7 / 12
三日目
宿業
しおりを挟む
まぶたを一杯に開く。セピア色の雲が一面に広がっていた。
眼前には巨大な赤い心臓が拍動している。
どくどくと言う音が頭の中で反響していた。
また祝福の歌声が響き渡ってきた。頭がキリキリと痛み始める。徐々に心臓の拍動が早まり、それはやがて異常な速度に達した。
天は乱れ、青紫色の雨が嵐のように降りしきる。その雫が心臓にかかる度に、表面を溶かしていった。
焼け爛れた心臓は徐々に青紫色に染まり、その拍動は爆発しそうな程に早まった。
◾️とある屋外
夜空……満月。
風が強く吹き荒んでいた。厚い雲がその月の周囲を覆い、光芒が輝いた。
周囲を見渡すと、その月明かりに照らされた山々が見える。どうもここは列車の屋根の上のようだ。
「ルーキくん!」
腑抜けた声が聞こえてくる。甘い香水の匂い、彼女の顔がこちらにひょこっと姿を現した。その青い瞳が微かに光る。
「アン……。生きていたのか。」
彼女はこちらの言う事を無視して、いきなり寝ている身体にまたがってきた。
「見て、マニキュア塗ってみたの?綺麗?」
アンは真っ赤に塗られた爪を見せびらかしてくる。
そしてこちらが何か答える前に両腕でひしっと抱きついてきた。
「……あなた、すごく良い匂いがする。」
突然……彼女はそのまま顔をこちらの眼前に据え、甘えたような目でじっと見つめてくる。漂う花の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「……キスしていい?」
アンは艶かしい声を出してくる。
「ど、どうしたんだいきなり――」
彼女は唇を合わせて来た。……思わず目を閉じる。ぴちゃぴちゃと上唇を、そして下唇をついばんでくる。初めてのこの行為……柔らかい唇が触れ合うと心が持っていかれそうになる。
やがて彼女の舌がツンツンとこちらの唇をこじ開けようとしてきた。……いやダメだ。もぞもぞと動き、身体を離す。
「な、なんだよアン……。」
半身を起こし、彼女の方を見る。
「……嫌なの?……私に魅力ない?」
アンはしおらしく、悲しげな顔をした。
「いきなりすぎる……。なんで急に俺の事を……好いたんだ?そんな素振り見せてなかっただろ。」
「あなたから……いい匂いがするのぉ……。本当にいい匂い……。好き好きぃー!」
彼女はそう言うや否や飛びついてくる。そしてまた生娘の如く仰向けに寝かされた。眼前には彼女の妖艶な笑顔。
「私達の眷属になれたのわぁ、あなただけなのぉ。あなたは選ばれた存在なのよぉ?んふふ……。それにこんなに若い男のカッコいい匂いィ……んふふ……。好きィ……。好きィ……。好きィ……。」
今度は舌でべろりべろりと犬のように顔を舐め回してくる。そのざらざらとした異様に長い舌……青紫色をしていて、ほのかに死臭のような香りが漂ってくる。……少しずつ恐怖が芽生えてきた。
「そうだぁ、そろそろディナーの時間よぉ。二人でレストランに行こおよぉ!とっておきの珍しいメニューを用意したのよぉ?」
アンはこちらの腕を掴み、そっと引き起こした。肩が外れそうな程に強い力。
「ほらぁ、いっくよぉ?」
アンはこちらの腕を掴んだまま、屋根の天板を蹴る。すると彼女に引っ張られ、勢いよく宙に放り出された。少し浮遊感がしたあと、そのまま重力に従って隣の車両の屋根に吸い込まれていく。
「うわぁあ!」
脚を振り回して、屋根に激突しないようになんとか着地をする。そしてアンは再び天板を蹴り、また彼女に引っ張られて宙に放り出された。
しかしそれを何度かそれを繰り返していると、徐々に慣れてこちらも同じようなタイミングで床を蹴れるようになった。
月光の差すジョーゼット。二人の影が上下に繰り返し大きく揺れていた。
アンに連れられて、屋根からデッキに飛び降りる。まるで枝にとまる鳥のように鮮やかに柵の上に着地をした。
「んふふ……月明かりに二人でぴょんぴょーんって跳ぶの、ロマンチックぅ……。」
……自分でも不思議なくらいだった。なぜここまで身が軽いんだろうか。これは夢なのか。
アンに引かれながら柵を飛び降りて、レストランの入り口に立つ。
「行こぉ?私たちの、初デートぉ。最初の晩餐よぉオ!」
アンはその扉を景気よく開け放った。
やがて月は雲に覆われ、空は暗く溶ける。
扉の中は深淵の闇だった。
◾️13番車両 レストラン
足音がぴちゃりぴちゃりと鳴る。濡れているようだ。
一歩一歩進む度にそれが深い沼のように足に染みて来た。粘性の高いその液体は赤黒く、異臭が漂う。
少し目が慣れてきた。漆黒の室内からぼんやりと中の様子が浮かび上がる。
視線の先にあったのは、骸。臓腑があるべき胸が虚空の穴と化していた。その高貴な衣服、……乗客のようだ。
ふと周囲を見渡すと、そのあらゆる場所にかような惨殺体が飛び散っていた。体があらぬ方向へ曲がったモノ、上半身と下半身が離れたモノ、首だけのモノ、その顔すら半分潰れたモノ、何体の骸があるのか分からないが、そのどれもが狂気の表情で虚無を眺めている。女子供見境がなく、乗員乗客全員死んだのかと思うほどの無数の骸。それら天井にまで返り血が飛散していて、車内は異常なまでの血臭で充満していた。
あまりに残酷な光景に目が強張り、まばたき一つできなくなっていた。眼球がカラカラと乾いていくのを感じる。
女は楽しそうに笑い声をこぼしながら、引っ張る手をより強めて奥へ奥へと進む。女の手は青紫に変色し、脈々としていた。その力の強さに抗うことが出来ずに、付いていく事しかできない。笑い声が耳の中で反響し続ける。
車両の奥には、壁にテーブルが立てかけられていた。そこに女が磔にされている。頭に布を被せられた乗務員。その布の中からは三つ編みにされた、腰まで続く長い銀の髪が垂れ下がっていた。
その女は血まみれだが生きていた。それは返り血によるもので、本人のものではない。怯え震えて、こもった唸り声を上げていた。彼女の両腕は後ろ手に縛られ、紐が彼女の身体ごと何重にもテーブルに巻かれていた。
笑う女はこちらを掴んでいた手をやさしく離し、振り返った。
「スゴイ飾りつけデショオ?ンフフ……アナタのために、一人残しておいたノヨォ。一緒に食べヨォ?ンふふ……。」
くぐもった声。女の眼球は黒々しく変色し、瞳の中はねじ曲がった、青白い燐光が禍々しく蠢いていた。脈々とした青紫色の血管が身体中に浮かび上がり、その顔にもおどろおどろしくびっしりと張り巡らされている。
人間の輪郭を保ってはいるものの、髪は逆立ち、浮遊するかのように揺らぐ。爪は刃物のように長く鋭く、牙も四方八方伸び散っている。更には香水の匂いを覆い尽くす程に激しい死臭が身体中から醸し出されていた。
それらあまりにもグロテスクな様相に、喉が窒息しそうなほどに締まり声が出ない。
「何してるのぉ?早く牙ヲ出しなよォ、ほらァァ!」
くぐもった声が恐ろしさを増長させる。
ざらつき硬質化したその手がこちらの頬に添えられる。聴覚も、視覚も、嗅覚も、触覚すらも……全て呑み込まれた。
「……ぇ……ぁと……」
顎が震えてまともに喋れない。自分の口から奥歯のカタカタする音がする。そして腰に力が入らなくなり、膝は崩れ、床に落ちた。
怪物は崩れた正座のようになったこちらの様子を見て、呆気に取られている。そしておもむろに銀髪の女の方へ近寄る。
「どーしたのぉ?モタモタしてるトぉ……先に食べちゃウゾォオ?美味そうなシロイ肌ぁあア。まずは心臓からにしようかなぁァァ。」
そう言って怪物は長い爪を伸ばして、その女の胸元にそれを這わす。
「んーっ!!んんーっ!!」
女が恐怖に悶絶する。被せられた布から声が漏れ、必死に身をよじらせていた。
「や、やめろ!やめてくれ!!」
声を絞り出して制止する。すると怪物はこちらをギョロリと見る。
「……何デ?」
その燐光が目に突き刺さり、金縛りにあったかのように身体が強張る。
「か、彼女は……仲間なんだ。傷付けないでくれ……。」
「仲間ぁ???……ねぇ、この女とナンカあるのぉ?仲良さそうにしてるの何回か見ちゃったナァ。ヤッパリそう言う関係ナノ?妬けチャウぅぅ……。」
そう言うと怪物はこちらに迫って来た。……足がすくんで動けない。
そしてそのままこちらに抱きついて来た。
「ねぇえ、私と結婚してヨォ。お願いイイイ。お願いぃぃい。」
怪物はその牙をしまい、何度もこちらに口付けしてくる。
その度に頭突きをくらい、意識が飛びそうになった。
そして怪物は耳元でつぶやく。
「ねぇ……私と誓いの血を交換しましょうぅウウウ?」
怪物は急に爪で自身の指を傷つける。青紫色の血がたらりと流れた。そしてそのまま指をこちらの口に突っ込んでくる。
歯でその指を噛んで抵抗しても全くびくともせず、どろどろと喉内にその血が流れ込んでくる。それは火傷しそうなくらいに熱かった。
そしてどんどんとその青紫色の血を飲み込んでいってしまう。
それを飲む度に自身の身体が熱くなり、意識が遠くなっていく――
無意識の中、ささやき声が聞こえてくる。
誓いの血の儀式が終わったらぁ、真名も交換するのよぉ。私、ほんとぉはアナスタシアっていうのぉ……。よろしくねぇえええ。
それからしばらくすると、今度は美しき歌声が聞こえてくる。
モスリン讃美歌第98番
――伝えし者は呼ぶ 素晴らしき世界へ 愛を叫び 血を交わす 名を交わし 青の眷属は とこしえを謳う――
◾️8番車両 自室
……目を覚ますと、見慣れた天井があった。しんと静まり返った室内。また雪が窓を叩きつけていた。
勢いよく身体を起こす。自室は特に変わった様子もなかった。
「おはよう、アキ。」
声のする方を見ると、そこには銀髪の女が座っていた。
「カチューシャ……?」
彼女はいつもの制服姿ではなく、三つ編みを降ろした長い髪、白い服に青いスカート姿だった。
さっきのは夢だったのか?彼女は死体まみれのレストランでアンに喰われかけていたはず……。
「あの恐ろしい怪物……あれが人狼なのね……。まさか列車の中にあんな怪物が混じっていたなんて。……アキ、あなたもその仲間なの?」
「いや、違う……。」
さっきのは夢じゃないようだ。
「まぁそうよね。でもその言葉が聞けて安心した。」
カチューシャはこちらの横側に座る。
「あの状況で、カチューシャは何で生きてるんだ?あそこで何があったんだ?」
そう訊ねると、彼女はゆっくりと手をこちらの膝に乗せる。震えていた。
「……死ぬかと思ったわ。褒めて?」
■回想
私は暗闇の中。思い返す。
サリの護衛に追いかけられながら、レストランまで逃げたは良いものの、そこであっけなく捕まってしまった。
しばらくすると、まるで見せ物のようにレストランに乗員乗客が集まって来た。
そうしたらその中にいた一人の女が突然金切り声の咆哮をあげて、そこにいた人間全員を殺してしまった。子供がオモチャを投げるように人間が飛ばされて、人形のように四肢をちぎり取っていた。
そして全てを終わらした後、その怪物はこちらを見てきた。そして舌舐めずりをしながらテーブルへ拘束して来た。
視界や口が遮られた状態で、長時間待っていると、今度はアキが連れてこられた。
そしてさっきのやりとりが終わり、彼の声が聞こえなくなってしまった。
「ありゃりゃ?寝ちゃったぁ?どうしてぇ?刺激が強すぎたのかなぁ?……ううーん、このご飯。どうしようー。」
怪物が私の前に近づく音がした。
そして私の頭に被せられた布が取り払われる。目の前には怪物がおぞましい形相でこちらを見ていた。
「お前はどう思うぅ?ヒと口食ってイイ?」
女はそう言いながら、私の口内へ入れられているタオルを乱暴に抜き取った。
「……はぁ……はぁ……はぁ……。」
息苦しさからようやく解放され、口から貪るように息を吸う。
「シャべレヨォオオオオオ!!!」
女は牙を見せながら、恐ろしい声で凄む。金切り声が波動して全身が総毛立った。
怖くて仕方がないが、怯えてしまえばすぐに殺される。毅然とした態度で対等に話し合わないといけない。
だからこの女の目をキッと睨みつける。
「……あんた、あたしを喰ったら後悔するわよ?」
「後悔?……へぇ、何故?」
興味を引けたようだ。怪物はその牙をしまった。
「あたしはサーシャ・シフォンヌ。兄であるサリを暗殺し、赤獅子の悪事を世へ糾弾するためにここにいるのよ。彼はようやくこの列車に乗って来た……。」
「はぁ?難しい話するつもりなら喰うけどぉ?」
「簡単よ。兄は赤獅子の軍隊を使ってモスリンを焦土にした。あんたモスリンの人狼でしょう?……その兄とやらが憎いとは思わない?」
「憎い?んふふ……焦土となって神は死んだ。そのおかげでその使徒はモスリンから解き放たれた。いい話じゃない!今とっても楽しいわ!」
「は、はぁ……?」
何を言っているのか分からなかった。
「んふふ……。」
怪物は笑う。
そして突如私の後頭部を掴み、縛られたテーブルごと引き寄せてくる。
眼前には怪物の伸び散った牙の先端があった。寸刻一寸、それは今にも私の瞳をつらぬきそうだった。恐怖に強張って瞼を限界まで目一杯に開く。動悸が胸を乱れ撃ちし始めた。
「何も知らないくせに口出しするんじゃねぇよオオオォ!!」
私の髪がぶわりと弾け飛ぶ。耳がキーンと鳴り、死臭の香る唾が顔に飛び散った。眼前には相変わらずおぞましい牙に瞳の禍々しい燐光。掴まれた頭はギリギリと痛む。
あまりの恐ろしさに、ついにはボロボロと涙がこぼれてしまった。すると怪物は高笑いを上げた。おちょくっているようだ。
ダメだ泣くな、怯むな……。怯えるな……。何か言わないと喰われる。
「い、いくら脅そうたって、む、無駄よ!か、彼もあたしと同じ目的を持っているの!だから、あ、あたしを、あたしを喰ったら計画が台無し!台無しになるのよ!そうなったら、かか彼はあんたを一生憎むわよ!!」
うまく舌が回らず、しどろもどろな喋り方になってしまう。
「同じ目的ぃ?……なんかそんな話聞いた気がするな。あの生意気なガキ……アレクだったか。……ああムカつく、あいつ私の顔を蹴ったのよ!!どう思う!?許せなくない!?」
「えっ……?」
確か702の客だった。やはりこの怪物が喰ったのか。
「他のモスリンの家畜どもも全くダメダメだし!唯一目覚めたのはルキくんだけ!なのに彼はうまく振り向いてくれない!どうしたら振り向いてくれるか分かるか!?教えろ!!」
また怪物は凄んでくる。
……しかし妙に安心した。こいつの事が少し分かったような気がする。興味があるのは単純な食欲や性欲、幼稚な思考なのか。
「……押しが強すぎるのよ。ちょっとは遠慮を覚えなさい。」
「遠慮……?」
「そうよ、相手の気持ちをおもんばかって見ることね。そうしたら絶対上手くいく。あたしを信じなさい。」
「絶対?言ったわね……んふふ……。その言葉が嘘だったら一番苦しくて痛い喰い方をしてやるわァ。」
そう言って怪物は掴んでいた私の頭を放り投げる。
縛られていたテーブルごと思い切り壁に叩きつけられ、テーブルが真っ二つに割れた。パラパラと縄が解ける。
その強い衝撃に変な声を漏らし、その激痛に悶絶した。
「はぁ……。んじゃー、彼が目覚めるまで待とうかなー。この小汚い髪の女の言葉が事実か確認しないとねー。」
怪物は彼の身体を優しく抱擁し、歌い始めた。子守唄のように優しく囁いて。それはまるで讃美歌のようだった。……かつてモスリンで似たようなものを聞いたことがある。
次第に、私の胸の動悸がおさまっていく。
それからしばらく経過する。10分経ったか、20分経ったか分からない。歌う怪物は彼をずっと抱擁し続けた。
私は下手に物音を立てると殺されると思い、ただ固まっていた。
そんな中、ふいにレストランの扉が勢いよく開かれた。
「な……。カチューシャ!ルキ!」
その扉を開けたのはコジロウだった。その瞬間あの怪物の姿が消える。
コジロウが倒れている彼の元に近づくと、その後ろから何かが飛びかかってきた。……その姿は完全に異形のそれだった。
コジロウは振り向きながら瞬時に帯刀している刀を抜き、異形のそれの長い刃物のような爪を切り裂いた。
「ハアア!?ヤルジャナイ!」
コジロウはそのまま異形のそれへと切りかかる。
「……アアァァ、セッカクマニキュア塗ッテオ洒落シタノニ!!塗リ直スモン!バカァァアアア!!」
異形のそれは刀を躱し、疾風のように部屋を飛び出していった。
■8番車両 自室
カチューシャは語り終えた。
「コジロウさんが助けてくれたのか……。」
「そうね。彼があんな怪物とまさか対等にやれるとは思わなかったわ。……それにしてもあの怪物、どこから来たのかしら。」
「彼女は904号室の乗車券を持っていた。その乗車券には赤獅子の紋章も付いていた。……お前たちが招待したんじゃ無いのか?」
「904号室に居たのは別の人間よ。……死体になってラウンジへ運ばれて来た4人のうちの1人。多分あの怪物に乗車券を奪われたんでしょうね……。目的はわからないけど。」
カチューシャはフッとため息を漏らす。
「あの怪物に掴まれた頭が痛いわ……。」
彼女はゆっくりと頭をこちらの肩に預ける。……さっきまでの震えはおさまったようだ。
なんとなく彼女の頭を撫でる。すると一瞬ビクッとするが、カチューシャはそのまま脱力して身体を預け続けた。
「一旦は無事でよかったわ。守ってくれてありがとう。カッコよかったわよ?」
彼女の言葉にハテナが浮かぶ。
「……守ったっけ?カチューシャには情けない姿しか見せていない気がするけど……。」
そう言うと彼女は笑う。
「あはは。まぁ、あんたなりに頑張ったんじゃない?あの怪物に傷つけないでくれって頼んでたの、あんたでしょ?それにあんたが怪物に結婚を申し込まれて無かったらあたしは死んでたわ。怪物同士お似合いじゃない。」
彼女は頭を起こす。
「か、勘弁してくれ……。」
怪物同士……それは自分も同類である事を明確に示していた。まだ強い自覚症状は出ていないものの。やがて自分も彼女やルキのように人を喰うのがたまらなく愉しくなってしまうのだろうか。そう考えると恐ろしかった。
「大丈夫?なんかあんたって気絶ばっかりしてるから心配よ。そろそろハゲるんじゃない?……あれ、ほのかに薄い?」
こちらの頭をポンポンと叩く。
「や、やめろ!色々ありすぎたんだよ。俺は神の啓示を背負って彼の者……サリ・シフォンヌを暗殺するためにモスリンからはるばるやって来たんだ。なのにそれ以外の人間がどんどん死んでいく。……本当に計画は大丈夫なのか?今夜本当に襲撃できる状況なのか?」
「その事なら、もうすぐデミトリが来るわ。彼が暗殺計画の首謀者。私はそのキーパーソンってやつ?」
カチューシャは得意げな顔をする。そんなに自慢げに言うことか。
それにあのバーテンダーに扮していたデミトリという男、よくよく考えれば彼は何者なのだろうか。それにカチューシャもそうだ。彼女はあのラウンジで見たビデオに映っていたサーシャという女そっくりだった。彼女は胸に赤獅子の徽章を着けていて、それはあたかも彼女自身が軍隊を操りモスリンを焦土に変えた元凶であるかのように思えても仕方がなかった。
「……一体カチューシャは何者なんだ。それにサーシャ・シフォンヌって名前も。お前は……サリ・シフォンヌの妹なのか?」
そう訊ねると、彼女は黙ってベッドに寝っ転がった。その悠々自適な態度。そして頭をこちらの太ももの上に預けてくる。
「随分と余裕だな……。怪物が潜んでるかもしれないのに。」
「こんな時に限って、意外と気持ちが据わるのよ。なんでだろう。……あんたの青い瞳、綺麗ね。」
カチューシャと目が合う。薄赤い瞳。しかし彼女はすぐに遠い目をした。
「私はサーシャ・シフォンヌだった。でもそれは過去の話。5年くらい前かなぁ、カチューシャになったのは――」
――幼少期。シフォン公爵の子として同じ母から生まれた私とサリ兄さんは、隠し子として育てられた。当時のシフォンヌはシフォン直系ではない忌み名みたいなモノだった。その頃は他の貴族に馬鹿にされていたけど、兄さんは当時から野心家だった。
シフォンの邸宅の中庭で泣きじゃくる幼い私に、サリ兄さんが近寄ってくる。
「また泣かされたのか、サーシャ。ぼくならやり返すけどな。」
そういって彼は鼻をこする。
「だってぇ……周りの子はあたしの事を下賎だってバカにするのよ……くやしい……。仲間に入れてもらえないの。病気で髪の色が褪せてて汚いって、瞳が気持ち悪いって、みんなあたしたちよりいい洋服を着てて、うらやましい。」
「情けないなぁ。ぼくならボコボコにする。なめられてるから仲間はずれになるんだよ。だからまずはトップに立つ。そうしたらみんなサーシャの髪の色がきれいだって褒めるようになるにきまってる。ついてこいサーシャ、誰がばかにしてきたか教えろ。お手本を見せてやる。」
「ええ、あんまりやりすぎちゃだめだよ?」
――その気の強さから、子供の世界では頂点に立てた。ただ大人の世界に近づくにつれて悪目立ちするようになったけど、それでも彼はしたたかだった。
「サーシャか。少しやりすぎたよ。」
彼の手は血に染まり、転がった骸は天井を眺めていた。
深夜のホテル、一室は血に塗れ、数人の死体が転がっている。
「……こ、こいつらは?」
そう訊ねると彼は骸の上に腰をかける。
「どうやら俺はエングレス家に目を付けられたらしい。派手に楯突いたから、ごろつきどもを送り込んできたようだ。ただこの通り返り討ちにしてやったがな。今はどうやって奴らに報復を加えるか考えているところだ。」
サリ兄さんは血に染まった得物をくるくると回す。
「馬鹿な事言わないで、そんなことしたらもっとひどいことになる。」
「まぁ見てろ。もう目立った真似はしない。隠し子らしく影に潜み、裏からつぶしてやるよ。いつかシフォンを支配してやる。ははははは。」
「いい加減にして!サリ兄さん!」
しかし彼は私の意見など歯牙にもかけなかった。
――そして今から10年前。私たちがモスリンへ視察へ行った時のこと。かの地では狼獲祭が開かれていた。そこではシフォンの貴族たちとは真逆の、気さくで無垢な人々が暖かく歓迎してくれた。
旅客鉄道ジョーゼットのとある一室で、私はベッドに寝っ転がっていた。扉付近にはダブルスという男が立っている。
彼は最近側近になった、腰の低いおじさん。でも今日の彼は珍しく少し不機嫌だった。
「ねぇダブルス、モスリンはとても自然がいっぱいで楽しかったわ……。お祭りに参加したのよ?友達もできたし、一緒に踊ったの。なんだかシフォンで暮らすより体調も良いみたい。……うふふ、また行きたいなぁ。」
「サーシャ様、18にもなってまだそんな事を仰るのですか?それに公務の途中で逃げ出したそうですね。少しは貴族としての自覚をお持ちになって下さい。」
「まさかお説教?……フンだ、偉そう。政治なんてつまらない。」
私は起き上がり、ベッドに座って足をぶらぶらとさせる。
「サリお兄様は立派に公務を果たされました。何か大きな収穫があったそうですよ?」
「はぁ?……もうあいつとは何年も喋ってない。どうせまた良からぬ事でも考えているんでしょう。……あいつは貸切の1番車両で贅沢に過ごして、私はこの狭い801号室に押し込められてる。もう対等じゃないのよ。」
――5年前
シフォンの邸宅にある、サリ兄さんの広く仰々しい部屋へ呼び出された。
彼は豪華な椅子に頬杖をついて座り、テーブルへ足をかけてふんぞり返っている。
「また新しい名前を手に入れたのね。ソル・ジョーゼットさん。」
そう嫌味を言ってサリ兄さんをキッと睨みつける。
「ああ、ジョーゼット家の先代は引退されたそうだな。……どうも最近そういった事が多いのだ。」
彼は白々しく笑う。
「そういえば今度ジョーゼット家の軍隊を譲り受けることになったぞ?お前の好きな獅子とその瞳の色を名に冠して、赤獅子と名付けることにしたよ。」
「……久しぶりに話をしたと思ったら、あきれるくらいそんな話ばかりね。裏でみんなあんたに怯えている。」
「当たり前だ。誰も余に手出しできない。下心を見せる前に潰すように心がけているのでな。貴族の家は一枚岩ではない。……そしてシフォンヌ家もそうだ。だろう、サーシャ?お前も余へ反心を抱いている。」
そう言って彼は立ち上がる。そしておもむろに軍刀を抜いた。
「な、なんですって?気でも触れた?」
「ごまかさなくて良い。余は数年後にモスリン全土を襲撃する。サーシャはそれを止めようとしているのだろう?……今までも事あるごとに邪魔してきたのはバレている。兄妹のよしみで見逃してやったが、もう看過できない。」
私はとっさに走りだす。扉の方に目をやると、守衛がこちらを捕まえようとしている。
それを押し通ろうと体当たりをかますも、あっけなく捕まってしまった。
そしてシフォンの果てに連れて行かれた。
地下牢で過ごす日々は地獄のようだった。日の届かない暗闇の中、腹が減り、喉が渇いた。ネズミや虫が物音を立て、時に身体を這う。その度に発狂して暴れ、声を荒げ、憎悪をぶちまけた。
どうやらこのまま衰弱死するのを待っているようだ。
最初はそれに屈しないよう、湧き出てくる何かを捕まえて食いながら、ただ耐えた。
でもやがて憔悴しきり、身体も動かなくなっていった。
ある時、その地下牢へ光が差し込んだ。見る機能を失いかけていたその瞳がその光芒を捉え切れず、とっさに目を瞑る。
シフォンの外れにある小さな病院。シフォンにしては珍しく緑と鳥のさえずりが心地よい場所。
そこで小柄な黒髪の医師見習いと仲良くなった。彼女とくだらない話で盛り上がっていると、誰か入ってくる。
「サーシャ様、お元気になられたようで。」
ダブルスだった。
挨拶程度の会話を交わしたのち、彼は夢を語った。サリを打倒し、私を再起させると。
「……サーシャ様、今は黎明の時です。私は今よりデミトリと名を変え、秘密裏に活動を続けます。あなた様も名を変えて下さいませ。そして雌伏の時を越え、再び立ち上がるのです。」
私はカチューシャと名を変えて、シフォンのスラムに隠れ住んだ。迷宮のようなこの場所は過酷だけど、それでもあの地下牢と比べれば天国だった。
そして一年前、再びモスリンへ訪れた。焼け果てた彼の地を見て誓った。もはや雌伏の時は終わりを告げたと。
そしてこのジョーゼットに潜み、彼の者が訪れるのを待った。
――――――――
「……まぁ、こんな感じ?長ったらしい話をしてごめんね。」
カチューシャは笑う。
そんな折、自室の扉がノックされた。
そして扉が開き、男が二人入ってくる。
デミトリと、コジロウだ。
カチューシャはガバッと身体を起こす。
「あ、あんたたち……。」
彼女は頬を指で掻く。
「ドタバタとすみません。じきにジョーゼットはシフォンへ到着します。もはや一刻の猶予もありません。準備はよろしいですか?」
デミトリが慌てた様子で言う。
「分かりました。」
こちらはそそくさとカバンをあさる。
「……それで、なんでコジロウがここにいるの?」
背後でカチューシャが問いかけている。
「拙者は人狼を狩る為に協力する事にした。興味があるのはそれだけだ。……他の事は見ない事にする。」
「……どうもあの怪物はサリが招き寄せたようです。なので奴を無視する事はできません。なので彼に協力を要請しました。」
「ふん、行き当たりばったりね。……でももうこうするしか無いみたいだけど。……悪いわね、コジロウ。」
そう言ってカチューシャはコートを羽織り、こちらを見る。
「行くわよ。全て終わったらジョーゼットを脱出する。そのつもりでね。」
こちらも上着を羽織り、彼女達に続いた。
◾️ジョーゼット 通路
部屋の外には小銃を装備した兵士達が5人並んでいる。そしてデミトリを見るや否やビシッと敬礼をした。今までこんな客を見かけた覚えはなかったが、客に扮していたのだろうか。
「サリは今1番車両にいます。行きましょう。」
デミトリは歩き始めた。
ぞろぞろと歩くその様相はまるで9人の小隊のようで、先頭をデミトリとコジロウ、その後ろに自分とカチューシャ、更にその後ろに兵士達と続く2列の縦隊となって1番車両へと向かっていく。
「ふうん、随分と数を揃えたのね。」
カチューシャが兵士達をなめるように見る。
「はい。数ではこちらが優っております。」
デミトリが答える。しかしカチューシャは少し不機嫌そうにため息をつく。
「どうしたんだ?カチューシャ。」
そう言うと彼女はこちらへ耳打ちしてくる。
「デミトリは元軍隊あがりだからなんでしょうね。やたらと秘密主義なのよ。……私の役目は乗車券を確認してデミトリの元へ誘導するだけ。それ以外の計画はほとんど教えてくれてない。それに……あいつらの仕草、まるで赤獅子の兵士みたい。」
カチューシャはチラッと兵士たちの方を見る。
「なんだって……。」
「アキ、あなたはきっとスケープゴートにされる。モスリンの人間を呼んだのはそのためよ。だから全部終わったら捕まらないように逃げて。」
カチューシャはささやく。
デミトリは立ち止まった。
「もう1番車両は目の前です。準備はよろしいですか?」
デミトリは全員に呼びかけ、車両扉に手をかける
そして、それを思い切り開け放った。
眼前には巨大な赤い心臓が拍動している。
どくどくと言う音が頭の中で反響していた。
また祝福の歌声が響き渡ってきた。頭がキリキリと痛み始める。徐々に心臓の拍動が早まり、それはやがて異常な速度に達した。
天は乱れ、青紫色の雨が嵐のように降りしきる。その雫が心臓にかかる度に、表面を溶かしていった。
焼け爛れた心臓は徐々に青紫色に染まり、その拍動は爆発しそうな程に早まった。
◾️とある屋外
夜空……満月。
風が強く吹き荒んでいた。厚い雲がその月の周囲を覆い、光芒が輝いた。
周囲を見渡すと、その月明かりに照らされた山々が見える。どうもここは列車の屋根の上のようだ。
「ルーキくん!」
腑抜けた声が聞こえてくる。甘い香水の匂い、彼女の顔がこちらにひょこっと姿を現した。その青い瞳が微かに光る。
「アン……。生きていたのか。」
彼女はこちらの言う事を無視して、いきなり寝ている身体にまたがってきた。
「見て、マニキュア塗ってみたの?綺麗?」
アンは真っ赤に塗られた爪を見せびらかしてくる。
そしてこちらが何か答える前に両腕でひしっと抱きついてきた。
「……あなた、すごく良い匂いがする。」
突然……彼女はそのまま顔をこちらの眼前に据え、甘えたような目でじっと見つめてくる。漂う花の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「……キスしていい?」
アンは艶かしい声を出してくる。
「ど、どうしたんだいきなり――」
彼女は唇を合わせて来た。……思わず目を閉じる。ぴちゃぴちゃと上唇を、そして下唇をついばんでくる。初めてのこの行為……柔らかい唇が触れ合うと心が持っていかれそうになる。
やがて彼女の舌がツンツンとこちらの唇をこじ開けようとしてきた。……いやダメだ。もぞもぞと動き、身体を離す。
「な、なんだよアン……。」
半身を起こし、彼女の方を見る。
「……嫌なの?……私に魅力ない?」
アンはしおらしく、悲しげな顔をした。
「いきなりすぎる……。なんで急に俺の事を……好いたんだ?そんな素振り見せてなかっただろ。」
「あなたから……いい匂いがするのぉ……。本当にいい匂い……。好き好きぃー!」
彼女はそう言うや否や飛びついてくる。そしてまた生娘の如く仰向けに寝かされた。眼前には彼女の妖艶な笑顔。
「私達の眷属になれたのわぁ、あなただけなのぉ。あなたは選ばれた存在なのよぉ?んふふ……。それにこんなに若い男のカッコいい匂いィ……んふふ……。好きィ……。好きィ……。好きィ……。」
今度は舌でべろりべろりと犬のように顔を舐め回してくる。そのざらざらとした異様に長い舌……青紫色をしていて、ほのかに死臭のような香りが漂ってくる。……少しずつ恐怖が芽生えてきた。
「そうだぁ、そろそろディナーの時間よぉ。二人でレストランに行こおよぉ!とっておきの珍しいメニューを用意したのよぉ?」
アンはこちらの腕を掴み、そっと引き起こした。肩が外れそうな程に強い力。
「ほらぁ、いっくよぉ?」
アンはこちらの腕を掴んだまま、屋根の天板を蹴る。すると彼女に引っ張られ、勢いよく宙に放り出された。少し浮遊感がしたあと、そのまま重力に従って隣の車両の屋根に吸い込まれていく。
「うわぁあ!」
脚を振り回して、屋根に激突しないようになんとか着地をする。そしてアンは再び天板を蹴り、また彼女に引っ張られて宙に放り出された。
しかしそれを何度かそれを繰り返していると、徐々に慣れてこちらも同じようなタイミングで床を蹴れるようになった。
月光の差すジョーゼット。二人の影が上下に繰り返し大きく揺れていた。
アンに連れられて、屋根からデッキに飛び降りる。まるで枝にとまる鳥のように鮮やかに柵の上に着地をした。
「んふふ……月明かりに二人でぴょんぴょーんって跳ぶの、ロマンチックぅ……。」
……自分でも不思議なくらいだった。なぜここまで身が軽いんだろうか。これは夢なのか。
アンに引かれながら柵を飛び降りて、レストランの入り口に立つ。
「行こぉ?私たちの、初デートぉ。最初の晩餐よぉオ!」
アンはその扉を景気よく開け放った。
やがて月は雲に覆われ、空は暗く溶ける。
扉の中は深淵の闇だった。
◾️13番車両 レストラン
足音がぴちゃりぴちゃりと鳴る。濡れているようだ。
一歩一歩進む度にそれが深い沼のように足に染みて来た。粘性の高いその液体は赤黒く、異臭が漂う。
少し目が慣れてきた。漆黒の室内からぼんやりと中の様子が浮かび上がる。
視線の先にあったのは、骸。臓腑があるべき胸が虚空の穴と化していた。その高貴な衣服、……乗客のようだ。
ふと周囲を見渡すと、そのあらゆる場所にかような惨殺体が飛び散っていた。体があらぬ方向へ曲がったモノ、上半身と下半身が離れたモノ、首だけのモノ、その顔すら半分潰れたモノ、何体の骸があるのか分からないが、そのどれもが狂気の表情で虚無を眺めている。女子供見境がなく、乗員乗客全員死んだのかと思うほどの無数の骸。それら天井にまで返り血が飛散していて、車内は異常なまでの血臭で充満していた。
あまりに残酷な光景に目が強張り、まばたき一つできなくなっていた。眼球がカラカラと乾いていくのを感じる。
女は楽しそうに笑い声をこぼしながら、引っ張る手をより強めて奥へ奥へと進む。女の手は青紫に変色し、脈々としていた。その力の強さに抗うことが出来ずに、付いていく事しかできない。笑い声が耳の中で反響し続ける。
車両の奥には、壁にテーブルが立てかけられていた。そこに女が磔にされている。頭に布を被せられた乗務員。その布の中からは三つ編みにされた、腰まで続く長い銀の髪が垂れ下がっていた。
その女は血まみれだが生きていた。それは返り血によるもので、本人のものではない。怯え震えて、こもった唸り声を上げていた。彼女の両腕は後ろ手に縛られ、紐が彼女の身体ごと何重にもテーブルに巻かれていた。
笑う女はこちらを掴んでいた手をやさしく離し、振り返った。
「スゴイ飾りつけデショオ?ンフフ……アナタのために、一人残しておいたノヨォ。一緒に食べヨォ?ンふふ……。」
くぐもった声。女の眼球は黒々しく変色し、瞳の中はねじ曲がった、青白い燐光が禍々しく蠢いていた。脈々とした青紫色の血管が身体中に浮かび上がり、その顔にもおどろおどろしくびっしりと張り巡らされている。
人間の輪郭を保ってはいるものの、髪は逆立ち、浮遊するかのように揺らぐ。爪は刃物のように長く鋭く、牙も四方八方伸び散っている。更には香水の匂いを覆い尽くす程に激しい死臭が身体中から醸し出されていた。
それらあまりにもグロテスクな様相に、喉が窒息しそうなほどに締まり声が出ない。
「何してるのぉ?早く牙ヲ出しなよォ、ほらァァ!」
くぐもった声が恐ろしさを増長させる。
ざらつき硬質化したその手がこちらの頬に添えられる。聴覚も、視覚も、嗅覚も、触覚すらも……全て呑み込まれた。
「……ぇ……ぁと……」
顎が震えてまともに喋れない。自分の口から奥歯のカタカタする音がする。そして腰に力が入らなくなり、膝は崩れ、床に落ちた。
怪物は崩れた正座のようになったこちらの様子を見て、呆気に取られている。そしておもむろに銀髪の女の方へ近寄る。
「どーしたのぉ?モタモタしてるトぉ……先に食べちゃウゾォオ?美味そうなシロイ肌ぁあア。まずは心臓からにしようかなぁァァ。」
そう言って怪物は長い爪を伸ばして、その女の胸元にそれを這わす。
「んーっ!!んんーっ!!」
女が恐怖に悶絶する。被せられた布から声が漏れ、必死に身をよじらせていた。
「や、やめろ!やめてくれ!!」
声を絞り出して制止する。すると怪物はこちらをギョロリと見る。
「……何デ?」
その燐光が目に突き刺さり、金縛りにあったかのように身体が強張る。
「か、彼女は……仲間なんだ。傷付けないでくれ……。」
「仲間ぁ???……ねぇ、この女とナンカあるのぉ?仲良さそうにしてるの何回か見ちゃったナァ。ヤッパリそう言う関係ナノ?妬けチャウぅぅ……。」
そう言うと怪物はこちらに迫って来た。……足がすくんで動けない。
そしてそのままこちらに抱きついて来た。
「ねぇえ、私と結婚してヨォ。お願いイイイ。お願いぃぃい。」
怪物はその牙をしまい、何度もこちらに口付けしてくる。
その度に頭突きをくらい、意識が飛びそうになった。
そして怪物は耳元でつぶやく。
「ねぇ……私と誓いの血を交換しましょうぅウウウ?」
怪物は急に爪で自身の指を傷つける。青紫色の血がたらりと流れた。そしてそのまま指をこちらの口に突っ込んでくる。
歯でその指を噛んで抵抗しても全くびくともせず、どろどろと喉内にその血が流れ込んでくる。それは火傷しそうなくらいに熱かった。
そしてどんどんとその青紫色の血を飲み込んでいってしまう。
それを飲む度に自身の身体が熱くなり、意識が遠くなっていく――
無意識の中、ささやき声が聞こえてくる。
誓いの血の儀式が終わったらぁ、真名も交換するのよぉ。私、ほんとぉはアナスタシアっていうのぉ……。よろしくねぇえええ。
それからしばらくすると、今度は美しき歌声が聞こえてくる。
モスリン讃美歌第98番
――伝えし者は呼ぶ 素晴らしき世界へ 愛を叫び 血を交わす 名を交わし 青の眷属は とこしえを謳う――
◾️8番車両 自室
……目を覚ますと、見慣れた天井があった。しんと静まり返った室内。また雪が窓を叩きつけていた。
勢いよく身体を起こす。自室は特に変わった様子もなかった。
「おはよう、アキ。」
声のする方を見ると、そこには銀髪の女が座っていた。
「カチューシャ……?」
彼女はいつもの制服姿ではなく、三つ編みを降ろした長い髪、白い服に青いスカート姿だった。
さっきのは夢だったのか?彼女は死体まみれのレストランでアンに喰われかけていたはず……。
「あの恐ろしい怪物……あれが人狼なのね……。まさか列車の中にあんな怪物が混じっていたなんて。……アキ、あなたもその仲間なの?」
「いや、違う……。」
さっきのは夢じゃないようだ。
「まぁそうよね。でもその言葉が聞けて安心した。」
カチューシャはこちらの横側に座る。
「あの状況で、カチューシャは何で生きてるんだ?あそこで何があったんだ?」
そう訊ねると、彼女はゆっくりと手をこちらの膝に乗せる。震えていた。
「……死ぬかと思ったわ。褒めて?」
■回想
私は暗闇の中。思い返す。
サリの護衛に追いかけられながら、レストランまで逃げたは良いものの、そこであっけなく捕まってしまった。
しばらくすると、まるで見せ物のようにレストランに乗員乗客が集まって来た。
そうしたらその中にいた一人の女が突然金切り声の咆哮をあげて、そこにいた人間全員を殺してしまった。子供がオモチャを投げるように人間が飛ばされて、人形のように四肢をちぎり取っていた。
そして全てを終わらした後、その怪物はこちらを見てきた。そして舌舐めずりをしながらテーブルへ拘束して来た。
視界や口が遮られた状態で、長時間待っていると、今度はアキが連れてこられた。
そしてさっきのやりとりが終わり、彼の声が聞こえなくなってしまった。
「ありゃりゃ?寝ちゃったぁ?どうしてぇ?刺激が強すぎたのかなぁ?……ううーん、このご飯。どうしようー。」
怪物が私の前に近づく音がした。
そして私の頭に被せられた布が取り払われる。目の前には怪物がおぞましい形相でこちらを見ていた。
「お前はどう思うぅ?ヒと口食ってイイ?」
女はそう言いながら、私の口内へ入れられているタオルを乱暴に抜き取った。
「……はぁ……はぁ……はぁ……。」
息苦しさからようやく解放され、口から貪るように息を吸う。
「シャべレヨォオオオオオ!!!」
女は牙を見せながら、恐ろしい声で凄む。金切り声が波動して全身が総毛立った。
怖くて仕方がないが、怯えてしまえばすぐに殺される。毅然とした態度で対等に話し合わないといけない。
だからこの女の目をキッと睨みつける。
「……あんた、あたしを喰ったら後悔するわよ?」
「後悔?……へぇ、何故?」
興味を引けたようだ。怪物はその牙をしまった。
「あたしはサーシャ・シフォンヌ。兄であるサリを暗殺し、赤獅子の悪事を世へ糾弾するためにここにいるのよ。彼はようやくこの列車に乗って来た……。」
「はぁ?難しい話するつもりなら喰うけどぉ?」
「簡単よ。兄は赤獅子の軍隊を使ってモスリンを焦土にした。あんたモスリンの人狼でしょう?……その兄とやらが憎いとは思わない?」
「憎い?んふふ……焦土となって神は死んだ。そのおかげでその使徒はモスリンから解き放たれた。いい話じゃない!今とっても楽しいわ!」
「は、はぁ……?」
何を言っているのか分からなかった。
「んふふ……。」
怪物は笑う。
そして突如私の後頭部を掴み、縛られたテーブルごと引き寄せてくる。
眼前には怪物の伸び散った牙の先端があった。寸刻一寸、それは今にも私の瞳をつらぬきそうだった。恐怖に強張って瞼を限界まで目一杯に開く。動悸が胸を乱れ撃ちし始めた。
「何も知らないくせに口出しするんじゃねぇよオオオォ!!」
私の髪がぶわりと弾け飛ぶ。耳がキーンと鳴り、死臭の香る唾が顔に飛び散った。眼前には相変わらずおぞましい牙に瞳の禍々しい燐光。掴まれた頭はギリギリと痛む。
あまりの恐ろしさに、ついにはボロボロと涙がこぼれてしまった。すると怪物は高笑いを上げた。おちょくっているようだ。
ダメだ泣くな、怯むな……。怯えるな……。何か言わないと喰われる。
「い、いくら脅そうたって、む、無駄よ!か、彼もあたしと同じ目的を持っているの!だから、あ、あたしを、あたしを喰ったら計画が台無し!台無しになるのよ!そうなったら、かか彼はあんたを一生憎むわよ!!」
うまく舌が回らず、しどろもどろな喋り方になってしまう。
「同じ目的ぃ?……なんかそんな話聞いた気がするな。あの生意気なガキ……アレクだったか。……ああムカつく、あいつ私の顔を蹴ったのよ!!どう思う!?許せなくない!?」
「えっ……?」
確か702の客だった。やはりこの怪物が喰ったのか。
「他のモスリンの家畜どもも全くダメダメだし!唯一目覚めたのはルキくんだけ!なのに彼はうまく振り向いてくれない!どうしたら振り向いてくれるか分かるか!?教えろ!!」
また怪物は凄んでくる。
……しかし妙に安心した。こいつの事が少し分かったような気がする。興味があるのは単純な食欲や性欲、幼稚な思考なのか。
「……押しが強すぎるのよ。ちょっとは遠慮を覚えなさい。」
「遠慮……?」
「そうよ、相手の気持ちをおもんばかって見ることね。そうしたら絶対上手くいく。あたしを信じなさい。」
「絶対?言ったわね……んふふ……。その言葉が嘘だったら一番苦しくて痛い喰い方をしてやるわァ。」
そう言って怪物は掴んでいた私の頭を放り投げる。
縛られていたテーブルごと思い切り壁に叩きつけられ、テーブルが真っ二つに割れた。パラパラと縄が解ける。
その強い衝撃に変な声を漏らし、その激痛に悶絶した。
「はぁ……。んじゃー、彼が目覚めるまで待とうかなー。この小汚い髪の女の言葉が事実か確認しないとねー。」
怪物は彼の身体を優しく抱擁し、歌い始めた。子守唄のように優しく囁いて。それはまるで讃美歌のようだった。……かつてモスリンで似たようなものを聞いたことがある。
次第に、私の胸の動悸がおさまっていく。
それからしばらく経過する。10分経ったか、20分経ったか分からない。歌う怪物は彼をずっと抱擁し続けた。
私は下手に物音を立てると殺されると思い、ただ固まっていた。
そんな中、ふいにレストランの扉が勢いよく開かれた。
「な……。カチューシャ!ルキ!」
その扉を開けたのはコジロウだった。その瞬間あの怪物の姿が消える。
コジロウが倒れている彼の元に近づくと、その後ろから何かが飛びかかってきた。……その姿は完全に異形のそれだった。
コジロウは振り向きながら瞬時に帯刀している刀を抜き、異形のそれの長い刃物のような爪を切り裂いた。
「ハアア!?ヤルジャナイ!」
コジロウはそのまま異形のそれへと切りかかる。
「……アアァァ、セッカクマニキュア塗ッテオ洒落シタノニ!!塗リ直スモン!バカァァアアア!!」
異形のそれは刀を躱し、疾風のように部屋を飛び出していった。
■8番車両 自室
カチューシャは語り終えた。
「コジロウさんが助けてくれたのか……。」
「そうね。彼があんな怪物とまさか対等にやれるとは思わなかったわ。……それにしてもあの怪物、どこから来たのかしら。」
「彼女は904号室の乗車券を持っていた。その乗車券には赤獅子の紋章も付いていた。……お前たちが招待したんじゃ無いのか?」
「904号室に居たのは別の人間よ。……死体になってラウンジへ運ばれて来た4人のうちの1人。多分あの怪物に乗車券を奪われたんでしょうね……。目的はわからないけど。」
カチューシャはフッとため息を漏らす。
「あの怪物に掴まれた頭が痛いわ……。」
彼女はゆっくりと頭をこちらの肩に預ける。……さっきまでの震えはおさまったようだ。
なんとなく彼女の頭を撫でる。すると一瞬ビクッとするが、カチューシャはそのまま脱力して身体を預け続けた。
「一旦は無事でよかったわ。守ってくれてありがとう。カッコよかったわよ?」
彼女の言葉にハテナが浮かぶ。
「……守ったっけ?カチューシャには情けない姿しか見せていない気がするけど……。」
そう言うと彼女は笑う。
「あはは。まぁ、あんたなりに頑張ったんじゃない?あの怪物に傷つけないでくれって頼んでたの、あんたでしょ?それにあんたが怪物に結婚を申し込まれて無かったらあたしは死んでたわ。怪物同士お似合いじゃない。」
彼女は頭を起こす。
「か、勘弁してくれ……。」
怪物同士……それは自分も同類である事を明確に示していた。まだ強い自覚症状は出ていないものの。やがて自分も彼女やルキのように人を喰うのがたまらなく愉しくなってしまうのだろうか。そう考えると恐ろしかった。
「大丈夫?なんかあんたって気絶ばっかりしてるから心配よ。そろそろハゲるんじゃない?……あれ、ほのかに薄い?」
こちらの頭をポンポンと叩く。
「や、やめろ!色々ありすぎたんだよ。俺は神の啓示を背負って彼の者……サリ・シフォンヌを暗殺するためにモスリンからはるばるやって来たんだ。なのにそれ以外の人間がどんどん死んでいく。……本当に計画は大丈夫なのか?今夜本当に襲撃できる状況なのか?」
「その事なら、もうすぐデミトリが来るわ。彼が暗殺計画の首謀者。私はそのキーパーソンってやつ?」
カチューシャは得意げな顔をする。そんなに自慢げに言うことか。
それにあのバーテンダーに扮していたデミトリという男、よくよく考えれば彼は何者なのだろうか。それにカチューシャもそうだ。彼女はあのラウンジで見たビデオに映っていたサーシャという女そっくりだった。彼女は胸に赤獅子の徽章を着けていて、それはあたかも彼女自身が軍隊を操りモスリンを焦土に変えた元凶であるかのように思えても仕方がなかった。
「……一体カチューシャは何者なんだ。それにサーシャ・シフォンヌって名前も。お前は……サリ・シフォンヌの妹なのか?」
そう訊ねると、彼女は黙ってベッドに寝っ転がった。その悠々自適な態度。そして頭をこちらの太ももの上に預けてくる。
「随分と余裕だな……。怪物が潜んでるかもしれないのに。」
「こんな時に限って、意外と気持ちが据わるのよ。なんでだろう。……あんたの青い瞳、綺麗ね。」
カチューシャと目が合う。薄赤い瞳。しかし彼女はすぐに遠い目をした。
「私はサーシャ・シフォンヌだった。でもそれは過去の話。5年くらい前かなぁ、カチューシャになったのは――」
――幼少期。シフォン公爵の子として同じ母から生まれた私とサリ兄さんは、隠し子として育てられた。当時のシフォンヌはシフォン直系ではない忌み名みたいなモノだった。その頃は他の貴族に馬鹿にされていたけど、兄さんは当時から野心家だった。
シフォンの邸宅の中庭で泣きじゃくる幼い私に、サリ兄さんが近寄ってくる。
「また泣かされたのか、サーシャ。ぼくならやり返すけどな。」
そういって彼は鼻をこする。
「だってぇ……周りの子はあたしの事を下賎だってバカにするのよ……くやしい……。仲間に入れてもらえないの。病気で髪の色が褪せてて汚いって、瞳が気持ち悪いって、みんなあたしたちよりいい洋服を着てて、うらやましい。」
「情けないなぁ。ぼくならボコボコにする。なめられてるから仲間はずれになるんだよ。だからまずはトップに立つ。そうしたらみんなサーシャの髪の色がきれいだって褒めるようになるにきまってる。ついてこいサーシャ、誰がばかにしてきたか教えろ。お手本を見せてやる。」
「ええ、あんまりやりすぎちゃだめだよ?」
――その気の強さから、子供の世界では頂点に立てた。ただ大人の世界に近づくにつれて悪目立ちするようになったけど、それでも彼はしたたかだった。
「サーシャか。少しやりすぎたよ。」
彼の手は血に染まり、転がった骸は天井を眺めていた。
深夜のホテル、一室は血に塗れ、数人の死体が転がっている。
「……こ、こいつらは?」
そう訊ねると彼は骸の上に腰をかける。
「どうやら俺はエングレス家に目を付けられたらしい。派手に楯突いたから、ごろつきどもを送り込んできたようだ。ただこの通り返り討ちにしてやったがな。今はどうやって奴らに報復を加えるか考えているところだ。」
サリ兄さんは血に染まった得物をくるくると回す。
「馬鹿な事言わないで、そんなことしたらもっとひどいことになる。」
「まぁ見てろ。もう目立った真似はしない。隠し子らしく影に潜み、裏からつぶしてやるよ。いつかシフォンを支配してやる。ははははは。」
「いい加減にして!サリ兄さん!」
しかし彼は私の意見など歯牙にもかけなかった。
――そして今から10年前。私たちがモスリンへ視察へ行った時のこと。かの地では狼獲祭が開かれていた。そこではシフォンの貴族たちとは真逆の、気さくで無垢な人々が暖かく歓迎してくれた。
旅客鉄道ジョーゼットのとある一室で、私はベッドに寝っ転がっていた。扉付近にはダブルスという男が立っている。
彼は最近側近になった、腰の低いおじさん。でも今日の彼は珍しく少し不機嫌だった。
「ねぇダブルス、モスリンはとても自然がいっぱいで楽しかったわ……。お祭りに参加したのよ?友達もできたし、一緒に踊ったの。なんだかシフォンで暮らすより体調も良いみたい。……うふふ、また行きたいなぁ。」
「サーシャ様、18にもなってまだそんな事を仰るのですか?それに公務の途中で逃げ出したそうですね。少しは貴族としての自覚をお持ちになって下さい。」
「まさかお説教?……フンだ、偉そう。政治なんてつまらない。」
私は起き上がり、ベッドに座って足をぶらぶらとさせる。
「サリお兄様は立派に公務を果たされました。何か大きな収穫があったそうですよ?」
「はぁ?……もうあいつとは何年も喋ってない。どうせまた良からぬ事でも考えているんでしょう。……あいつは貸切の1番車両で贅沢に過ごして、私はこの狭い801号室に押し込められてる。もう対等じゃないのよ。」
――5年前
シフォンの邸宅にある、サリ兄さんの広く仰々しい部屋へ呼び出された。
彼は豪華な椅子に頬杖をついて座り、テーブルへ足をかけてふんぞり返っている。
「また新しい名前を手に入れたのね。ソル・ジョーゼットさん。」
そう嫌味を言ってサリ兄さんをキッと睨みつける。
「ああ、ジョーゼット家の先代は引退されたそうだな。……どうも最近そういった事が多いのだ。」
彼は白々しく笑う。
「そういえば今度ジョーゼット家の軍隊を譲り受けることになったぞ?お前の好きな獅子とその瞳の色を名に冠して、赤獅子と名付けることにしたよ。」
「……久しぶりに話をしたと思ったら、あきれるくらいそんな話ばかりね。裏でみんなあんたに怯えている。」
「当たり前だ。誰も余に手出しできない。下心を見せる前に潰すように心がけているのでな。貴族の家は一枚岩ではない。……そしてシフォンヌ家もそうだ。だろう、サーシャ?お前も余へ反心を抱いている。」
そう言って彼は立ち上がる。そしておもむろに軍刀を抜いた。
「な、なんですって?気でも触れた?」
「ごまかさなくて良い。余は数年後にモスリン全土を襲撃する。サーシャはそれを止めようとしているのだろう?……今までも事あるごとに邪魔してきたのはバレている。兄妹のよしみで見逃してやったが、もう看過できない。」
私はとっさに走りだす。扉の方に目をやると、守衛がこちらを捕まえようとしている。
それを押し通ろうと体当たりをかますも、あっけなく捕まってしまった。
そしてシフォンの果てに連れて行かれた。
地下牢で過ごす日々は地獄のようだった。日の届かない暗闇の中、腹が減り、喉が渇いた。ネズミや虫が物音を立て、時に身体を這う。その度に発狂して暴れ、声を荒げ、憎悪をぶちまけた。
どうやらこのまま衰弱死するのを待っているようだ。
最初はそれに屈しないよう、湧き出てくる何かを捕まえて食いながら、ただ耐えた。
でもやがて憔悴しきり、身体も動かなくなっていった。
ある時、その地下牢へ光が差し込んだ。見る機能を失いかけていたその瞳がその光芒を捉え切れず、とっさに目を瞑る。
シフォンの外れにある小さな病院。シフォンにしては珍しく緑と鳥のさえずりが心地よい場所。
そこで小柄な黒髪の医師見習いと仲良くなった。彼女とくだらない話で盛り上がっていると、誰か入ってくる。
「サーシャ様、お元気になられたようで。」
ダブルスだった。
挨拶程度の会話を交わしたのち、彼は夢を語った。サリを打倒し、私を再起させると。
「……サーシャ様、今は黎明の時です。私は今よりデミトリと名を変え、秘密裏に活動を続けます。あなた様も名を変えて下さいませ。そして雌伏の時を越え、再び立ち上がるのです。」
私はカチューシャと名を変えて、シフォンのスラムに隠れ住んだ。迷宮のようなこの場所は過酷だけど、それでもあの地下牢と比べれば天国だった。
そして一年前、再びモスリンへ訪れた。焼け果てた彼の地を見て誓った。もはや雌伏の時は終わりを告げたと。
そしてこのジョーゼットに潜み、彼の者が訪れるのを待った。
――――――――
「……まぁ、こんな感じ?長ったらしい話をしてごめんね。」
カチューシャは笑う。
そんな折、自室の扉がノックされた。
そして扉が開き、男が二人入ってくる。
デミトリと、コジロウだ。
カチューシャはガバッと身体を起こす。
「あ、あんたたち……。」
彼女は頬を指で掻く。
「ドタバタとすみません。じきにジョーゼットはシフォンへ到着します。もはや一刻の猶予もありません。準備はよろしいですか?」
デミトリが慌てた様子で言う。
「分かりました。」
こちらはそそくさとカバンをあさる。
「……それで、なんでコジロウがここにいるの?」
背後でカチューシャが問いかけている。
「拙者は人狼を狩る為に協力する事にした。興味があるのはそれだけだ。……他の事は見ない事にする。」
「……どうもあの怪物はサリが招き寄せたようです。なので奴を無視する事はできません。なので彼に協力を要請しました。」
「ふん、行き当たりばったりね。……でももうこうするしか無いみたいだけど。……悪いわね、コジロウ。」
そう言ってカチューシャはコートを羽織り、こちらを見る。
「行くわよ。全て終わったらジョーゼットを脱出する。そのつもりでね。」
こちらも上着を羽織り、彼女達に続いた。
◾️ジョーゼット 通路
部屋の外には小銃を装備した兵士達が5人並んでいる。そしてデミトリを見るや否やビシッと敬礼をした。今までこんな客を見かけた覚えはなかったが、客に扮していたのだろうか。
「サリは今1番車両にいます。行きましょう。」
デミトリは歩き始めた。
ぞろぞろと歩くその様相はまるで9人の小隊のようで、先頭をデミトリとコジロウ、その後ろに自分とカチューシャ、更にその後ろに兵士達と続く2列の縦隊となって1番車両へと向かっていく。
「ふうん、随分と数を揃えたのね。」
カチューシャが兵士達をなめるように見る。
「はい。数ではこちらが優っております。」
デミトリが答える。しかしカチューシャは少し不機嫌そうにため息をつく。
「どうしたんだ?カチューシャ。」
そう言うと彼女はこちらへ耳打ちしてくる。
「デミトリは元軍隊あがりだからなんでしょうね。やたらと秘密主義なのよ。……私の役目は乗車券を確認してデミトリの元へ誘導するだけ。それ以外の計画はほとんど教えてくれてない。それに……あいつらの仕草、まるで赤獅子の兵士みたい。」
カチューシャはチラッと兵士たちの方を見る。
「なんだって……。」
「アキ、あなたはきっとスケープゴートにされる。モスリンの人間を呼んだのはそのためよ。だから全部終わったら捕まらないように逃げて。」
カチューシャはささやく。
デミトリは立ち止まった。
「もう1番車両は目の前です。準備はよろしいですか?」
デミトリは全員に呼びかけ、車両扉に手をかける
そして、それを思い切り開け放った。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
【R18】もう一度セックスに溺れて
ちゅー
恋愛
--------------------------------------
「んっ…くっ…♡前よりずっと…ふか、い…」
過分な潤滑液にヌラヌラと光る間口に亀頭が抵抗なく吸い込まれていく。久しぶりに男を受け入れる肉道は最初こそ僅かな狭さを示したものの、愛液にコーティングされ膨張した陰茎を容易く受け入れ、すぐに柔らかな圧力で応えた。
--------------------------------------
結婚して五年目。互いにまだ若い夫婦は、愛情も、情熱も、熱欲も多分に持ち合わせているはずだった。仕事と家事に忙殺され、いつの間にかお互いが生活要員に成り果ててしまった二人の元へ”夫婦性活を豹変させる”と銘打たれた宝石が届く。
吸い魔狂の館
振矢 留以洲
ファンタジー
進治は、「吸い魔狂の館」と地域で呼ばれている、豪邸の廃墟に、忍び込んで金目のものを取ってくるように、不良グループに言われて中に入っていく。高価そうな鏡が眼について、近寄ってみると、その鏡に自分の姿が映っていない。その鏡に手を触れると雷にうたれるような痺れが全身をはしった。
何も持たないで出てきた進治を、不良グループのボスが近寄ってきたとき、進治の眼が光りだした。進治の身体全体が光りだすと、不良グループのボスの身体が宙に浮き上がった。進治の身体が光っているのをやめると、不良グループのボスの身体が地面に叩きつけれた。やっとのことで起き上がると、その場から去っていった。他の者もボスに続いて去っていった。
社会人になった進治は、学生の時の友人である光太郎と同じ会社に入社した。そこにおいても、進治の眼と身体が光ることによって、光太郎を窮地から救うことがあった。二人共同じ国に海外赴任することになるが、そこにおいても進治の眼と身体が光ることによって光太郎を窮地から救うことがあった。
だが、そのような不思議な出来事が起こったことを進治もその場にいた者まったく覚えていなかったのである。
護送車が事故に遭い、逃走した鮫川権吉は、務所仲間の老人から聞いていた無人島に逃げた。無人島の洞窟で見つけた鏡には映った人の姿を人に見えなくする不思議な力があった。その力を利用して権吉は、巨万の富を得て、会社を経営するほどになった。名前を三田園健吾と名乗って経済界躍り出ることになった。
香風堂が健吾の経営する投資会社に買い取られ、健吾は香風堂の社長にしばらく就任することになった。香風堂の社員であった瑞瑠は、健吾の意向によって秘書室に異動することになった。健吾は鏡の力を使って、瑞瑠の夫、米蔵が精神的に異常をきたすように画策する。
健吾の思惑通り、瑞瑠は米蔵と離婚することになったが、仕事で香風堂に来ていた進治が、瑞瑠と携帯番号とメールアドレスを交換しているのを見た健吾は、進治を米蔵と同じ目に合わせようと画策した。鏡の力を進治に対して使おうとした時、進治の眼が光り、身体が光り、鏡の威力が消えてしまった。
鏡の威力が消えてしまってからというもの健吾の会社は悪化の道を辿るのみで、やがて財産のほとんどを失うまでになってしまった。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる