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しおりを挟む「ひゃっ!」
「む」
驚いていたら頭上から低音の声が降ってきた。
目の前に真っ赤に熟れた色のワインが入ったグラスが通り過ぎて、おもわず動きを止めた。
ワイングラスを持つ手はぶつかった男とゾフィアとの間を遮るように差し出されていて、ゾフィアは己が庇われたのだと悟った。
「す、すみません」
2人に同時に謝る。
ぶつかった男――赤い前髪を押さえて奇妙な視線を送ってくる偉丈夫と、ワインを持ってきてくれたらしい金髪の騎士に、深々と頭を下げた。
赤毛の騎士は――鍛え上げられた浅黒い体躯から察するに、恐らくはこの方も王立騎士だろう――ゾフィアには軽く頷いて謝罪を受理し、そのあと金髪の騎士に顔を向けた。
視線にからかいの色が浮かぶ。
「お前が女連れとはな。堅物の名は返上か」
「もともと堅物ではありません、ヴォルフ上官こそお一人とは珍しいですね。――さては振られましたね」
「この俺を振る女などいるものか」
自信満々な言葉とは逆に、顔は皮肉気に歪められていた。
――振られたんだろうか。
ゾフィアはヴォルフと呼ばれた男をまじまじと見る。
そして、あれっ?と思った。
なんとなくだが、この人は見たことがあるような気がする。
だけどいったいどこでだろう。思い出せない。
気のせいだと首を振ると、改めてヴォルフを見た。
赤く剛そうな髪になんとも野性味あふれる顔立ち、とくに目が印象的だった。射竦められそうな切れ長の目は、深い藍色を静かに湛えている。
男性的だが粗野な印象はない。背はゾフィアよりも頭1個分ほど高いので相当長身の部類に入るだろう。ゾフィアより背の高い金髪の騎士よりもさらに上背があった。
歳はおそらく27~30あたりで、どことなく落ち着いた雰囲気の男の色香を感じさせる人である。上官だというのだから騎士団の中でも恐らくは上位に位置しているのだろう、身分も申し分なさそうだ。
――客観的に見て、どこからどう見ても良い男である。振られるとは信じがたい。
金髪の騎士も同じ感想だったようで、ブフッと噴き出すと口元に手を添えた。
「上官は本当に振られたんですね」
「俺と踊るのは疲れそうだなどと……。はっ!昨今の令嬢は軟弱なことだ」
「ああ、なるほど。その理由は納得ですね」
あごを押さえてうんと頷く金髪の騎士をヴォルフは低く唸って黙らせると、ゾフィアに向きなおり、金髪の騎士の頭を軽く小突く。
「――紹介は?」
金髪の騎士の顔にサッと陰りが広がった。
金髪の騎士が物言いたげな視線を寄越すので、ゾフィアは自分から名乗るべきなのかなと回らない頭でそう考える。
社交は苦手で、こんなときにすぐ答えられない。
「……あ、すみません。私はヴァルトハウゼ」
「嫌ですよ!ダメです!」
自己紹介を強い口調で遮られ、面食らった。
あれ違う?自ら名乗るべきじゃなかったのかしら、と慌てて金髪の騎士に問うような視線を送ると、金髪の騎士はまるで挑むような視線をヴォルフに向けている。
ヴォルフはそれを、さも面白いものを見たという顔で見やった。
「アルフレート、ただ名前を聞くののなにがダメだと?」
「……っこの!わかって言っているでしょう、本当に人が悪いんだから。ついでに俺の名前を言うのもダメだっていうのに、この人は本当に本っ当にもう!!」
今にもヴォルフの額に頭突きでもかましそうな剣幕で怒るアルフレートを、ゾフィアは不思議な気分で見やった。
そういえば私、この方の名前も知らなかったのだわ。
1年も前から声をかけられ続けているのに、今まで一度も尋ねたことがない。尋ねられた記憶もなかった。
「アルフレート、さま?」
ヴォルフに食ってかかっていたアルフレートはゾフィアの囁きにピタッと動作を止めた。
数秒してヴォルフから一歩引くと、小さな小さな声で、
「はい」
と返事が返ってくる。
後頭部から見える耳たぶが赤い。
それをゾフィアとヴォルフは見て、ゾフィアはギョッとしヴォルフは豪快に噴き出した。
そのままたっぷり1分ほどゲラゲラと笑われ続けて、決まり悪そうに振り返ったアルフレートと呼ばれた金髪の騎士の顔は、額から首のあたりまで真っ赤だ。それを自分でも恥ずかしく思っているのか、片手で顔を覆い隠して表情を悟られないようにしている。
「……だから、その、貴方がダンスに誘うと逃げるって噂と、名前を尋ねると逃げるって噂があってですね……」
――そ、そんな噂があったなんて、全く知らない!
ゾフィアは目を見張る。
もしや貴公子等から逃げ回っているのが噂になっていた?
そう思うと頬が火照って赤くなってしまう。確かに彼女は今までダンスに誘われれば間髪入れず断り、それでも引かない相手には逃げの一手を打っていた。
逃げの一手とは、文字通りその場から逃げ出すことだ。適当な言い訳でその場を離れ、密かに別の場所へと移動する。元の場所へは戻らない。
名前を聞かれ、それに答えることも同様だった。
相手に家と身分を知られてしまえば、その後、共通の知人の話題を持ちだされて話が長くなるばかりでなく、後日になって実家宛てに突如、求婚の手紙が来たりする。親戚と連れ立ってやってきて仲を取り持たせようとする例も、数回ほどではあるが経験していた。
ようは外堀を埋められるのを避けるために、ひたすら逃げ回っていたのだ。
適当に『花摘みに』とでも言えば付いて回られることもないし口下手なゾフィアにとっては便利な手だったわけだが、まさかそんな細かなことまで噂になっていようとは思いもしなかった。
は、恥ずかしい……。淑女にあるまじき行為よね。いったいいつからそんな不名誉な噂が出回って……ああ多分アルフレート様がかたくなに名前を聞かなかったのだから、お声をかけていただいた1年前にはもうとっくに社交界では私の不名誉な噂が周知されていたんだわ。
だから父上はあんなに怒っていらした。
知らぬは本人ばかりなり、顔から火が出そうとは、まさにこのことだ。
陶磁器のように白くきめ細やかな肌をバラ色に染め上げ、ただただ恥じ入るゾフィアを2人の騎士は眺める。
「に、逃げていたのは事実ですから大丈夫です。でも人に指摘されるのは、は、恥ずかしいです、ね……」
最後はもう消え入りそうな声しか出なかった。
「貴方のお耳には入れないつもりだったんですが、ああもう上官のせいですよ。淑女に恥をかかせるようなことを言わせるから!」
口調こそ怒っている風をよそおってはいるが、アルフレートの顔はだらしなくヤニ下がっている。鉄面皮のゾフィアがめずらしく照れたので嬉しそうだ。
顔を伏せてしまったゾフィアの頭にポンと手を置き、綺麗な銀髪をやさしい手つきで労わるように撫ですいている。
ヴォルフはそんな部下に鼻白んだ視線をむけ、
「阿呆は見てられん」
と心底あきれたような声でこぼし、アルフレートの左手に握られっぱなしだった赤ワインの入ったグラスをひったくると、グイっと煽って飲み干した。
「あっ、それはゾフィア嬢のために用意したワイン!」
「もう飲んだ」
――アルフレートの顔色が険しいものに変わり、さっとヴォルフを避けるかのように顔を背ける。
飲み干したワイングラスの底を、ヴォルフは眼光鋭く睨みつけていた。
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