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――清一に先導され屋敷から脱出した雪人は、見慣れぬ風景に戸惑いながら、東京の街を走り、清一の手を懸命に掴んだ。
清一が懇意にしているという花屋へ、居候する事になった。
下町にあるその花屋は、こじんまりとし、夫を亡くしたという女がひとりで切り盛りする店だった。
女店主は片子といい、清一と雪人をみると、驚いた顔をしていたが、追われていると話すと、それ以上は話さず、家に招き入れてくれた。
「ゆっくりしていけば良いよ。どうせ、私以外には誰もいないし」
清一は逃走資金とルートを手に入れると、街中を駆け巡っていた。
雪人も共に行きたいと云ったが、目立ってしまうからと花屋に雪人を置き、夜になってくると、3人で食卓を囲んだ。
雪人は初めて、他人と暮らしながら、七種家の呪縛に解き放たれた生活とは、こんなに穏やかなものかと考えていた。
「ちょっと、清一。そんなに飯を喰らうんじゃないよ!」
「うるせえババア。ちょっとくらい、いいだろうが」
「ちょっとお?これのどこがちょっとだい!」
丼鉢を頬張る清一に呆れたように、片子は怒るが、清一は気に留めない。
「あ~もう、この馬鹿男は。あ、雪人は食っているかい?」
ふたりの様子を笑いながら見ていた雪人に、片子は視線を向ける。
しかし、雪人の飯が一行に減っていないのを見て、眉を顰めた。
「雪人は、上品だからな。アンタと違って、バクバク喰わないんだよ」
清一の言葉に、また片子は怒るが、雪人は声を上げて笑ってしまった。
穏やかだった。
屋敷では、朝起きて何も求められる事もなく、何もするわけではなく過ごしていたが、ここではこんな雪人でも仕事をすることを求められた。
片子の店は、それほど繁盛しているわけではなかったが、女手だけでは矢張り大変であった。
雪人は、逃亡中ということもあり、あまり店に出ることはなかったが、細かい仕事を中心に手伝い、片子が駄賃として少しばかりの金をくれる程には役に立っていた。
その駄賃をもって、清一に連れられ雪人は、夜の下町を歩いた。
屋敷ではワインしか口にしたことがなかったが、街の一角で、酒を呑んだ。
安酒だといって口にした液体に、一瞬顔を顰めたが、咽に流れ込んだ瞬間、それはなんとも言えない味わいとなった。
「美味しい」
「だろ?お前に一回、飲ませたかったんだ」
そういって清一は、笑った。
清一と過ごす時間は、自分がおかれている状況を忘れさせるほど、楽しいものだった。
目新しいものは全て美しく見えたし、新しく感じるものはすべて、楽しかった。
ずっとこの幸福が続けば良い…雪人は切望した。
幸福の隙間にも、雪人は自分がどれだけ七種家に囚われているか、思い知る瞬間がある。
毎夜見る夢は、屋敷で凌辱されている夢だったのだ。
あの屋敷で、あの部屋で、それぞれの男たちの部屋で…夢の中で、犯されていた。
腕と足には縄が括り付けられ、雪人は暗闇に寝かされていた。
しかし、次第に明るくなり、気が付けば、幾つもの手が躰に這っていた。
『雪人』
囁かれる声は、幾重にも重なり、誰の声かわからない。
飛び起きて、手に何も括られていない事を知ると、酷く安堵した。
荒い息を飲み込み、再び薄い布団に寝転がる。
このまま逃れられるのかと、雪人は不意に不安になる。
だが、隣に眠る清一の顔を見ると、ここまでしてくれる幼馴染を、自由を願った自分を信じたかった。
自由を掴みかけた鳥は、未だ仮の巣の中で、飛び立てずにいた。
――そして、幸福は唐突に終わる。
長く続かないから、幸福は幸福として存在していたのかも知れない。
逃亡から、一ヶ月近くが経っていた。
片子の店は、女店主らしい華やかなものが多かった。
下町には似合わないとおもわれる花も、片子が売るとなれば、自然に見得るから不思議だった。
近頃は、ズボンとシャツを着ることに、何の違和感もなくなっていた。
20年近く、着物での生活だったので最初は戸惑ったのだが、一般的な男児と同じ恰好ができて、雪人は嬉しかった。
その日も、雪人はいつものように片子の手伝いをして、店先に花を出しているところであった。
バケツに入った花を、手にし、店に出ようとしたとき、それは訪れた。
不意に翳った手元に、雪人は顔を上げる。
「見つけたぞ、雪人」
雪人は手に持ったバケツを落とした。
バシャッと音を立てて、バケツから水が広がる。広がった水は、男の高級な靴にもかかったが、その男は意にも止めなかった。
雪人の目の前に立ったのは、七種家次期当主・継晴であった。
「継晴、兄さん?」
継晴は雪人に近づくと、驚いて呆然としている雪人の腕を引き、強く抱きしめた。
「やっと、見つけた」
囁かれる声が、絡みつく腕が、雪人を絶望へと導いていく。
継晴は、腕の中で固まっている雪人の頬に手を添えると、気遣うように聞いてきた。
「一ヶ月も、こんな所にいて大変だっただろう?さあ、屋敷へ帰ろう。父上もまっている」
屋敷といわれた途端、雪人は震えた。
継晴は雪人の肩を掴んで、止めてある車に誘おうとするが、雪人の脚は動かなかった。
「…屋敷には、…帰りたくありません」
「雪人?」
俯いたまま呟く雪人に、継晴は訝る。
「屋敷には帰りません。屋敷に帰ったら、おれは…」
その時であった。店の先に、もう一台、車が止まったのだ。
そこから出てきたのは、継貴と継保…そして。
「清一!?」
悲鳴に近い声を上げたのは、雪人ではなく、騒ぎに気付いた片子であった。
清一は、全身を痛めつけられ、所々、血が噴出していた。
痛めつけたのは、清一の背後に立っている継貴と継保なのだろう。
いくら、良家の息子とはいえ、文武両道を固く誓っている七種家の男たちは、腕に自身があったのだ。
片子は、清一をみやり、そして男に連れられようとしている雪人を見ると、察したようだった。
「ちょっと、あんたら、店先で何をしておられるんだい?悪いけど、そのふたりは私の店の子達だよ。勝手にしてもらったら困る」
片子がそういうと、継晴は雪人を腕に抱いたまま、深く頭を下げたのだ。
「どうも、我が弟と、使用人がお世話になりました。
世間知らずのふたりが、口からでまかせを喋り、あなたを巻き込んでしまったのでしょう。申し訳、ございません」
如何にも上流階級の振る舞いに、何も知らない片子は眉根を上げる。
「あんたら、」
「片子さん…」
雪人は涙に眼を溜めて、首を振った。
ここで逆らったら、何をされるかわからない、そう物語っているようだった。
「もし、何かございましたら、是非、七種家にご連絡下さい。私は、七種継晴、雪人の兄です。こちらが、名刺となっておりますので」
男から出た名に、流石の片子も固まった。
七種といえば、ありとあらゆる分野に手を出している、日本屈指の財閥ではないか。
雪人が、その家の息子なのだという。
固まっている片子の目の前で、雪人は継晴の手によって、黒いバンへと乗せられる。
痛めつけられて、ぼろぼろになっている清一も、継貴と継保によって、無理矢理車に乗せられた。
2台の車が走り出す。
下町には不似合いの、威厳を漂わせて…。
「清一、あんた、相手が悪すぎるよ」
呟いた声は、誰にも届く事はなかった。
片子は、誰もいなくなった道の往来を呆然と見詰める。
そこには何もない。まるでつい先ほど前の出来事は、夢だったと告げるかのように、静かだった。
しかしそこには、零れた水が広がり、矢張り現実なのだと、静かに告げているのだった。
清一が懇意にしているという花屋へ、居候する事になった。
下町にあるその花屋は、こじんまりとし、夫を亡くしたという女がひとりで切り盛りする店だった。
女店主は片子といい、清一と雪人をみると、驚いた顔をしていたが、追われていると話すと、それ以上は話さず、家に招き入れてくれた。
「ゆっくりしていけば良いよ。どうせ、私以外には誰もいないし」
清一は逃走資金とルートを手に入れると、街中を駆け巡っていた。
雪人も共に行きたいと云ったが、目立ってしまうからと花屋に雪人を置き、夜になってくると、3人で食卓を囲んだ。
雪人は初めて、他人と暮らしながら、七種家の呪縛に解き放たれた生活とは、こんなに穏やかなものかと考えていた。
「ちょっと、清一。そんなに飯を喰らうんじゃないよ!」
「うるせえババア。ちょっとくらい、いいだろうが」
「ちょっとお?これのどこがちょっとだい!」
丼鉢を頬張る清一に呆れたように、片子は怒るが、清一は気に留めない。
「あ~もう、この馬鹿男は。あ、雪人は食っているかい?」
ふたりの様子を笑いながら見ていた雪人に、片子は視線を向ける。
しかし、雪人の飯が一行に減っていないのを見て、眉を顰めた。
「雪人は、上品だからな。アンタと違って、バクバク喰わないんだよ」
清一の言葉に、また片子は怒るが、雪人は声を上げて笑ってしまった。
穏やかだった。
屋敷では、朝起きて何も求められる事もなく、何もするわけではなく過ごしていたが、ここではこんな雪人でも仕事をすることを求められた。
片子の店は、それほど繁盛しているわけではなかったが、女手だけでは矢張り大変であった。
雪人は、逃亡中ということもあり、あまり店に出ることはなかったが、細かい仕事を中心に手伝い、片子が駄賃として少しばかりの金をくれる程には役に立っていた。
その駄賃をもって、清一に連れられ雪人は、夜の下町を歩いた。
屋敷ではワインしか口にしたことがなかったが、街の一角で、酒を呑んだ。
安酒だといって口にした液体に、一瞬顔を顰めたが、咽に流れ込んだ瞬間、それはなんとも言えない味わいとなった。
「美味しい」
「だろ?お前に一回、飲ませたかったんだ」
そういって清一は、笑った。
清一と過ごす時間は、自分がおかれている状況を忘れさせるほど、楽しいものだった。
目新しいものは全て美しく見えたし、新しく感じるものはすべて、楽しかった。
ずっとこの幸福が続けば良い…雪人は切望した。
幸福の隙間にも、雪人は自分がどれだけ七種家に囚われているか、思い知る瞬間がある。
毎夜見る夢は、屋敷で凌辱されている夢だったのだ。
あの屋敷で、あの部屋で、それぞれの男たちの部屋で…夢の中で、犯されていた。
腕と足には縄が括り付けられ、雪人は暗闇に寝かされていた。
しかし、次第に明るくなり、気が付けば、幾つもの手が躰に這っていた。
『雪人』
囁かれる声は、幾重にも重なり、誰の声かわからない。
飛び起きて、手に何も括られていない事を知ると、酷く安堵した。
荒い息を飲み込み、再び薄い布団に寝転がる。
このまま逃れられるのかと、雪人は不意に不安になる。
だが、隣に眠る清一の顔を見ると、ここまでしてくれる幼馴染を、自由を願った自分を信じたかった。
自由を掴みかけた鳥は、未だ仮の巣の中で、飛び立てずにいた。
――そして、幸福は唐突に終わる。
長く続かないから、幸福は幸福として存在していたのかも知れない。
逃亡から、一ヶ月近くが経っていた。
片子の店は、女店主らしい華やかなものが多かった。
下町には似合わないとおもわれる花も、片子が売るとなれば、自然に見得るから不思議だった。
近頃は、ズボンとシャツを着ることに、何の違和感もなくなっていた。
20年近く、着物での生活だったので最初は戸惑ったのだが、一般的な男児と同じ恰好ができて、雪人は嬉しかった。
その日も、雪人はいつものように片子の手伝いをして、店先に花を出しているところであった。
バケツに入った花を、手にし、店に出ようとしたとき、それは訪れた。
不意に翳った手元に、雪人は顔を上げる。
「見つけたぞ、雪人」
雪人は手に持ったバケツを落とした。
バシャッと音を立てて、バケツから水が広がる。広がった水は、男の高級な靴にもかかったが、その男は意にも止めなかった。
雪人の目の前に立ったのは、七種家次期当主・継晴であった。
「継晴、兄さん?」
継晴は雪人に近づくと、驚いて呆然としている雪人の腕を引き、強く抱きしめた。
「やっと、見つけた」
囁かれる声が、絡みつく腕が、雪人を絶望へと導いていく。
継晴は、腕の中で固まっている雪人の頬に手を添えると、気遣うように聞いてきた。
「一ヶ月も、こんな所にいて大変だっただろう?さあ、屋敷へ帰ろう。父上もまっている」
屋敷といわれた途端、雪人は震えた。
継晴は雪人の肩を掴んで、止めてある車に誘おうとするが、雪人の脚は動かなかった。
「…屋敷には、…帰りたくありません」
「雪人?」
俯いたまま呟く雪人に、継晴は訝る。
「屋敷には帰りません。屋敷に帰ったら、おれは…」
その時であった。店の先に、もう一台、車が止まったのだ。
そこから出てきたのは、継貴と継保…そして。
「清一!?」
悲鳴に近い声を上げたのは、雪人ではなく、騒ぎに気付いた片子であった。
清一は、全身を痛めつけられ、所々、血が噴出していた。
痛めつけたのは、清一の背後に立っている継貴と継保なのだろう。
いくら、良家の息子とはいえ、文武両道を固く誓っている七種家の男たちは、腕に自身があったのだ。
片子は、清一をみやり、そして男に連れられようとしている雪人を見ると、察したようだった。
「ちょっと、あんたら、店先で何をしておられるんだい?悪いけど、そのふたりは私の店の子達だよ。勝手にしてもらったら困る」
片子がそういうと、継晴は雪人を腕に抱いたまま、深く頭を下げたのだ。
「どうも、我が弟と、使用人がお世話になりました。
世間知らずのふたりが、口からでまかせを喋り、あなたを巻き込んでしまったのでしょう。申し訳、ございません」
如何にも上流階級の振る舞いに、何も知らない片子は眉根を上げる。
「あんたら、」
「片子さん…」
雪人は涙に眼を溜めて、首を振った。
ここで逆らったら、何をされるかわからない、そう物語っているようだった。
「もし、何かございましたら、是非、七種家にご連絡下さい。私は、七種継晴、雪人の兄です。こちらが、名刺となっておりますので」
男から出た名に、流石の片子も固まった。
七種といえば、ありとあらゆる分野に手を出している、日本屈指の財閥ではないか。
雪人が、その家の息子なのだという。
固まっている片子の目の前で、雪人は継晴の手によって、黒いバンへと乗せられる。
痛めつけられて、ぼろぼろになっている清一も、継貴と継保によって、無理矢理車に乗せられた。
2台の車が走り出す。
下町には不似合いの、威厳を漂わせて…。
「清一、あんた、相手が悪すぎるよ」
呟いた声は、誰にも届く事はなかった。
片子は、誰もいなくなった道の往来を呆然と見詰める。
そこには何もない。まるでつい先ほど前の出来事は、夢だったと告げるかのように、静かだった。
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