るんだよ。しっかりしろよ、守ってやるんだろ。……俺はもうおまえに託すしかねぇんだからさ」

 報われなかった思いを、せめて託させてほしいと。百瀬はかつて焦がれた人が好む煙をゆっくりと味わい続ける。

「まぁ、好きだったのはもう四年くらい前の話だ。今はもう他に好きなやつもいるし、未練も何もない。指導教員だったのも本当に偶然で、この教育実習で卒業ぶりに世話になるまでは一度も会ってなかった。つまりおまえににらまれるような覚えはひとつもないんだが」

「だから悪かったって言ってんだろ……」 

 百瀬にやんわりと痛いところを突かれ、桜助はぼそりと初めて口をはさんだ。

「みんなの徳ちゃんを独占してる罪は重い。……本当に男女問わず人気があったんだ。本気だったやつも俺以外にもきっといたと思う。ここに戻ってきても、やっぱりあの頃と変わらずにみんなに愛されてるような人だから」

 まるで変わらない紘夢のただひとつの変化に、実習で再会した百瀬は少しだけ傷つき、それでも恩師が大切な人の手を取ることができていてうれしいと思えた。

「……おまえのこと知ったら影で泣くやついっぱいいんだろうな。だからこれくらいの嫌味はいいだろ」

 そう言われてしまったら桜助は口をつぐむしかない。桜助の幸いがここにあるということは、誰かの哀しみがどこかにあるということで、哀しみを知る張本人に改めて言われるとその当たり前が胸に突き刺さって痛い。

 だからこそもう二度と揺らいではいけない。信じるものをまちがえてはいけない。誰かの哀しみに、恥じない自分でいられるように。

「……じゃあ俺もひとりごと言わせてもらう。徳ちゃんはあんたの授業の出来をずっと心配してたけど、俺はあんたの授業結構いいと思ってた。実習生の中じゃいちばんわかりやすかったし、勉強を教えるってとこだけで見たら文句なく向いてんじゃね? 教師。気になるサイトさえなければ、スマホなんかいじらずに真面目に授業受けてたと思う」

「携帯しか見てなかったやつがよく言う」

 そう言った百瀬が小さく笑ったのを、桜助は見逃さなかった。無愛想の仏頂面が専売特許のような百瀬が顔を緩めたところは初めて見たような気がする。なつっこいこういう顔もできるのかと感心すると同時に、そういうのをもっと早く知りたかったと桜助は少しだけ後悔した。はなから敵だと決めつけて百瀬の本質を知ろうとしなかった自分のことは棚に上げて、突然最強の味方が現れたように心強く感じ始める。

「気になるサイト……ね。あれのせいで俺はにらまれたんだったな」

「え?」

「あれは俺が在校中からずっとある。多分俺が入学する前からあったと思う。水面下で伝統的に続いてる狂った遊びだ」

 まさか百瀬の口から『Bloody Swan』ブラッディースワンの話題が出てくるとは思わず、桜助がまた驚く。

「知ってたのか」

「知ってたっていうか……昔運営に絡んでたことも、あるにはある」

「は?」

「三年のとき生徒会にいたんだ。そのときの生徒会長がクラスでつるんでたやつで、人数足りなかったから無理やり引きずり込まれた。それで書記をやらされた」

「生徒会だった、って……なんであんなの野放しにしてたんだよ。普通に考えておかしいだろ。人を平気で攻撃するサイトだぞ? それを学校の代表みたいな生徒会が運営してるって、どうかしてるとしか思えねぇんだけど」

 紘夢に対する誹謗中傷を思い出したのか、桜助の言葉に思わず熱が乗る。

「俺が在籍してたときはもっとバカげてて、全部笑って済ませられるような可愛らしい内容ばっかだったからな。俺たちの代が卒業してからだんだん悪質化していったんだと思う。で多分、現生徒会長が今みたいなえぐいサイトの形を確立した。今の生徒会長は一年の頃からずっと生徒会にいたやつだし、三年の今に至るまでにいろいろ手を回したんだろうな。とんだ曲者だよ」

「生徒会長って確かあいつ……だよな」

 桜助は集会などで時々壇上に上がる男を思い浮かべた。話したことはないが、柔和な面立ちをした人当たりのよさそうな人物だったと記憶している。

「あれが曲者……?」

 外見の印象だけではその単語とまったく結びつかなくて、桜助がいぶかしんだ。

「面識あるのか?」

「いや、知らない人。先輩と交流ねぇし」

 何故紘夢と百瀬をあれほど執拗しつように攻撃したのか意図はわからないが、残りの学生生活のことを思うとその男には接触しない方が賢明だと桜助は判断した。曲者と言われるその切れる頭でまんまと真実を突き止められ、あの悪質サイトの餌食えじきにでもされてしまったら、それこそ自分も紘夢もここにいられなくなってしまう。

 紘夢の夢も、二人で望んだ未来も、今はもう何も手放す気はない。

「俺もずっと危険視はしてた。あれは明らかにやり過ぎだ、遊びの域じゃない。……まぁこの件については俺に任せとけ、悪いようにはしない」

 百瀬が自信ありげに桜助に言った。

「任せとけって……どうするつもりだよ」

「いいから。こっちもこのままデマ流されたままだと都合悪いんでね。おまえに言われなくても勝手にどうにかしようとは思ってた」

 百瀬はそこまで言うと、話はここまでとでもいうように短くなったたばこを手元の携帯灰皿に入れポケットに戻した。

「高橋の用はもういいか? 俺はそろそろ職員室に戻りたいんだが」

「え……あぁ」

「ここで吸ってたこと、絶対誰にも言うなよ。実習が水の泡になる……」

「くどいな、言わねぇよ」

 颯爽さっそうと去っていく百瀬の後ろ姿を眺めて、やはり引き止めて何を企んでいるか問いただそうかとも思ったが、うまく言葉を見つけられずにあっさりとあきらめた。

 桜助は百瀬の背中を見つめるのもやめて、夕空を大きく仰ぐ。所詮は互いにひとりごとだったはずだし、そんなに馴れ合う必要もないかと苦笑する。

 それでも残り二日は真面目に百瀬の授業を受けてやろうかなと、桜助は薄く流れる朱色の雲を見上げてなんとなくそう思った。
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