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グリムと僕。
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紅に染まった空が瞳を刺した。
焼けた夕暮れ。藍を混ぜ込んだ橙。
インディゴへとバトンを渡そうとする空は赤とオレンジを身に纏った。
そんなサマが、幼少の僕にはとても印象的だった。
僕があの男と出会ったのは、遠く透き通るように伸びた水色の天井が憎らしいほどによく似合う――それはそれは爽やかな日だった。
その日は、とんでもないことに起床予定時刻から2時間もオーバーして起床するというスペシャル特大朝寝坊をしっかりと決めて、大絶叫ののち家を駆け出たサイアクな始まりだった。焦りからか何度足を前方へ突き出してもカラ回って思うように歩は進まないし、電子決済に慣れきった愚かな脳は現金の存在を忘れて財布を家に置き去りにした。幸い、電子マネー自体はちゃんと融通が利く程度には入っていたから移動には問題は起きなかった。…………僕の昼食が無くなっただけで。
まったく、なんで電子決済が主流になった今でも学校近くの商店は現金なんだよ。導入してくれ電子決済。そのくせ、店の婆ちゃんお手製おにぎりは量もあって味も美味いんだから憎めない。くそ、食べたい……現金ない…くそぉ……。
「婆ちゃん!このとーり!明日ちゃんと持ってくるから!!」
「ダメに決まってんだろ。さっさと学校行きな寝坊助」
意に介さず、ってこういうことを言うんだろうなぁ……。
商店に着くなり僕は両手を勢いよく叩き合わせて、馴染みの婆ちゃんもといこの麗しい天女様を崇め奉った。日頃の感謝と婆ちゃんが作るおにぎりがどれだけ美味いのかも添えて。艶やかな純白のきらめきを纏い踊る八百万の神々、その白をより印象付けるのは緑と黒が混ざり合った海の香りがする外套。しっとりとした手触りは柔らかく指先を受け入れ、歯を立てた先には米と互いを引き立たせ合う具材たちが――などと色々まくし立ててみたけれど、その戦果は芳しくなかった。全然相手にしてくれない。当然といえば当然だけど。金が無ければ買える訳もない。
「婆ちゃん~~」
「ダメなもんはダメ」
流石は長年食欲旺盛な男子高校生を相手にしてきた熟練の覇者。泣き落としも褒め殺しも効きはしない。無情にも羽箒のように広げた片手でサッサと払いあしらわれる。僕は埃か。そうこうしている間にも時は我関せずと過ぎていく。今更何時に学校に着こうが変わりはないけれど、体裁ってやつはやっぱりある。遅いよりも早い方が良い。仕方ない。素直に敗北を認めよう。こればっかりはどうしようもない。
諦めて店を出ようとしたその時、くるりと向き合った引き戸の向こうに影が映った。
真夏の昼に見る陽炎を思わせる長々と伸びた黒い影、それが人のシルエットだと気付いたのはガラガラ軽い音を立てて商店の扉が開かれた後だった。すらりと伸びた、否、伸びすぎた手足はだらりと気だるげに胴体に添えられて、2mはゆうにあるだろう頭身は屈むことでようやく玄関サイズに収まってぬるりと店内に入ってくる。デカい。あと、なんか細長い。
けど、何よりも異様だったのはソイツの顔だ。そこに表情なんてものはなく、ただ真っ赤な色だけが存在を主張している。顔の全域を覆い隠す深紅に染まったオペラマスクだけが、ちらりと僕らを見た。
「……すみません、婦人。おにぎり…余ってますか…」
そんな庶民的な言葉と共に。
「あぁ、グリムさんか。残ってるよ。おかかと梅でよければ」
「それは良かった。ご婦人のおにぎりはとても美味しいので…」
「あらまぁ、嬉しいねぇ!」
「……でっか…」
漆黒のスーツに黒の手袋とシルクハット、とどめに靴もズボンも全部真っ黒。黒、玄、クロ、くろ……どこまでもまーっくろ! 婆ちゃんの反応を見るにこの長身は店の常連らしい。店のカウンターまで歩いてきたソイツのデカさに思わず声が漏れた。隣に並んでみて改めて思ったがデカい。僕だって170は超えてるのに……それでも、見上げて余る程度にはデカい。あとやっぱり細長い。利用時間が違うからだろうけど、こんな人初めて会った。この目立ちっぷりなら何か噂になっててもおかしくないだろうに、てんで聞いたことは無い。
この店は高校生が何人も利用している人気店だ。当然その中には噂好きな男女だって含まれる。学生の振り撒く噂の種は多種多様。ちょっとした小さなオカルト話から誰かがしている片想いまで、どうでもいい話も含めるなら相当な数がある。……だというのに、この人の話は聞いたことがない。グリムさん、って言ってたっけ? 外国の人なのか……じゃあ、これだけデカい人でも納得かも……。
「……あ。す、すみません。選んでいましたか?」
「え? ……あ! ちが!」
思わず見上げ呆けているとオペラマスクと目が合った。『横入りされた』、そう誤解してしまったらしい男はその長身からは想像もできないほど弱り切った声音で申し訳なさそうに頭を下げている。なんでだろう……。オペラマスクをしてるから表情なんてまったく分からない筈なのに……めちゃめちゃ焦り倒してるのが分かる……。漫画だったら今ごろ汗がだらだら流れていることだろう。しまった、誤解させた。けど、どうしよう……。「財布を忘れたので買えません」っていうのは流石に恥ずかし、
「そいつは買えないんだよ。財布を忘れたんだとさ」
「婆ちゃん!?!?!?」
なんで言っちゃうんだよ!!
初対面相手にだって普通に恥ずかしい話なんだぞ! やめてくれ!!
僕の切なる想いは決して届くこと無く、おねしょした子どもをからかうが如く婆ちゃんはカラカラと笑った。くそぅ……財布を召喚できる術式が欲しい……。
狼狽え口ごもる僕を余所に、深紅の仮面はじっと僕を見つめている。なんだよ……財布忘れた奴がそんなに物珍しいかよ…!!!! ぐっと腹に力を込めて苦行に耐え忍んでいると、ゆらり長身が傾いて少しだけ僕との距離が近くなった。目線を合わせてくれたのだ、そう気付いたのはソイツが口を開いてからだった。
「……きみ、好きなものは?」
「…………へ?」
「おかかと梅」
細く針金みたいな指がおにぎりを指す。どっちが好き? って、ことだろうか…。
「僕は、おかか……」
「そう。……ご婦人、おかかと梅をそれぞれ二つずつ。私と彼の分を」
「あいよ。あんた良かったねぇ、ちゃんとお礼言うんだよ」
止める間も、口を挟む間もなくて。あれよあれよと言う間におにぎりはビニール袋に詰められ、僕の手にはおにぎりが二つ入った袋が持たされていた。袋に入れられる間際、おかかと梅が描かれた見覚えのあるラベルがちらりと見えた。呆気にとられるっていうのもきっとこういうことなんだろう。ハッと気付いた時には恩人はまたあの細く伸びた身体をぐにゃりと曲げて、今まさに帰ろうとしているところで……。
「ま、待って!!」
慌てて僕はその背を追いかけた。
「うん?」
「ん? ……じゃないって! お金!!」
「いいよ、気にしないで。食べ盛りなんだ、ちゃんとお食べなさい」
飛び出した店の外。そこには青々とした空が広がっていた。夏の抑圧によって縮こまっていた天井は、少しずつその奥行きを取り戻しつつあって……その広がった分を、この人は埋めるように高く伸びていて……。青と緑とコンクリのコントラスト、その中に混ざる黒い体躯と深紅のオペラマスク。混ざり合うようで、どこか異様で、けれど馴染んで見えて、でもやっぱり溶け合うことは無い。まるで、外側から無理やり接着剤かなにかで馴染ませてるみたいだ。
そんな異常で平凡な世界の中、僕はどう二の句を紡ぐべきかを考えあぐねていた。だって、別に無理に突き返す必要も無いんだ。貰った厚意を無碍にする必要も、否定する必要もない。しいて言うなら、何かお礼がしたい。でも、お礼をしようにも財布は無い。そんな訳で、どう言葉を繋げるべきか悩み続けている。
「あぁ、それともおにぎり交換するかい? いくら好きでも同じ具材よりバラバラの方が良いかなと思ったのだけれど。おかか、二つが良かった?」
「いや、それは大丈夫です……」
「そう? なら、きみのオススメを私も楽しませていただこう」
ルンルン。表情なんて変わらないのに、不思議と音符が辺りを飛び跳ねて見える。不思議な人だ。完全に変人……というか、本来ならお近づきになんてなりたくないような見た目をしてるのに。この物腰柔らかな空気や口調を味わっていると「なんだこの良い人」と思わざるを得ない。紳士的で、かといって大人過ぎない無邪気さが庇護欲を擽る。
多分、上手いんだと思う。人の懐に入り込むのが。するりと入って、すとんと腰を下ろして、かといって踏み込まない。変な見た目なくせに、そういうところは一般人よりも上手いんじゃないだろうか。いや、他人の分析なんて出来るほど頭の良い奴じゃないけど。この感想すらもこの人の思惑通りな可能性もある。けれど、やっぱり悪い気はしない。
「お気持ちは嬉しかったんですけど……その、いいんですか?」
「良いとは?」
「だって、ただの通りすがりというか……浪費っていうか……」
たかが数百円、されど数百円。
この違いを軽く思えるほど、僕の財布は豊かになってはいない。
「いいよ、大丈夫。気にしないで」
「……そう、ですか……。ありがとうございます」
これ以上深く追従することは失礼な気がして、僕はもうこの件についてお礼もお詫びもしないことにした。買ってくれた人が「良いよ」と言ってくれているんだ。なら、きっと僕がすべきなのは喜んだ顔を見せてあげることだろう。
グリムさんのおかげで昼食も入手出来た。あとはこのまま急いで学校へ向かって、生徒指導室に駆け込んで頭を下げるだけだ。……それが一番、いっっっちばん嫌なんだけど……。
「それじゃあ、僕はこれで……」
「あぁ、待って。ひとつだけ良いかな?」
踵を返そうとした寸でで止められる。見上げた顔はやっぱりあの深紅の仮面に覆われていて、表情も感情も何も分からない。影がかかって、見下ろして、暗くなって……少しだけ、不気味だ。けれど、やっぱりそんなぞわぞわとする恐ろしさは長続きしなくて、あの人が口を開けば柔和な音が響いてくる。
「もしも、先ほどのことが……きみにとって、負担に、なったり、…なにかお礼がしたい…と、思ったりしたのなら……」
数秒前まですらすら柔らかく鼓膜を震わせていた筈の声音が、プラスチックよろしく固く強張った。長い指先を擦り合わせ、もぞもぞと体を僅かに揺らす。……緊張、してるのか?
子どものようだ。恥ずかしがり屋の、小さな子ども。目の前に立つこの人は2mは余裕でありそうな巨体なのに。シャイなのか、それほどの緊張感があることを言われるのか。言葉を待つこちらさえもついつい身構えてしまう。
けれど、たっぷり数十秒の時を使ってから、震えた声で発せられた言葉に僕は少しの間呆けてしまった。
――「もし、よければ……私と、…友達になってくれないか?」
「………え?」
「友達、なってくれたら……嬉しいな、って」
「…………とも、だち…?」
虚をつかれた。きっと、今僕の目はビー玉に仲間認定されそうなくらい丸まっていることだろう。『友達になって』だなんて……久しぶりに言われた。高校生にもなったらあんまり聞かない言葉だ。だって、言わなくても友達になっていることが多いから。
「どうして、って……聞いても良いですか?」
特別な理由なんて無い。ただ、聞いてみたかった。
「……どうして、……そうだな。きみは優しいから」
「優しいから友達になりたいと思ったんですか?」
「う、うん……私は…こことは違う場所の生まれでね。生憎そういった縁がなかったから…」
もじもじとあの人は黒々とした指先をすり合わせている。改めて、じっと真正面からあのクリムゾンを見つめてみた。何度見たところで何も変わらない。さっきから見てた訳だし変わる訳も無い。陶器のようなツヤツヤした反射光が少し目に痛いだけだ。それだけ。不快感も、畏怖も、何も浮かばない。友達になることを嫌だと思う気持ちもない。……なら、別にいいか。
「……はい、いいですよ。僕で良ければ」
「ほ、本当に? ……よかった」
「本当に! というか、それなら敬語じゃない方がいい、か?」
「ああ…そうだね。うん、そうしてもらえると…私も嬉しい」
(……あ、笑った)
理由は分からなかった。けれど、確かにこの時僕は彼が『笑った』ことを認識していた。笑い声を聞いた訳でも、笑顔を見た訳でもないのに。一見すれば薄気味悪いそんな現象ですら、僕はもう一切の疑問も持たず受け入れていた。
「ありがとう。初めての友達だ。……えっと、」
「うん? ……あ、そっか。そういえば僕って名乗ってなかったね!? 遅くなってごめん。僕の名前は――」
その時。頬を擽る風が吹いた。愛らしい悪戯をするそよ風に乗って、僕の名前が空気を震わせる。「 」。繰り返すように、言葉を馴染ませるように、彼は僕の名前を数回諳んじた。その声がどこか嬉しそうに聞こえたのは、きっと聞き間違いでは無いだろう。
「……あぁ、良い名だ」
また彼が僕の名を呼ぶ。耳に届いたその音は、愛おしそうにほろほろと崩れていって、……不思議と、むず痒くって堪らず数歩後退してしまった。
「な、なんか……そんなに呼ばれると恥ずかしいんだけど…」
「おや……すまない…。友の名を呼ぶということも初めてだったから…」
シルクハットの乗った頭を困ったように掻いて、グリムは肩をすくめた。変なヤツ。でも、やっぱり悪いヤツではないと思う。仮面の下の素顔も、どんな人間なのかも知らないけれど。もしかすれば詐欺師で、何か悪いことに関わらされたかもしれないけれど。そんな「もしかしたら」は幾つも浮かぶのに、「まぁでも悪い奴では無さそうなんだよな」って結論にこの短時間で何度も至る。
僕って、実は超無自覚なお人好しだったのかもしれない。
「改めて私からも。グリム、そう人々からは呼ばれている」
「うん、よろしくな。グリム」
「ああ…よろしく。私の、初めての友よ」
細く、長い指と握手を交わした。握った感触は見た通り酷く骨ばっていて、筋肉があるのかと疑いたくなる。されど、ぎゅっと握りしめてくれたその掌は……しっかりとした、力強さを持っていた。
「友達になってくれてありがとう」
嬉しそうにまたグリムが『微笑んだ』。
見えないのに、分からない筈なのに、奇妙なことにしっかりと理解出来て僕も笑い返した。
これが、不思議な怪物――グリムとの出会いだった。
紅に染まった仮面が瞳を刺した。
澄み渡る昼中。白を混ぜ込んだ蒼。
インディゴへのバトンを仕舞い込んだ空はスカイブルーを身に纏った。
そんなサマが、あの日の僕にはとても印象的だった。
焼けた夕暮れ。藍を混ぜ込んだ橙。
インディゴへとバトンを渡そうとする空は赤とオレンジを身に纏った。
そんなサマが、幼少の僕にはとても印象的だった。
僕があの男と出会ったのは、遠く透き通るように伸びた水色の天井が憎らしいほどによく似合う――それはそれは爽やかな日だった。
その日は、とんでもないことに起床予定時刻から2時間もオーバーして起床するというスペシャル特大朝寝坊をしっかりと決めて、大絶叫ののち家を駆け出たサイアクな始まりだった。焦りからか何度足を前方へ突き出してもカラ回って思うように歩は進まないし、電子決済に慣れきった愚かな脳は現金の存在を忘れて財布を家に置き去りにした。幸い、電子マネー自体はちゃんと融通が利く程度には入っていたから移動には問題は起きなかった。…………僕の昼食が無くなっただけで。
まったく、なんで電子決済が主流になった今でも学校近くの商店は現金なんだよ。導入してくれ電子決済。そのくせ、店の婆ちゃんお手製おにぎりは量もあって味も美味いんだから憎めない。くそ、食べたい……現金ない…くそぉ……。
「婆ちゃん!このとーり!明日ちゃんと持ってくるから!!」
「ダメに決まってんだろ。さっさと学校行きな寝坊助」
意に介さず、ってこういうことを言うんだろうなぁ……。
商店に着くなり僕は両手を勢いよく叩き合わせて、馴染みの婆ちゃんもといこの麗しい天女様を崇め奉った。日頃の感謝と婆ちゃんが作るおにぎりがどれだけ美味いのかも添えて。艶やかな純白のきらめきを纏い踊る八百万の神々、その白をより印象付けるのは緑と黒が混ざり合った海の香りがする外套。しっとりとした手触りは柔らかく指先を受け入れ、歯を立てた先には米と互いを引き立たせ合う具材たちが――などと色々まくし立ててみたけれど、その戦果は芳しくなかった。全然相手にしてくれない。当然といえば当然だけど。金が無ければ買える訳もない。
「婆ちゃん~~」
「ダメなもんはダメ」
流石は長年食欲旺盛な男子高校生を相手にしてきた熟練の覇者。泣き落としも褒め殺しも効きはしない。無情にも羽箒のように広げた片手でサッサと払いあしらわれる。僕は埃か。そうこうしている間にも時は我関せずと過ぎていく。今更何時に学校に着こうが変わりはないけれど、体裁ってやつはやっぱりある。遅いよりも早い方が良い。仕方ない。素直に敗北を認めよう。こればっかりはどうしようもない。
諦めて店を出ようとしたその時、くるりと向き合った引き戸の向こうに影が映った。
真夏の昼に見る陽炎を思わせる長々と伸びた黒い影、それが人のシルエットだと気付いたのはガラガラ軽い音を立てて商店の扉が開かれた後だった。すらりと伸びた、否、伸びすぎた手足はだらりと気だるげに胴体に添えられて、2mはゆうにあるだろう頭身は屈むことでようやく玄関サイズに収まってぬるりと店内に入ってくる。デカい。あと、なんか細長い。
けど、何よりも異様だったのはソイツの顔だ。そこに表情なんてものはなく、ただ真っ赤な色だけが存在を主張している。顔の全域を覆い隠す深紅に染まったオペラマスクだけが、ちらりと僕らを見た。
「……すみません、婦人。おにぎり…余ってますか…」
そんな庶民的な言葉と共に。
「あぁ、グリムさんか。残ってるよ。おかかと梅でよければ」
「それは良かった。ご婦人のおにぎりはとても美味しいので…」
「あらまぁ、嬉しいねぇ!」
「……でっか…」
漆黒のスーツに黒の手袋とシルクハット、とどめに靴もズボンも全部真っ黒。黒、玄、クロ、くろ……どこまでもまーっくろ! 婆ちゃんの反応を見るにこの長身は店の常連らしい。店のカウンターまで歩いてきたソイツのデカさに思わず声が漏れた。隣に並んでみて改めて思ったがデカい。僕だって170は超えてるのに……それでも、見上げて余る程度にはデカい。あとやっぱり細長い。利用時間が違うからだろうけど、こんな人初めて会った。この目立ちっぷりなら何か噂になっててもおかしくないだろうに、てんで聞いたことは無い。
この店は高校生が何人も利用している人気店だ。当然その中には噂好きな男女だって含まれる。学生の振り撒く噂の種は多種多様。ちょっとした小さなオカルト話から誰かがしている片想いまで、どうでもいい話も含めるなら相当な数がある。……だというのに、この人の話は聞いたことがない。グリムさん、って言ってたっけ? 外国の人なのか……じゃあ、これだけデカい人でも納得かも……。
「……あ。す、すみません。選んでいましたか?」
「え? ……あ! ちが!」
思わず見上げ呆けているとオペラマスクと目が合った。『横入りされた』、そう誤解してしまったらしい男はその長身からは想像もできないほど弱り切った声音で申し訳なさそうに頭を下げている。なんでだろう……。オペラマスクをしてるから表情なんてまったく分からない筈なのに……めちゃめちゃ焦り倒してるのが分かる……。漫画だったら今ごろ汗がだらだら流れていることだろう。しまった、誤解させた。けど、どうしよう……。「財布を忘れたので買えません」っていうのは流石に恥ずかし、
「そいつは買えないんだよ。財布を忘れたんだとさ」
「婆ちゃん!?!?!?」
なんで言っちゃうんだよ!!
初対面相手にだって普通に恥ずかしい話なんだぞ! やめてくれ!!
僕の切なる想いは決して届くこと無く、おねしょした子どもをからかうが如く婆ちゃんはカラカラと笑った。くそぅ……財布を召喚できる術式が欲しい……。
狼狽え口ごもる僕を余所に、深紅の仮面はじっと僕を見つめている。なんだよ……財布忘れた奴がそんなに物珍しいかよ…!!!! ぐっと腹に力を込めて苦行に耐え忍んでいると、ゆらり長身が傾いて少しだけ僕との距離が近くなった。目線を合わせてくれたのだ、そう気付いたのはソイツが口を開いてからだった。
「……きみ、好きなものは?」
「…………へ?」
「おかかと梅」
細く針金みたいな指がおにぎりを指す。どっちが好き? って、ことだろうか…。
「僕は、おかか……」
「そう。……ご婦人、おかかと梅をそれぞれ二つずつ。私と彼の分を」
「あいよ。あんた良かったねぇ、ちゃんとお礼言うんだよ」
止める間も、口を挟む間もなくて。あれよあれよと言う間におにぎりはビニール袋に詰められ、僕の手にはおにぎりが二つ入った袋が持たされていた。袋に入れられる間際、おかかと梅が描かれた見覚えのあるラベルがちらりと見えた。呆気にとられるっていうのもきっとこういうことなんだろう。ハッと気付いた時には恩人はまたあの細く伸びた身体をぐにゃりと曲げて、今まさに帰ろうとしているところで……。
「ま、待って!!」
慌てて僕はその背を追いかけた。
「うん?」
「ん? ……じゃないって! お金!!」
「いいよ、気にしないで。食べ盛りなんだ、ちゃんとお食べなさい」
飛び出した店の外。そこには青々とした空が広がっていた。夏の抑圧によって縮こまっていた天井は、少しずつその奥行きを取り戻しつつあって……その広がった分を、この人は埋めるように高く伸びていて……。青と緑とコンクリのコントラスト、その中に混ざる黒い体躯と深紅のオペラマスク。混ざり合うようで、どこか異様で、けれど馴染んで見えて、でもやっぱり溶け合うことは無い。まるで、外側から無理やり接着剤かなにかで馴染ませてるみたいだ。
そんな異常で平凡な世界の中、僕はどう二の句を紡ぐべきかを考えあぐねていた。だって、別に無理に突き返す必要も無いんだ。貰った厚意を無碍にする必要も、否定する必要もない。しいて言うなら、何かお礼がしたい。でも、お礼をしようにも財布は無い。そんな訳で、どう言葉を繋げるべきか悩み続けている。
「あぁ、それともおにぎり交換するかい? いくら好きでも同じ具材よりバラバラの方が良いかなと思ったのだけれど。おかか、二つが良かった?」
「いや、それは大丈夫です……」
「そう? なら、きみのオススメを私も楽しませていただこう」
ルンルン。表情なんて変わらないのに、不思議と音符が辺りを飛び跳ねて見える。不思議な人だ。完全に変人……というか、本来ならお近づきになんてなりたくないような見た目をしてるのに。この物腰柔らかな空気や口調を味わっていると「なんだこの良い人」と思わざるを得ない。紳士的で、かといって大人過ぎない無邪気さが庇護欲を擽る。
多分、上手いんだと思う。人の懐に入り込むのが。するりと入って、すとんと腰を下ろして、かといって踏み込まない。変な見た目なくせに、そういうところは一般人よりも上手いんじゃないだろうか。いや、他人の分析なんて出来るほど頭の良い奴じゃないけど。この感想すらもこの人の思惑通りな可能性もある。けれど、やっぱり悪い気はしない。
「お気持ちは嬉しかったんですけど……その、いいんですか?」
「良いとは?」
「だって、ただの通りすがりというか……浪費っていうか……」
たかが数百円、されど数百円。
この違いを軽く思えるほど、僕の財布は豊かになってはいない。
「いいよ、大丈夫。気にしないで」
「……そう、ですか……。ありがとうございます」
これ以上深く追従することは失礼な気がして、僕はもうこの件についてお礼もお詫びもしないことにした。買ってくれた人が「良いよ」と言ってくれているんだ。なら、きっと僕がすべきなのは喜んだ顔を見せてあげることだろう。
グリムさんのおかげで昼食も入手出来た。あとはこのまま急いで学校へ向かって、生徒指導室に駆け込んで頭を下げるだけだ。……それが一番、いっっっちばん嫌なんだけど……。
「それじゃあ、僕はこれで……」
「あぁ、待って。ひとつだけ良いかな?」
踵を返そうとした寸でで止められる。見上げた顔はやっぱりあの深紅の仮面に覆われていて、表情も感情も何も分からない。影がかかって、見下ろして、暗くなって……少しだけ、不気味だ。けれど、やっぱりそんなぞわぞわとする恐ろしさは長続きしなくて、あの人が口を開けば柔和な音が響いてくる。
「もしも、先ほどのことが……きみにとって、負担に、なったり、…なにかお礼がしたい…と、思ったりしたのなら……」
数秒前まですらすら柔らかく鼓膜を震わせていた筈の声音が、プラスチックよろしく固く強張った。長い指先を擦り合わせ、もぞもぞと体を僅かに揺らす。……緊張、してるのか?
子どものようだ。恥ずかしがり屋の、小さな子ども。目の前に立つこの人は2mは余裕でありそうな巨体なのに。シャイなのか、それほどの緊張感があることを言われるのか。言葉を待つこちらさえもついつい身構えてしまう。
けれど、たっぷり数十秒の時を使ってから、震えた声で発せられた言葉に僕は少しの間呆けてしまった。
――「もし、よければ……私と、…友達になってくれないか?」
「………え?」
「友達、なってくれたら……嬉しいな、って」
「…………とも、だち…?」
虚をつかれた。きっと、今僕の目はビー玉に仲間認定されそうなくらい丸まっていることだろう。『友達になって』だなんて……久しぶりに言われた。高校生にもなったらあんまり聞かない言葉だ。だって、言わなくても友達になっていることが多いから。
「どうして、って……聞いても良いですか?」
特別な理由なんて無い。ただ、聞いてみたかった。
「……どうして、……そうだな。きみは優しいから」
「優しいから友達になりたいと思ったんですか?」
「う、うん……私は…こことは違う場所の生まれでね。生憎そういった縁がなかったから…」
もじもじとあの人は黒々とした指先をすり合わせている。改めて、じっと真正面からあのクリムゾンを見つめてみた。何度見たところで何も変わらない。さっきから見てた訳だし変わる訳も無い。陶器のようなツヤツヤした反射光が少し目に痛いだけだ。それだけ。不快感も、畏怖も、何も浮かばない。友達になることを嫌だと思う気持ちもない。……なら、別にいいか。
「……はい、いいですよ。僕で良ければ」
「ほ、本当に? ……よかった」
「本当に! というか、それなら敬語じゃない方がいい、か?」
「ああ…そうだね。うん、そうしてもらえると…私も嬉しい」
(……あ、笑った)
理由は分からなかった。けれど、確かにこの時僕は彼が『笑った』ことを認識していた。笑い声を聞いた訳でも、笑顔を見た訳でもないのに。一見すれば薄気味悪いそんな現象ですら、僕はもう一切の疑問も持たず受け入れていた。
「ありがとう。初めての友達だ。……えっと、」
「うん? ……あ、そっか。そういえば僕って名乗ってなかったね!? 遅くなってごめん。僕の名前は――」
その時。頬を擽る風が吹いた。愛らしい悪戯をするそよ風に乗って、僕の名前が空気を震わせる。「 」。繰り返すように、言葉を馴染ませるように、彼は僕の名前を数回諳んじた。その声がどこか嬉しそうに聞こえたのは、きっと聞き間違いでは無いだろう。
「……あぁ、良い名だ」
また彼が僕の名を呼ぶ。耳に届いたその音は、愛おしそうにほろほろと崩れていって、……不思議と、むず痒くって堪らず数歩後退してしまった。
「な、なんか……そんなに呼ばれると恥ずかしいんだけど…」
「おや……すまない…。友の名を呼ぶということも初めてだったから…」
シルクハットの乗った頭を困ったように掻いて、グリムは肩をすくめた。変なヤツ。でも、やっぱり悪いヤツではないと思う。仮面の下の素顔も、どんな人間なのかも知らないけれど。もしかすれば詐欺師で、何か悪いことに関わらされたかもしれないけれど。そんな「もしかしたら」は幾つも浮かぶのに、「まぁでも悪い奴では無さそうなんだよな」って結論にこの短時間で何度も至る。
僕って、実は超無自覚なお人好しだったのかもしれない。
「改めて私からも。グリム、そう人々からは呼ばれている」
「うん、よろしくな。グリム」
「ああ…よろしく。私の、初めての友よ」
細く、長い指と握手を交わした。握った感触は見た通り酷く骨ばっていて、筋肉があるのかと疑いたくなる。されど、ぎゅっと握りしめてくれたその掌は……しっかりとした、力強さを持っていた。
「友達になってくれてありがとう」
嬉しそうにまたグリムが『微笑んだ』。
見えないのに、分からない筈なのに、奇妙なことにしっかりと理解出来て僕も笑い返した。
これが、不思議な怪物――グリムとの出会いだった。
紅に染まった仮面が瞳を刺した。
澄み渡る昼中。白を混ぜ込んだ蒼。
インディゴへのバトンを仕舞い込んだ空はスカイブルーを身に纏った。
そんなサマが、あの日の僕にはとても印象的だった。
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