サクラ・エンゲージ

ゆりすみれ

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 電話を終えた紘夢はそのままスマホを手に慌てて玄関を飛び出した。スニーカーのかかとを踏んだまま乱暴に外階段を駆け下り辺りを見渡すが、もう桜助の姿も、乗ってきたであろう自転車もなかった。

 ──いるわけないか……。

 あれからしばらく経っている。静まりかえった夜のとばりの中では、夏を徐々に知らせる風だけがひっそりと漂っていた。

「……つうか、おれの方こそ全力で携帯切っとけって話だよな」

 自嘲のひとりごとをこぼし、苦笑で顔をゆがませる。大事なときに携帯を鳴らしてしまって、あんな風に郁弥を注意する資格などなかったなと紘夢は数日前のやり取りをかえりみた。

 桜助を追いかけられなかったことを悔やむ一方で、追いかけずに済んでよかったとも紘夢は思っていた。正直なところ最近の桜助は何を考えているのかわからず、どう扱ったらいいか持て余している部分もあった。追いかけて再び顔を突き合わせたところで、おそらく今は何を言ってもあの凍った冷たい指先に拒絶されるだけのような気がする。

 元々独占欲の強い人であることは知っているし、今までも軽い嫉妬でねた顔を見せてくれたことはあったが、こんなにも思い詰めるようなことはなかったはずだと紘夢がこれまでの日々を思い返す。

 恋人の様子がどこかおかしい。何かあったのかと訊いてやりたいが、紘夢自身も今は実習のことで手一杯で桜助としっかり向き合う心の余裕がなかった。

 ──百瀬か。百瀬智風が来てからだ、桜助がわからなくなったのは。

 淡い光でささやかに辺りを照らしている外灯にもたれかかった紘夢は、そのぼんやりとした光の下で、握りしめたままだった携帯を見た。画像のフォルダから一枚の写真を選択する。

 それは初めて担任を持った年の文化祭で、クラス展示の当番をしていた百瀬と一緒に撮ったツーショットだった。確か当時百瀬とつるんでいたみなみ綾貴あやたかが撮ってくれて、百瀬にも自分のところにも送ってくれたものだったと、もう四年以上も前になる思い出を紘夢はひっそりと懐かしむ。百瀬も南も紘夢が初めて担任をした高二のクラスの生徒で、初めての経験にたくさん苦労した分思い入れも強かった。

 今よりも少しだけ若い写真の中の自分は両手でピースサインを作ってバカみたいにはしゃいでいて、その隣では制服に身を包んだ百瀬が不機嫌そうな視線を寄越している。きっと許可なく突然カメラを向けた南に苛立っていたのだろう。

 楽しくて、うれしくて、自分ばかりが浮かれていた。夢だった教師になれて、念願の担任も持たせてもらえて、何もかもが順調だと思っていた。懐いて頼ってくれる生徒たちが可愛くて、この子たちのためならなんだってしてやろうと思った。してやれると思っていた。このときは、ひとりの生徒をずっと悩ませていたことにも気づいてやれなかったくせに。

 あれから足早に時は過ぎ、たくさんの生徒たちを受け持ってきたが、紘夢は今でもこの写真を大切に保存していた。この写真に限らず、生徒たちとの思い出はひとつ残らず大事に保管している。どのクラスも、どの生徒も、紘夢にとってはきらきらした宝物で、歳を重ねるごとにまぶしいかけらがどんどん増えていった。無数のそれらが未熟な自分を教師でいさせてくれた。だから、そのかけらを大切にしていただけのつもりだったのに。

 紘夢は携帯の中の過去を眺めて、大きなため息をついた。

「……軽率だったな……バカだな、おれ」

 懺悔ざんげのようなつぶやきを、よぎる風がさらっていく。

 もう過ぎ去ったことだと思っていたけれど、百瀬は、違うのかもしれない。自惚うぬぼれは性に合わないからと自分のいいように解釈していたが、百瀬はまだ思うところがあるのかもしれない。時効にはまだ早かったのか。百瀬は、もしかして、まだ。

 しかもどういうわけかそれを桜助に見抜かれていて、ひどく不安にさせていたのだとしたらなんて情けないのだろうと、紘夢は己のていたらくに怒りさえ覚える。まぶしいかけらを大切にしたいなどという勝手な理想を掲げながら、いちばん大切にしたい人にだけあんな苦しそうな顔をさせてしまうなんて、本当にどうかしている。

 桜助がこの場所をとても大事にしているのを、知らない自分ではないはずなのに。

「……おれも、おまえの部屋に他の人がいたら、嫌だよ……」

 冷静に考えてみれば当たり前の答えが、今更空にはなっても遅いのに紘夢の口から勝手にこぼれ出た。桜助の前でちゃんとそう言えていたら、今夜は一緒にいられたのだろうか。

 ちゃんと、向き合わなければ。

 さっき冷たく振り払われた自分の指先を見つめて、去り際にちらりと見えた苦痛にゆがむ恋人の顔を思い出して、紘夢は外灯の淡い光の下でしばらく途方に暮れていた。
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