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第五十七話 古民家の掛け軸
しおりを挟む移住で住み始めた田舎での出来事です。
僕がこの町に引っ越してきたのは、去年の春のことでした。
ちょうど、都会の騒がしさに疲れ果てて長年勤めた会社を辞めたときでした。
東京で暮らし続けることに心身ともに限界を感じていたんです。
そんな時、ふと『移住歓迎』のパンフレットで目にしたこの町の風景にひかれました。
緑豊かな山々、澄んだ空気、そしてゆったりと流れる時間。
『都会では味わえない静けさに心が癒やされる』そんなうたい文句に心ひかれ、この町への移住を決意しました。
田舎暮らしを満喫すべく購入した、築100年以上の歴史を誇る古民家は、まさに私の理想そのものでした。
都会の整然とした住宅とは異なり、一つとして同じ木目のない床は、まるで歴史を肌で感じさせてくれるかのようで……
ゆがんだ壁や天井のクモの巣さえも、古き良き時代を思い起こさせ、時の移ろいを教えてくれます。
前の住人が置いていった古びた家具や調度品がそのままになっていて、処分しても良いとのことでしたが、この家には欠かせない存在なんです。
それぞれに物語があり、温もりを感じさせてくれる…… そんな気がして、処分せずそのまま使わせてもらうことにしました。
家の周囲には緑豊かな自然が広がっていました。
広い庭には四季折々の花が咲き誇り、裏手には竹林が広がります。
縁側からは、朝日が昇るたびに鳥のさえずりが聞こえてきました。
まるでタイムスリップしたかのような、ノスタルジックな雰囲気に心が洗われるようでした。
そんな古民家でリモートワークを始めることになったわけですけど……
引っ越してきた直後は、都会の騒がしさから解放された喜びで胸がいっぱいでした。
周辺一帯を散策すれば、どこまでも続く緑豊かな山々、澄んだ空気、そして力強く流れる川。
東京での生活で経験してきたストレスやプレッシャーから解き放たれ、この静かな環境で心身ともにリフレッシュできるという期待に心躍らされて……
都会では味わえない自然の雄大さに触れ、心を洗われるような心地良さを感じていたんです。
そして、念願だった新しい仕事にも、精力的に取り組みました。
フルリモートで、自然に囲まれた気持ちの良い自宅がオフィスです。
パソコンに向かって集中して作業すれば、都会では考えられなかったような成果が生まれるはずだと信じていました。
ただ、生活に慣れるまでは戸惑うことも多くありました。
都会のような便利な環境は一切整っておらず、インターネット回線もいまいち不安定。
距離感っていうのかな……近所の人との付き合い方も分かりません。
都会の喧噪からの逃避場所として選んだはずだったのに、都会の生活がいかに便利だったのかを痛感することになりました。
それでも、徐々にこの町になじんでいった、と自分では思っています。
運動不足解消のために朝の散歩を日課とし始めたことで、近所の人とも少しずつ交流を深めていくことができました。
近所の老夫婦からは、この町の歴史や文化についていろいろと教えてもらえました。
時には野菜や果物をおすそ分けしてくれて、田舎の人の温かさに触れた気がしました。
都会では味わえないような、心温まる時間。
少しずつ少しずつではありますが、田舎暮らしに慣らしていくことができたんです。
自然豊かな環境に囲まれ、心身ともにリフレッシュすることができたと思います。
都会では味わえなかったゆったりとした時間を過ごし、自分自身を見つめ直すきっかけにもなりました。
しかし、そんな僕の輝かしい新生活は、ある日を境に一変してしまったんです。
その家の和室には、大きな掛け軸が飾られていました。
家具同様、僕が引っ越してくる前からあったもので、僕も特に気にもとめずにそのままにしていたものです。
一見何の変哲もない水墨画が描かれていたんですがが、日に日にその掛け軸が微妙に変わっていることに気づきました。
最初は木々の葉が揺れたり、雲の形が少し変わったりする程度だったので、なかなか気付くことができませんでした。
だってそんな微妙な変化、意識して探したってなかなか見つかるものじゃないですよ。
特に僕、aha体験とかそういうの苦手なタイプですし。
で、最初は違和感があるような気がしても気のせいだと思ってたんです。
思おうとしてた、のかもしれません。
でも、次第にその変化は大きくなり、気のせいとは言い切れなくなってきました。
絵の内容はだんだんと最初とは違うものになっていったんです。
もう、どれだけ自分に気のせいだ気のせいだと言い聞かせようとしてもこうなっては無駄でした。
最初は、夜空に浮かぶ満月と月明かりに照らされた山々の幻想的で美しい風景が描かれていたんですよ。
それなのに、その風景はだんだんと不気味なものへと変わっていったんです。
月明かりに浮かび上がる山々には、不気味な影が動いており、夜空には異形のものが見えるような気がしました。
僕はもともと、掛け軸のある和室に布団を敷いて寝ていたんです。
だけど、その掛け軸がだんだんと不気味に感じられるようになってきたものですから……
寝る時以外は和室には近づかないし、和室に入る時にはいつも掛け軸から目を背けようとしていました。
だけど不思議な力に引き寄せられるように、なぜか視線が掛け軸に引き寄せられ、目が離せなくなってしまうんです。
そして、ついにある夜、決定的な出来事が起こりました。
掛け軸から眩い光が放たれたんです。
目がくらむほどの光に包まれた私は、意識を失ってしまったようでした。
翌朝布団の中で目を覚ました僕は、頭がクラクラとして何が起こったのかわかりませんでした。
掛け軸に異変があったことと、それに恐怖を覚えたこと、それだけは鮮明に覚えている、そう思ったんですが……
夢だったか現実だったのかもわからないんです。
それからというもの、私はあの掛け軸に完全におびえてしまい、日中でも目を背けるようになりました。
布団を運び出し別の部屋で寝ることにして、和室には近寄らないようにしました。
だって、あれがもし夢だったとしても、私の中にズシリと残る恐ろしい記憶であることに変わりはないんです。
和室には二度と入りたくはありませんでしたが、掛け軸を暗闇の中に置いておくのも怖いと思いました。
そこで、夜になって暗くなる前に、和室にはこうこうと明かりをつけるようにしました。
それでも、布団に入って目を閉じると、あの恐ろしい光景が頭に浮かんでくるんです。
次第に、私は不安に押しつぶされていくようになりました。
眠れない日が続き、食事も喉を通らなくなりました。
日常生活を送ることすら困難になっていったんです。
でも、どうすることもできませんでした。
この田舎には、心療内科みたいなものがないんです。
ネットを介するカウンセリングには限界がありました。
そんな私をさらなる恐怖が襲いました。
ある晩、新たに布団を運び込んだ寝室で寝ようとしていた時、不意に足元に寒気を感じました。
体を縮めて布団に潜り込もうとしたその瞬間、廊下から物音が聞こえました。
ギシギシとゆっくり音を立てながら、何か重いものがこちらに向かって近づいてくるような気配がするじゃないですか。
息を潜めて耳を澄ませると、確かに何かが近づいてくる、そう思いました。
そして、ついに和室の障子がゆっくりと開いたんです! スーッと!
恐る恐るまぶたを少しだけ開けてみると、そこには誰もいませんでした。
しかし、僕は確かに音を聞いたんです、何かがそこにいたはずなんです。
部屋の中は暗闇でよく見えないんですが、よく目を凝らして見ても何もいなかったように思います。
ただ、僕の脳内ではずっと薄暗い中に不気味な影が動いている想像が止まりませんでした。
もはや、何が現実で何が妄想なのかわからないところまで追い詰められていたんです。
心臓がバクバクと音を立て体が震え、恐怖で声も出せない状態です。
まあ声を出せたところで、助けを求めても来てくれる人などいやしないのですが……
しかし、このままではいけない、何かしなければ...そう思いながらも、体が思うように動きませんでした。
怖い! 体が動かない! これは金縛り!? 僕は混乱し恐怖しました。
次の瞬間、暗闇の中に一筋の光が差し込んだ気がしました。
あまりの暗さに、僕は自分が目を開いているか閉じているかさえわかりませんでした。
だから、その光も現実の光なのか、まぶたの裏側に見えた眼球の反応なのか、判別がつかなかったんです。
それでも、そのときのそれは掛け軸から発せられる光だと直感的に思いました。
光が床に影を落とし、その影が徐々に形を成していくように思えました。
まさに悪夢のような光景でした。
巨大な影は僕には目もくれずに、まるで怪物のように一点を見つめていました。
その目には、底知れない闇が宿っているように感じられました。
本当に本当に怖くて怖くて、恐怖で体が震え目をギュッとつむっていました。
そうしたら、恐ろしいうなり声だけが耳に響いて、それがますます恐ろしく思えました。
もうだめだ... そう思った瞬間、意識が遠のいた気がします。
その後のことは覚えていないんです。
僕は恐怖で気を失ってしまったのか、それともその出来事自体夢だったのかもしれません。
あの恐怖と絶望の感覚は今でも脳裏に焼き付いて離れません。
それからすぐに、僕は都会に戻る決心を固めました。
引っ越しできるまでの間、せめて掛け軸をどこかにやってしまいたかったんですが、もう触るのも怖くて。
あとね、思い返せば足元に来た『何か』を掛け軸の光が追い払ってくれたような気もしてるんです。
だったらむげにはできないじゃないですか。
そうはいっても怖いものは怖いんで、絶対都会に戻りますけどね。
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