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⑤
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桜助と郁弥が教室後方の出入り口でそんなやり取りをしていると、逆の前方の出入り口から数人の女子生徒に囲まれた紘夢と百瀬が出てくるのが見えた。
元気が有り余る女子たちからの授業内容以外の質問攻めからようやく解放されたらしい二人は、少しくたびれたようにゆっくりと歩いている。
「おっ、徳ちゃんと百瀬モテモテじゃーん。確かに百瀬ってちょっとかっこいいもんな。おまえと背おんなじくらいある? 身長あるのやっぱずりぃよなー」
まだ女子に取り囲まれている二人の後ろ姿を見て郁弥が羨む。そのまま大きな声で紘夢を呼び止め、力いっぱい手を振ってみせた。
「おーい、徳ちゃん! さっきはごめんな! うるさくして!」
気づいた紘夢と百瀬が振り返ると、郁弥はパンッと勢いよく両手を合わせて謝罪の形を作った。
狭い廊下で、前方にいる紘夢と百瀬、後方にいる桜助と郁弥の視線が静かにぶつかる。
郁弥のその仕種に笑って、紘夢が近づいてくる。それに続いて百瀬も面倒そうに寄ってきた。
「そんな元気に謝るパワーがあるなら全力でマナーモードにしとけっつうの。おれの授業だったからよかったようなものの……他の先生だったら職員室呼び出し確実だからな! ほんと、気をつけろよー?」
「悪かったってばー」
紘夢のゆるいお咎めに、郁弥はさほど悪びれた様子もなく軽い口調で受け流す。
「百瀬先生にもちゃんと謝れよ。こいつ今日が記念すべき初めての授業実習だったんだぞ? いい感じのいやーな緊張感が台無しになったんだから」
「おぅ百瀬、悪ぃ悪ぃ!」
軽く片手を上げ郁弥は一応素直に謝ったが、その謝罪に心がこもっていないことは誰の目から見ても明らかだった。郁弥の場合はこれがあっさり許されてしまうのだから怖ろしい。神崎郁弥とは校内公認でそういう人物だった。
郁弥の気のない謝罪を聞き届けた紘夢は、今度は桜助に視線を流してやれやれという顔をした。困った生徒に手を焼くような他人行儀のその表情は、少し桜助を苛立たせた。
「ほら、ついでだから桜助も一緒に謝っとけよ。おまえも百瀬先生の授業中断させたんだから」
紘夢はこういうところでは、本当に残酷すぎるくらいに平等だった。あまい特別な感情を学校には一切持ち込まないプロの紘夢は、桜助のことも他の生徒と同じようにちゃんと叱る。
紘夢のそういうプロ意識がなければ誰にもバレずに関係を続けていくことは難しかっただろうと、桜助は誇り高き教師としての紘夢に感謝しているのだが、今はどうしてか素直に叱られてやることができない。
それはきっと自分を見つめる紘夢の瞳があまりにもやさしくて、幼子をたしなめるようなあたたかさがあって、二人の距離が明白に大人と子供だったからに違いない。
「……」
桜助は教師たちから目を逸らしてだんまりを決め込んだ。聞き分けのいい生徒という上品な分類からはますます遠のき、桜助は傍から見たらただの反抗的な生徒でしかなかった。
呆れられる、軽蔑されるとわかっていても、疑念と嫉妬の矛先に素直に謝れるほど桜助は大人になれていなかった。紘夢に子供扱いされて当然だ。
「ほら桜助、自分の非はちゃんと認めなさ……」
「別に無理やり謝ってもらうほどのことでもない。むしろ俺の授業に欠陥があったってことだろ。聞く価値がないって」
紘夢の言葉を遮って百瀬が冷たく口を挟んだ。
もういいと言う百瀬は、桜助に見切りをつけたようにあっさりと背を向ける。冷徹な背中を残してそのまま歩き出した。
結局桜助にも百瀬にも突き放されたようになってしまった紘夢は、少し弱った顔でもう一度桜助を見たあと、先に歩き出した百瀬のあとに続いて自分も職員室に戻っていった。
「あーぁ、あれ絶対百瀬怒ってるよ。減るモンじゃねぇんだから適当に謝っとけばよかったのに」
郁弥のもっともな意見に、桜助は返す言葉もない。
時々軽く視線を絡めてはぽつりぽつりと言葉を交わして遠ざかっていく二人の後ろ姿を、桜助は呆然と見つめた。携帯をもてあそんでいた手も自然と止まる。
二人は本当のところどういう関係なんだろうかと、一歩一歩離れていく紘夢の背中を歯痒い気持ちで捉えながら桜助は思った。いつも抱きしめているはずの細い背中が、百瀬と肩を並べているとなんだか知らない色を帯びているように感じる。
百瀬は紘夢の昔の恋人なんだろうか。教育実習で再会して、互いの気持ちが戻ってしまうんじゃないだろうか。
それとももうすでに、戻ってしまっているのか。
とどまることなく次から次へと溢れてくる不安と嫉妬にうんざりして、頭の中がぐちゃぐちゃで、桜助は黒い澱だらけになっている脳内をもういっそ捨て去りたい気持ちになった。
なんて醜くて、なんて無意味な嫉妬なのだろうと、そんな嫉妬をしても二人の過去は変えられないというのに。
想像するだけで胸がえぐられるように苦しい。紘夢が自分以外の誰かに抱かれていたという考えてみれば至極当然の過去に、ただ苛まれる。
「徳ちゃんも困ってたじゃん、可哀想に。マジでおまえなんなの? ガチで遅れてきた反抗期なの?」
「あの大学生が、気に入らない」
桜助が感情を乗せずにそう言う。
「またそれか。いや、それはまぁ百歩譲っていいとして、徳ちゃんにまで当たることないだろー。みんなの徳ちゃんいじめるとあとで女子たちが怖ぇんだからな」
郁弥から紘夢の名が出ると、桜助は認めなければならない最悪な事実をひとつ思い出した。
不安や嫉妬と同時に募りゆく、やさしすぎる恋人への疑念。桜助は思った以上に紘夢を疑っていた。
紘夢が隠し事をしているなんて考えられないし考えたくもないけれど、サイトに流出している百瀬らしき人との密会写真やら、妙に確信めいている具体的な記事やらを目にしてしまうと、少なからず紘夢の方にも落ち度があるのではないかと思ってしまう。
自分よりずっと大人の紘夢は、それさえも、上手に隠してしまうんだろうか。すり抜けるような大人のやり方が得意な紘夢は、大切なことを器用に誤魔化して真実をうやむやにすることくらい造作もないはずだから。
そもそも火のないところに煙は立たないし、二人の間にはきっと何かしらあるのだろうと桜助は勝手に決め付けていた。
細く煙が立ちのぼる程度には、きっと、何か。
いちばん大切で、いちばんいとしくて、いちばん信じたい人を、疑っている自分がいる。そんな濁った眼でしか紘夢を見られなくなっている最低な自分に、頭を抱えて発狂したくなる。
「……オレさ、前からずっと思ってたことがあるんだけど……」
急に郁弥が、少し言いづらそうに口を開いた。
「何?」
「徳ちゃんってさ……」
郁弥が色素の抜けた毛先をいじりながらいかにもしみじみと言うので、桜助は不覚にも心をざわつかせてしまった。授業からの一連の出来事で何かを感づかれたかと、続きを紡ぐ郁弥の口唇をまじまじと見つめてしまう。スマホを握る手が微かに汗ばむ。
「……お母さんみたいじゃね?」
続けられた意外すぎる言葉に、桜助は思わず拍子抜けした。深刻に一体何を言い出すのかとびくついていたが、出てきた単語は想像の斜め上を行っていた。
「おまえ何言ってんの? ……そこはお兄さんにしてやれって」
まさか自分の恋人が親友の目線だと母親のように見えているとは思いもせず、桜助は小さくため息をついてみる。
「いや、みんなの前ではちゃんと頼れるしっかり者のお兄さんなんだけどさ、おまえの前でだけは、なんか、うまく言えねぇんだけど……心細そうなお母さんなんだよ」
「はぁ? なんだよそれ……」
「いっつも心配そうな目で桜助のこと見てるし、おまえと話すときの声やたらやさしいし、叱ったあと不安になって機嫌うかがうような顔するし……それっていとしの我が子を見守るお母さんじゃん、ってなった」
郁弥から初めてそう指摘され、桜助は今度こそ息を呑んだ。
紘夢はそういう態度を隠すのが得意な大人だと思っていたが、そう思っていたのは恋人の欲目だったのかもしれないと桜助は考えを改める。見る人が見ればわかるものなのだろうかと、郁弥の無駄に鋭いところを憎らしく思った。
「……つうか、徳ちゃんって桜助にだけすげぇあまいよな? なんで?」
「……っ!?」
それまでのアホ面から一転、口の端を嫌な感じの角度で持ち上げる不敵な笑み方で郁弥が桜助を見た。
そこに含まれているのはおそらく、単純な冷やかしと少しの好奇心。
そのまとわりつくようないやらしい視線に、桜助はまた心をざわつかせた。トリッキーなタラシの問題児だが、やはり変なところで妙に鼻が利くのが癇に障る。
しかも訊くだけ訊いてそれ以上掘り下げないところも、すでにすべてを見透かされているようで胸くそ悪い。数々の修羅場を潜り抜けてきたであろう恋愛経験値は伊達じゃないことを、郁弥のその洗練された観察眼が静かに物語っていた。
そういう賢さのあるやつだから気に入ってつるんでいるのであって、本当にただのバカな破天荒男だったら友達などやっていないかと、桜助は半ばあきらめた気持ちで郁弥の指摘を受け入れる。
「それでお母さん……ね。おまえがそう見るんならそうなんじゃねぇの? ……俺ばっかガキだから心配なんだろ」
廊下の喧騒に紛れてしまいそうな細い声で桜助がつぶやく。
「クラスの中にはおまえよりガキなやつはいっぱいいる。おまえより手の掛かるやつも、どうしようもないバカもいっぱいいる。オレだって徳ちゃんにはメーワク掛けてばっかだし。……でも徳ちゃんはいつも桜助が心配なんだよな、何故か」
否定するのももう面倒で、桜助は自分の横をすり抜けるように通っていくたくさんの生徒をうつむきがちに眺めていた。その無言を桜助の弱りだと感じ取った郁弥は、桜助の肩に軽く手を掛けわざと声の調子を上げて言う。
「別にいいんじゃね? オレたち実際ガキなんだし」
「……ガキじゃダメなんだよ」
子供のままでは意味がない。紘夢を守ってやれるような大人に、早くならないと意味がない。ただでさえもう11年も遅れを取っているのだから、誰よりも努力して追いついて追い越して、そうでなければ自分が紘夢の隣にいる意味はない。
「なんで? なーんも知らないフリして手の掛かるガキやってた方が、可愛げがあってモテるじゃん」
「……おまえはそうやって、天然無邪気を装って女騙してりゃいいよ」
可愛らしい顔に似合わず、強かな本性をはっきりと示す親友に悪態をつくと、
「ひでぇ言い方!」
と、郁弥が桜助の脇腹あたりを小突いた。
「俺は別にモテたいわけじゃねぇからな」
世界中でたったひとり、紘夢をこの手につかんでいられれば、他の人はいらないのに。
ちゃんと、つかめているんだろうか。何か果てない靄が目の前に現れたようで、桜助はげんなりした。
「なんでもいいけどさ、あんま徳ちゃん困らせんなよ」
そろそろ桜助をからかうのにも飽きたのか、郁弥は腕時計を見て時間を確かめた。昼を買うために購買へ向かうという廊下に出た当初の目的を思い出して、郁弥は桜助にじゃあと片手を上げてから歩き出す。
桜助の前を数歩進んだあと、郁弥は思い出したように立ち止まり振り返った。
「……あ、ねぇ、徳ちゃんって今恋人いるのかな。おまえ知ってる?」
振り向きざまに桜助を見る郁弥の瞳は愉悦に満ちていて、桜助がどう答えるのかを期待しているわけではなく、単に担任教師を話題にしたときの桜助の動揺を楽しんでいるだけのようだった。
まだからかう気かと桜助はため息をこぼし、もうすべてを察しているだろう悪友を憎らしい眼で見る。
たとえ気づかれていても、肯定さえしなければ、それは真実にはならないから。
紘夢とのあまい約束を守るために、信頼のおける郁弥にさえ桜助は口を閉ざす。
今はまだそのときじゃない。言えない。言わない。言わなければ、隠せる。まずは卒業までの約束を果たす。
「……いねぇだろ。童顔のお母さんだし」
吐き捨てるように桜助がそう言うと、郁弥は満足そうに微笑んで去っていった。
柔らかそうな茶髪が、射し込む光を受けてときどき金色に揺れている。その神々しさに、周りの女子たちがこっそり見惚れているのが桜助にもわかった。もちろん郁弥自身もそうやって注目を浴びているのを自覚して颯爽と歩いている。郁弥は何にも臆さない、自信に溢れた男だった。
それに比べて自分はどうか。こんな風に小さな嘘を重ねていくことでしか紘夢を守ってやれない。誰よりも紘夢をいとしく思っているのに、今はそれを人に認めてもらえる自信がない。
自分は何も持たない無力な生徒で、たくさんのものを抱えて責任と義務の中で奮闘している教師との恋を、誰が本気だと信じてくれるのか。
郁弥のまっすぐな美しい背中を見送った桜助は、手にしていたスマホを制服のポケットに荒々しくねじ込んだ。もたれていた出入り口からからだを離し、足早に歩き出す。
紘夢と百瀬が肩を並べて歩いていった方とは反対の方向へ、歩き出す。
元気が有り余る女子たちからの授業内容以外の質問攻めからようやく解放されたらしい二人は、少しくたびれたようにゆっくりと歩いている。
「おっ、徳ちゃんと百瀬モテモテじゃーん。確かに百瀬ってちょっとかっこいいもんな。おまえと背おんなじくらいある? 身長あるのやっぱずりぃよなー」
まだ女子に取り囲まれている二人の後ろ姿を見て郁弥が羨む。そのまま大きな声で紘夢を呼び止め、力いっぱい手を振ってみせた。
「おーい、徳ちゃん! さっきはごめんな! うるさくして!」
気づいた紘夢と百瀬が振り返ると、郁弥はパンッと勢いよく両手を合わせて謝罪の形を作った。
狭い廊下で、前方にいる紘夢と百瀬、後方にいる桜助と郁弥の視線が静かにぶつかる。
郁弥のその仕種に笑って、紘夢が近づいてくる。それに続いて百瀬も面倒そうに寄ってきた。
「そんな元気に謝るパワーがあるなら全力でマナーモードにしとけっつうの。おれの授業だったからよかったようなものの……他の先生だったら職員室呼び出し確実だからな! ほんと、気をつけろよー?」
「悪かったってばー」
紘夢のゆるいお咎めに、郁弥はさほど悪びれた様子もなく軽い口調で受け流す。
「百瀬先生にもちゃんと謝れよ。こいつ今日が記念すべき初めての授業実習だったんだぞ? いい感じのいやーな緊張感が台無しになったんだから」
「おぅ百瀬、悪ぃ悪ぃ!」
軽く片手を上げ郁弥は一応素直に謝ったが、その謝罪に心がこもっていないことは誰の目から見ても明らかだった。郁弥の場合はこれがあっさり許されてしまうのだから怖ろしい。神崎郁弥とは校内公認でそういう人物だった。
郁弥の気のない謝罪を聞き届けた紘夢は、今度は桜助に視線を流してやれやれという顔をした。困った生徒に手を焼くような他人行儀のその表情は、少し桜助を苛立たせた。
「ほら、ついでだから桜助も一緒に謝っとけよ。おまえも百瀬先生の授業中断させたんだから」
紘夢はこういうところでは、本当に残酷すぎるくらいに平等だった。あまい特別な感情を学校には一切持ち込まないプロの紘夢は、桜助のことも他の生徒と同じようにちゃんと叱る。
紘夢のそういうプロ意識がなければ誰にもバレずに関係を続けていくことは難しかっただろうと、桜助は誇り高き教師としての紘夢に感謝しているのだが、今はどうしてか素直に叱られてやることができない。
それはきっと自分を見つめる紘夢の瞳があまりにもやさしくて、幼子をたしなめるようなあたたかさがあって、二人の距離が明白に大人と子供だったからに違いない。
「……」
桜助は教師たちから目を逸らしてだんまりを決め込んだ。聞き分けのいい生徒という上品な分類からはますます遠のき、桜助は傍から見たらただの反抗的な生徒でしかなかった。
呆れられる、軽蔑されるとわかっていても、疑念と嫉妬の矛先に素直に謝れるほど桜助は大人になれていなかった。紘夢に子供扱いされて当然だ。
「ほら桜助、自分の非はちゃんと認めなさ……」
「別に無理やり謝ってもらうほどのことでもない。むしろ俺の授業に欠陥があったってことだろ。聞く価値がないって」
紘夢の言葉を遮って百瀬が冷たく口を挟んだ。
もういいと言う百瀬は、桜助に見切りをつけたようにあっさりと背を向ける。冷徹な背中を残してそのまま歩き出した。
結局桜助にも百瀬にも突き放されたようになってしまった紘夢は、少し弱った顔でもう一度桜助を見たあと、先に歩き出した百瀬のあとに続いて自分も職員室に戻っていった。
「あーぁ、あれ絶対百瀬怒ってるよ。減るモンじゃねぇんだから適当に謝っとけばよかったのに」
郁弥のもっともな意見に、桜助は返す言葉もない。
時々軽く視線を絡めてはぽつりぽつりと言葉を交わして遠ざかっていく二人の後ろ姿を、桜助は呆然と見つめた。携帯をもてあそんでいた手も自然と止まる。
二人は本当のところどういう関係なんだろうかと、一歩一歩離れていく紘夢の背中を歯痒い気持ちで捉えながら桜助は思った。いつも抱きしめているはずの細い背中が、百瀬と肩を並べているとなんだか知らない色を帯びているように感じる。
百瀬は紘夢の昔の恋人なんだろうか。教育実習で再会して、互いの気持ちが戻ってしまうんじゃないだろうか。
それとももうすでに、戻ってしまっているのか。
とどまることなく次から次へと溢れてくる不安と嫉妬にうんざりして、頭の中がぐちゃぐちゃで、桜助は黒い澱だらけになっている脳内をもういっそ捨て去りたい気持ちになった。
なんて醜くて、なんて無意味な嫉妬なのだろうと、そんな嫉妬をしても二人の過去は変えられないというのに。
想像するだけで胸がえぐられるように苦しい。紘夢が自分以外の誰かに抱かれていたという考えてみれば至極当然の過去に、ただ苛まれる。
「徳ちゃんも困ってたじゃん、可哀想に。マジでおまえなんなの? ガチで遅れてきた反抗期なの?」
「あの大学生が、気に入らない」
桜助が感情を乗せずにそう言う。
「またそれか。いや、それはまぁ百歩譲っていいとして、徳ちゃんにまで当たることないだろー。みんなの徳ちゃんいじめるとあとで女子たちが怖ぇんだからな」
郁弥から紘夢の名が出ると、桜助は認めなければならない最悪な事実をひとつ思い出した。
不安や嫉妬と同時に募りゆく、やさしすぎる恋人への疑念。桜助は思った以上に紘夢を疑っていた。
紘夢が隠し事をしているなんて考えられないし考えたくもないけれど、サイトに流出している百瀬らしき人との密会写真やら、妙に確信めいている具体的な記事やらを目にしてしまうと、少なからず紘夢の方にも落ち度があるのではないかと思ってしまう。
自分よりずっと大人の紘夢は、それさえも、上手に隠してしまうんだろうか。すり抜けるような大人のやり方が得意な紘夢は、大切なことを器用に誤魔化して真実をうやむやにすることくらい造作もないはずだから。
そもそも火のないところに煙は立たないし、二人の間にはきっと何かしらあるのだろうと桜助は勝手に決め付けていた。
細く煙が立ちのぼる程度には、きっと、何か。
いちばん大切で、いちばんいとしくて、いちばん信じたい人を、疑っている自分がいる。そんな濁った眼でしか紘夢を見られなくなっている最低な自分に、頭を抱えて発狂したくなる。
「……オレさ、前からずっと思ってたことがあるんだけど……」
急に郁弥が、少し言いづらそうに口を開いた。
「何?」
「徳ちゃんってさ……」
郁弥が色素の抜けた毛先をいじりながらいかにもしみじみと言うので、桜助は不覚にも心をざわつかせてしまった。授業からの一連の出来事で何かを感づかれたかと、続きを紡ぐ郁弥の口唇をまじまじと見つめてしまう。スマホを握る手が微かに汗ばむ。
「……お母さんみたいじゃね?」
続けられた意外すぎる言葉に、桜助は思わず拍子抜けした。深刻に一体何を言い出すのかとびくついていたが、出てきた単語は想像の斜め上を行っていた。
「おまえ何言ってんの? ……そこはお兄さんにしてやれって」
まさか自分の恋人が親友の目線だと母親のように見えているとは思いもせず、桜助は小さくため息をついてみる。
「いや、みんなの前ではちゃんと頼れるしっかり者のお兄さんなんだけどさ、おまえの前でだけは、なんか、うまく言えねぇんだけど……心細そうなお母さんなんだよ」
「はぁ? なんだよそれ……」
「いっつも心配そうな目で桜助のこと見てるし、おまえと話すときの声やたらやさしいし、叱ったあと不安になって機嫌うかがうような顔するし……それっていとしの我が子を見守るお母さんじゃん、ってなった」
郁弥から初めてそう指摘され、桜助は今度こそ息を呑んだ。
紘夢はそういう態度を隠すのが得意な大人だと思っていたが、そう思っていたのは恋人の欲目だったのかもしれないと桜助は考えを改める。見る人が見ればわかるものなのだろうかと、郁弥の無駄に鋭いところを憎らしく思った。
「……つうか、徳ちゃんって桜助にだけすげぇあまいよな? なんで?」
「……っ!?」
それまでのアホ面から一転、口の端を嫌な感じの角度で持ち上げる不敵な笑み方で郁弥が桜助を見た。
そこに含まれているのはおそらく、単純な冷やかしと少しの好奇心。
そのまとわりつくようないやらしい視線に、桜助はまた心をざわつかせた。トリッキーなタラシの問題児だが、やはり変なところで妙に鼻が利くのが癇に障る。
しかも訊くだけ訊いてそれ以上掘り下げないところも、すでにすべてを見透かされているようで胸くそ悪い。数々の修羅場を潜り抜けてきたであろう恋愛経験値は伊達じゃないことを、郁弥のその洗練された観察眼が静かに物語っていた。
そういう賢さのあるやつだから気に入ってつるんでいるのであって、本当にただのバカな破天荒男だったら友達などやっていないかと、桜助は半ばあきらめた気持ちで郁弥の指摘を受け入れる。
「それでお母さん……ね。おまえがそう見るんならそうなんじゃねぇの? ……俺ばっかガキだから心配なんだろ」
廊下の喧騒に紛れてしまいそうな細い声で桜助がつぶやく。
「クラスの中にはおまえよりガキなやつはいっぱいいる。おまえより手の掛かるやつも、どうしようもないバカもいっぱいいる。オレだって徳ちゃんにはメーワク掛けてばっかだし。……でも徳ちゃんはいつも桜助が心配なんだよな、何故か」
否定するのももう面倒で、桜助は自分の横をすり抜けるように通っていくたくさんの生徒をうつむきがちに眺めていた。その無言を桜助の弱りだと感じ取った郁弥は、桜助の肩に軽く手を掛けわざと声の調子を上げて言う。
「別にいいんじゃね? オレたち実際ガキなんだし」
「……ガキじゃダメなんだよ」
子供のままでは意味がない。紘夢を守ってやれるような大人に、早くならないと意味がない。ただでさえもう11年も遅れを取っているのだから、誰よりも努力して追いついて追い越して、そうでなければ自分が紘夢の隣にいる意味はない。
「なんで? なーんも知らないフリして手の掛かるガキやってた方が、可愛げがあってモテるじゃん」
「……おまえはそうやって、天然無邪気を装って女騙してりゃいいよ」
可愛らしい顔に似合わず、強かな本性をはっきりと示す親友に悪態をつくと、
「ひでぇ言い方!」
と、郁弥が桜助の脇腹あたりを小突いた。
「俺は別にモテたいわけじゃねぇからな」
世界中でたったひとり、紘夢をこの手につかんでいられれば、他の人はいらないのに。
ちゃんと、つかめているんだろうか。何か果てない靄が目の前に現れたようで、桜助はげんなりした。
「なんでもいいけどさ、あんま徳ちゃん困らせんなよ」
そろそろ桜助をからかうのにも飽きたのか、郁弥は腕時計を見て時間を確かめた。昼を買うために購買へ向かうという廊下に出た当初の目的を思い出して、郁弥は桜助にじゃあと片手を上げてから歩き出す。
桜助の前を数歩進んだあと、郁弥は思い出したように立ち止まり振り返った。
「……あ、ねぇ、徳ちゃんって今恋人いるのかな。おまえ知ってる?」
振り向きざまに桜助を見る郁弥の瞳は愉悦に満ちていて、桜助がどう答えるのかを期待しているわけではなく、単に担任教師を話題にしたときの桜助の動揺を楽しんでいるだけのようだった。
まだからかう気かと桜助はため息をこぼし、もうすべてを察しているだろう悪友を憎らしい眼で見る。
たとえ気づかれていても、肯定さえしなければ、それは真実にはならないから。
紘夢とのあまい約束を守るために、信頼のおける郁弥にさえ桜助は口を閉ざす。
今はまだそのときじゃない。言えない。言わない。言わなければ、隠せる。まずは卒業までの約束を果たす。
「……いねぇだろ。童顔のお母さんだし」
吐き捨てるように桜助がそう言うと、郁弥は満足そうに微笑んで去っていった。
柔らかそうな茶髪が、射し込む光を受けてときどき金色に揺れている。その神々しさに、周りの女子たちがこっそり見惚れているのが桜助にもわかった。もちろん郁弥自身もそうやって注目を浴びているのを自覚して颯爽と歩いている。郁弥は何にも臆さない、自信に溢れた男だった。
それに比べて自分はどうか。こんな風に小さな嘘を重ねていくことでしか紘夢を守ってやれない。誰よりも紘夢をいとしく思っているのに、今はそれを人に認めてもらえる自信がない。
自分は何も持たない無力な生徒で、たくさんのものを抱えて責任と義務の中で奮闘している教師との恋を、誰が本気だと信じてくれるのか。
郁弥のまっすぐな美しい背中を見送った桜助は、手にしていたスマホを制服のポケットに荒々しくねじ込んだ。もたれていた出入り口からからだを離し、足早に歩き出す。
紘夢と百瀬が肩を並べて歩いていった方とは反対の方向へ、歩き出す。
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茉莉花 香乃
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小学生の時、意地悪されて転校した。高校一年生の途中までは穏やかな生活だったのに、全寮制の学校に転入しなければならなくなった。そこで、出会ったのは…
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αが離してくれない
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Ωとして生まれた僕は、発情期を抑える薬を使いながら、普通の生活を目指していた。
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