サクラ・エンゲージ

ゆりすみれ

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 六月だったが、深い夜はまだ少し肌寒い。

 桜助はデニムに薄手のパーカーという飾り気のない格好で紘夢のアパートにやって来ていた。アパートに来たといってもまだ部屋には上がっていない。最寄り駅まで地下鉄に揺られ、駅からアパートの下まで自転車を走らせてきただけである。

 桜助は小さな駐輪場から二階の紘夢の部屋を見上げ、明かりが点いているかを確認した。窓からひっそりとこぼれ落ちる光を見つけ、紘夢が部屋に帰っていることを確かめる。桜助の手首の上で生真面目に時を刻んでいる時計は、22時を少し回っていた。

 自転車を並べ終えた桜助は何かを整えるように一度大きく深呼吸をしてから、一旦アパートの外階段の最下段に腰かけた。大きな背中を丸めて前のめりに小さく座ってしまったのは、怖気づいてどうしようもなく震える膝を抱えたかったからなのかもしれない。

 軽く恋人を訪ねに来ただけなのに、もう一年以上も通っている慣れ親しんだ場所であるはずなのに、今の桜助には果てしなく遠い場所のように思えた。怖がる膝をかばうようにつかんでいた手に、じっとりと嫌な汗がにじむ。

 連絡を入れずに突然来てしまったのは初めてだった。ほぼ定例化している週末の逢瀬でさえ、きちんと約束をしてからでなければ紘夢の部屋に足を踏み入れることはなかった。

 桜助は勝手に、それが社会人と付き合うことの最低限のルールのように思っていた。日頃から教師の仕事に忙しい紘夢に余計な負担を掛けたくないのはもちろんだったが、一時的な熱に浮かされて無計画に会いに来たなんて言ったら、意外としっかり仕事と恋愛の線引きをしている紘夢に嫌な顔をされるのではないかと、実はずっと怖れていた。桜助はただ、紘夢の困った顔は見たくなかった。

 だからこんな抜き打ちテストみたいな真似は、膝を震わせてしまうほどのみじめな冒険だった。嫌な顔をされるかもしれない、困った顔を見てしまうかもしれない。紘夢が見せる顔ひとつでこの恋の価値がはかれてしまう。

 試しに来たのだと、桜助の目的は明確だった。サイトに載せられていた百瀬との密会写真、夜な夜な会っているという噂。二人の後ろ姿が隠し撮りされた場所は、桜助がよく知っている場所だった。見まちがえるはずもなく、それは紘夢のアパートの前の道だった。

 何もやましいことがなければ気まぐれに会いに来たって受け入れてくれるはずだと、桜助はほとんど自分に言い聞かせるようにそう思った。

 ──なんかの事情があって一緒にいたところを、たまたま写真に撮られただけだろ。別にあいつが紘夢の部屋に出入りしてるなんて、これっぽっちも思ってねぇし。

 ぐちゃぐちゃな胸の内を整理して言葉にしたら本当にそう思っていることになるような気がして、桜助は心の中だけでその整えられた台詞を唱える。半分嘘の台詞は、紺色のとばりに包まれた夜の空へぐっと吸い込まれていく。

 ──教育実習がきっかけで元サヤなんてシャレになんねぇし。そもそも、昔付き合ってたのなんだのって話もサイトの中だけのただの噂だし。俺はこれっぽっちも。これっぽっちも。

 これっぽっちもそう思っていないはずの桜助は今、紘夢を試すためだけにここにいる。愚かしくて、滑稽こっけいで、なんだか哀しい。

 結局震える膝が何を怖がっているのか、桜助にはもうよくわからなくなっていた。紘夢の迷惑そうな顔を目の当たりにすることなのか、気に入らない教育実習生との知らなくてもいい真実を知ってしまうことなのか。どうしても紘夢が笑顔で自分を迎え入れてくれるところが想像できず、劣等感のかたまりに支配された脳裏には最悪の二択しかよぎらない。

 しばらくそんなことを悶々もんもんと考えながら外階段のいちばん下でうなだれるように座り込んでいると、二階のどこかの部屋が慌ただしく開く音が桜助の耳に入ってきた。

 反射的に何気なく振り仰いだ桜助の目に飛び込んできたのは、最もここにいてはいけないはずの男が、階段のいちばん上で立ち尽くしている光景だった。

「!?」

 互いの視線が強くぶつかり合う。どちらもこの悪戯あくぎのような不意打ちには即座に反応できなかったようで、しばらく不動で見合う形になった。桜助は立ち上がることも忘れて、首を180度ねじったまま階段の上方をひたすら仰ぎ見るだけである。

 見下ろす百瀬と、見上げる桜助。アパートの前の道を車が通り、ヘッドライトの白い光が階段の上を屈折しながら走っていく。

 ──紘夢の部屋から出てきた……よな……?

 ──なんで? なんで、百瀬が……。なんで、ここに、なんで、こんな時間に、なんで紘夢の部屋に、なんで!

 責めるような疑問詞しか浮かんでこない桜助の顔は、一旦冷静にならなければという微かな意思とは裏腹にどんどんゆがんでいく。怒っているような、それでいて少し泣きそうな顔をしている自分に驚いて、顔を掻きむしりたい衝動に駆られた。

「……高橋」

 突然上方から名を呼ばれ、まちがいなく自分を指し示すその単語に、桜助は肯定も否定もできなかった。薄暗いはずの外階段で寸刻対峙たいじしただけなのに迷うことなくすっと名を言い当てられ、もはや恐怖さえ感じてしまう。

 予期せぬ場所で予期せぬ人に出会ったとしたら、まずはその真偽を疑ってすぐには決め付けられなそうなものだが、今の百瀬にはそれがなかった。百瀬にとってここに自分がいることは不自然ではなかったということかと、桜助が焦る。

 ──なんで、俺のこと、すぐにわかった……? 俺がここにいんのおかしいって思わねぇのか……? 何か、知ってんのか……?

 理解できないことが多すぎて、ふくらみ出した疑念はとどまることを知らなくて、桜助の思考回路は故障に向かっていく。疑いたくないやさしい恋人を、疑う。

「徳田先生に何か用か?」

 事務的な短い問いかけだったが、それはまるでのような口振りだった。自分は紘夢の関係者だという主張に聞こえる言い方に、桜助は汗ばんでいたてのひらをきつく握りしめる。

 桜助は呆然と百瀬を仰いだまま、何も言えなかった。うかつに口を滑らせて余計なことを言ってしまったら、紘夢との約束を破ることになる。仮に百瀬が何か知っていたとしても、わざわざこちらの口からネタばらしをすることはない。

 秘密の恋を貫けなかった先に二人の未来はないのだと、桜助は口唇をぐっと引き結んで耐えた。

 言えないことが本当に苦しい。紘夢の恋人である自分がここにいるのは当然なのだと、百瀬の目の前で紘夢の肩を抱き寄せながら見せ付けるように言ってやりたい。でも、言ってはいけない。苦しい。苦しい。苦しさから逃れようと、百瀬をただにらみ付ける。

「徳田先生なら中にいる。俺は用が済んだから帰る」

 訊いてもいないのに一方的にそう言った百瀬が、ゆっくりと階段を下り始めた。

 それを見た桜助はようやく立ち上がって、百瀬が視界に入らないようにうつむいて階段を駆け上がった。百瀬の横を一気に走って通り過ぎる。ひどくみじめな気持ちで百瀬とすれ違っている自分が情けなくて、階段を駆け上がる膝がまた震え出す。

 自分こそが本当のであるはずなのに、百瀬を前にするとどうしてか部外者になってしまった気がしてならない。

「徳田先生ってこんな夜遅くにまで駆け込み生徒の面倒見るのか……教師のかがみだな」

 すれ違いざまに、百瀬がぼそっとそう言い放った。紘夢に対しての嫌味のニュアンスがあるような気がして、桜助はカッと頭に血がのぼるのを感じた。それでも気づかなかった振りをして、とにかく二階へ向かう。今の一時的な動揺で百瀬の挑発に乗るのは利口ではない。

「なぁ」

 下方から強く呼び止められて、桜助は最上段で足を止めた。百瀬の方には振り返らずに、前に見える紘夢の部屋の扉を見つめる。今度は百瀬が下から桜助を見上げるようにして、無言を貫く生意気な生徒の背中に尋ねた。

「なんでいつも俺をにらむ? 教室でも今も、高橋はいつも俺を睨んでばっかだ」

 ひそかに睨んでいる事実も、これから紘夢の部屋に上がり込むことも、何も肯定してはいけない。認めてしまったら最後、それは真実になる。郁弥にからかわれたときと同じように、たとえどんなに不自然でも桜助はすり抜けるようにかわすしかない。

 背中に投げられた問いに答えることなく、桜助は走り出した。悔しさで握りしめたてのひらに、少し伸びた爪がじりじりと食い込む。紘夢の部屋へ向かう。

 ──俺があんたをにらむ理由を、なんであんたが知りたがる?
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