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③
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二年D組の教壇でそれらしく世界史の授業をしている百瀬を、着席している桜助は敵意剥き出しで睨め付けていた。
大学生ながらも意外と様になっているのが余計癪に障る。堂々と落ち着いて教科書を読み上げる姿は、とても今日が初めての授業実習だとは思えないほど余裕があるように桜助には見えた。
その余裕さが無性に腹立たしくて、机の下でスマホを握りしめていた桜助は無意識にその手にぐっと力を込めてしまう。暴走しているでたらめな情報がさらに肥大していたら困ると、桜助は授業中にもこっそり例のサイトをチェックしていた。おどろおどろしいデザインと趣味の悪い色使いのページには、今黒板を背にしてゲルマン人の大移動の解説をしている大学生の名と、──担任であり恋人であるはずの徳田紘夢の名が並んでいる。
百瀬智風は一週間前に桜助のクラスにやって来た大学四年の教育実習生だった。ここ白鳥高校の卒業生である百瀬は紘夢の元教え子で、紘夢が初めて担任をしたクラスの生徒だったと聞いている。紘夢は初めて受け持った生徒の成長した姿を久しぶりに見られたのがうれしかったのか、教育実習が始まってからずっと浮き足立っているように見えた。
世界史の教師である紘夢が指導教員として面倒を見ることになっているので、世界史の授業はもちろん朝と帰りのホームルームももれなく百瀬が引っ付いてくる。この一週間百瀬はほとんど紘夢と一緒にいて、それだけでも充分睨み付けるのに値するだろうと、独占欲の強い桜助は大事なおもちゃを取られた子供のようにずっと不機嫌だった。
「4世紀から6世紀の約200年に及ぶゲルマン人の大移動は、一般に376年の西ゴート人のドナウ川越境から……」
短く切り揃えられた黒髪が、百瀬の堅物そうな表情をさらにストイックに見せている。融通が利かないような、冗談が通じないような、どこか近寄りがたい雰囲気をまとっているその男は、人より上背がある方の桜助と同じくらいに充分な体躯を持っていた。愛想のかけらもなく未だに教室で笑っているところを見たことがないほどの仏頂面で、いつも淡々と実習だけを正確にこなしている印象があった。
普通なら敬遠されそうな男なのに、その徹底した他人に媚びない態度が逆に女子に受けているようなので世の中何がもてはやされるのかわからない。紘夢も元々頼れるさわやかお兄さん先生として女子生徒から人気があるので、今は二人が揃っていると女子たちが瞳をきらきらさせて騒ぎ出す始末だ。
「水谷、次の行から読んで」
百瀬に当てられた生徒が教科書の続きを読み始める。生徒の当て方まで本物の教師さながらで、桜助はただただ百瀬が気に入らない。
桜助が百瀬から視線を横にずらすと、黒板の横で紘夢が実習生の授業をやさしく見守っているのが見えた。その穏やかながらも凛々しい顔つきに思わず見惚れた桜助は、先刻までの険しい顔つきから少しだけ表情を緩める。
疾うに見慣れているはずの顔で、それこそ下に組み敷いたときのセックスに没頭する顔だって知っているのに、こうして真摯に仕事と向き合っている大人の横顔を改めて見てしまうと勝手に鼓動が加速する。
ただいとしいと思った。ひどく幼い面立ちで、どこかゆるくて、無邪気で、少し柔らかくて、それなのに自分よりずいぶん大人の、ずるい人。
だから許せない。このいとしい人を守ってやらねばと、桜助はただ焦る。
握りしめた小さな画面の中のでたらめな情報が許せない。まともにしゃべったこともない、よく知らない百瀬を理不尽に睨め付けてしまうほどには。
学校裏サイト『Bloody Swan』の中では、徳田紘夢と百瀬智風の噂で持ち切りだった。
残虐という意味を持つ悪質で卑劣なそれは、白鳥高校の生徒会が秘密裏に運営しているという知る人ぞ知る裏サイトである。
知る人ぞ知るというのは、生徒会に申請して取得しなければならない閲覧パスを持っていないと見ることができない会員制のサイトだからで、存在そのものがもはや都市伝説のように扱われているからだった。教師陣や保護者はもちろん他校の生徒も閲覧できないようになっていて、あくまで白鳥高校の生徒が内輪で楽しむためだけに作られたものらしい。
主に教師などの学校関係者や目立つ生徒のゴシップ記事を流出しているサイトで、恋愛の揉め事や浮気、喧嘩、派閥、勢力争いなど、傍目にはくだらないものが多かった。
生徒会の傘下にある新聞部が主力となって情報収集をしているらしく、実際のところ記事の信憑性はあまりないのだが、生徒会と新聞部の巧妙な記事の書き方に騙される利用者が多いのも事実である。
加えて生徒会には圧倒的権力を持つ生徒会長がまるで神のように君臨していて、会長を崇める信奉者がサイトを絶対視しているのも由々しき問題だった。このサイトの中では生徒会が情報を発信すること自体に価値があって、嘘と真実の区別は重要ではなかった。ガセもおもしろければ正当化された。
サイトに設置されている掲示板や、サイトから飛べる鍵付きのSNSはほぼ無法地帯で、誹謗や中傷に対する規制がまったくない。ゆえに利用者は誰かを傷つけたり陥れたりしながら、おもしろがってあることないこと話を大きくして楽しんでいた。
生徒たちは暇潰しの遊びのひとつとして割り切って楽しんでいるし、元々そういう目的で作られたものであるから仕方がないのだが、そうだと頭ではわかっていても桜助はどうしても受け入れることができなかった。
桜助は生徒会の信奉者でもなければ、わざわざ陰口を書き込むほどの暇人でもない。身近な人のことを裏でこそこそ蔑んでいるやつらの気が知れなくて、ただ苛立った。
「じゃあ次、宮下。ここの空欄に入る言葉はわかるか」
百瀬が次の生徒を当てた。勝手に苛立っている桜助は、もし自分が当てられても無視してやろうかと挑発的に構える。
『Bloody Swan』には、百瀬が高校生だったときに担任の紘夢と付き合っていたという記事が、当時撮られたと思われる文化祭のときのツーショット写真とともに流出していた。
画像の中の紘夢は今より少しだけ若く両手でピースサインを作って笑っていて、その隣に制服を着た百瀬が今とほとんど変わらぬ無愛想で立っている。これだけで付き合っていたと断定するにはあまりにも短絡的だが、確かに親密そうに見えないこともない。
記事は他にも、実は百瀬はまだ未練タラタラでよりを戻すために教育実習生としてやって来たとか、授業の打ち合わせという名目で夜な夜な二人が密会しているとか、二人が入っていった社会科資料室が中から鍵を掛けられていたとか、まるで今現在も二人が密接に関係しているかのように書かれていた。
夜な夜な密会に関しては、証拠写真とも言える二人の後ろ姿の盗み撮りまで公開されている。暗いしぼやけているので見にくかったが、桜助にはそれが紘夢の後ろ姿だとすぐにわかった。その隣にいるのは、確かに自分ではなかった。
無法地帯化している掲示板やSNSは記事そのものよりも辛辣で、生徒からの好感度が高く人気の教師としてもてはやされているような紘夢でさえ、ここでは相当ひどい言われ方をしていた。
《ホモの教師キモ》
《生徒に手出してたの普通にヤバすぎ》
《他にも元カレの生徒いそう》
《童顔のくせに淫乱とか》
《社会科資料室ってヤリ部屋?》
《今も校内で食い散らかしてるって》
《頼んだらやらしてもらえんの?》
桜助は固く握った拳を震わせながら、すべてに目を通した。
全力で否定して全部訂正させたいが、桜助は紘夢の恋人だと名乗り出ることはできない。
卒業まで隠し通すという紘夢とのあまい約束もあるし、ただでさえ危うい未来を一時の怒りでぶち壊すほど浅はかでもない。残りの時間を慎重にやり過ごせば、未来をくれると紘夢は言ってくれたから。桜助は今にも溢れ出しそうな激情と、噛みしめた口唇の下の冷徹の間で、ここしばらくひとりで苦悩していた。
紘夢と百瀬は昔本当に付き合っていたんだろうかと、桜助は空いている方の手で頬杖をつきながら、もう何度脳裏を巡ったかわからないその疑惑を懲りずに呼び出す。
聞いてしまうと過去にも嫉妬してしまうからと紘夢の昔の話を聞かないようにしていたのは桜助の方だったし、紘夢もわざわざ過去の恋を語るような無粋な真似をする人ではなかったので、桜助は紘夢の昔を何ひとつ知らなかった。
どんな人と付き合って、どんな風に愛を確かめ合って、どんな顔で抱かれていたのか、何も知らない。
紘夢の過去を知ることを、ずっと拒絶してきた桜助にも非はある。自分より十年以上長く生きているのだから、紘夢に十年分ほどの別の恋があるのは当たり前のことなのに。
恋人の過去を素直に受け入れる器量さえあったならこんな悪質サイトの記事に振り回されることもなかったのだろうかと、桜助は自身の器の矮小なことに嫌気がさしていた。
それでも紘夢に過去の恋を訊くなんて、できない。
できないのではなく、多分真実を突き付けられるのが怖いだけだと桜助は自覚していた。ただの噂だと思い込みたかったことが事実だったときの絶望を、臆病な自分が味わいたくないだけ。
過去を知ったらきっと嫉妬に狂って、ただ自分より少し先に紘夢と出会っていただけのなんの罪もない百瀬を憎んでしまうに決まっている。なんて子供じみた、わがまま。
生徒だった百瀬は、今の自分と同じように隠れて紘夢と付き合っていたんだろうか。百瀬は紘夢がセックスのあとにだけたばこを吸うことを知っているんだろうか。下に組み敷いたときの、あのなまめかしい眼を先に見たんだろうか。
「そこ、授業中に携帯をいじるな」
頬杖をついて思案にふけっていた桜助に、突如百瀬の鋭い声が突き刺さった。
机の下でスマホを見ているのを目聡く見つけた百瀬は、教卓に広げていた教科書から顔を上げ、射貫くようにまっすぐに桜助を見る。派手に注意された桜助に、クラス中の視線が向けられた。
教生風情が一丁前に、とつい思ってしまった桜助は、思いきり不機嫌な顔をして百瀬を見返した。謝罪の言葉を告げることもせず、スマホをしまう素振りも見せない。
ちょうど百瀬のことを考えて苛立っていたタイミングの悪さもあり、桜助は再び険しい目つきで教育実習生を睨み付けた。さっきは一方的だったが今度はしっかりと百瀬の目を見て、はっきりと強い敵意を示す。
明らかな敵意を向けられても、百瀬はまったく怯むことなく桜助を睨み返してきた。何事にも妥協を許さないような真摯なまなざしには妙な凄みがあったが、負けるものかと桜助もきつい視線で百瀬を捉える。
教室の中で刺々しい視線が交わり、その異様な迫力にクラス内が少し動揺した。
「桜助ー、授業中はおれたち教師に一応義理立てして携帯はしまっとけよ。百瀬先生もそれなりにがんばってんだから、頼りないかもしれないけどちゃんとあたたかく見守ること」
黒板の横にずれて授業実習の行方を見守っていた紘夢が、見兼ねて桜助にやさしく声を掛けた。
「百瀬先生も、生徒にスマホをいじらせないような魅力ある授業をすること、いいな?」
険悪な空気に危機を感じた紘夢がゆるくフォローを入れて、なんとか雰囲気を持ち直そうと試みる。どちらも注意しどちらもかばうところが平等主義の紘夢らしい。
それでもどういうわけか一触即発の空気が消えそうにない桜助と百瀬の様子に、紘夢が困った顔を見せた。重たい嫌な雰囲気に、教室ごと沈み込んでいく。
すると突然、どこからかけたたましい音が鳴り響いた。大音量を通り越して爆音で教室を巡るそれは、耳馴染みのある電話の着信音だ。
廊下にまで響くその騒がしい音の出所を探って、クラス中が一瞬止まる。そのあと心当たりのある生徒が自分の携帯じゃないかと机の中やポケットをざわざわと確認し始めた。
桜助と百瀬も睨み合うのをやめ、訝しげな顔で教室の様子をうかがう。
「あっ、ごめんごめん、オレオレ! オレのスマホだ。マナーモードにすんのすっかり忘れてた!」
わざわざ挙手までして犯人宣言をしたのは、神崎郁弥だった。
女好きの過ぎる桜助の友人はしれっとそう言うと、特に悪びれた様子もなく鞄から堂々と携帯を取り出して着信を切る。
途端、クラス中が笑いの渦に包まれた。郁弥の問題児炸裂ぶりにはクラスメートも慣れていて、こんなことはよくある日常の一部でしかなかったので、皆遠慮なく吹き出して口々に声を上げる。
「うるせぇぞ郁弥」
「郁弥くんの音量どうなってんの?」
「またどうせ女からだろー?」
「張り切って手まで挙げちゃってかわいいー」
皆が一様に騒ぎ出し収拾がつかない状態になると、先刻まで余裕を見せていた百瀬もさすがに困って紘夢に目配せで助けを求めた。
「おーい、みんな静かにしろー。まだ授業中! ……にしても郁弥、おまえなぁ、携帯注意したそばからそれはないだろ……」
呆れた紘夢が小さく苦笑した。百瀬も苦い顔をして郁弥を見つめている。もう桜助のことは見ていない。
「おぅ! 徳ちゃん悪ぃ! 今度から気をつける!」
調子のいい声音で郁弥が叫ぶと、また教室中が笑いに揺れた。
全く反省していない女好きの友人の破天荒に桜助は呆れたが、おかげでいつの間にかクラスの雰囲気が元に戻っていたことに気づいて複雑な気持ちになる。何事もなかったかのように授業は再開され、百瀬ももう桜助を注意したことをすっかり忘れているようだった。
紘夢がほっとしたような顔で百瀬をやさしく見守っているのに気づいた桜助は、小さく舌打ちをして、握りしめていたスマホを勢いよく鞄の中に投げ入れた。
大学生ながらも意外と様になっているのが余計癪に障る。堂々と落ち着いて教科書を読み上げる姿は、とても今日が初めての授業実習だとは思えないほど余裕があるように桜助には見えた。
その余裕さが無性に腹立たしくて、机の下でスマホを握りしめていた桜助は無意識にその手にぐっと力を込めてしまう。暴走しているでたらめな情報がさらに肥大していたら困ると、桜助は授業中にもこっそり例のサイトをチェックしていた。おどろおどろしいデザインと趣味の悪い色使いのページには、今黒板を背にしてゲルマン人の大移動の解説をしている大学生の名と、──担任であり恋人であるはずの徳田紘夢の名が並んでいる。
百瀬智風は一週間前に桜助のクラスにやって来た大学四年の教育実習生だった。ここ白鳥高校の卒業生である百瀬は紘夢の元教え子で、紘夢が初めて担任をしたクラスの生徒だったと聞いている。紘夢は初めて受け持った生徒の成長した姿を久しぶりに見られたのがうれしかったのか、教育実習が始まってからずっと浮き足立っているように見えた。
世界史の教師である紘夢が指導教員として面倒を見ることになっているので、世界史の授業はもちろん朝と帰りのホームルームももれなく百瀬が引っ付いてくる。この一週間百瀬はほとんど紘夢と一緒にいて、それだけでも充分睨み付けるのに値するだろうと、独占欲の強い桜助は大事なおもちゃを取られた子供のようにずっと不機嫌だった。
「4世紀から6世紀の約200年に及ぶゲルマン人の大移動は、一般に376年の西ゴート人のドナウ川越境から……」
短く切り揃えられた黒髪が、百瀬の堅物そうな表情をさらにストイックに見せている。融通が利かないような、冗談が通じないような、どこか近寄りがたい雰囲気をまとっているその男は、人より上背がある方の桜助と同じくらいに充分な体躯を持っていた。愛想のかけらもなく未だに教室で笑っているところを見たことがないほどの仏頂面で、いつも淡々と実習だけを正確にこなしている印象があった。
普通なら敬遠されそうな男なのに、その徹底した他人に媚びない態度が逆に女子に受けているようなので世の中何がもてはやされるのかわからない。紘夢も元々頼れるさわやかお兄さん先生として女子生徒から人気があるので、今は二人が揃っていると女子たちが瞳をきらきらさせて騒ぎ出す始末だ。
「水谷、次の行から読んで」
百瀬に当てられた生徒が教科書の続きを読み始める。生徒の当て方まで本物の教師さながらで、桜助はただただ百瀬が気に入らない。
桜助が百瀬から視線を横にずらすと、黒板の横で紘夢が実習生の授業をやさしく見守っているのが見えた。その穏やかながらも凛々しい顔つきに思わず見惚れた桜助は、先刻までの険しい顔つきから少しだけ表情を緩める。
疾うに見慣れているはずの顔で、それこそ下に組み敷いたときのセックスに没頭する顔だって知っているのに、こうして真摯に仕事と向き合っている大人の横顔を改めて見てしまうと勝手に鼓動が加速する。
ただいとしいと思った。ひどく幼い面立ちで、どこかゆるくて、無邪気で、少し柔らかくて、それなのに自分よりずいぶん大人の、ずるい人。
だから許せない。このいとしい人を守ってやらねばと、桜助はただ焦る。
握りしめた小さな画面の中のでたらめな情報が許せない。まともにしゃべったこともない、よく知らない百瀬を理不尽に睨め付けてしまうほどには。
学校裏サイト『Bloody Swan』の中では、徳田紘夢と百瀬智風の噂で持ち切りだった。
残虐という意味を持つ悪質で卑劣なそれは、白鳥高校の生徒会が秘密裏に運営しているという知る人ぞ知る裏サイトである。
知る人ぞ知るというのは、生徒会に申請して取得しなければならない閲覧パスを持っていないと見ることができない会員制のサイトだからで、存在そのものがもはや都市伝説のように扱われているからだった。教師陣や保護者はもちろん他校の生徒も閲覧できないようになっていて、あくまで白鳥高校の生徒が内輪で楽しむためだけに作られたものらしい。
主に教師などの学校関係者や目立つ生徒のゴシップ記事を流出しているサイトで、恋愛の揉め事や浮気、喧嘩、派閥、勢力争いなど、傍目にはくだらないものが多かった。
生徒会の傘下にある新聞部が主力となって情報収集をしているらしく、実際のところ記事の信憑性はあまりないのだが、生徒会と新聞部の巧妙な記事の書き方に騙される利用者が多いのも事実である。
加えて生徒会には圧倒的権力を持つ生徒会長がまるで神のように君臨していて、会長を崇める信奉者がサイトを絶対視しているのも由々しき問題だった。このサイトの中では生徒会が情報を発信すること自体に価値があって、嘘と真実の区別は重要ではなかった。ガセもおもしろければ正当化された。
サイトに設置されている掲示板や、サイトから飛べる鍵付きのSNSはほぼ無法地帯で、誹謗や中傷に対する規制がまったくない。ゆえに利用者は誰かを傷つけたり陥れたりしながら、おもしろがってあることないこと話を大きくして楽しんでいた。
生徒たちは暇潰しの遊びのひとつとして割り切って楽しんでいるし、元々そういう目的で作られたものであるから仕方がないのだが、そうだと頭ではわかっていても桜助はどうしても受け入れることができなかった。
桜助は生徒会の信奉者でもなければ、わざわざ陰口を書き込むほどの暇人でもない。身近な人のことを裏でこそこそ蔑んでいるやつらの気が知れなくて、ただ苛立った。
「じゃあ次、宮下。ここの空欄に入る言葉はわかるか」
百瀬が次の生徒を当てた。勝手に苛立っている桜助は、もし自分が当てられても無視してやろうかと挑発的に構える。
『Bloody Swan』には、百瀬が高校生だったときに担任の紘夢と付き合っていたという記事が、当時撮られたと思われる文化祭のときのツーショット写真とともに流出していた。
画像の中の紘夢は今より少しだけ若く両手でピースサインを作って笑っていて、その隣に制服を着た百瀬が今とほとんど変わらぬ無愛想で立っている。これだけで付き合っていたと断定するにはあまりにも短絡的だが、確かに親密そうに見えないこともない。
記事は他にも、実は百瀬はまだ未練タラタラでよりを戻すために教育実習生としてやって来たとか、授業の打ち合わせという名目で夜な夜な二人が密会しているとか、二人が入っていった社会科資料室が中から鍵を掛けられていたとか、まるで今現在も二人が密接に関係しているかのように書かれていた。
夜な夜な密会に関しては、証拠写真とも言える二人の後ろ姿の盗み撮りまで公開されている。暗いしぼやけているので見にくかったが、桜助にはそれが紘夢の後ろ姿だとすぐにわかった。その隣にいるのは、確かに自分ではなかった。
無法地帯化している掲示板やSNSは記事そのものよりも辛辣で、生徒からの好感度が高く人気の教師としてもてはやされているような紘夢でさえ、ここでは相当ひどい言われ方をしていた。
《ホモの教師キモ》
《生徒に手出してたの普通にヤバすぎ》
《他にも元カレの生徒いそう》
《童顔のくせに淫乱とか》
《社会科資料室ってヤリ部屋?》
《今も校内で食い散らかしてるって》
《頼んだらやらしてもらえんの?》
桜助は固く握った拳を震わせながら、すべてに目を通した。
全力で否定して全部訂正させたいが、桜助は紘夢の恋人だと名乗り出ることはできない。
卒業まで隠し通すという紘夢とのあまい約束もあるし、ただでさえ危うい未来を一時の怒りでぶち壊すほど浅はかでもない。残りの時間を慎重にやり過ごせば、未来をくれると紘夢は言ってくれたから。桜助は今にも溢れ出しそうな激情と、噛みしめた口唇の下の冷徹の間で、ここしばらくひとりで苦悩していた。
紘夢と百瀬は昔本当に付き合っていたんだろうかと、桜助は空いている方の手で頬杖をつきながら、もう何度脳裏を巡ったかわからないその疑惑を懲りずに呼び出す。
聞いてしまうと過去にも嫉妬してしまうからと紘夢の昔の話を聞かないようにしていたのは桜助の方だったし、紘夢もわざわざ過去の恋を語るような無粋な真似をする人ではなかったので、桜助は紘夢の昔を何ひとつ知らなかった。
どんな人と付き合って、どんな風に愛を確かめ合って、どんな顔で抱かれていたのか、何も知らない。
紘夢の過去を知ることを、ずっと拒絶してきた桜助にも非はある。自分より十年以上長く生きているのだから、紘夢に十年分ほどの別の恋があるのは当たり前のことなのに。
恋人の過去を素直に受け入れる器量さえあったならこんな悪質サイトの記事に振り回されることもなかったのだろうかと、桜助は自身の器の矮小なことに嫌気がさしていた。
それでも紘夢に過去の恋を訊くなんて、できない。
できないのではなく、多分真実を突き付けられるのが怖いだけだと桜助は自覚していた。ただの噂だと思い込みたかったことが事実だったときの絶望を、臆病な自分が味わいたくないだけ。
過去を知ったらきっと嫉妬に狂って、ただ自分より少し先に紘夢と出会っていただけのなんの罪もない百瀬を憎んでしまうに決まっている。なんて子供じみた、わがまま。
生徒だった百瀬は、今の自分と同じように隠れて紘夢と付き合っていたんだろうか。百瀬は紘夢がセックスのあとにだけたばこを吸うことを知っているんだろうか。下に組み敷いたときの、あのなまめかしい眼を先に見たんだろうか。
「そこ、授業中に携帯をいじるな」
頬杖をついて思案にふけっていた桜助に、突如百瀬の鋭い声が突き刺さった。
机の下でスマホを見ているのを目聡く見つけた百瀬は、教卓に広げていた教科書から顔を上げ、射貫くようにまっすぐに桜助を見る。派手に注意された桜助に、クラス中の視線が向けられた。
教生風情が一丁前に、とつい思ってしまった桜助は、思いきり不機嫌な顔をして百瀬を見返した。謝罪の言葉を告げることもせず、スマホをしまう素振りも見せない。
ちょうど百瀬のことを考えて苛立っていたタイミングの悪さもあり、桜助は再び険しい目つきで教育実習生を睨み付けた。さっきは一方的だったが今度はしっかりと百瀬の目を見て、はっきりと強い敵意を示す。
明らかな敵意を向けられても、百瀬はまったく怯むことなく桜助を睨み返してきた。何事にも妥協を許さないような真摯なまなざしには妙な凄みがあったが、負けるものかと桜助もきつい視線で百瀬を捉える。
教室の中で刺々しい視線が交わり、その異様な迫力にクラス内が少し動揺した。
「桜助ー、授業中はおれたち教師に一応義理立てして携帯はしまっとけよ。百瀬先生もそれなりにがんばってんだから、頼りないかもしれないけどちゃんとあたたかく見守ること」
黒板の横にずれて授業実習の行方を見守っていた紘夢が、見兼ねて桜助にやさしく声を掛けた。
「百瀬先生も、生徒にスマホをいじらせないような魅力ある授業をすること、いいな?」
険悪な空気に危機を感じた紘夢がゆるくフォローを入れて、なんとか雰囲気を持ち直そうと試みる。どちらも注意しどちらもかばうところが平等主義の紘夢らしい。
それでもどういうわけか一触即発の空気が消えそうにない桜助と百瀬の様子に、紘夢が困った顔を見せた。重たい嫌な雰囲気に、教室ごと沈み込んでいく。
すると突然、どこからかけたたましい音が鳴り響いた。大音量を通り越して爆音で教室を巡るそれは、耳馴染みのある電話の着信音だ。
廊下にまで響くその騒がしい音の出所を探って、クラス中が一瞬止まる。そのあと心当たりのある生徒が自分の携帯じゃないかと机の中やポケットをざわざわと確認し始めた。
桜助と百瀬も睨み合うのをやめ、訝しげな顔で教室の様子をうかがう。
「あっ、ごめんごめん、オレオレ! オレのスマホだ。マナーモードにすんのすっかり忘れてた!」
わざわざ挙手までして犯人宣言をしたのは、神崎郁弥だった。
女好きの過ぎる桜助の友人はしれっとそう言うと、特に悪びれた様子もなく鞄から堂々と携帯を取り出して着信を切る。
途端、クラス中が笑いの渦に包まれた。郁弥の問題児炸裂ぶりにはクラスメートも慣れていて、こんなことはよくある日常の一部でしかなかったので、皆遠慮なく吹き出して口々に声を上げる。
「うるせぇぞ郁弥」
「郁弥くんの音量どうなってんの?」
「またどうせ女からだろー?」
「張り切って手まで挙げちゃってかわいいー」
皆が一様に騒ぎ出し収拾がつかない状態になると、先刻まで余裕を見せていた百瀬もさすがに困って紘夢に目配せで助けを求めた。
「おーい、みんな静かにしろー。まだ授業中! ……にしても郁弥、おまえなぁ、携帯注意したそばからそれはないだろ……」
呆れた紘夢が小さく苦笑した。百瀬も苦い顔をして郁弥を見つめている。もう桜助のことは見ていない。
「おぅ! 徳ちゃん悪ぃ! 今度から気をつける!」
調子のいい声音で郁弥が叫ぶと、また教室中が笑いに揺れた。
全く反省していない女好きの友人の破天荒に桜助は呆れたが、おかげでいつの間にかクラスの雰囲気が元に戻っていたことに気づいて複雑な気持ちになる。何事もなかったかのように授業は再開され、百瀬ももう桜助を注意したことをすっかり忘れているようだった。
紘夢がほっとしたような顔で百瀬をやさしく見守っているのに気づいた桜助は、小さく舌打ちをして、握りしめていたスマホを勢いよく鞄の中に投げ入れた。
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