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第一章 また蓋がなくなりました
1 帰ってきた蓋
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自転車のチェーンケースがカチャカチャ鳴る。家には母親が乗らなくなったママチャリしかないんだから仕方がない。自分の自転車は原付バイクを買った時に手放した。高校の時だから、かれこれ十年も前になる。それ以来自転車に乗る機会なんてなかったけれど、案外普通に乗れるものなんだなと妙に感動する。
大通りから逸れて、歩道もない裏道に入るとすぐに、板金工場や寂れたスナックの先に三階建てのビルが見えてきた。二階の窓の横には『磯貝プリント株式会社』の看板がある。看板の真下に自転車を止めていると、二階の窓が開く音がした。
「石井くん、手を怪我しているのに自転車に乗ったら危ないでしょお」
パートの大塚さんだ。
「大丈夫ですって。一応、原付はやめて自転車にしてるし」
「ハンドル握るのは同じじゃない。営業車を運転しなくても自転車に乗ってたらだめよー」
「だからぁ、車の運転もできるんですってー」
捻挫の治りかけた左手首をプルプルと振って見せると、大塚さんは自分の手が痛むみたいに顔をしかめた。僕は笑って、重いガラスドアを押した。
入ってすぐの階段を上ると、二階は仕切りのない事務所フロアが広がっている。一階は作業場、三階は社長や専務のオフィスだ。
磯貝プリント株式会社は、七十代の磯貝社長を筆頭に、家族経営から始まった小さな印刷会社だ。従業員は八十人程度。うち正社員は二十人ちょっとで、あとはパートとバイトの人たちで成り立っている。
最後の踊り場を越えたあたりで、上から「よお」と声をかけられた。顔を上げると、磯貝社長がマグカップ片手に立っていた。給湯室から社長室へ戻るところなのだろう。
「あ。おはようございます」
「おはようさん。石井ちゃん、また自転車で来たんだって?」
「あー。大塚さんかあ。伝わるの、早いですね」
「事故ったらあぶねぇぞ。せっかく手が治るまで内勤にしてるのによ」
僕の仕事は営業だ。といっても、呼び出しのかかった得意先を回るだけのルートセールスだから気楽なものだ。そして、手首の捻挫はちょっとひねっただけのもので、しかももうほとんど治りかけている。湿布を貼ってはいるが、少し違和感があるだけで痛みはない。だけど社長は完全に治るまで車に乗るなと言った。
「全然問題ないですよ。今日からだって営業に出ますよ?」
「完全に治るまでおとなしくしてろ。おまえの担当の外回りは健一がやってるんだから心配するな」
健一というのは社長の息子で専務の磯貝健一だ。小さな会社とはいえ、下っ端社員の仕事を専務に代行してもらうのは落ち着かない。
どうにか営業の仕事をさせてもらえないかと言葉を選んでいると、社長は事務所に向かって野太い声で叫んだ。
「おおい、つかっちゃん! 今日もこいつを見張っといてくれや」
「はーい。任せといてー」
奥のキャビネットの影から、声とともに作業服の腕が上がった。
かくして、今日も僕は大塚さんの見張りつきで雑用をこなすことになる。
「あれ? 蓋がある」
午後イチで給湯室に入るなり、大塚さんが動きを止めた。ミーティングルームで打ち合わせ中の取引先の人たちへのお茶を用意しに来たのだった。
僕が見たところ、給湯室の様子に昨日までとの違いはない。ステンレス製のシンクと水切りかご。左手にある食器棚の上段には来客用の湯飲み、コーヒーカップ、ティーカップが並び、下段には従業員各自のマグカップが並んでいる。その下、腰の高さの部分は棚になっていて、そこに茶葉やコーヒー豆などが入っている。茶筒やインスタントコーヒーの瓶やお菓子の缶などに蓋はついているが、あって当たり前である。
「なんの蓋ですか?」
「全部よ」
「全部って?」
「全部は全部よ。これや、これや、これや、これもっ!」
大塚さんは茶筒や瓶や缶の蓋をパーカッションのように軽快に叩いた。
「いやいや、蓋はあるでしょ、普通。なかったらなんのための蓋ですか」
「でも今朝はなかったんだもの。だからとりあえずと思って、ラップをかけておいたのよ」
容れ物という容れ物にかけておいたというラップはすべて外されて、足元のゴミ箱に捨ててあった。何枚ものラップがくしゃくしゃにして捨てられているものだから、もこもこと膨らんでビールの泡みたいになっている。
大塚さんは、それでなにかがわかるわけでもないだろうに、片っ端から蓋を開けては閉めていく。
「大塚さん、蓋がなくなったならともかく、戻ってきたならいいじゃないですか。とりあえずはお茶を持っていかないと」
「そうだった、そうだった」
僕がトレーと湯飲みを用意しながら促すと、大塚さんも慌ててお茶の用意を始めた。
ミーティングルームにお茶を出した後、給湯室に戻って出しっぱなしだった茶筒や急須を片付けていると、ガサガサとレジ袋らしきものの鳴る音が近づいてきた。
「ただいまー」
専務の磯貝健一だった。
「お疲れさまです」
僕は深くお辞儀をした。僕の担当区域まで回ってもらっていると思うと、自然と頭を下げていた。
「おかえりー、健一くん」
一方、大塚さんは専務に向かって「くん」付けである。社長も専務も『磯貝』なので紛らわしいというのがその理由だ。役職で呼び分けるという選択肢はないらしい。
専務も慣れたもので気にする様子もない。
「大塚さん、頼まれたの買ってきたよ」
「ああ、ありがとね」
大塚さんは専務からレジ袋を受け取ると、中からラップを二本取り出して戸棚にしまった。
「え。大塚さん、専務にこんな買い物を頼んだんですか?」
「そうよお。だって外に出るついでじゃない。ねえ?」
最後の「ねえ?」は専務に向けて放たれた。専務は、いいんだいいんだ、というように片手を振りつつ給湯室から出て行った。
「ちょっと人使い荒くないですか? 仮にも専務ですよ」
「石井くん、専務のことを『仮にも』とかいっちゃうんだ?」
「あ、いや、それは、言葉のあやっていうか……って、そういうことじゃなくてですね」
「だってねえ、ラップの消費が早いんだもの。蓋がなくなるたびに使うでしょう」
「は? なくなるたび? 蓋がなくなったのって、今日が初めてじゃないんですか?」
「そうねぇ、もう三日間くらい続いているかしら」
「そんなに?」
「そんなに、よ。しかもご丁寧に蓋という蓋が全部ね」
「僕、今日初めて知りましたよ!」
「タイミングが合わなかったのねぇ」
大塚さんは、まるで僕が不運であるかのように言った。
大通りから逸れて、歩道もない裏道に入るとすぐに、板金工場や寂れたスナックの先に三階建てのビルが見えてきた。二階の窓の横には『磯貝プリント株式会社』の看板がある。看板の真下に自転車を止めていると、二階の窓が開く音がした。
「石井くん、手を怪我しているのに自転車に乗ったら危ないでしょお」
パートの大塚さんだ。
「大丈夫ですって。一応、原付はやめて自転車にしてるし」
「ハンドル握るのは同じじゃない。営業車を運転しなくても自転車に乗ってたらだめよー」
「だからぁ、車の運転もできるんですってー」
捻挫の治りかけた左手首をプルプルと振って見せると、大塚さんは自分の手が痛むみたいに顔をしかめた。僕は笑って、重いガラスドアを押した。
入ってすぐの階段を上ると、二階は仕切りのない事務所フロアが広がっている。一階は作業場、三階は社長や専務のオフィスだ。
磯貝プリント株式会社は、七十代の磯貝社長を筆頭に、家族経営から始まった小さな印刷会社だ。従業員は八十人程度。うち正社員は二十人ちょっとで、あとはパートとバイトの人たちで成り立っている。
最後の踊り場を越えたあたりで、上から「よお」と声をかけられた。顔を上げると、磯貝社長がマグカップ片手に立っていた。給湯室から社長室へ戻るところなのだろう。
「あ。おはようございます」
「おはようさん。石井ちゃん、また自転車で来たんだって?」
「あー。大塚さんかあ。伝わるの、早いですね」
「事故ったらあぶねぇぞ。せっかく手が治るまで内勤にしてるのによ」
僕の仕事は営業だ。といっても、呼び出しのかかった得意先を回るだけのルートセールスだから気楽なものだ。そして、手首の捻挫はちょっとひねっただけのもので、しかももうほとんど治りかけている。湿布を貼ってはいるが、少し違和感があるだけで痛みはない。だけど社長は完全に治るまで車に乗るなと言った。
「全然問題ないですよ。今日からだって営業に出ますよ?」
「完全に治るまでおとなしくしてろ。おまえの担当の外回りは健一がやってるんだから心配するな」
健一というのは社長の息子で専務の磯貝健一だ。小さな会社とはいえ、下っ端社員の仕事を専務に代行してもらうのは落ち着かない。
どうにか営業の仕事をさせてもらえないかと言葉を選んでいると、社長は事務所に向かって野太い声で叫んだ。
「おおい、つかっちゃん! 今日もこいつを見張っといてくれや」
「はーい。任せといてー」
奥のキャビネットの影から、声とともに作業服の腕が上がった。
かくして、今日も僕は大塚さんの見張りつきで雑用をこなすことになる。
「あれ? 蓋がある」
午後イチで給湯室に入るなり、大塚さんが動きを止めた。ミーティングルームで打ち合わせ中の取引先の人たちへのお茶を用意しに来たのだった。
僕が見たところ、給湯室の様子に昨日までとの違いはない。ステンレス製のシンクと水切りかご。左手にある食器棚の上段には来客用の湯飲み、コーヒーカップ、ティーカップが並び、下段には従業員各自のマグカップが並んでいる。その下、腰の高さの部分は棚になっていて、そこに茶葉やコーヒー豆などが入っている。茶筒やインスタントコーヒーの瓶やお菓子の缶などに蓋はついているが、あって当たり前である。
「なんの蓋ですか?」
「全部よ」
「全部って?」
「全部は全部よ。これや、これや、これや、これもっ!」
大塚さんは茶筒や瓶や缶の蓋をパーカッションのように軽快に叩いた。
「いやいや、蓋はあるでしょ、普通。なかったらなんのための蓋ですか」
「でも今朝はなかったんだもの。だからとりあえずと思って、ラップをかけておいたのよ」
容れ物という容れ物にかけておいたというラップはすべて外されて、足元のゴミ箱に捨ててあった。何枚ものラップがくしゃくしゃにして捨てられているものだから、もこもこと膨らんでビールの泡みたいになっている。
大塚さんは、それでなにかがわかるわけでもないだろうに、片っ端から蓋を開けては閉めていく。
「大塚さん、蓋がなくなったならともかく、戻ってきたならいいじゃないですか。とりあえずはお茶を持っていかないと」
「そうだった、そうだった」
僕がトレーと湯飲みを用意しながら促すと、大塚さんも慌ててお茶の用意を始めた。
ミーティングルームにお茶を出した後、給湯室に戻って出しっぱなしだった茶筒や急須を片付けていると、ガサガサとレジ袋らしきものの鳴る音が近づいてきた。
「ただいまー」
専務の磯貝健一だった。
「お疲れさまです」
僕は深くお辞儀をした。僕の担当区域まで回ってもらっていると思うと、自然と頭を下げていた。
「おかえりー、健一くん」
一方、大塚さんは専務に向かって「くん」付けである。社長も専務も『磯貝』なので紛らわしいというのがその理由だ。役職で呼び分けるという選択肢はないらしい。
専務も慣れたもので気にする様子もない。
「大塚さん、頼まれたの買ってきたよ」
「ああ、ありがとね」
大塚さんは専務からレジ袋を受け取ると、中からラップを二本取り出して戸棚にしまった。
「え。大塚さん、専務にこんな買い物を頼んだんですか?」
「そうよお。だって外に出るついでじゃない。ねえ?」
最後の「ねえ?」は専務に向けて放たれた。専務は、いいんだいいんだ、というように片手を振りつつ給湯室から出て行った。
「ちょっと人使い荒くないですか? 仮にも専務ですよ」
「石井くん、専務のことを『仮にも』とかいっちゃうんだ?」
「あ、いや、それは、言葉のあやっていうか……って、そういうことじゃなくてですね」
「だってねえ、ラップの消費が早いんだもの。蓋がなくなるたびに使うでしょう」
「は? なくなるたび? 蓋がなくなったのって、今日が初めてじゃないんですか?」
「そうねぇ、もう三日間くらい続いているかしら」
「そんなに?」
「そんなに、よ。しかもご丁寧に蓋という蓋が全部ね」
「僕、今日初めて知りましたよ!」
「タイミングが合わなかったのねぇ」
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