44 / 60
第四十三話 呪物の修復
しおりを挟むもう何年も前、私がまだ若かった頃のことだ。
私は絵画修復師として働いていた。
ある日、私はある依頼を受け、古びた館に足を運ぶことになった。
依頼主は館の主人。依頼内容は、館の中にある一枚の絵画を修復することだった。
館に着いた私は、まずはその絵画を確認するため、館の一室に案内された。
その大きなキャンバスは、全体が塗りつぶされていた。
依頼主に詳しく話を聞いたところ「オークションで入手した」とのこと。
「めちゃくちゃに塗りつぶされたキャンバスを見てね。
最初は、前衛芸術なんてのはこういうものかね、素人にはわからないね、なんて思っていたんだが……
聞けば、元の絵画の上から塗りつぶされているというじゃないか。
一気に興味をそそられて落札したのさ」
私への依頼は、この塗りつぶしてある絵の具を取り除き、下にある元の絵画を取り戻すことだ。
依頼主は不安そうな眼差しで「できるかね?」と尋ねてきた。
私は全力で修復作業に取り組むことを約束し、作業を始めることにした。
修復は困難を極め、数日でどうにかなるものではなさそうだった。
依頼主は絵画の持ち出しを嫌がったため、私は館に通い詰める覚悟を決めた。
しかし、依頼主は「部屋はたくさんあるから」と泊まり込みを勧めてくれた。
職場に長期泊まり込むようなものだから、正直気乗りはしなかった。
とはいえ、郊外にあるこの館まで毎日通うことを想像すると……
一度覚悟を決めたことだけど、やはり面倒なことではある。
それに、この豪邸に泊まらせてもらえるうえ三食付きという提案は魅力的だった。
結局、私は依頼人の厚意を受けることにした。
仕事道具をそろえるためその日は帰宅し、次の日から館での仕事を始めた。
作業は簡単にはいかなかった。
下にある元の絵画を保ったまま、上から塗りつぶした絵の具だけを取り除かなければならないのだ。
慎重に慎重に作業するうち、少しずつではあるが元の絵画の面が見えてきた。
作業の感覚をつかんできた実感もあった。
「このまま順調に進めば、すべての絵が見えるようになるのも時間の問題」
そう思っていた。
しかし、その頃から私は奇妙な体験をするようになっていた。
最初は「勘違い」や「偶然だ」と自分に言い聞かせていた。
だが次第に私の思い違いなどではないと確信するようになった。
明らかに、確実に、私の周辺ではおかしな出来事が起こっていた。
まず作業中に、視線や物音…… 何者かの気配を感じることが多くなった。
視界の端で人影のようなものが動いた気がしたこともあった。
依頼主に確認するも
「集中できるように作業中は使用人も部屋に寄せないよう気をつけている」
とのことだった。
冷たい風が吹き込んでくることもあった。
もちろん、繊細な作業をしている最中には窓は閉め切っていた。
デリケートな美術品を保管するため温度や湿度は常に一定をキープしていたが、エアコンの風が直接吹き込むようなことはない。
それなのに、まるで作業中の私を脅かすかのように、首筋に冷たい風が吹き付けてくるのだった。
元の絵画のなかに猫がいたとわかると、作業中に猫の鳴き声が聞こえるようになった。
時計が描かれている部分があらわになりはじめると、時計の音がつきまとうようになった。
もはや私の精神が生んだ幻聴なのかどうかさえ判断がつかなかった。
私はだんだんと不安になっていった。
泊まり込みで作業している間は、豪華な食事をごちそうになることができたし、整えられたふかふかのベッドで眠ることができた。
身の回りのことは使用人がしてくれるので、私は作業に没頭できた。
そんな快適な生活のなかにありながら、私の精神は疲弊していった。
何か正体の知れない恐怖が忍び寄っているように感じられた。
依頼主は私の様子が変化していくことに気付いていた。
「最近調子が悪そうだが、作業が芳しくないのだろうか?」
そう心配された。
「いえ、作業自体は順調です。時間はかかりそうですが……」
私はそう答えるのがやっとだった。
「なら、他に理由があるのかね?
何かあれば遠慮なく言ってほしい」
依頼主はそう言ってくれた。
それでも私は
「何でもありません」
としか答えられなかった。
説明のしようもなく、どう表現していいのか分からなかった。
何より、自分の頭がおかしくなっていると思われるのがいやだった。
「疲れがたまっているのかもしれないね。
作業を急かすつもりはないから、明日は作業を休んでゆっくりしたらどうだろう?
気晴らしに街に出るなら運転手をつけよう」
依頼主がそう言うので、私はお言葉に甘えることにした。
たった一日とはいえ、館から離れてリフレッシュできるならありがたかった。
それに、本当に私の頭がおかしくなっているのであれば、休暇をきっかけに状況に変化があるかもしれない。
翌朝、私が目覚めると既に朝食の準備ができていた。
老舗旅館のような朝食を平らげ、出かける支度を済ませて外に出ると、すでに送迎用の車が待っていた。
高級車の乗り心地に感動しながら揺られていると、車は街の中心街に到着した。
そこは多くの人でにぎわっており、休日にふさわしい光景が広がっていた。
「お帰りの際にはお呼びください」
そう言う運転手に電話番号の入った名刺を渡された。
私はそれを受け取り、会釈をして繁華街に足を踏み入れた。
そこで私は信じられないものを目撃した。
私が修復していた絵画、その元の絵に描かれていた女性がいた。
元の絵画はかなり古い時代のもので、モデルになった女性がいたとしても現代に生きているはずはなかった。
絵の中から出てきたとしか思えなかった。
「まさか…… 一休さんのびょうぶじゃあるまいし」
ブルブルと頭をふり、気を取り直す。
「何かの見間違いに違いない。いやそうであってくれ」
祈るような気持ちで顔を上げ、もう一度女性を見た。
そこには、もう絵画の女性どころか誰も立ってはいなかった。
私はもう気晴らしをする気にもなれず、ただ路地裏をさまよい歩いた。
「適当に時間をつぶして館に帰ろう」
そう思いながら歩いていると、ある看板が目に入った。
辻占いだ。
そこに座っている和服の老婆は、私の顔を見るなり手招きをした。
「さあ、そこに座って。いや、お題は結構」
言われるままに椅子に腰掛ける。
「おびえているね。ああ、言わなくて良い、全部見えているからね。
ずいぶん良くないものに関わっているねェ……」
老婆は私の顔をまじまじと見つめる。
そして、目を細めて言った。
「あんた、このままじゃ死ぬよ」
私は驚いて声も出せなかった。
老婆は私の反応を無視して口を挟む余裕も与えず話を続けた。
「心当たりがあるんだろう?
身を守る手段なんかありはしない。
ただ距離を取るしかないんだよ」
「大口の契約で…… 依頼主もとても良い人で……
フリーランスでほそぼそとやっている私には信用問題……
仕事を放り出すことなんて……」
私は震える声で反論したが、自分で何を言っているのか分からなくなっていた。
「たしかにね。仕事がなけりゃ生きていくにも困るだろうさ。
でもね、仕事のために命を捨てるなんて本末転倒じゃないかい?」
私は返す言葉を失った。
修復師としてはそれなりの腕を持っているつもりだった。
プライドを持って仕事をしていた。
それを途中で放り出すことはもちろん、自分のやりかけを他の修復師に尻拭いさせるなんてこと、ガマンがならなかった。
「あの絵の修復を終わらせたら、私は…… 死ぬんですか」
「ほう、絵の修復をしているのかい。
私にわかるのは、あんたが最近関わるようになったものが良くないものであること、それだけさね」
そう言って老婆は数珠を手の中でジャラジャラと鳴らし、さらに続けた。
「なるほど修復ねえ、それなら確かに仕事が進むにつれ危険度が上がるのも合点がいくね。
見てはならない、知ってはならない。そういう性質の怪異さ。
修復を終わらせたら死ぬか…… と問われるなら、答えはYESだね。
なんなら終わらせる前に死ぬかもしれない」
老婆の話を聞く間じゅう、私の全身はガタガタと小刻みに震え続けていた。
「いいかい、これはあんただけの問題じゃない。
修復を終わらせたらその絵を中心に悲劇が巻き起こり続けるだろう。
もちろん、あんたが良い人だって言ってるその依頼主だって無事じゃ済まない」
私は思わず叫んだ。
恐怖と絶望が入り混じったような叫び。
自分がどうなっているかもわからないほどの錯乱状態だった。
そのあとは、どうやって館に帰ったのか覚えていない。
気がつけば、館の主人の部屋の前に立っていた。
部屋の扉をノックする。
「はい、どうぞお入りなさい」
中からは落ち着いた男性の返事が聞こえてきた。
「失礼します。ご相談があって来ました」
私は部屋に入り、事情を説明した。
自分が助かりたいだけなら、ただ仕事を放棄して謝って逃げ出せばよかった。
でも…… あの老婆の言葉を思い出すと、それはできなかった。
私が逃げ出したら、依頼主は別の修復師に依頼するだろう。
もしその修復師が修復を完了してしまったら……
そう考えると、恐ろしくてたまらなくなった。
そんなことになったら、取り返しがつかない。
依頼主は私の話を静かに聞いていた。
「あなたがそこまで言うのであれば、あの絵は諦めよう」
「え…… 信じて、くださるんですか……」
依頼主がすんなり私の話を聞き入れてくれたことに驚いた。
私だってあの老婆の言葉にまだ半信半疑なのに……。
「ここ最近のあなたの様子、それに帰ってきたときの様子を見れば信じるしかないよ。
知らずにとはいえ、大変なことに巻き込んでしまって申し訳なかったね。
信頼できるなじみの神社があるから、絵はお焚き上げしてもらおう。
そしてあなたも、私も、館の使用人たちもみんなお祓いを受けるんだ」
依頼主は私の目を見て言った。
その目は優しく、穏やかだった。
「はい、ありがとうございます!」
私は安心感に包まれながら、深く頭を下げた。
こうして私は命拾いをした…… のかもしれない。
もしかすると修復を終えても別に死ななかったのかもしれない。
老婆の言葉が100%正しいなんて言い切れないし、今となっては真偽のほどはわからないけど……
「もちろん、ここまでの作業に対する報酬は支払おう。
経費の申請と合わせて、請求書を発行してくれるか?」
館の主人は本当に良い人で、今回の件の対応は神そのものだった。
そのうえ、どうやら私は気に入られたらしく、その後なにかと仕事をくれるようになった。
今では、少なくとも私の選択は良い方向へ向かうものだったんだと思っている。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語
六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
【短編】怖い話のけいじばん【体験談】
松本うみ(意味怖ちゃん)
ホラー
1分で読める、様々な怖い体験談が書き込まれていく掲示板です。全て1話で完結するように書き込むので、どこから読み始めても大丈夫。
スキマ時間にも読める、シンプルなプチホラーとしてどうぞ。
【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】
絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。
下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。
※全話オリジナル作品です。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる