死ねない死者は夜に生きる

霜月透子

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サキは誰かを想う

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 柵の向こうは崖になっていて、眼下には国道が走っている。国道の向こうには海が広がる。

 サキはその海で死んだ。

 海で溺れた時、たしかに意識を手放したのは覚えている。最期に脳裏に浮かんだのは、誰かの笑顔だった。サキの髪に触れ、ふうわりと微笑む誰かだった。その時ははっきりと誰だかわかっていたはずなのに、今ではもうその微笑みさえ思い出せない。

 それでもまだその人と一緒にいた頃の感情だけが残っている。共に過ごした日々の欠片さえ記憶にないのに、その頃の感情だけが妙に鮮やかに残っていて、ふとした瞬間に胸の奥が温かくなったり、氷の刃で刺されたように冷たく痛んだりする。感情が動くきっかけに遭遇した瞬間に、私の記憶や意思などお構いなしに心が勝手に反応しているのだった。それはまるでその人への想いだけが生き残っているみたいだ。

 波に揉まれ海面の方向もわからなくなり、思考も海中に彷徨って、細切れなイメージ映像のようなものとそれに対応する感情が、スライドみたいに忙しなく切り替わった。走馬灯みたいにゆったりと眺められるものではない。

 映像が途切れがちになると、感情だけが目まぐるしく襲ってきた。中には痛みもあった。けれどもそれは忌むべき苦痛ではなく、愛しさや切なさを内包する心地よい痛みだった。
 その痛みさえも曖昧になってくると、今度はやけに鮮明な理解が降ってきた。

 ――死ぬんだ。

 死そのものへの恐怖も悲しみもない、単なる理解。
 その誰かとの時間が永遠に失われることだけが死よりも恐ろしかった。しかし、すぐにそんな思考さえも遠のいていった。

 思い返してみると、いくつもの段階があったことになるが、その時感じたのは、すべては曖昧なイメージと感情が渦巻きながら一気に襲いかかってきた印象だ。走馬灯やスローモーションなどとは似ても似つかない。

 既に身体の指揮権は失われていた。手足どころか指先をわずかに動かすこともかなわず、瞼も上下が張り合わせたように固く閉じられたままだった。

 手放した意識が波間に消えゆく中で、別の誰かに抱き締められた。
 そして、目覚めたらここにいたのだった。

 死んでからの時の数え方は知らない。だから、あれから何日経ったのか、それとも何週間、何ヶ月、何年と経ったのか、計ることはできない。

 この世界のたいていのことはランコから教えられたけれど、時の流れについてはランコにもわからないようだった。進むこともなく、終わりもない時の中で、時間の概念というものは不要なのかもしれなかった。

 単位はわからないものの、サキがヒガンに来たのはそう遠くはない過去だったはずだ。時間と共に薄れていくというシガンの記憶がわずかながら残っているのがその証だ。

 ランコは、死せる者の世界をヒガン、生ける者の世界をシガンと呼ぶ。他の死せる者に出会ったことはないから、これが正しい名称なのかどうかは確かめようがない。それでもランコが教えてくれた世界の仕組みが正しいであろうことは次第にわかってきた。

 ヒガンとシガンは別の世界だ。だが、ピタリと重なり合っている。ヒガンでサキやランコが目にする風景は、シガンのそれとまったく同一のものだ。二つの世界を隔てるのは紗幕のようなものがあるだけだった。紗幕越しに光の側から闇は見えない。しかし、闇の側から光はよく見える。世界の仕組みも同様だった。

 生ける者に知られることのない、死せる者の世界。それがサキの新しい居場所だった。

 覚えたての世界はまだこの身に馴染まない。新品の服に袖を通した時のような落ち着かない気分になる。そんな「新品の服に袖を通した時」なんてものも忘却に沈んでいくのかもしれない。寄せては返す波のように反復を繰り返しつつもやがて沖に流されるように、記憶もまた思い出したり忘れたりを繰り返し、シガンの記憶は次第に消えていき、ヒガンの記憶は定着していくのだろう。

 ぼやりと眼下に広がる海を眺め、砂浜を視線でなぞり、磯のあたりをじっと見つめた。打ち付ける波音と飛沫がすぐ目の前にあるように感じられる。
 ヒガンではあらゆる感覚が研ぎ澄まされる。いずれはこれさえも当然のものとなり、特に鋭敏であるなどと思いもしなくなるのだろうか。
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