死ねない死者は夜に生きる

霜月透子

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咲は颯と喧嘩する

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「もういい! ばかっ!」

 そう捨て台詞を吐き、颯の部屋を飛び出した。
 このまま帰ってやる!
 そう思って颯の部屋を飛び出したのに、咲は国道の明かりが見える頃にはもう後悔していた。道端の草むらからコオロギの鳴き声が立ち上り、ここのところ急に冷えはじめた風は秋の匂いを運ぶ。

 季節の匂いや天気の匂いは誰でも感じるわけではないと知ったのはいつだっただろうか。まだ日が射していても雨の匂いがして、何の気なしにそのことを呟くと、友人たちは笑った。季節の変わり目に風の匂いが変わるのも共感は得られなかった。その時期の花の香りじゃないのと軽くいなされて、そうではないと言えずに曖昧な笑みを返した。
 たいしたことではない。共有できない感覚を残念に思ったこともない。なるほどそういうものなのかと納得もしていた。

 だけど、颯は感じる人だった。水の匂いがすると言ったすぐ後に雨が降り出した。夜の匂い、週末の匂い、静電気の匂い、虹の匂い、夕日の匂い。あらゆるものの匂いを同じように感じた。それらの匂いをわかるという人は他にもいたけれど、どこかピント外れだった。
 どうでもいいことだ。そんなこと共有する必要もないし、求めてもいない。
 それなのに、颯とならわかり合えるとわかった時、突然ひらめきのように咲の心が叫んだ。
 ここにいたんだ! と。
 まるでずっと探していた人のように。やっと出会えた人のように。
 季節や天気の匂いなんてどうでもいい。そんなどうでもいいことまで共感できる人が存在していることに、そして、出会えたことに、咲は指先まで痺れたのだった。


 国道沿いのコンビニの煌々とした眩しさに物思いから解き放たれる。意識が現実に帰ってきた途端、音が溢れた。国道を走る車の音、コンビニ脇の雑木林の葉擦れの音、ここまで届くはずのない波音まで聞こえる気がした。深く息を吸い込むと、夜の匂いがした。草木の湿った匂いや昼間より深い潮の香り。颯ならきっと夜の匂いだって共感してくれる。

 飲み物でも買って、颯の部屋に戻ろうか。
 店内を見ると、スーツ姿の男性がドリンク売り場で悩んでいるようだった。アルコール飲料にするかソフトドリンクにするか迷っているらしい。あの様子ではまだ時間がかかりそうだし、なんだか入りにくいなあと思っていると、国道から赤い軽自動車が左折してきて、雑木林のそばの駐車スペースに停車した。女性二人組が談笑しながら店に入っていく。ドア開閉時の音楽と店員の「いらっしゃいませー」の声を聞きながら、咲はコンビニに背を向けた。
 買い物をする前にもう少しだけ頭を冷やしておこう。
 咲は道路を渡って、海に近づいていく。


 結婚だなんて、颯にとっては突然の話に思えただろう。
 咲は元来それほど結婚願望なるものが強い方ではない。その契約の意味するものがどうにも理解できない。それなのに願ったのは、やはり心の拠り所がほしかったのだ。目に見える糸の結び目がほしかったのだ。今日が三十五歳の誕生日だからかもしれない。

 歳を重ねることに、それほど抵抗はない。若さを失うことを嘆いたりはしないが、生命の終わりが近づくのを感じて少しばかりの恐怖を感じる。三十を越えるまではそれさえ気にならなかった。けれども年々時の流れを早く感じるにしたがって、未来は意外と短いのではないかと思うようになった。老いや死に対する恐怖ではない。もちろんそれも皆無ではないが、主たる感情は、悲しみだった。やっと巡り会えた人と過ごす時間に限りがあることへの悲しみ。永遠がないことへの痛み。大切な誰かの存在は安寧と等しく憂慮も増殖させる。

 印があれば、少しは静穏な心でいられる気がしたのだ。
 それが逆に穏やかな空気を乱すことになるなんて。当然ながら、強要するつもりなどなかった。それなのにどうしてあれほどに食い下がってしまったのだろう。同じ匂いを感じるなどというささやかな感覚の共有までできるのに、大きな感覚ほど隔たりがあったことに気落ちしたのかもしれなかった。

 つい勢いで飛び出してきてしまった今、最大の気がかりは、凡庸なつまらない女と呆れられたのではないかということだ。考えるだに恐ろしい。颯に嫌われるのだけは耐えられない。
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