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女優 佐伯里帆
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街はクリスマスに向けた飾りで溢れている。
独り身が少し寂しく感じる時でもある。
同時に、何かとパーティーに呼ばれる時でもある。これが面倒でもあった。
医療機器業界は一般的ではない為、割と地味な傾向にある。業界のパーティーも同じで、毎回同じ顔ぶれで、代わり映えしない感じだ。
だが、今回は趣向が変わった。
スミスインターナショナルの佐田が、テレビ局と大々的なスポンサー契約を結び、その縁で業界から、モデル、女優、歌手などが参加した。
この地味な業界を知ってもらい、新たな人材の確保や活性化を狙ったものである。
派手な事が好きな佐田らしい決断とも言えた。
平成には、あまり興味が無い。
元々テレビはニュースぐらいしか見ない。
流行りの話題にはついていけない。
佐田が壇上で弁を熱くふるう姿は、パフォーマンスとは言え中々のものだった。
平成は肩を叩かれた。
振り向くと、オートメディックの日本支社長を勤める河原浩二がいた。
「ご無沙汰です、目黒さん」
「お久しぶりですね、お元気そうで…」
「売れてますねぇ、Jプローブは…」
「いえいえ、そんな気にするほどのモノじゃないですよ。河原さんはスポンサーにならなかったのですか?」
「ウチのやり方はご存知でしょう」
「まぁ、確かに…」
かつて在籍していたオートメディックの考え方はスミスインターナショナルとは真逆の思考と言える。
派手なスミス、地味なオートメディック。
その構図は業界なら誰もが知る。
「アナタがウチに戻ってくれたら、百人力なんですけどねぇ」
これも何度も言われている。
「その話はやめましょうよ、私は今の環境がいいんですから」
「まぁ、そうですよね。自分の開発した製品が世界で売れる…これはこの業界なら誰もが夢見る物語だ、それを実現するんだから大したモノですよ」
「たまたまです」
「ところで、また佐田さんに誘われたとか?」
流石に情報が早い。
「いえ、無いですよ」
惚けた。
「いやいや、聞いてますよ。なんでも美女と居る時に誘われたとか…」
「誰から聞いたんです?」
「まぁ、風の噂ですよ」
「噂なら間違いですね」
こうして、平成は佐田と河原から誘われるが、どちらも断り続けている。
本国から買収しろ、と言われてるのが明白だ。
「ちょっと失礼…」
平成は、タッグを組んでる販売メーカーのアイエス社長の小泉に声をかけた。
「あ~目黒さん」
「社長、いらしてたんですね」
「ええ、もう佐田さんや河原さんにイヤミ言われて参りましたよ」
「同じですね」
「相変わらずですか?」
「売ってくれの一言です」
「諦めが悪いですねぇ」
「私は賛同して頂いて、資金まで出してくださった社長を裏切る事はしませんよ」
「嬉しいコト言ってくれますね」
「いえ、恩は忘れない主義です」
「改良品はどうですか?」
「はい、イケると思います、試験結果も想定通りの数値でした」
「おぉっ、それは楽しみだ。目黒さんのおかげで、我社の売上も十五パーセント上がりましたからね」
医療機器メーカーは、大きく三つの形態に分かれる。
スミスやオートメディックのような海外資本の製造メーカー。この場合、日本は販売のみで製造や研究開発部門は持たない。
もう一つはアイエスのように、海外メーカーと契約して輸入販売を生業とする形態。この場合、製造や研究開発が無いので、資金的な負担は少ないが、契約が終わったり海外で買収劇があると売れなくなるケースもある。
三つ目は純国産の製造メーカーだ。これが一番シェアが少ない。
医療機器業界の七割が外資系製品である。
これも日本の市場が、世界の中で大きくないことを示す形になる。
「そういえば、今日は派手ですね」
「テレビ局も絡んでるみたいですね」
「私なんかミーハーですから、サイン貰いまくってますよ」
平成は小泉と改良品の話を済ませて別れた。
トイレを済ませて、会場に戻る途中で声をかけられた。
「目黒社長?」
振り向くと知らない女性が、赤いドレス姿で微笑んでいた。
「失礼ですが、どこかでお会いしましたか?」
「私、佐伯里帆です。知ってます?」
分からなかった。
里帆はムッとした。
戸惑ってると、佐田がやってきた。
「これは珍しい」
「あら、佐田社長!」
「佐田さんのお知り合いですか?」
「何言ってるんですか!佐伯里帆さんをご存知ないのですか?」
「いや、まぁ…」
「今、注目されてる女優さんですよ」
「それは…失礼しました…あまりテレビは見ないものですから」
「それはいけませんねぇ…」
里帆は佐田にまんべんの笑顔を見せた。
そして自分を知らない平成には、まるで田舎モノをバカにするような目つきをした。
プライドを傷つけたか?
「挨拶したのに、私のこと知らないって…」
「それはヒドイな…私は目黒さんの事を彼女に教えてたんですよ。たまにはドラマでもご覧になってはどうですか?」
「ちょっと失礼…」
佐田はトイレに向かった。
途端に里帆の口調が変わった。
「佐田社長から聞いたけど、何でも社長を困らせてる人がいて、破格の待遇を蹴飛ばされたって…それがアナタだって!」
「そんな事まで話してたんですね。彼は…」
「そんないい話をどうして断ったの?」
一気にタメ口になるあたり、女優らしいと言えばそうなのだが。
「君には関係ない話だと思うが…」
「バカなの?普通は喜ぶモノよ」
「そうだな、バカだから蹴ったんだ」
「はぁっ?」
「ついでに言っとくが、女優がどれほど偉いのか知らんが、初対面相手に口の聞き方も芸能界は教えてくれないのか?それとも、親の教育が悪いのか?敬語もキチンと話せないなら黙ってろ!」
里帆はワナワナと真っ赤な顔をした。
久々に血が登った。
「佐田の後ろ盾があると思っていい気になるな。人気商売なら我慢も覚えろ!それに…」
「なによ!」
「大物ほど、相手に敬意を払うもんだ。それも出来ないなら、所詮は三流女優と覚えとけ!」
それだけ言い残して置き去りにした。
里帆は、初めて怒鳴られてバッグを叩きつけた。屈辱を味わうだけでなく、平成の迫力に怯んだ自分にも腹が立った。
会場に戻ると締めの挨拶をしていた。
河原が何か言っていたが、頭に来てたので何も聞かずホテルを出た。
このままでは眠れそうに無いので、どこかのバーに寄ってから帰ることにした。
渋谷に出て、ひっそりとしたバーに入る。
薄暗い店内で、客は若い男が奥の席に一人で居るだけだった。
カウンターでバーボンを頼んで、マスターと話していた。
三十分もすると扉が開いて、若い女性が入ってきた。
平成は構わず飲んでいた。
女性は奥のテーブルに行き、男に話しかけた。
「ごめん、遅れた」
「遅れんなや!」
「ごめんなさい」
男は不機嫌な顔でスマホを弄ってた。
「ところで出せよ」
「あっ、うん…」
女性はカバンから封筒を出した。
その中身を確認して、男は「じゃあな」と残して去った。
女性はただ見送るだけだった。
狭い店内で、会話は丸聞こえで平成も貢いでる事ぐらいは察した。
女性がカウンターに来て、ビールを頼んだ時に目があった。
「あぁぁぁっ!」
「えっ!」
里帆だった。
「ちょっと!なんでアンタがここに居るのよ!」
「偶然だ!俺の方が先に来たんだ!」
里帆は、ふてぶてしくカウンターに座り、出されたビールを一気に煽った。
女優が惚れて男に貢ぐ。
映画なら分かるが、現実にはバカとしか思えない。
女性もそれを知りつつ抜け出せない。
「ありゃダメだな…」
ボソッと呟いた言葉に里帆が反応した。
「なによ!」
聞かれても平気だった。
「女優が金で男でも買ってるのか、と思ったが…そうでも無さそうだな」
「アンタに何が分かるのよ!」
完全なる敵意の剥き出しに、平成は笑いそうになった。
「ますます男をだめにしてるだけだな」
「うるさい!黙ってろ」
「それに、あの男ヒモだろ?」
いきなりのセリフに里帆はたじろいだ。
「ち、違うわよ!」
「金渡してたもんな…」
里帆はマズいと感じた。
人気女優が男と密会してるなど、マスコミにリークされたら終わりだ。
せっかくスミスインターナショナルの、イメージキャラクターとして契約したばかりだ。
里帆は青ざめた。
証拠は無いが、タレ込みされたら後をつけ回される。そうなれば時間の問題だった。
全てが瓦解する。
今の時代に不倫とは違うが、恋愛沙汰は下手すれば叩かれる。
復帰も出来るか分からない。
こんな場末のバーで致命傷に出会うとは想像もしてなかった。
それらが一気に脳内を駆け巡り、里帆は無言になった。
平成はそんな里帆の表情から、一気に同情してしまった。
性格もあるし、金に困ってる訳でも無いのもあるだろう。
仕方無しに声をかけた。
「少し話すか?」
無言で見上げた目には涙が溢れていた。
仕方ないか、と気を取り直してマスターに顔を向けた。
「個室あるかな?
「奥の事務所しかありませんが」
「使っていいかな」
「どうぞ」
何があっても黙って口に出さない。
バーのマスターらしく、騒ぎ立てる事はしない。これもプロなのだ。
「ほら、これ飲んで落ち着くんだ」
平成は、マスターに頼んでホットミルクを作ってもらった。
「話せ、少しは楽になる」
里帆は一口飲んで俯いた。
「あいつは誰なんだ?」
「…誰にも言わない?」
「約束する、オレは利害がないからな。それに金もあるから強請ることも無い」
躊躇していたが、堪らず口を開いた。
「彼は…アタシの好きな人…」
「うん、それで?」
「まだ、売れてない頃に劇団で知り合ったの」
「演技仲間か」
「明るくて、私が落ち込んだ時も励ましてくれた…演技も上手くてアタシなんか及ばなかった…」
「そんな実力があるやつが、なんでヒモみたいなことしてんだ?」
「ヒモなんて言わないで!彼は違うの!」
里帆の目が鋭く光った。
その迫力に平成は気圧された。
「ある日、稽古の帰りに不良五人に絡まれたの…」
「それで?」
「アイツらは私を狙ってた。彼はアタシを離そうと抵抗した。でも、それがアダになったの…」
「返り討ちに?」
里帆は無言で頷く。
「落とした台本で目を殴られたの。それで彼の右目が…」
「失明した?」
「うん…当たりどころが悪くて、血がいっぱい垂れて…」
「じゃあ隻眼なのか…」
「でも、それだけじゃなかったの…彼はそれ以来…台本を見ると頭に痛みが走るようになったの…」
「ある種のトラウマだな」
「台本を読めない役者なんて、通用する筈が無い…何度も何度も頑張ったけどダメだった」
「なるほど」
「それからの彼は荒れるようになったわ…そして私がたまたまオーディションで合格して売れるようになったの…」
「君は罪悪感から彼に?」
「アタシを守って彼は片目を失った。そして役者の道も奪われた…どんどん荒れて…」
「彼は仕事してないのか?」
「元々工学系の大学を出て、設計の資格も取っていたの…なんとか好きだった役者を諦めて就職活動したんだけど、片目が無いって分かると落とされ続けたの…」
平成は、二人の可哀想な運命にやりきれない思いがした。
隻眼でも慣れれば、日常生活も仕事もそれほど影響は無い。
だが、あまりの無知で企業は採用を避ける。
注目女優と無職の男の恋…ドラマならウケそうだが、現実は虚しくなる。
「君も辛い思いを重ねてたんだな」
「アタシはいいの…彼の為なら何でもするって誓ったの…」
その想いが強くしたのだろうか?
平成は、お人好しモードに入った。
「彼がもし設計の仕事に、就けたら変わると思うか?」
「えっ?それは…うん」
「じゃあ一肌脱ぐか…」
「なんで?なんでそんなこと…」
「お人好しなんだよ、こんな冷たい世の中に一人ぐらいお人好しはいてもいいだろ」
里帆の目には涙が溢れていた。
「だが、その前に君も変わる必要がある」
「アタシ?」
「あぁ…君は彼を更にダメにしている」
反抗の言葉は無かった。里帆も理解していたのだろう。だが、女の情と後ろめたさから、こうするしか出来なかった。
「どんなに嘆いても生きる術は、自分で身につけるしかない。他人が手を差し出しても、どう立ち上がるかは自分なんだ!彼に対しては君も強くならなきゃならん!覚悟をつけてもらうぞ」
今度は、里帆が平成の迫力に気圧された。
「何するの?」
「これから考えるさ」
バーから三日後。
平成の携帯に里帆から着信があった。
「ヘイさん、里帆です」
「おー、今どこだ?」
「大阪にロケ!」
「戻れるのか?」
「これから東京に戻るの。その後はオフだからそっちに行ってもいい?」
「おー、待ってるぞ」
会ったその日に、
三流女優と罵られた事など忘れてるようだった。
夕方六時にもなると、外は全面暗くなり街の光が映えだす。
ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
「こんばんわ!」
「よく来たな…」
「へぇ…意外と地味な部屋…」
「どんな部屋を想像してたんだ?」
「だってお金持ちなんだから、もっとタワマンとか広い部屋かと思った!」
「そんなもん無駄なだけだ」
ソファーに座らせてコーヒーを出した。
「ん!美味しい!これ、カフェで飲むのと変わらないかも!」
「それは光栄だな」
「ところでアタシを強くするって?」
「オレは一つの賭けに出ようと思う」
「賭け?」
「あぁ…彼を打ちのめす!」
里帆の目が丸くなった。
「何する気?暴力振るうの?」
「いや、そうじゃない、でも、場合によってはそうなるかもな。彼は今の社会を憎んでる。それに自分にもだ」
「まぁ、確かに…」
「心に抱えた負の感情を流さなきゃならん。その為には荒療治が必要なんだ」
「ねぇ、でも余計におかしくならない?今だって壊れそうなのに…」
「彼の強さに賭けるしかない…どのみち、このままでは遅かれ早かれ堕ちるだけだ」
里帆は不安だった。
何をどうしていいか分からなくて、彼の思う通りにしてきた。抱きたいと言われたら抱かれ、金を望めば与えてきた。
「まず、今後彼の要望は全部無視しろ」
「…うん」
「いいか、絶対に応じてはダメだ。突放せ、君は充分に返してる。彼を想うなら、そうするしかない!」
平成の強い口調に押された。
里帆もどこかでそうしたかった。
だが、その機会が分からなかった。
誰かに後押しされない限り、自ら飛び込めるものでも無い。
「…分かった!やる!」
「彼が大学時代に取った資格ってなんだ?」
「たしか…立体図の設計一級って言ってた」
「それって3DCADのことか?」
「あっ、そうそう!なんか難しくて覚えられなかったけど、そう言ってた」
「そりゃすごいな…それでも職が無いとはな」
「彼もイケると思ってたけどダメだったから、ヤケを起こしたの…」
夜七時を回り、外は完全なる都会の夜景になり、車のライトが目立つようになった。
「お腹空いた…」
「なんか食いに行くか?」
「そうしたいけど…」
里帆の歯切れが悪くなった。
「どした?」
「なんか、ここのところ付けられてる気がして…」
「なんだって?」
「もしかしたら週刊誌の記者とかかな…」
「そうか、君は女優だもんな。ありえる話だ」
「人と会うときも気を付けないとダメなの」
「それも有名税ってやつかな」
里帆は窓から外を眺め、下の方に目をやった。
「あっ!」
「ん?」
「あの車…」
「どれ?」
覗くとワンボックスカーが止まっている。
「あれがどうした?」
「見たことある!」
「なんだって?どこでだ?」
「あの屋根に8って書いてるでしょ?アタシのマンションにも止まってた!下を見たらあれが見えて変だな?って思ってたから」
「なるほど、つまりあれは社用車なんだな。上から見た時に、他の車と区別出来るように書いてあるんだろう」
「じゃあご飯はダメだね…」
「いや、そうでもないぞ」
「なんで?」
平成は笑った。
「少し待っててくれ」
そう言って奥の部屋に消えた。
ほどなく着替えて戻ってきた。
スーツから、カジュアルなジャケットにパンツ姿でドライビングシューズを履いていた。
「まさか、一緒に出るの?」
「あぁ…人気女優とのデートなんて滅多に無いからね、安心しろ…」
不敵に微笑む平成にドキッとした。
部屋からエレベーターまで警戒しながら出た。
「ここは駐車場まで直結してるんだ」
地下の駐車場に入り、リモコンを押すとゲージが上り、下からスカイラインが姿を表した。
「ちょっとしたミッション・インポッシブルかもな…ハハッ」
ここは正面玄関の真裏から出る。
しかもここに入るだけでも、パスワードが無いと入れない。
「これ…動くの?」
「そうバカにしたもんでもないぞ」
車に乗り込むと、平成は携帯を弄りだした。
「よし、これでいい!」
「大丈夫なの?」
平成は不安げな里帆に微笑んだ。
「任せろ、いい店があるんだよ」
エンジンをかけてアクセルを踏む。
少しばかりの暖気を済ませて、アクセルを踏み込む。
エキゾーストノートから、太く響く音がする。
グローブを付けて、ゆっくり発進させた。
スロープを上り、左右を確認する。右側に人影が見えた。
「見つかったかな」
「えっ!」
「行くぞ」
携帯を里帆に渡した。
「持っててくれ!」
平成のオフィスビルから、首都高速インターは近い。
信号が赤になり止まると、後ろにライトが迫った。
(来たな…)
平成は芝浦インターを目指した。
そこからC1の環状線に向かう考えだ。
インターのスロープを上がると里帆に一言告げた。
「携帯の再生を押してくれ」
里帆は言われるのがままに押した。
ギターのリフが効いた音が車全体から流れた。
「これなに?」
「Shoot&Thrill」
「どういう意味?」
「スリルな一撃だ!」
途端にアクセルを踏み出した。
タコメーターが一気に上がる。
「きゃ!」
「捕まってろ!」
平成はシフトをセカンドからサードにアップした。車の隙間を抜けて、スカイラインはチーターのように、しなやかに駆け抜けた。
夜でも首都高速は車で溢れる。だが時間帯によっては、快適な流れで走れる。
シフトを上げては下げ、車間を図りながらすり抜けて走った。飯倉からトンネルに入り、走行車線と追越車線をジグザグに走った。
バックミラーには、なんとか付いてくるワンボックスカーの姿が見えた。
トンネルを抜けて、八重洲、呉服橋を通過すると、レインボーブリッジが左手に見えてきた。
相変わらず、浜崎橋JCは車の流れが多い。
一旦、芝浦インター方面に車線を変える。ワンボックスカーも付いてくる。
ここで振り切る作戦に出た。
いきなり、台場方面の車線に切り替える。ワンボックスカーも付いて来ようとするが、他の車に邪魔されて動けない。
「きゃ!」
里帆の体が揺れる。
「ち!ちょ」
平成の横顔に不敵な笑みが浮かんだ。
その横顔に「男」を感じてドキドキした。
11号線に入り、レインボーブリッジを渡ろうとすると平成は呟いた。
「まだいるな…」
「後ろに?」
「あぁ…今度はバイクだ、考えたな」
その連中は万が一を考えて、車とバイクの二段構えで張り込んでいた。
「だが、それが命取りだ!」
アクセルを更に加速させる。
スカイラインは湾岸線に入った。
「バイクってあれ?マズいんじゃないの?」
「安心しろ!ここはバイクには不利なんだ」
一気にメーターが150キロを振り切る。
シートに押されるような圧力がかかる。
バックミラーのバイクが小さくなる。
湾岸線は晴れても風が強く吹く。
スピードの出る高速で、150キロをバイクで出すのは勇気がいる。
不安定過ぎて、少しの横風でふらついてしまう。しかも車もそれなりにいて、特にトラックが多い。トラックの近くは気流
恐怖心がドライバーを襲う。
スカイラインは、湾岸線から横浜に向かった。
「もう安心だ」
スピードも普通に戻った。
「もぉ!漏れそうだったじゃない!」
「スマン、楽しんでしまった…」
「死ぬかと思ったよぉ!」
「人気女優、車でお漏らし…これ記事になるか?」
「ばか!」
二人は中華街に入り、車を止めて小粒な店に入った。
「ここは?」
「隠れた名店!個室もあってな、有名人への配慮もしてくれる」
「へぇ…」
「ヘイさん!久しぶり!」
「しばらく!奥いいかな」
「あいよ!」
席について、チャーハンを注文した。
「ここのは絶品だぞ」
「そうなの?」
「ヤミツキになる」
「ねぇ、いつもあんな運転してるの?」
「まさか、特別だよ」
「なんか今の男連中と顔が違ってた」
「どう違う?」
「なんだろ?…男臭い顔!…かな」
「まぁ、俺達はバブル世代の肉食連中だらけでな。あの車は、そんな無骨な男が憧れて乗ったやつでな」
「そ~なんだ。でも、ちょっとカッコよかったかも…」
「たまにはオヤジも悪くないだろ?」
二人は絶品チャーハンで腹を満たして、店を後にして再び高速に乗った。
「あの車どうしたかな?」
「たぶん、君の家で張ってるか、諦めたかだな」
「どうしようかな…」
「とりあえず、マネージャーに迎えに来てもらうか、近くで降ろすか、どちらでもいいぞ」
「うん、じゃあ近くで降ろしてくれる?」
それから一週間して。
里帆から連絡が来た。
「彼と会うことになったの」
「分かった。ここに連れてきてくれ、後はコッチで何とかする」
台本では、雇ってくれそうなところがあるから面接も兼ねて呼ぶ形にした。
一時間して二人がやってきた。
一応、スーツを着ているが彼の雰囲気は、完全に暗く闇に包まれてるような感じだ。
「どうぞ」
ソファーを勧めた。
「初めまして」
「目黒平成です」
「明石直也です」
「彼女から聞いてるけど、片目が見えないって?」
平成はワザとぶっきらぼうな態度を見せた。
「まぁ…」
「どんな仕事したいの?」
「…何でもいいす」
「したいことないのか?」
「どうせダメなんでしょ?」
「なるほど、障害者のヒネた根性が染み付いてるな」
「はっ?」
直也の顔色が変わった。
「彼女のヒモなんだって?」
挑発が始まった。
「ヒモじゃないです」
「彼女の稼いだ金で暮らしてんだろ?ヒモだろう」
「違う!」
「なんだ?無職のクセにプライドだけはあるのか?」
「君がなんで仕事に就けないか、理由を分かってるのか?」
「片目だからだよ!」
「それだけじゃないな」
「はっ?何言ってんの!」
「そんな卑屈な根性だから、誰も雇わないんだ」
「アンタに何が分かる?五体満足なアンタにオレの気持ちなんて分からんだろう!」
「分かりたくもないね、女に寄生して好き勝手にヒネてく男の気持ちは分からんよ」
直也は立ち上がって、帰ろうとした。
「また、逃げるのか?ヘタレな男だな」
直也の目は怒りで満ちていた。
「オッサン!いい加減しろよ」
「おっ、怒りはあるのか!虫にも怒りはあるんだな」
「テメェ…」
鞄を叩きつけ、テーブルを蹴飛ばした。
「女かばって片目失って、それを女のせいにして金を巻き上げて暮らすってのは、どんな気分なんだ?」
直也は、平成の胸ぐらを掴んだ。
「片目だってオッサンなんかに負けるかよ!」
「やってみろよ、クズの寄生虫が!」
平成の挑発に、直也は爆発寸前だった。
里帆は、我慢していた。
平成から釘を刺されて、動く訳には行かなかった。
「知ってるか?ヒモはヒモのままでは生きては行けないんだよ、いづれ捨てられるだけだ」
直也の手に力がこもる。
「殺すぞ…」
「ほぅ、寄生虫に出来るのか?片目のクセに!」
医療業界にいる平成にとって、障害者に卑下た言葉を言うのは辛かった。たとえ演技でも心が痛む。
直也は右手で、平成を殴った。
ゴブッと、鈍い音がした。
里帆は驚きで声を出せない。
かなり痛かった。
学生の時以来、殴られるなんて無いから骨までズキズキした。
「やったな…これでおあいこだぞ」
平成は左手で、完全な死角となる右目側の頬を殴った。
不意をつかれたらしく、直也の手が離れグラついた。
「ほら、来いよ!ゴミクズ!」
平成の挑発は続いた。
ジムで鍛えてるから、ダメージはそれほどではないが、若い奴らの機敏な動きに反応するのが精一杯だった。
平成は死角の右側から攻めた。
直也の拳が腹に直撃し、すかさず直也の顔を殴る。
しかし平成には分が悪い。
やっぱり年齢には勝てない。
「テメェ!オラァ!」
もはや、手は一つしか残ってなかった。
胸ぐらを捕まれた時に、その手を捻った。
そこから右の顔を連打で殴った。
もう体力の限界だ。
直也は余力はあるが、連打されて脳がグラグラした。
平成は息荒くその場に座り込み、直也はソファーに倒れた。
「卑怯だぞ…」
直也が呟いた。
「ハァハァ…何がだ?」
顔や身体に鈍い痛みが走る。
「見えない右ばかり攻めやがって!」
「当たり前だ、戦いに卑怯はあって当然だ…ッツ…甘ったれんな!」
「なんだと?」
「いいか、社会で生きる為には、相手の弱点を攻めるのは当たり前なんだ。その弱点を克服するのが自分の強さなんだよ!」
口を開くと痛みが走る。
ダメージは平成の方が大きい。
「仕方ねーだろう!どんなに頑張っても誰も見やしねぇ!片目だからって差別されて、バカにされて…生きる方法なんて分かんねーよ!エラそうに言うな!お前の説教なんざ聞きたくねぇーよ!」
「説教?君に説教なんてする気はない」
「あん?」
「ホントは彼女の施しを受けてるのもイヤなんだろ?」
「…」
「誰かに必要とされて、自分のやりたい事をして生きていければいいんじゃないのか?」
「そんなこと…そんな場所がねーから…」
直也の顔が曇った。
「なら、チャンスをやる…イテ…」
涙に溢れた里帆と直也は、同時に平成を見た。
「ヘイさん…今なんて…」
「本気で求めるなら、君の心にある憎しみも取っ払って生きるなら…チャンスだけは与えてやる…それを掴むかは君次第だ…」
「どういう事だよ…」
「3DCAD一級の資格を持ってると聞いた、間違いないか?」
「あ…うん」
「なら、面接のチャンスを作ってやる。ただ条件は、本気で自分と戦って前を向いていける気持ちがあるかだ」
「本気で…」
「その社会や人を憎む気持ちなら、その資格も持ち腐れになる。何をしても長続きしない!唯一、やっていけるのは自分の負の心を無くして、人生と向き合う覚悟があるかなんだ。それがこれからの自分、そして彼女との将来を確かなものにできる。本気でそう思えるか?」
直也は黙り込んだ。
「一日やるから、一人でじっくり考えろ。やる気になったら、明日ここに来い。イヤならそこまでだ!」
直也は無言で立ち上がって、オフィスを出ていった。里帆も後に続こうとしたが、平成に止められた。
「イテテ…はぁ、慣れないことするもんじゃないな…アタッ!」
「無茶だよ!」
「確かにな…おかげで病院で検査しなきゃな」
「ねぇ、アレで直也が立ち直るの?」
「ん…それは彼次第だ…」
平成は信じていた。直也が明日ここに来る事を。それは単なる勘でもあるが、数多の人生経験から得た勘とも言える。
翌日。
昼前に出掛ける用意をしている時。
オフィスに直也が来た。
「よく来たな…考えは固まったか?」
「はい…オレ…やっぱり仕事して里帆とやり直したいです」
「うん、それでいい…」
それから二週間後。
直也は平成に連れられて、アイエスの小泉と相対した。
「聞いてますよ、私が小泉です」
「初めまして。明石直也と言います」
履歴書を見ながら、小泉は平成と殴り合いした話を笑いながら聞いていた。
「今どき、殴り合いなんて昭和ですねぇ!」
「いや、恥ずかしいやらですが」
平成も笑った。
「ヘイさんも若いですな!」
「いや、ダメでしたね!彼のフックにヤラれましたよ」
「ところで、明石さんは右目が見えないのですか?」
「はい、ですが日常生活や仕事には影響ありません」
「うん、結構ですよ。それはマイナスにはならないので。能力を見たいから、簡単なテストを受けてもらいますが…いいですか?」
直也は驚いた。あれだけ拒否された隻眼を、受け入れてくれた。
「実はウチの会社は海外から医療機器を輸入販売してるんだが、今後は自社開発にも力を入れようと方策を転換している時なんです。そのキッカケをコチラの目黒さんがくれてね。その為に、ウチにも設計者が必要なんですよ。一人いるんだが、ちょっとオーバーワークなのでもう一人募集しようかと思ってたんです。そこにちょうど目黒さんから紹介を受けたので。ウチは明石さんぐらいのハンディは気にしませんが、欲しいのは能力なんです。だからテストさせてもらいます」
別室に案内された。
そこにはパソコンが二つ並んでいて、一人が座っていた。
「ウチの設計者をしてくれている、開発部の是枝クンだ」
是枝は一礼した。
「私は分からんから、テストは彼がやる」
「よろしく」
握手を交わして直也は席についた。
「ゼクスは扱えますか?」
「はい、大丈夫ですが…」
3DCADソフトとして有名なゼクスは、設計者なら大抵は扱っている。
「ここに二次元の投影図があります。これから三次元のソリッドモデルに変換してもらいたい。制限時間は二十五分」
「…分かりました」
「では、私も」
是枝は隣の席に座って、タイマーに手をかけた。
「では…スタート!」
二人が同時に動き出した。
二次元図面から、サイズや形状を判断して三次元モデルを作るには全体のサイズからイメージするのが定番だ。
二人ともソフトを使いこなして、図を作り出していく。
やがてタイマーのアラームが終了を告げた。
「そこまでだ!」
小泉の声で作業を止めた。
図を印刷して二人とも、小泉に見せた。
「合格だな…」
二人とも同じ図を描いていた。
もちろんサイズも同じである。
「是枝クン…どうだ?」
「実は、この中に引っ掛けを作ったんですけど見抜かれましたか?」
直也は笑顔で答えた。
「はい、ここのサイズですよね。組み立てると合わない…だから変えました」
「良し!決まりだ。明石クン!よろしく頼むよ」
小泉は改めて手を差し出した。
直也の目に涙が溢れた。
「はい、よろしくお願いします!」
深々と頭を下げた。
二人はアイエスを後にした。
「たぶん、これからオレと仕事をする事になるかもね」
「えっ?」
「オレが開発した機器の改良品をやってるからね」
「はい、そうなると良いですね」
「小泉社長のお子さんはね、重度の障害を抱えてるんだよ」
「!」
直也は絶句した。
「小児の心臓弁膜症でね。遅くに出来たお子さんなんだけど、今も入院中なんだ」
「治らないんですか?」
「小児が厄介でね。子供は成長するから、その度にサイズの大きい人工弁を付け替えなきゃならない…しかも日本製が無くて海外製品しかないんだ。日本の子供より大き目だから、そこに合うまでは何も出来ない…」
「そんな…」
「おまけに人工弁を着けても、血栓が出ないように検査も必要だ。彼らは一生薬から逃れられないんだよ」
「そうなんですね」
「あの子達の夢は、友達とサッカーとか野球をしたいんだとさ…医者とかパイロットとか、そんな憧れの仕事じゃなくて、みんなが普通に出来る事を夢見てるんだ。我々はあまりに無力だよな…いい大人がガン首揃えても、その子達を全員救えないんだ…」
「なんか…自分が恥ずかしくなりました…」
「うん、その気持ちを忘れないでくれ…我々は医療機器で患者を救うという、使命を持つ仕事をしてるんだよ」
「はい、肝に命じます!」
そう言った直也の顔は、暗い闇にいた時とは違い、上を見て一歩踏み出す思いに溢れていた。
それから二週間後の夜。
平成のオフィスに里帆が訪れた。
「ヘイさん!」
「おっ、大女優さんか!」
「それやめて!」
「彼はどうだ?」
「うん、頑張って仕事に行ってる。本当にありがとう…」
「彼の能力が評価されたんだ、俺は何もしてないよ」
「ううん、ヘイさんが居なかったら彼は…」
また涙が出た。
「泣き虫だな…」
「だって…」
「これから二人で幸せになれよ…」
「ヘイさんは?」
「ん?オレか…オレは自分で生きたいように生きるさ」
「一つだけ…」
「なんだ?」
里帆が不意に近寄り、柔らかい唇が平成と重なった。
それは長くも短くも感じた。
「これが私に出来るお礼…」
「こんなコトして彼に怒られるぞ」
「あら、私は女優よ!キスの一つや二つぐらい誤魔化せるから!」
「それもそうか…」
二人は微笑んだ。
「じゃあ行くね!」
「あぁ…頑張れよ」
ドアを開けた時、里帆が振り返って言った。
「今度の映画ね、若い女性が独身のオジサンに恋する物語なの…ホントになっちゃった!」
「えっ?」
「バイバイ!」
里帆は平成に恋した。
でも、叶わない恋とも知っていた。
平成は東京の夜景を眺めながら、里帆の柔らかい余韻に浸りつつ、彼女らの幸福を祈った。
独り身が少し寂しく感じる時でもある。
同時に、何かとパーティーに呼ばれる時でもある。これが面倒でもあった。
医療機器業界は一般的ではない為、割と地味な傾向にある。業界のパーティーも同じで、毎回同じ顔ぶれで、代わり映えしない感じだ。
だが、今回は趣向が変わった。
スミスインターナショナルの佐田が、テレビ局と大々的なスポンサー契約を結び、その縁で業界から、モデル、女優、歌手などが参加した。
この地味な業界を知ってもらい、新たな人材の確保や活性化を狙ったものである。
派手な事が好きな佐田らしい決断とも言えた。
平成には、あまり興味が無い。
元々テレビはニュースぐらいしか見ない。
流行りの話題にはついていけない。
佐田が壇上で弁を熱くふるう姿は、パフォーマンスとは言え中々のものだった。
平成は肩を叩かれた。
振り向くと、オートメディックの日本支社長を勤める河原浩二がいた。
「ご無沙汰です、目黒さん」
「お久しぶりですね、お元気そうで…」
「売れてますねぇ、Jプローブは…」
「いえいえ、そんな気にするほどのモノじゃないですよ。河原さんはスポンサーにならなかったのですか?」
「ウチのやり方はご存知でしょう」
「まぁ、確かに…」
かつて在籍していたオートメディックの考え方はスミスインターナショナルとは真逆の思考と言える。
派手なスミス、地味なオートメディック。
その構図は業界なら誰もが知る。
「アナタがウチに戻ってくれたら、百人力なんですけどねぇ」
これも何度も言われている。
「その話はやめましょうよ、私は今の環境がいいんですから」
「まぁ、そうですよね。自分の開発した製品が世界で売れる…これはこの業界なら誰もが夢見る物語だ、それを実現するんだから大したモノですよ」
「たまたまです」
「ところで、また佐田さんに誘われたとか?」
流石に情報が早い。
「いえ、無いですよ」
惚けた。
「いやいや、聞いてますよ。なんでも美女と居る時に誘われたとか…」
「誰から聞いたんです?」
「まぁ、風の噂ですよ」
「噂なら間違いですね」
こうして、平成は佐田と河原から誘われるが、どちらも断り続けている。
本国から買収しろ、と言われてるのが明白だ。
「ちょっと失礼…」
平成は、タッグを組んでる販売メーカーのアイエス社長の小泉に声をかけた。
「あ~目黒さん」
「社長、いらしてたんですね」
「ええ、もう佐田さんや河原さんにイヤミ言われて参りましたよ」
「同じですね」
「相変わらずですか?」
「売ってくれの一言です」
「諦めが悪いですねぇ」
「私は賛同して頂いて、資金まで出してくださった社長を裏切る事はしませんよ」
「嬉しいコト言ってくれますね」
「いえ、恩は忘れない主義です」
「改良品はどうですか?」
「はい、イケると思います、試験結果も想定通りの数値でした」
「おぉっ、それは楽しみだ。目黒さんのおかげで、我社の売上も十五パーセント上がりましたからね」
医療機器メーカーは、大きく三つの形態に分かれる。
スミスやオートメディックのような海外資本の製造メーカー。この場合、日本は販売のみで製造や研究開発部門は持たない。
もう一つはアイエスのように、海外メーカーと契約して輸入販売を生業とする形態。この場合、製造や研究開発が無いので、資金的な負担は少ないが、契約が終わったり海外で買収劇があると売れなくなるケースもある。
三つ目は純国産の製造メーカーだ。これが一番シェアが少ない。
医療機器業界の七割が外資系製品である。
これも日本の市場が、世界の中で大きくないことを示す形になる。
「そういえば、今日は派手ですね」
「テレビ局も絡んでるみたいですね」
「私なんかミーハーですから、サイン貰いまくってますよ」
平成は小泉と改良品の話を済ませて別れた。
トイレを済ませて、会場に戻る途中で声をかけられた。
「目黒社長?」
振り向くと知らない女性が、赤いドレス姿で微笑んでいた。
「失礼ですが、どこかでお会いしましたか?」
「私、佐伯里帆です。知ってます?」
分からなかった。
里帆はムッとした。
戸惑ってると、佐田がやってきた。
「これは珍しい」
「あら、佐田社長!」
「佐田さんのお知り合いですか?」
「何言ってるんですか!佐伯里帆さんをご存知ないのですか?」
「いや、まぁ…」
「今、注目されてる女優さんですよ」
「それは…失礼しました…あまりテレビは見ないものですから」
「それはいけませんねぇ…」
里帆は佐田にまんべんの笑顔を見せた。
そして自分を知らない平成には、まるで田舎モノをバカにするような目つきをした。
プライドを傷つけたか?
「挨拶したのに、私のこと知らないって…」
「それはヒドイな…私は目黒さんの事を彼女に教えてたんですよ。たまにはドラマでもご覧になってはどうですか?」
「ちょっと失礼…」
佐田はトイレに向かった。
途端に里帆の口調が変わった。
「佐田社長から聞いたけど、何でも社長を困らせてる人がいて、破格の待遇を蹴飛ばされたって…それがアナタだって!」
「そんな事まで話してたんですね。彼は…」
「そんないい話をどうして断ったの?」
一気にタメ口になるあたり、女優らしいと言えばそうなのだが。
「君には関係ない話だと思うが…」
「バカなの?普通は喜ぶモノよ」
「そうだな、バカだから蹴ったんだ」
「はぁっ?」
「ついでに言っとくが、女優がどれほど偉いのか知らんが、初対面相手に口の聞き方も芸能界は教えてくれないのか?それとも、親の教育が悪いのか?敬語もキチンと話せないなら黙ってろ!」
里帆はワナワナと真っ赤な顔をした。
久々に血が登った。
「佐田の後ろ盾があると思っていい気になるな。人気商売なら我慢も覚えろ!それに…」
「なによ!」
「大物ほど、相手に敬意を払うもんだ。それも出来ないなら、所詮は三流女優と覚えとけ!」
それだけ言い残して置き去りにした。
里帆は、初めて怒鳴られてバッグを叩きつけた。屈辱を味わうだけでなく、平成の迫力に怯んだ自分にも腹が立った。
会場に戻ると締めの挨拶をしていた。
河原が何か言っていたが、頭に来てたので何も聞かずホテルを出た。
このままでは眠れそうに無いので、どこかのバーに寄ってから帰ることにした。
渋谷に出て、ひっそりとしたバーに入る。
薄暗い店内で、客は若い男が奥の席に一人で居るだけだった。
カウンターでバーボンを頼んで、マスターと話していた。
三十分もすると扉が開いて、若い女性が入ってきた。
平成は構わず飲んでいた。
女性は奥のテーブルに行き、男に話しかけた。
「ごめん、遅れた」
「遅れんなや!」
「ごめんなさい」
男は不機嫌な顔でスマホを弄ってた。
「ところで出せよ」
「あっ、うん…」
女性はカバンから封筒を出した。
その中身を確認して、男は「じゃあな」と残して去った。
女性はただ見送るだけだった。
狭い店内で、会話は丸聞こえで平成も貢いでる事ぐらいは察した。
女性がカウンターに来て、ビールを頼んだ時に目があった。
「あぁぁぁっ!」
「えっ!」
里帆だった。
「ちょっと!なんでアンタがここに居るのよ!」
「偶然だ!俺の方が先に来たんだ!」
里帆は、ふてぶてしくカウンターに座り、出されたビールを一気に煽った。
女優が惚れて男に貢ぐ。
映画なら分かるが、現実にはバカとしか思えない。
女性もそれを知りつつ抜け出せない。
「ありゃダメだな…」
ボソッと呟いた言葉に里帆が反応した。
「なによ!」
聞かれても平気だった。
「女優が金で男でも買ってるのか、と思ったが…そうでも無さそうだな」
「アンタに何が分かるのよ!」
完全なる敵意の剥き出しに、平成は笑いそうになった。
「ますます男をだめにしてるだけだな」
「うるさい!黙ってろ」
「それに、あの男ヒモだろ?」
いきなりのセリフに里帆はたじろいだ。
「ち、違うわよ!」
「金渡してたもんな…」
里帆はマズいと感じた。
人気女優が男と密会してるなど、マスコミにリークされたら終わりだ。
せっかくスミスインターナショナルの、イメージキャラクターとして契約したばかりだ。
里帆は青ざめた。
証拠は無いが、タレ込みされたら後をつけ回される。そうなれば時間の問題だった。
全てが瓦解する。
今の時代に不倫とは違うが、恋愛沙汰は下手すれば叩かれる。
復帰も出来るか分からない。
こんな場末のバーで致命傷に出会うとは想像もしてなかった。
それらが一気に脳内を駆け巡り、里帆は無言になった。
平成はそんな里帆の表情から、一気に同情してしまった。
性格もあるし、金に困ってる訳でも無いのもあるだろう。
仕方無しに声をかけた。
「少し話すか?」
無言で見上げた目には涙が溢れていた。
仕方ないか、と気を取り直してマスターに顔を向けた。
「個室あるかな?
「奥の事務所しかありませんが」
「使っていいかな」
「どうぞ」
何があっても黙って口に出さない。
バーのマスターらしく、騒ぎ立てる事はしない。これもプロなのだ。
「ほら、これ飲んで落ち着くんだ」
平成は、マスターに頼んでホットミルクを作ってもらった。
「話せ、少しは楽になる」
里帆は一口飲んで俯いた。
「あいつは誰なんだ?」
「…誰にも言わない?」
「約束する、オレは利害がないからな。それに金もあるから強請ることも無い」
躊躇していたが、堪らず口を開いた。
「彼は…アタシの好きな人…」
「うん、それで?」
「まだ、売れてない頃に劇団で知り合ったの」
「演技仲間か」
「明るくて、私が落ち込んだ時も励ましてくれた…演技も上手くてアタシなんか及ばなかった…」
「そんな実力があるやつが、なんでヒモみたいなことしてんだ?」
「ヒモなんて言わないで!彼は違うの!」
里帆の目が鋭く光った。
その迫力に平成は気圧された。
「ある日、稽古の帰りに不良五人に絡まれたの…」
「それで?」
「アイツらは私を狙ってた。彼はアタシを離そうと抵抗した。でも、それがアダになったの…」
「返り討ちに?」
里帆は無言で頷く。
「落とした台本で目を殴られたの。それで彼の右目が…」
「失明した?」
「うん…当たりどころが悪くて、血がいっぱい垂れて…」
「じゃあ隻眼なのか…」
「でも、それだけじゃなかったの…彼はそれ以来…台本を見ると頭に痛みが走るようになったの…」
「ある種のトラウマだな」
「台本を読めない役者なんて、通用する筈が無い…何度も何度も頑張ったけどダメだった」
「なるほど」
「それからの彼は荒れるようになったわ…そして私がたまたまオーディションで合格して売れるようになったの…」
「君は罪悪感から彼に?」
「アタシを守って彼は片目を失った。そして役者の道も奪われた…どんどん荒れて…」
「彼は仕事してないのか?」
「元々工学系の大学を出て、設計の資格も取っていたの…なんとか好きだった役者を諦めて就職活動したんだけど、片目が無いって分かると落とされ続けたの…」
平成は、二人の可哀想な運命にやりきれない思いがした。
隻眼でも慣れれば、日常生活も仕事もそれほど影響は無い。
だが、あまりの無知で企業は採用を避ける。
注目女優と無職の男の恋…ドラマならウケそうだが、現実は虚しくなる。
「君も辛い思いを重ねてたんだな」
「アタシはいいの…彼の為なら何でもするって誓ったの…」
その想いが強くしたのだろうか?
平成は、お人好しモードに入った。
「彼がもし設計の仕事に、就けたら変わると思うか?」
「えっ?それは…うん」
「じゃあ一肌脱ぐか…」
「なんで?なんでそんなこと…」
「お人好しなんだよ、こんな冷たい世の中に一人ぐらいお人好しはいてもいいだろ」
里帆の目には涙が溢れていた。
「だが、その前に君も変わる必要がある」
「アタシ?」
「あぁ…君は彼を更にダメにしている」
反抗の言葉は無かった。里帆も理解していたのだろう。だが、女の情と後ろめたさから、こうするしか出来なかった。
「どんなに嘆いても生きる術は、自分で身につけるしかない。他人が手を差し出しても、どう立ち上がるかは自分なんだ!彼に対しては君も強くならなきゃならん!覚悟をつけてもらうぞ」
今度は、里帆が平成の迫力に気圧された。
「何するの?」
「これから考えるさ」
バーから三日後。
平成の携帯に里帆から着信があった。
「ヘイさん、里帆です」
「おー、今どこだ?」
「大阪にロケ!」
「戻れるのか?」
「これから東京に戻るの。その後はオフだからそっちに行ってもいい?」
「おー、待ってるぞ」
会ったその日に、
三流女優と罵られた事など忘れてるようだった。
夕方六時にもなると、外は全面暗くなり街の光が映えだす。
ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
「こんばんわ!」
「よく来たな…」
「へぇ…意外と地味な部屋…」
「どんな部屋を想像してたんだ?」
「だってお金持ちなんだから、もっとタワマンとか広い部屋かと思った!」
「そんなもん無駄なだけだ」
ソファーに座らせてコーヒーを出した。
「ん!美味しい!これ、カフェで飲むのと変わらないかも!」
「それは光栄だな」
「ところでアタシを強くするって?」
「オレは一つの賭けに出ようと思う」
「賭け?」
「あぁ…彼を打ちのめす!」
里帆の目が丸くなった。
「何する気?暴力振るうの?」
「いや、そうじゃない、でも、場合によってはそうなるかもな。彼は今の社会を憎んでる。それに自分にもだ」
「まぁ、確かに…」
「心に抱えた負の感情を流さなきゃならん。その為には荒療治が必要なんだ」
「ねぇ、でも余計におかしくならない?今だって壊れそうなのに…」
「彼の強さに賭けるしかない…どのみち、このままでは遅かれ早かれ堕ちるだけだ」
里帆は不安だった。
何をどうしていいか分からなくて、彼の思う通りにしてきた。抱きたいと言われたら抱かれ、金を望めば与えてきた。
「まず、今後彼の要望は全部無視しろ」
「…うん」
「いいか、絶対に応じてはダメだ。突放せ、君は充分に返してる。彼を想うなら、そうするしかない!」
平成の強い口調に押された。
里帆もどこかでそうしたかった。
だが、その機会が分からなかった。
誰かに後押しされない限り、自ら飛び込めるものでも無い。
「…分かった!やる!」
「彼が大学時代に取った資格ってなんだ?」
「たしか…立体図の設計一級って言ってた」
「それって3DCADのことか?」
「あっ、そうそう!なんか難しくて覚えられなかったけど、そう言ってた」
「そりゃすごいな…それでも職が無いとはな」
「彼もイケると思ってたけどダメだったから、ヤケを起こしたの…」
夜七時を回り、外は完全なる都会の夜景になり、車のライトが目立つようになった。
「お腹空いた…」
「なんか食いに行くか?」
「そうしたいけど…」
里帆の歯切れが悪くなった。
「どした?」
「なんか、ここのところ付けられてる気がして…」
「なんだって?」
「もしかしたら週刊誌の記者とかかな…」
「そうか、君は女優だもんな。ありえる話だ」
「人と会うときも気を付けないとダメなの」
「それも有名税ってやつかな」
里帆は窓から外を眺め、下の方に目をやった。
「あっ!」
「ん?」
「あの車…」
「どれ?」
覗くとワンボックスカーが止まっている。
「あれがどうした?」
「見たことある!」
「なんだって?どこでだ?」
「あの屋根に8って書いてるでしょ?アタシのマンションにも止まってた!下を見たらあれが見えて変だな?って思ってたから」
「なるほど、つまりあれは社用車なんだな。上から見た時に、他の車と区別出来るように書いてあるんだろう」
「じゃあご飯はダメだね…」
「いや、そうでもないぞ」
「なんで?」
平成は笑った。
「少し待っててくれ」
そう言って奥の部屋に消えた。
ほどなく着替えて戻ってきた。
スーツから、カジュアルなジャケットにパンツ姿でドライビングシューズを履いていた。
「まさか、一緒に出るの?」
「あぁ…人気女優とのデートなんて滅多に無いからね、安心しろ…」
不敵に微笑む平成にドキッとした。
部屋からエレベーターまで警戒しながら出た。
「ここは駐車場まで直結してるんだ」
地下の駐車場に入り、リモコンを押すとゲージが上り、下からスカイラインが姿を表した。
「ちょっとしたミッション・インポッシブルかもな…ハハッ」
ここは正面玄関の真裏から出る。
しかもここに入るだけでも、パスワードが無いと入れない。
「これ…動くの?」
「そうバカにしたもんでもないぞ」
車に乗り込むと、平成は携帯を弄りだした。
「よし、これでいい!」
「大丈夫なの?」
平成は不安げな里帆に微笑んだ。
「任せろ、いい店があるんだよ」
エンジンをかけてアクセルを踏む。
少しばかりの暖気を済ませて、アクセルを踏み込む。
エキゾーストノートから、太く響く音がする。
グローブを付けて、ゆっくり発進させた。
スロープを上り、左右を確認する。右側に人影が見えた。
「見つかったかな」
「えっ!」
「行くぞ」
携帯を里帆に渡した。
「持っててくれ!」
平成のオフィスビルから、首都高速インターは近い。
信号が赤になり止まると、後ろにライトが迫った。
(来たな…)
平成は芝浦インターを目指した。
そこからC1の環状線に向かう考えだ。
インターのスロープを上がると里帆に一言告げた。
「携帯の再生を押してくれ」
里帆は言われるのがままに押した。
ギターのリフが効いた音が車全体から流れた。
「これなに?」
「Shoot&Thrill」
「どういう意味?」
「スリルな一撃だ!」
途端にアクセルを踏み出した。
タコメーターが一気に上がる。
「きゃ!」
「捕まってろ!」
平成はシフトをセカンドからサードにアップした。車の隙間を抜けて、スカイラインはチーターのように、しなやかに駆け抜けた。
夜でも首都高速は車で溢れる。だが時間帯によっては、快適な流れで走れる。
シフトを上げては下げ、車間を図りながらすり抜けて走った。飯倉からトンネルに入り、走行車線と追越車線をジグザグに走った。
バックミラーには、なんとか付いてくるワンボックスカーの姿が見えた。
トンネルを抜けて、八重洲、呉服橋を通過すると、レインボーブリッジが左手に見えてきた。
相変わらず、浜崎橋JCは車の流れが多い。
一旦、芝浦インター方面に車線を変える。ワンボックスカーも付いてくる。
ここで振り切る作戦に出た。
いきなり、台場方面の車線に切り替える。ワンボックスカーも付いて来ようとするが、他の車に邪魔されて動けない。
「きゃ!」
里帆の体が揺れる。
「ち!ちょ」
平成の横顔に不敵な笑みが浮かんだ。
その横顔に「男」を感じてドキドキした。
11号線に入り、レインボーブリッジを渡ろうとすると平成は呟いた。
「まだいるな…」
「後ろに?」
「あぁ…今度はバイクだ、考えたな」
その連中は万が一を考えて、車とバイクの二段構えで張り込んでいた。
「だが、それが命取りだ!」
アクセルを更に加速させる。
スカイラインは湾岸線に入った。
「バイクってあれ?マズいんじゃないの?」
「安心しろ!ここはバイクには不利なんだ」
一気にメーターが150キロを振り切る。
シートに押されるような圧力がかかる。
バックミラーのバイクが小さくなる。
湾岸線は晴れても風が強く吹く。
スピードの出る高速で、150キロをバイクで出すのは勇気がいる。
不安定過ぎて、少しの横風でふらついてしまう。しかも車もそれなりにいて、特にトラックが多い。トラックの近くは気流
恐怖心がドライバーを襲う。
スカイラインは、湾岸線から横浜に向かった。
「もう安心だ」
スピードも普通に戻った。
「もぉ!漏れそうだったじゃない!」
「スマン、楽しんでしまった…」
「死ぬかと思ったよぉ!」
「人気女優、車でお漏らし…これ記事になるか?」
「ばか!」
二人は中華街に入り、車を止めて小粒な店に入った。
「ここは?」
「隠れた名店!個室もあってな、有名人への配慮もしてくれる」
「へぇ…」
「ヘイさん!久しぶり!」
「しばらく!奥いいかな」
「あいよ!」
席について、チャーハンを注文した。
「ここのは絶品だぞ」
「そうなの?」
「ヤミツキになる」
「ねぇ、いつもあんな運転してるの?」
「まさか、特別だよ」
「なんか今の男連中と顔が違ってた」
「どう違う?」
「なんだろ?…男臭い顔!…かな」
「まぁ、俺達はバブル世代の肉食連中だらけでな。あの車は、そんな無骨な男が憧れて乗ったやつでな」
「そ~なんだ。でも、ちょっとカッコよかったかも…」
「たまにはオヤジも悪くないだろ?」
二人は絶品チャーハンで腹を満たして、店を後にして再び高速に乗った。
「あの車どうしたかな?」
「たぶん、君の家で張ってるか、諦めたかだな」
「どうしようかな…」
「とりあえず、マネージャーに迎えに来てもらうか、近くで降ろすか、どちらでもいいぞ」
「うん、じゃあ近くで降ろしてくれる?」
それから一週間して。
里帆から連絡が来た。
「彼と会うことになったの」
「分かった。ここに連れてきてくれ、後はコッチで何とかする」
台本では、雇ってくれそうなところがあるから面接も兼ねて呼ぶ形にした。
一時間して二人がやってきた。
一応、スーツを着ているが彼の雰囲気は、完全に暗く闇に包まれてるような感じだ。
「どうぞ」
ソファーを勧めた。
「初めまして」
「目黒平成です」
「明石直也です」
「彼女から聞いてるけど、片目が見えないって?」
平成はワザとぶっきらぼうな態度を見せた。
「まぁ…」
「どんな仕事したいの?」
「…何でもいいす」
「したいことないのか?」
「どうせダメなんでしょ?」
「なるほど、障害者のヒネた根性が染み付いてるな」
「はっ?」
直也の顔色が変わった。
「彼女のヒモなんだって?」
挑発が始まった。
「ヒモじゃないです」
「彼女の稼いだ金で暮らしてんだろ?ヒモだろう」
「違う!」
「なんだ?無職のクセにプライドだけはあるのか?」
「君がなんで仕事に就けないか、理由を分かってるのか?」
「片目だからだよ!」
「それだけじゃないな」
「はっ?何言ってんの!」
「そんな卑屈な根性だから、誰も雇わないんだ」
「アンタに何が分かる?五体満足なアンタにオレの気持ちなんて分からんだろう!」
「分かりたくもないね、女に寄生して好き勝手にヒネてく男の気持ちは分からんよ」
直也は立ち上がって、帰ろうとした。
「また、逃げるのか?ヘタレな男だな」
直也の目は怒りで満ちていた。
「オッサン!いい加減しろよ」
「おっ、怒りはあるのか!虫にも怒りはあるんだな」
「テメェ…」
鞄を叩きつけ、テーブルを蹴飛ばした。
「女かばって片目失って、それを女のせいにして金を巻き上げて暮らすってのは、どんな気分なんだ?」
直也は、平成の胸ぐらを掴んだ。
「片目だってオッサンなんかに負けるかよ!」
「やってみろよ、クズの寄生虫が!」
平成の挑発に、直也は爆発寸前だった。
里帆は、我慢していた。
平成から釘を刺されて、動く訳には行かなかった。
「知ってるか?ヒモはヒモのままでは生きては行けないんだよ、いづれ捨てられるだけだ」
直也の手に力がこもる。
「殺すぞ…」
「ほぅ、寄生虫に出来るのか?片目のクセに!」
医療業界にいる平成にとって、障害者に卑下た言葉を言うのは辛かった。たとえ演技でも心が痛む。
直也は右手で、平成を殴った。
ゴブッと、鈍い音がした。
里帆は驚きで声を出せない。
かなり痛かった。
学生の時以来、殴られるなんて無いから骨までズキズキした。
「やったな…これでおあいこだぞ」
平成は左手で、完全な死角となる右目側の頬を殴った。
不意をつかれたらしく、直也の手が離れグラついた。
「ほら、来いよ!ゴミクズ!」
平成の挑発は続いた。
ジムで鍛えてるから、ダメージはそれほどではないが、若い奴らの機敏な動きに反応するのが精一杯だった。
平成は死角の右側から攻めた。
直也の拳が腹に直撃し、すかさず直也の顔を殴る。
しかし平成には分が悪い。
やっぱり年齢には勝てない。
「テメェ!オラァ!」
もはや、手は一つしか残ってなかった。
胸ぐらを捕まれた時に、その手を捻った。
そこから右の顔を連打で殴った。
もう体力の限界だ。
直也は余力はあるが、連打されて脳がグラグラした。
平成は息荒くその場に座り込み、直也はソファーに倒れた。
「卑怯だぞ…」
直也が呟いた。
「ハァハァ…何がだ?」
顔や身体に鈍い痛みが走る。
「見えない右ばかり攻めやがって!」
「当たり前だ、戦いに卑怯はあって当然だ…ッツ…甘ったれんな!」
「なんだと?」
「いいか、社会で生きる為には、相手の弱点を攻めるのは当たり前なんだ。その弱点を克服するのが自分の強さなんだよ!」
口を開くと痛みが走る。
ダメージは平成の方が大きい。
「仕方ねーだろう!どんなに頑張っても誰も見やしねぇ!片目だからって差別されて、バカにされて…生きる方法なんて分かんねーよ!エラそうに言うな!お前の説教なんざ聞きたくねぇーよ!」
「説教?君に説教なんてする気はない」
「あん?」
「ホントは彼女の施しを受けてるのもイヤなんだろ?」
「…」
「誰かに必要とされて、自分のやりたい事をして生きていければいいんじゃないのか?」
「そんなこと…そんな場所がねーから…」
直也の顔が曇った。
「なら、チャンスをやる…イテ…」
涙に溢れた里帆と直也は、同時に平成を見た。
「ヘイさん…今なんて…」
「本気で求めるなら、君の心にある憎しみも取っ払って生きるなら…チャンスだけは与えてやる…それを掴むかは君次第だ…」
「どういう事だよ…」
「3DCAD一級の資格を持ってると聞いた、間違いないか?」
「あ…うん」
「なら、面接のチャンスを作ってやる。ただ条件は、本気で自分と戦って前を向いていける気持ちがあるかだ」
「本気で…」
「その社会や人を憎む気持ちなら、その資格も持ち腐れになる。何をしても長続きしない!唯一、やっていけるのは自分の負の心を無くして、人生と向き合う覚悟があるかなんだ。それがこれからの自分、そして彼女との将来を確かなものにできる。本気でそう思えるか?」
直也は黙り込んだ。
「一日やるから、一人でじっくり考えろ。やる気になったら、明日ここに来い。イヤならそこまでだ!」
直也は無言で立ち上がって、オフィスを出ていった。里帆も後に続こうとしたが、平成に止められた。
「イテテ…はぁ、慣れないことするもんじゃないな…アタッ!」
「無茶だよ!」
「確かにな…おかげで病院で検査しなきゃな」
「ねぇ、アレで直也が立ち直るの?」
「ん…それは彼次第だ…」
平成は信じていた。直也が明日ここに来る事を。それは単なる勘でもあるが、数多の人生経験から得た勘とも言える。
翌日。
昼前に出掛ける用意をしている時。
オフィスに直也が来た。
「よく来たな…考えは固まったか?」
「はい…オレ…やっぱり仕事して里帆とやり直したいです」
「うん、それでいい…」
それから二週間後。
直也は平成に連れられて、アイエスの小泉と相対した。
「聞いてますよ、私が小泉です」
「初めまして。明石直也と言います」
履歴書を見ながら、小泉は平成と殴り合いした話を笑いながら聞いていた。
「今どき、殴り合いなんて昭和ですねぇ!」
「いや、恥ずかしいやらですが」
平成も笑った。
「ヘイさんも若いですな!」
「いや、ダメでしたね!彼のフックにヤラれましたよ」
「ところで、明石さんは右目が見えないのですか?」
「はい、ですが日常生活や仕事には影響ありません」
「うん、結構ですよ。それはマイナスにはならないので。能力を見たいから、簡単なテストを受けてもらいますが…いいですか?」
直也は驚いた。あれだけ拒否された隻眼を、受け入れてくれた。
「実はウチの会社は海外から医療機器を輸入販売してるんだが、今後は自社開発にも力を入れようと方策を転換している時なんです。そのキッカケをコチラの目黒さんがくれてね。その為に、ウチにも設計者が必要なんですよ。一人いるんだが、ちょっとオーバーワークなのでもう一人募集しようかと思ってたんです。そこにちょうど目黒さんから紹介を受けたので。ウチは明石さんぐらいのハンディは気にしませんが、欲しいのは能力なんです。だからテストさせてもらいます」
別室に案内された。
そこにはパソコンが二つ並んでいて、一人が座っていた。
「ウチの設計者をしてくれている、開発部の是枝クンだ」
是枝は一礼した。
「私は分からんから、テストは彼がやる」
「よろしく」
握手を交わして直也は席についた。
「ゼクスは扱えますか?」
「はい、大丈夫ですが…」
3DCADソフトとして有名なゼクスは、設計者なら大抵は扱っている。
「ここに二次元の投影図があります。これから三次元のソリッドモデルに変換してもらいたい。制限時間は二十五分」
「…分かりました」
「では、私も」
是枝は隣の席に座って、タイマーに手をかけた。
「では…スタート!」
二人が同時に動き出した。
二次元図面から、サイズや形状を判断して三次元モデルを作るには全体のサイズからイメージするのが定番だ。
二人ともソフトを使いこなして、図を作り出していく。
やがてタイマーのアラームが終了を告げた。
「そこまでだ!」
小泉の声で作業を止めた。
図を印刷して二人とも、小泉に見せた。
「合格だな…」
二人とも同じ図を描いていた。
もちろんサイズも同じである。
「是枝クン…どうだ?」
「実は、この中に引っ掛けを作ったんですけど見抜かれましたか?」
直也は笑顔で答えた。
「はい、ここのサイズですよね。組み立てると合わない…だから変えました」
「良し!決まりだ。明石クン!よろしく頼むよ」
小泉は改めて手を差し出した。
直也の目に涙が溢れた。
「はい、よろしくお願いします!」
深々と頭を下げた。
二人はアイエスを後にした。
「たぶん、これからオレと仕事をする事になるかもね」
「えっ?」
「オレが開発した機器の改良品をやってるからね」
「はい、そうなると良いですね」
「小泉社長のお子さんはね、重度の障害を抱えてるんだよ」
「!」
直也は絶句した。
「小児の心臓弁膜症でね。遅くに出来たお子さんなんだけど、今も入院中なんだ」
「治らないんですか?」
「小児が厄介でね。子供は成長するから、その度にサイズの大きい人工弁を付け替えなきゃならない…しかも日本製が無くて海外製品しかないんだ。日本の子供より大き目だから、そこに合うまでは何も出来ない…」
「そんな…」
「おまけに人工弁を着けても、血栓が出ないように検査も必要だ。彼らは一生薬から逃れられないんだよ」
「そうなんですね」
「あの子達の夢は、友達とサッカーとか野球をしたいんだとさ…医者とかパイロットとか、そんな憧れの仕事じゃなくて、みんなが普通に出来る事を夢見てるんだ。我々はあまりに無力だよな…いい大人がガン首揃えても、その子達を全員救えないんだ…」
「なんか…自分が恥ずかしくなりました…」
「うん、その気持ちを忘れないでくれ…我々は医療機器で患者を救うという、使命を持つ仕事をしてるんだよ」
「はい、肝に命じます!」
そう言った直也の顔は、暗い闇にいた時とは違い、上を見て一歩踏み出す思いに溢れていた。
それから二週間後の夜。
平成のオフィスに里帆が訪れた。
「ヘイさん!」
「おっ、大女優さんか!」
「それやめて!」
「彼はどうだ?」
「うん、頑張って仕事に行ってる。本当にありがとう…」
「彼の能力が評価されたんだ、俺は何もしてないよ」
「ううん、ヘイさんが居なかったら彼は…」
また涙が出た。
「泣き虫だな…」
「だって…」
「これから二人で幸せになれよ…」
「ヘイさんは?」
「ん?オレか…オレは自分で生きたいように生きるさ」
「一つだけ…」
「なんだ?」
里帆が不意に近寄り、柔らかい唇が平成と重なった。
それは長くも短くも感じた。
「これが私に出来るお礼…」
「こんなコトして彼に怒られるぞ」
「あら、私は女優よ!キスの一つや二つぐらい誤魔化せるから!」
「それもそうか…」
二人は微笑んだ。
「じゃあ行くね!」
「あぁ…頑張れよ」
ドアを開けた時、里帆が振り返って言った。
「今度の映画ね、若い女性が独身のオジサンに恋する物語なの…ホントになっちゃった!」
「えっ?」
「バイバイ!」
里帆は平成に恋した。
でも、叶わない恋とも知っていた。
平成は東京の夜景を眺めながら、里帆の柔らかい余韻に浸りつつ、彼女らの幸福を祈った。
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