死ねない死者は夜に生きる

霜月透子

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サキは颯と結ばれる

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「咲……おいで……」

 颯がボロボロの腕を差し出すから、サキは躊躇いながらも側に寄っていった。恐る恐るその手に触れると、乾燥し浮き上がった皮膚や、干し肉のような繊維が剥がれ落ちていく。触れれば進行を早めてしまいそうで、サキが手を離そうとすると、颯の手が指を絡めてきた。意外なほど力強く引き寄せられた。

 生ける者であった頃と変わらぬ強さに、サキはその手を握り返した。颯が微笑むと同時に、握っていた指のひとつがポクッと脆くも折れた。人差し指が床に落ちていた。あいている手で摘まみ上げる。力を入れ過ぎたのか、サクッと崩れて粉々になった指の残骸が手のひらに残った。

 破片と呼ぶにも小さな欠片たち。颯の一部であったものたち。顔に近づけ、じっと見る。生ける者であったころの颯の匂いがした。

 気付けば口元に運んでいた。舌を走らせると、粉はしがみつくようにして張り付いた。上顎にすりつけつつ味わう。優しく甘い。手のひらに残るわずかな粉末も舐めとる。

 その一部始終を颯は見ている。軽く微笑むその頬も、乾いた繊維が剥がれるのを待っている。

「おいしい?」

「うん、おいしい」

「そうか。よかった」

 大きく微笑むから、目元と口元がひび割れて、大きく剥がれる。剥がれるのを見ていることしかできない。

 颯に抱き寄せられて、サキは腕の中に納まる。背を胸に預け、頭を肩に乗せた。乾ききり、硬くなった体なのに、感じるのは温かく弾力のある肉体だった。そんなの、錯覚だと知っている。死せる者となってもなお失われない記憶が愛おしくて苦しかった。

 ――忘却って、私たちに残された貴重な能力だと思うのよね。

 ランコが言った言葉。死せる者ならば忘却が進むはずなのに。あの満月の晩、颯の匂いに呼び覚まされた記憶は失われるどころか、ますます鮮やかに甦ってくる。

「咲、泣いてるの?」

 ごわついた指先がサキの目元をぬぐうように滑った。

「泣いてないわよ」

 死せる者は一切の排泄をしない。

「なら、よかった」

 颯の指先がサキの頬を伝い、口元に差し掛かる。顔を傾け、パクリと咥えた。舌先にざらりとした感触が伝わる。指にグイッと力が籠められ、ぽきりと折れた。そして、口腔内にころんと転がった。颯の一部を吐き出す気にはなれず、そのままじっとしていると、頭の上で声がした。

「おいしい?」

「うん、おいしい」

「おいしいなら、全部食べていいよ」

「……」

 おいしいと答えたのは本心だった。けれども満月の影響が及ばない状態では、抗えないほど欲するというほどでもない。むしろ、颯を傷つけたくないとの思いの方が勝っている。

 答えに窮していると、颯の声が耳をくすぐった。

「俺はね、咲でできているんだ。こんなこと知られたらかっこ悪いと思って言わなかったけど、なにかをするたびに、なにかをしないたびに、咲が知ったらどう思うだろうって考えた。嫌われたくない、咲に好かれる俺でありたい、って、なにをするにもそういう基準で考えてきた。だからね、俺は、咲でできているんだ」

 かっこ悪いだろう? と笑うから、そんなことない、と首を振る。だって、同じだから。同じだったから。

「――食べて。咲でできた俺を食べて。俺がいなくなった後も、咲は俺でできているんだと思ったら、救われる気がするんだ」

 サキは颯の残る指を一本ずつ丁寧に口に含んでいった。生ける者だった颯を食べた時のように咀嚼するまでもなく、指は口の中でほぐれて溶けた。腕も、足も、舐めたり齧ったりして食べていく。優しい甘さだった。熟れた桃を食べているようだった。

 口づけをしようとして、躊躇った。頭部はさすがに抵抗がある。とはいえ、乾いた腐敗は進み、サキが触れていない部分も自然に崩れ始めている。左目はいつの間にか失われていて、眼窩も輪郭がはっきりとしないほどだった。

「颯……」

「なあ、咲。生まれ変わりってあるのかな?」

 颯が明るい声で問う。
 サキは還りし者にはなれない。永遠に死せる者のまま。

「さあ。どうかしら」

「もし、生まれ変わったらさ」

 颯もきっと還りし者にはなれない。還りし者になるのは、生ける者が自然死した場合と、死せる者が満期を迎えた者。颯はそのどちらでもない。生ける者ではなくなった、できそこないの死せる者。

「もし、生まれ変わったら?」

「生まれ変わったら、今度こそ結婚でもして、ずっと一緒にいような」

「――うん。必ず」

 颯はサキと唇を重ねた。サキは受け入れる。舌先で歯列をなぞり、歯を一つずつ飲み込んでいく。舌をずるりと吸い込み、唇を舐めとった。話せるはずのない口から颯の声が聞こえた。

「ありがとう――」


 食べるより朽ちるほうが早かった。
 颯であったモノが塵となって積もっている。掃き寄せた枯葉の山にも見える。サキは掻き集めようとして両手で触れる。だがそれは、感触すらない灰のように、触れたそばから消えていく。

 塵の傍らに小さな箱があった。箱にかけられたリボンに小さなメッセージカードがはさまれている。抜き出して開くと、颯の下手な字が並んでいた。

《咲へ 誕生日おめでとう 颯》

 ぽたり、ぽたぽたと滴が床に落ちる。
 涙――?
 そんなはずはない。死せる者は一切の排泄をしないのだから。

 サキは床にうつ伏し、かすかに残る匂いを深く吸い込んだ。
 口の中にはまだ食感が残っている気がして、罪悪感と恍惚感が入り乱れた。


 雪がやんでいる。空が白み始める。
 朝が近い。
 世界は途切れることなく続いていく。
 いつまで続くのだろう。いつまでも続くのだろう。
 時の概念が存在しない世界での暮らしがどのようなものなのか、思い描くことなどできやしない。残された時間におびえていたシガンでの自分が懐かしくすらある。

 サキはローブを羽織り直し、フードを深くかぶると、窓の外へと飛び出した。
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