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⑭
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したあとだからたばこが吸いたいと言い出した紘夢のために、駅までの帰路の途中で小さな公園に立ち寄った。ブランコとジャングルジムと小さな灰皿しかない人々に忘れられたような公園で、紘夢は灰皿の横のベンチに腰かけ、本当はいつも鞄の奥にそっと忍ばせているたばこを取り出し、手で風よけを作ってから火を入れた。他に人はいない。
桜助は紘夢の隣に座り、ゆっくりと煙を味わう紘夢の横顔をじっと眺めていた。
濃紺の背景に、乏しい光に照らされた横顔が青白い陰影を伴って美しく浮かび上がる。たばこをしなやかに操る指にうかつにも見惚れ、その美しい指の形に酔う。どこか妖艶で、どこか儚げで、つかむ手を緩めたらふわりふわりとどこかへ飛んでいってしまいそうな危うい存在。それなのに、ずっと強くて、迷うことを知らなくて。
普段は10歳くらい若く見られる童顔で、見た目だけなら誰もが自分の方を年上だと認めるはずなのに、こういうときだけ信じられないほど成熟した色っぽさで惑わせてくる。敵わない、と桜助は思った。
無邪気に通り過ぎるぬるい夜風が、紫煙をいたずらに運んで桜助の鼻先まで届ける。柔らかい煙に鼻をくすぐられると、その嗅ぎ慣れたはずの幸いの匂いに、桜助は思わず泣きそうになってしまった。
──ちゃんと、俺のものだ。俺の、紘夢だ……。
本当はその事実だけで充分だったのだ。誰にも言えなくても、周りになんと噂されようとも、紘夢が今ここにいる事実、それだけで充分に贅沢だったのに。
紘夢と共に時間を重ねていくうちに、いつの間にかどんどん欲張りになって、幸いの本質を見失いそうになっていた。もうまちがえたくないと、桜助は強く願う。
紘夢は何かを思案するように空を仰いで煙を摂取していた。すると唐突に、
「……ごめんな」
と、桜助に告げた。
「なんの、ごめん?」
紘夢が突然口にした謝罪が何に対してのものかわからず、桜助は困惑する。
「おまえはずいぶん大人びてるから忘れがちだったけど……まだ17だったんだよなぁって思って」
当たり前の事実に今気づかされたとでもいうように紘夢は冷静に驚いて、果てのない夜空を再び仰ぎ見た。
「やっぱガキだ……って思った?」
「そうじゃなくて。……おれは桜助のしっかりしてるとこにずっと甘えてたんじゃないかなって思ったんだよ。いつも足りなかったよな、言葉も、態度も」
「……そう、か?」
「大人になって、いろんなことを口に出すのが照れくさくて、おまえみたいな歳のわりにしっかりしてるやつなら言わなくても勝手にわかってくれるだろうって……つい手を抜いてた。言葉にしたり態度で示したりしなきゃ、大切なことは何も伝わらないのにな。……っていうかそんなの、大人とか子供とか関係なく、誰にも伝わらないっつうの」
「……まぁ言われてみれば、紘夢から聞きたい言葉はたくさんあった気がする。俺がガキで頼りねぇから、言ってもらえねぇんだって思ってた」
「だったらそれは逆だったってこと。とにかくおれがいつも曖昧にやり過ごすから、桜助をこんなにも不安にさせたんだよな。……桜助はいつだって、精一杯に誠実に、おれを好きだって示してくれてたのにさ。……だから、それに対しての、ごめん」
紘夢の手元からゆらゆらと立ち上る煙が、天に吸い込まれていく。
「おまえは少し、ひとりで背負い過ぎだよ。もっと早くに……桜助の我慢が限界になる前におれのこと怒ってくれてよかったんだ。怒鳴ったり、責めたり、それでも鈍感なおれが気づかないようなら引っ叩いてでもわからせてくれたらよかった。……おまえにあんな思いさせるくらいなら、本当にそうしてくれた方がよかった」
「できるかよ、そんなの。……それこそガキだって証明してるみてぇで、カッコ悪ぃだろ」
「……おれが17くらいのときはさ、考えてることがわからないだの、言葉にして言ってくれなきゃ伝わらないだの……偉そうに文句ばっか言ってさ、ふくれたり責めたりして困らせてばっかだったよ。そういうもんだろ、若いって」
「……紘夢の昔の話なんて聞きたくねぇよ」
かつて17歳だった紘夢が誰をどんな風に困らせていたのかなど到底知る勇気のない桜助が拗ねるようにうつむくと、紘夢は独占欲の強い恋人に苦笑して、もうその先は言わなかった。
「なぁ桜助……言ってもいいぞー?」
紘夢が、少しおどけた調子で告げる。
「恋人だって、みんなに言っていいよ」
はっとした桜助が顔を上げて紘夢を見ると、紘夢はやさしさとあきらめを同居させたような穏やかな表情を浮かべて桜助を見つめ返していた。
「おれはもう二度と、桜助に苦しんでほしくない」
たくさんの我慢と、たくさんの嘘を、いちばん大切な人に強いている。そこにもはや意味はあるのか、紘夢にはもうあまり自信がなかった。
「な!? いきなり何言ってんだよ。……確かに言いたいとは言ったけど、ホントにそんなことしたら……」
「おれ、教師辞めよっか。そしたら明日からでも一緒に暮らせるし」
少しだけわくわくしたように紘夢が言う。想像した消極的な未来は、そんなに悪くないような気がして。
「ふざけんな! おまえ教師が天職だって言ってたじゃねぇか! ……頼って信じてくれるやつらの面倒を最後まで見るのが義務だって、できることはなんでもしてやりてぇって、俺にそう言ったこと、あれが紘夢の本音なんだろ? 途中で投げ出すなんてできやしないくせに、適当なこと言うんじゃねぇよ!」
「……」
「おまえは何があっても教師でいろよ。……ずっと教師でいたいって、ずっと先生でいさせてほしいって、あのとき俺に話してくれたよな? なのに、こんなことであっさりあきらめるなんてバカだろ。……辞めるなんて、冗談でも二度と言うな」
こんなにも怒られるとは思っていなくて、紘夢は目を丸くして桜助を見た。少し呆然としてしまって、じりじりと肥大したたばこの灰がぽとりと地面に落ちる。
「……あっさり辞めることを選べるくらい、おまえが大事……ってことなんだけどな」
ゆるやかな風が、二人の間を音もなくすり抜けた。公園の前の道を、一台の車が控えめに通り過ぎる。
「紘夢を辞めさせるくらいなら、俺が学校やめるし。教師と生徒じゃなくなったらいいんだろ? なら俺がやめればいい」
「んなことさせられるか。未来ある生徒を途中で放り出すなんてできやしないんだろ、おれは。いちばん手の掛かる生徒がいなくなったら、それこそおれが教師で在り続ける意味がなくなるよ。昔言ったことあるかもしんないけど、問題児専門なんだよ、おれ」
生徒と感覚の近い紘夢の周りには確かにいつも手の掛かりそうな生徒が群がっていて、紘夢に悩みを相談したり背中を押してもらったりしていた。多分自分もその類の生徒で、たとえ紘夢と恋仲になっていなかったとしても、徳ちゃんという存在に救われていただろうと桜助は想像する。
紘夢はたくさんの生徒に必要とされている不可欠な人だから。その幸せな責任を、簡単に放棄などしてほしくない。
「桜助わかってる? おれにとってのいちばんの問題児はおまえだよ。こんなにもおまえに振り回されてる。……こんなにもおれを夢中にさせる」
「そんなの! 俺だって!」
「いや、おれの方がひどいよ。おれが喜んだり悲しんだりするの全部、おまえ次第の気がしてる」
「ちげぇよ、俺の方が必死なんだ。俺の方がどうしようもなく、いつも紘夢に執着してる。おまえに捨てられないように、いつも、必死だから……」
「ううん、おれだって」
「ぜってぇ俺の方が」
互いを想うあまりどちらも譲らなくなると、なんて無益な言い争いなんだとくだらなくなった二人は、顔を見合わせて小さく吹き出した。
「何やってんのおれたち……恥ずかし……」
教師を辞めると騒いだ紘夢をしっかりと叱った桜助も、すっかり毒気を抜かれたように軽く笑む。
「紘夢……この前の約束覚えてる?」
未来への希望に満ちあふれたあのくすぐったい約束はまだ有効なのだろうかと、桜助は紘夢に訊いた。
「卒業するまで誰にもバレなかったら一緒になるってやつだろ? もちろん覚えてるよ。っていうか、おれが言った。忘れてないし、そうするつもりだけど」
「……俺が卒業するまであと一年九ヶ月ある。まだ先は長ぇな」
「長くないよ。これからまだまだいろんなことたくさんあって、そんなのあっという間だよ。歳取ると時間経つのめちゃくちゃ早くなるからなぁ……一年とか一瞬。秒だよね」
「そういうとこだけ大人マウント取んのかよ。……俺にとってはすげぇ長いよ」
桜助は夜空を見上げて月の在り処を探した。無事に月を見つけると、紘夢には面と向かって言えない分の苦しみを月にぶつける。
「……俺には、長い」
長い、と何度も言った桜助が月から目を逸らして淋しそうにまつげを伏せた。
まだまだこのもどかしい気持ちと付き合い続けなければならないのかと思うと苦しいが、未来のための意味のある我慢だと言い聞かせて乗り越えるしかない。
これからもずっと一緒にいられる約束を、紘夢がくれたから。学校という狭い箱に二人で入ったまま、悠久のような時間が一秒でも早く流れますようにと祈り続ける道を、桜助は自分の意志で選ぶ。
どちらかが学校を去ることも、二人で逃げ出すことも、多分完璧な幸いではない。
「長い、か……。そうだな、ごめん、長いな」
弱々しく伏せられたまつげに気づき、多感な17の頃の一年がどれほど長いかを思い出して、そのあまりにも残酷な約束に紘夢はえぐられるような痛みを覚えた。それでも紘夢は桜助の苦しみに共感してやることしかできなくて、確実な未来を手にするためにはこうやってひっそりと愛し合っていくしかなくて、どうすることもできない無力な自分に落胆する。
紘夢は最後の一口を吸ったたばこを灰皿に落とすと、隣で伏し目がちになっている桜助の肩をそっと抱き寄せた。
普段だったらそういう役目は自分のものだと言い張って紘夢を抱き寄せ返す桜助だったが、どこかくたびれて途方に暮れていたためか、そのまま紘夢の腕に導かれるままに寄り添う。紘夢の胸にぱたんと頭を預けると、たばこの匂いが濃く香った。
「桜助知ってる? 物事ってのは肯定さえしなけりゃ、案外真実にはならないもんなんだよ」
紘夢の匂いに酔いしれながら、桜助はじっと耳を傾ける。自分が守ってやることばかりに躍起になっていたが、こんな風にからだを預けて甘えることもできるのだと、本当に自分ばかりが空回っていたのだと思い知らされる。手を差し伸べて引っ張ってやるのではなく、手を取り合って並んで歩くこと。初めから、何も難しいことではなかったのだ。
「だからおれたちは誰に何を言われようと、卒業までだんまりを決め込む、ただそれだけなんだよ」
そのただそれだけが桜助にとってどれだけ苦しいことなのかもうよくわかったけれど、紘夢にはそう言ってやることしかできなかった。来たるべき時が来るのをじっと待つしかない。
「……そんなの、とっくにやってるよ」
郁弥に鎌をかけられても、百瀬に問い詰められても、桜助はそうやって切り抜けてきた。
「でもまぁ、そういうやり方があって、そのやり方を紘夢が正当化してくれるっていうんなら、なんか……救われる気ぃするかな」
隠して、嘘をついて、すり抜けて。それでも勝手に気づくやつには気づかせておけばいい。そういうやつは大抵、見て見ぬ振りをしてくれる賢しいやつだと何故か相場が決まっている。
「そっか、なら大丈夫かな。たったそれだけのことだからさ……がんばれる、な?」
「……ったく、こういうときだけ教師ぶって。普段は先生扱いすると怒るくせに」
桜助はせめて拗ねてみせるが、それも紘夢のあたたかさに包み込まれていく。こういう紘夢と一緒にいると、もうどうにでもなれという前向きな自棄にもなってくる。
ふわり、ふわふわ、風に乗ってくるくると舞うあの桃色の花弁に似ている。ゆるやかに舞い落ちる、桜の花びらみたいな人。
桜なんて嫌いだと思っていたのに、紘夢に出逢って、紘夢に名を呼ばれるようになって、本当は初めから嫌いなんかじゃなかったのだと気づいた。美しくて、羨ましくて、憧れて、手が届かない未熟な自分を守るためについていた嘘。桜助、桜助と名を重ねられるたびに、止め処なくこの名前を好きになった。
「桜助さっき資料室で、こんなに好きなのは俺だけ……なんて言ってたけどさ」
照れくさくて、つい手を抜いてしまっていたことを今伝えたいと、紘夢は桜助の髪に指を埋めながら言った。
「おれ男だし、おまえの担任だし、11歳も年上だし」
罪のように思っていることを淡々と連ね、それでも溢れて止まらない想いがあることを恋人にちゃんと伝える。
「……なのに、びっくりするくらい、桜助に惚れてんだよ?」
なんだか思いがけない殺し文句を言われたかと思ったら、桜助は紘夢の手に頬を連れ去られ、そのままキスをされた。軽くついばむだけの、やさしいくちづけ。
「!? なっ、ここ、外……」
外でくちづけたのはおそらく初めてで、桜助は不覚にも顔が熱を帯びていく感覚を味わった。夜でよかったと心底思う。前戯のときのような深いくちづけではないことが逆に恥ずかしく、まるで初めてキスをしたような高揚感に舞い上がる。
「人に見られるって……」
「見せてんだよ、桜助がおれのだって」
恋人が自分と同じようなことを考えていて、桜助は笑った。
もういくつもの夜明けを共にして、からだのあんなところやこんなところも、互いの気持ちいいところの隅々までも知っているというのに、こんなままごとのキスひとつで世界中の幸せを独占したみたいに幸福になれる。
紘夢とだからこうなれる。
「……そっか。じゃ、俺も遠慮なく」
今度は桜助が紘夢の口唇をやさしく塞ぐ。
こうなったら、月を抱いた夜空と、錆びたブランコと、ペンキの剥げたジャングルジムと、灰皿と。
ここにあるものすべてに幸いの証人になってもらおうと桜助は思う。
誰にも言えないのなら、せめて。
桜助は紘夢の隣に座り、ゆっくりと煙を味わう紘夢の横顔をじっと眺めていた。
濃紺の背景に、乏しい光に照らされた横顔が青白い陰影を伴って美しく浮かび上がる。たばこをしなやかに操る指にうかつにも見惚れ、その美しい指の形に酔う。どこか妖艶で、どこか儚げで、つかむ手を緩めたらふわりふわりとどこかへ飛んでいってしまいそうな危うい存在。それなのに、ずっと強くて、迷うことを知らなくて。
普段は10歳くらい若く見られる童顔で、見た目だけなら誰もが自分の方を年上だと認めるはずなのに、こういうときだけ信じられないほど成熟した色っぽさで惑わせてくる。敵わない、と桜助は思った。
無邪気に通り過ぎるぬるい夜風が、紫煙をいたずらに運んで桜助の鼻先まで届ける。柔らかい煙に鼻をくすぐられると、その嗅ぎ慣れたはずの幸いの匂いに、桜助は思わず泣きそうになってしまった。
──ちゃんと、俺のものだ。俺の、紘夢だ……。
本当はその事実だけで充分だったのだ。誰にも言えなくても、周りになんと噂されようとも、紘夢が今ここにいる事実、それだけで充分に贅沢だったのに。
紘夢と共に時間を重ねていくうちに、いつの間にかどんどん欲張りになって、幸いの本質を見失いそうになっていた。もうまちがえたくないと、桜助は強く願う。
紘夢は何かを思案するように空を仰いで煙を摂取していた。すると唐突に、
「……ごめんな」
と、桜助に告げた。
「なんの、ごめん?」
紘夢が突然口にした謝罪が何に対してのものかわからず、桜助は困惑する。
「おまえはずいぶん大人びてるから忘れがちだったけど……まだ17だったんだよなぁって思って」
当たり前の事実に今気づかされたとでもいうように紘夢は冷静に驚いて、果てのない夜空を再び仰ぎ見た。
「やっぱガキだ……って思った?」
「そうじゃなくて。……おれは桜助のしっかりしてるとこにずっと甘えてたんじゃないかなって思ったんだよ。いつも足りなかったよな、言葉も、態度も」
「……そう、か?」
「大人になって、いろんなことを口に出すのが照れくさくて、おまえみたいな歳のわりにしっかりしてるやつなら言わなくても勝手にわかってくれるだろうって……つい手を抜いてた。言葉にしたり態度で示したりしなきゃ、大切なことは何も伝わらないのにな。……っていうかそんなの、大人とか子供とか関係なく、誰にも伝わらないっつうの」
「……まぁ言われてみれば、紘夢から聞きたい言葉はたくさんあった気がする。俺がガキで頼りねぇから、言ってもらえねぇんだって思ってた」
「だったらそれは逆だったってこと。とにかくおれがいつも曖昧にやり過ごすから、桜助をこんなにも不安にさせたんだよな。……桜助はいつだって、精一杯に誠実に、おれを好きだって示してくれてたのにさ。……だから、それに対しての、ごめん」
紘夢の手元からゆらゆらと立ち上る煙が、天に吸い込まれていく。
「おまえは少し、ひとりで背負い過ぎだよ。もっと早くに……桜助の我慢が限界になる前におれのこと怒ってくれてよかったんだ。怒鳴ったり、責めたり、それでも鈍感なおれが気づかないようなら引っ叩いてでもわからせてくれたらよかった。……おまえにあんな思いさせるくらいなら、本当にそうしてくれた方がよかった」
「できるかよ、そんなの。……それこそガキだって証明してるみてぇで、カッコ悪ぃだろ」
「……おれが17くらいのときはさ、考えてることがわからないだの、言葉にして言ってくれなきゃ伝わらないだの……偉そうに文句ばっか言ってさ、ふくれたり責めたりして困らせてばっかだったよ。そういうもんだろ、若いって」
「……紘夢の昔の話なんて聞きたくねぇよ」
かつて17歳だった紘夢が誰をどんな風に困らせていたのかなど到底知る勇気のない桜助が拗ねるようにうつむくと、紘夢は独占欲の強い恋人に苦笑して、もうその先は言わなかった。
「なぁ桜助……言ってもいいぞー?」
紘夢が、少しおどけた調子で告げる。
「恋人だって、みんなに言っていいよ」
はっとした桜助が顔を上げて紘夢を見ると、紘夢はやさしさとあきらめを同居させたような穏やかな表情を浮かべて桜助を見つめ返していた。
「おれはもう二度と、桜助に苦しんでほしくない」
たくさんの我慢と、たくさんの嘘を、いちばん大切な人に強いている。そこにもはや意味はあるのか、紘夢にはもうあまり自信がなかった。
「な!? いきなり何言ってんだよ。……確かに言いたいとは言ったけど、ホントにそんなことしたら……」
「おれ、教師辞めよっか。そしたら明日からでも一緒に暮らせるし」
少しだけわくわくしたように紘夢が言う。想像した消極的な未来は、そんなに悪くないような気がして。
「ふざけんな! おまえ教師が天職だって言ってたじゃねぇか! ……頼って信じてくれるやつらの面倒を最後まで見るのが義務だって、できることはなんでもしてやりてぇって、俺にそう言ったこと、あれが紘夢の本音なんだろ? 途中で投げ出すなんてできやしないくせに、適当なこと言うんじゃねぇよ!」
「……」
「おまえは何があっても教師でいろよ。……ずっと教師でいたいって、ずっと先生でいさせてほしいって、あのとき俺に話してくれたよな? なのに、こんなことであっさりあきらめるなんてバカだろ。……辞めるなんて、冗談でも二度と言うな」
こんなにも怒られるとは思っていなくて、紘夢は目を丸くして桜助を見た。少し呆然としてしまって、じりじりと肥大したたばこの灰がぽとりと地面に落ちる。
「……あっさり辞めることを選べるくらい、おまえが大事……ってことなんだけどな」
ゆるやかな風が、二人の間を音もなくすり抜けた。公園の前の道を、一台の車が控えめに通り過ぎる。
「紘夢を辞めさせるくらいなら、俺が学校やめるし。教師と生徒じゃなくなったらいいんだろ? なら俺がやめればいい」
「んなことさせられるか。未来ある生徒を途中で放り出すなんてできやしないんだろ、おれは。いちばん手の掛かる生徒がいなくなったら、それこそおれが教師で在り続ける意味がなくなるよ。昔言ったことあるかもしんないけど、問題児専門なんだよ、おれ」
生徒と感覚の近い紘夢の周りには確かにいつも手の掛かりそうな生徒が群がっていて、紘夢に悩みを相談したり背中を押してもらったりしていた。多分自分もその類の生徒で、たとえ紘夢と恋仲になっていなかったとしても、徳ちゃんという存在に救われていただろうと桜助は想像する。
紘夢はたくさんの生徒に必要とされている不可欠な人だから。その幸せな責任を、簡単に放棄などしてほしくない。
「桜助わかってる? おれにとってのいちばんの問題児はおまえだよ。こんなにもおまえに振り回されてる。……こんなにもおれを夢中にさせる」
「そんなの! 俺だって!」
「いや、おれの方がひどいよ。おれが喜んだり悲しんだりするの全部、おまえ次第の気がしてる」
「ちげぇよ、俺の方が必死なんだ。俺の方がどうしようもなく、いつも紘夢に執着してる。おまえに捨てられないように、いつも、必死だから……」
「ううん、おれだって」
「ぜってぇ俺の方が」
互いを想うあまりどちらも譲らなくなると、なんて無益な言い争いなんだとくだらなくなった二人は、顔を見合わせて小さく吹き出した。
「何やってんのおれたち……恥ずかし……」
教師を辞めると騒いだ紘夢をしっかりと叱った桜助も、すっかり毒気を抜かれたように軽く笑む。
「紘夢……この前の約束覚えてる?」
未来への希望に満ちあふれたあのくすぐったい約束はまだ有効なのだろうかと、桜助は紘夢に訊いた。
「卒業するまで誰にもバレなかったら一緒になるってやつだろ? もちろん覚えてるよ。っていうか、おれが言った。忘れてないし、そうするつもりだけど」
「……俺が卒業するまであと一年九ヶ月ある。まだ先は長ぇな」
「長くないよ。これからまだまだいろんなことたくさんあって、そんなのあっという間だよ。歳取ると時間経つのめちゃくちゃ早くなるからなぁ……一年とか一瞬。秒だよね」
「そういうとこだけ大人マウント取んのかよ。……俺にとってはすげぇ長いよ」
桜助は夜空を見上げて月の在り処を探した。無事に月を見つけると、紘夢には面と向かって言えない分の苦しみを月にぶつける。
「……俺には、長い」
長い、と何度も言った桜助が月から目を逸らして淋しそうにまつげを伏せた。
まだまだこのもどかしい気持ちと付き合い続けなければならないのかと思うと苦しいが、未来のための意味のある我慢だと言い聞かせて乗り越えるしかない。
これからもずっと一緒にいられる約束を、紘夢がくれたから。学校という狭い箱に二人で入ったまま、悠久のような時間が一秒でも早く流れますようにと祈り続ける道を、桜助は自分の意志で選ぶ。
どちらかが学校を去ることも、二人で逃げ出すことも、多分完璧な幸いではない。
「長い、か……。そうだな、ごめん、長いな」
弱々しく伏せられたまつげに気づき、多感な17の頃の一年がどれほど長いかを思い出して、そのあまりにも残酷な約束に紘夢はえぐられるような痛みを覚えた。それでも紘夢は桜助の苦しみに共感してやることしかできなくて、確実な未来を手にするためにはこうやってひっそりと愛し合っていくしかなくて、どうすることもできない無力な自分に落胆する。
紘夢は最後の一口を吸ったたばこを灰皿に落とすと、隣で伏し目がちになっている桜助の肩をそっと抱き寄せた。
普段だったらそういう役目は自分のものだと言い張って紘夢を抱き寄せ返す桜助だったが、どこかくたびれて途方に暮れていたためか、そのまま紘夢の腕に導かれるままに寄り添う。紘夢の胸にぱたんと頭を預けると、たばこの匂いが濃く香った。
「桜助知ってる? 物事ってのは肯定さえしなけりゃ、案外真実にはならないもんなんだよ」
紘夢の匂いに酔いしれながら、桜助はじっと耳を傾ける。自分が守ってやることばかりに躍起になっていたが、こんな風にからだを預けて甘えることもできるのだと、本当に自分ばかりが空回っていたのだと思い知らされる。手を差し伸べて引っ張ってやるのではなく、手を取り合って並んで歩くこと。初めから、何も難しいことではなかったのだ。
「だからおれたちは誰に何を言われようと、卒業までだんまりを決め込む、ただそれだけなんだよ」
そのただそれだけが桜助にとってどれだけ苦しいことなのかもうよくわかったけれど、紘夢にはそう言ってやることしかできなかった。来たるべき時が来るのをじっと待つしかない。
「……そんなの、とっくにやってるよ」
郁弥に鎌をかけられても、百瀬に問い詰められても、桜助はそうやって切り抜けてきた。
「でもまぁ、そういうやり方があって、そのやり方を紘夢が正当化してくれるっていうんなら、なんか……救われる気ぃするかな」
隠して、嘘をついて、すり抜けて。それでも勝手に気づくやつには気づかせておけばいい。そういうやつは大抵、見て見ぬ振りをしてくれる賢しいやつだと何故か相場が決まっている。
「そっか、なら大丈夫かな。たったそれだけのことだからさ……がんばれる、な?」
「……ったく、こういうときだけ教師ぶって。普段は先生扱いすると怒るくせに」
桜助はせめて拗ねてみせるが、それも紘夢のあたたかさに包み込まれていく。こういう紘夢と一緒にいると、もうどうにでもなれという前向きな自棄にもなってくる。
ふわり、ふわふわ、風に乗ってくるくると舞うあの桃色の花弁に似ている。ゆるやかに舞い落ちる、桜の花びらみたいな人。
桜なんて嫌いだと思っていたのに、紘夢に出逢って、紘夢に名を呼ばれるようになって、本当は初めから嫌いなんかじゃなかったのだと気づいた。美しくて、羨ましくて、憧れて、手が届かない未熟な自分を守るためについていた嘘。桜助、桜助と名を重ねられるたびに、止め処なくこの名前を好きになった。
「桜助さっき資料室で、こんなに好きなのは俺だけ……なんて言ってたけどさ」
照れくさくて、つい手を抜いてしまっていたことを今伝えたいと、紘夢は桜助の髪に指を埋めながら言った。
「おれ男だし、おまえの担任だし、11歳も年上だし」
罪のように思っていることを淡々と連ね、それでも溢れて止まらない想いがあることを恋人にちゃんと伝える。
「……なのに、びっくりするくらい、桜助に惚れてんだよ?」
なんだか思いがけない殺し文句を言われたかと思ったら、桜助は紘夢の手に頬を連れ去られ、そのままキスをされた。軽くついばむだけの、やさしいくちづけ。
「!? なっ、ここ、外……」
外でくちづけたのはおそらく初めてで、桜助は不覚にも顔が熱を帯びていく感覚を味わった。夜でよかったと心底思う。前戯のときのような深いくちづけではないことが逆に恥ずかしく、まるで初めてキスをしたような高揚感に舞い上がる。
「人に見られるって……」
「見せてんだよ、桜助がおれのだって」
恋人が自分と同じようなことを考えていて、桜助は笑った。
もういくつもの夜明けを共にして、からだのあんなところやこんなところも、互いの気持ちいいところの隅々までも知っているというのに、こんなままごとのキスひとつで世界中の幸せを独占したみたいに幸福になれる。
紘夢とだからこうなれる。
「……そっか。じゃ、俺も遠慮なく」
今度は桜助が紘夢の口唇をやさしく塞ぐ。
こうなったら、月を抱いた夜空と、錆びたブランコと、ペンキの剥げたジャングルジムと、灰皿と。
ここにあるものすべてに幸いの証人になってもらおうと桜助は思う。
誰にも言えないのなら、せめて。
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王道学園に入学して1ヶ月でトップに君臨した冷徹生徒会長、有栖川 誠(ありすがわ まこと)。常に冷静で無表情、そして無言の誠を生徒達からは尊敬の眼差しで見られていた。
そんな彼のもう1つの姿は… どの企業にも属さないにも関わらず、VTuber界で人気を博した個人VTuber〈〈 アイリス 〉〉!? 本性は寂しがり屋の泣き虫。色々あって周りから誤解されまくってしまった結果アイリスとして素を出していた。そんなある日、生徒会の仕事を1人で黙々とやっている内に疲れてしまい__________
※
・非王道気味
・固定カプ予定は未定
・悲しい過去🐜のたまにシリアス
・話の流れが遅い
・本格的に嫌われ始めるのは2章から
αが離してくれない
雪兎
BL
運命の番じゃないのに、αの彼は僕を離さない――。
Ωとして生まれた僕は、発情期を抑える薬を使いながら、普通の生活を目指していた。
でもある日、隣の席の無口なαが、僕の香りに気づいてしまって……。
これは、番じゃないふたりの、近すぎる距離で始まる、運命から少しはずれた恋の話。
俺、転生したら社畜メンタルのまま超絶イケメンになってた件~転生したのに、恋愛難易度はなぜかハードモード
中岡 始
BL
ブラック企業の激務で過労死した40歳の社畜・藤堂悠真。
目を覚ますと、高校2年生の自分に転生していた。
しかも、鏡に映ったのは芸能人レベルの超絶イケメン。
転入初日から女子たちに囲まれ、学園中の話題の的に。
だが、社畜思考が抜けず**「これはマーケティング施策か?」**と疑うばかり。
そして、モテすぎて業務過多状態に陥る。
弁当争奪戦、放課後のデート攻勢…悠真の平穏は完全に崩壊。
そんな中、唯一冷静な男・藤崎颯斗の存在に救われる。
颯斗はやたらと落ち着いていて、悠真をさりげなくフォローする。
「お前といると、楽だ」
次第に悠真の中で、彼の存在が大きくなっていき――。
「お前、俺から逃げるな」
颯斗の言葉に、悠真の心は大きく揺れ動く。
転生×学園ラブコメ×じわじわ迫る恋。
これは、悠真が「本当に選ぶべきもの」を見つける物語。
続編『元社畜の俺、大学生になってまたモテすぎてるけど、今度は恋人がいるので無理です』
かつてブラック企業で心を擦り減らし、過労死した元社畜の男・藤堂悠真は、
転生した高校時代を経て、無事に大学生になった――
恋人である藤崎颯斗と共に。
だが、大学という“自由すぎる”世界は、ふたりの関係を少しずつ揺らがせていく。
「付き合ってるけど、誰にも言っていない」
その選択が、予想以上のすれ違いを生んでいった。
モテ地獄の再来、空気を読み続ける日々、
そして自分で自分を苦しめていた“頑張る癖”。
甘えたくても甘えられない――
そんな悠真の隣で、颯斗はずっと静かに手を差し伸べ続ける。
過去に縛られていた悠真が、未来を見つめ直すまでの
じれ甘・再構築・すれ違いと回復のキャンパス・ラブストーリー。
今度こそ、言葉にする。
「好きだよ」って、ちゃんと。

飼われる側って案外良いらしい。
なつ
BL
20XX年。人間と人外は共存することとなった。そう、僕は朝のニュースで見て知った。
向こうが地球の平和と引き換えに、僕達の中から選んで1匹につき1人、人間を飼うとかいう巫山戯た法を提案したようだけれど。
「まあ何も変わらない、はず…」
ちょっと視界に映る生き物の種類が増えるだけ。そう思ってた。
ほんとに。ほんとうに。
紫ヶ崎 那津(しがさき なつ)(22)
ブラック企業で働く最下層の男。悪くない顔立ちをしているが、不摂生で見る影もない。
変化を嫌い、現状維持を好む。
タルア=ミース(347)
職業不詳の人外、Swis(スウィズ)。お金持ち。
最初は可愛いペットとしか見ていなかったものの…?
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