サクラ・エンゲージ

ゆりすみれ

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 桜助が重いまぶたをゆっくりと持ち上げると、外はだいぶ陽が落ちていた。

 つながって、力尽きて、いつの間にか二人して社会科資料室の床に座って、短い時間だったが眠ってしまっていた。床には桜助がぐちゃぐちゃに踏み散らかした教材やプリントがそのまま散乱していて、はたから見たら乱闘があったあとにしか見えないだろうと桜助は思う。

 紘夢は桜助の隣でまだ寝息を立てていた。いい加減に服を身に着けて、桜助の肩に頭を預けて、やすらいだ寝顔を惜しげもなく桜助に見せている。のぞき込むと、紘夢の下唇にあった血の跡が小さなかさぶたになっていて、桜助は募るやるせなさを抑え込むようにぐっと拳を握りしめた。

 言いたい。誰かひとりでもいいから、紘夢が自分のものであることを知っていてほしい。幸せをひけらかしたい。

 自分たちが想い合っていることを公に保証してくれる人がどこかにいたとしたら、こういうささいなすれ違いにおびえることもなかったのだろうかと考え、桜助は顔を上げて窓の外を見た。誰かにわかってほしいなどという虫のいい願望は単なる甘えに過ぎないと、いばらの道を覚悟して選んだ桜助には本当はわかっている。

 資料室にひとつだけある小さな窓からは、四角く切り取られた夕空が見えた。今はまだ、夜に近づくこの空しか証人がいないから。

 まだ紘夢を噛んでしまったことを気に病んでいた桜助は、肩にもたれている恋人のあごをすくい、下唇のかさぶたを舐めるようにしてくちづけた。押しつけられた口唇の柔らかい気配に気づき、紘夢がゆっくりと目を覚ます。

「ん……おぅすけ? 寝込み、襲うの、禁止っていつも言ってる、だろ……」

 寝ぼけている紘夢は週末のベッドの上とまちがえているのか、桜助にすり寄って甘え出した。

「おれ寝起き弱いってぇ……いつも言ってるだろ……抵抗できないからだめ……」

 だめと言いながら両腕を背中に回して自分に抱きついてくる様子があまりにもいとおしくて、桜助は思わず顔をほころばせてしまう。

 無邪気で、童顔で、頼れるお兄さん先生で。

 教師という仕事が大好きで、いつも生徒に全力投球で、みんなに愛される存在で。

 ゆるくて、ふわふわしていて、少し柔らかくて。

 それなのに自分よりずいぶん大人の、ずるい人。そんな人が恋人なんだと、今は窓から見える夕空にだけそっと見せびらかした。

 こんな起き抜けの紘夢を見ていたら、さっきのやるせなさも勝手にやわらいでしまう。

 ──まったく、この人は。

「はいはい、わかってるから。寝起き悪ぃのも知ってるし、怒られるからいつもなんもしてねぇだろ」

「うそつき……今キスした……」

「悪かったごめんごめん。……ねぇ、もう遅いから戻ろ」

 桜助は紘夢の肩を大きくゆすって完全な覚醒を促す。

「えー、あぁ……学校? おれ、職員室か……これから、職員室行くのか……」

 徐々にはっきりと目を覚まし今の状況を思い出した紘夢が、どんな顔で職員室へ戻ればいいのかとうなだれる。

「早く戻んねぇと。言っとくけど、おまえ今仕事中だからな」

「冷静になるといろいろやばいな……仕事中にセック……おれまじで最低すぎる先生じゃない!??」

「……徳ちゃんはいい先生だよ。ほら、早く」

「もー、今は徳ちゃんって言わないの。……ちゃんと、呼んでよ」

 紘夢にそうねだられて、初めて名前呼びを許された日のことを淡く思い出した桜助は、くすぐったい幸せな気持ちに包まれる。

 紘夢と呼んだその日から、担任は桜助だけの特別になった。

「紘夢、行こう」

 まだあまい気だるさに支配されているからだをのろのろと立ち上がらせ、紘夢の腕を引っ張り上げてしゃんと立たせ、二人は社会科資料室をあとにした。





 最終下校時刻に迫っていたので校内に生徒はあまり残っていないようだったが、資料室を一歩出たらすぐにバラバラに行動した。校内ではなるべく一緒にいないようにする、いつもの癖のまま。

 帰り道で落ち合う約束をしたので、桜助は校門を出てしばらく歩いたところにある細い裏道で紘夢を待った。ここは校内では堂々と一緒にいられない二人がどうしても会いたくなったときにこっそり待ち合わせる裏道で、桜助は会いたい気持ちが我慢できなくなると、よくここで紘夢の帰りを待っていた。

 もうすっかり陽は落ちている。暗い空の下でいつものようにぼんやりと恋人を待っていると、しばらくして紘夢が走ってやって来た。

「おぅ、ごめん……資料室の片付けしてたら遅くなった。さすがにあのままは……ね」

「いや、俺がぐちゃぐちゃに散らかしたんだし、むしろ俺がやるべきだったな……悪ぃ」

 紘夢は何事もなかったようにきちんと服を身に着けていた。桜助はそのまま乾いてしまった制服をさりげなく撫でて、紘夢の吐精の跡がまちがいなくそこにあることを確認して安堵する。夢じゃない、と思う。

「紘夢、もう帰れんの? 仕事終わった?」

「……終わってないけど、今日はもういいよ。おれは腰も背中も口唇もいろいろ痛いよ」

「ごめ……」

「ばか、いいんだよ。おれが抱けって言ったの。……それよりさ、ちょっと話そう、桜助」

 紘夢は柔らかく微笑みかけると、桜助に向けてそっと手を差し出した。

「ほら、手」

 迷いなく差し出された手に、桜助の方が戸惑ってしまう。

「手……って、いいのか? まだ学校近いけど」

「もう暗いし、裏道だし、大丈夫だろ。……つながない?」

 紘夢は社会科資料室で裏サイトを見てから、どこか少し投げやりになっているようにも見えた。さっきの学校での情交は言うまでもないが、こんな学校の近くで手をつなごうとするなんて、少なくとも今までの慎重な紘夢からは考えられなかった。

 それでも桜助は首を小さく横に振って、差し出された紘夢の手を取った。細々と指を絡ませ、肩を並べてゆっくりと帰路を歩き出す。

 四角い枠にはめ込まれた小さな空だけでは飽き足らず、今度は宇宙の果てにまで堂々と見せつけてやるかと、そっと空を仰いだ桜助も少し投げやりな気分になってくる。

 制服もスーツも着たままの言い訳できない姿で、夜の道を手をつないで歩く。万が一学校の誰かに見られたらどう説明するのかも、まったく考えていない。それなのにつないだ手を高い夜空に見せつけることができて、桜助はただうれしかった。

 誰にも言えないのなら、せめて。
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