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壱
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――時は、昭和の始めの頃であった。一族の総領、七種継直【さえぐさつぐなお】の寝所には、広いベッドが置かれていた。
主である継直は、ベッドの端に座り、ベッドに横たわっている息子『雪人』の、流れるように艶やかな髪を玩んでいた。
精悍な顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。愛するものを、心底、いとしむ顔であった。
暫く髪を擽っていると、雪人が静かに瞳を明ける。
「おはよう、雪人」
そう云いながら継直は、額に口付けた。
「…おはようございます、…継直さん…」
雪人の口から自分の名が漏れたところで、更に笑みを深くし、今度は赤い唇に口付ける。ふたりきりのとき、継直は雪人に、父とは呼ばせなかった。
「起きれるかい?昨日は、酷くしてしまったからね、躰が辛いだろう?どうせなら、ベッドで寝ているかい?」
継直は、労わるような優しい声で問い掛けるが、雪人は首を振った。
「いえ…大丈夫です」
「なら、朝食を食べよう」
そういうと、継直は箪笥に近づき、その中から一枚の着物を持って現れた。
そこには鮮やかな、菊の絵が刺繍された、一目で一級品と知れる代物であった。
雪人は起こされて鏡の前に立たされると、それを着付けられる。
継直の手によって菊の着物を纏った雪人は、継直に手を引かれ、屋敷の食堂へと伴われた。
食堂には既に、直継の妻や息子たちが揃っている。 継直たちが現れると、長男である継晴【つぐはる】が立ち上がった。
「おはようございます、父さん、雪人」
ふたりに近づくと、継晴は雪人の手を取り、雪人の席へと誘った。
食堂には、継晴の妻も居るが、雪人の誘導は継晴の役目であった。雪人の場所は、テーブルの上座に座る継直の左斜めの席である。
継直の嫡男である継晴よりも上座に座らされる。
正面には、継直の妻である百合子が朝食を摂っていた。つまり、雪人の地位は、当主妻と同格であるという事だ。
「おはよう、雪人さん」
「…おはようございます、お母さん」
「今日も、遅いですね。継直さんは、一族の当主として少々の遅れは許されますが、あなたはそうではないのですから、気をつけて下さいませんと」
「申し訳ありません」
雪人は、瞳を伏せて謝る。
昨晩、継直のベッドに選ばれたのが、自分でないのが百合子は口惜しいのだろう。目元にも口調にも、皮肉を滲ませて、雪人を責めた。
一族の外から嫁いできた百合子には、当然のように雪人に愛情はない。
「百合子、あまり雪人を責めないでやってくれ。昨日は、私があまりにもしつこかったせいで、雪人は眠れなかったのだ」
妻と雪人の会話を聞いていた継直は、雪人を庇うように言う。
「あらそうでしたの?あなた、好い加減になさいませんと、雪人さんに嫌われてしまいますわよ」
雪人は、百合子の視線が一層きつくなるのを感じながら、フォークとナイフを使い、ベーコンを切り、口にした。
味などしない。口に広がるのは、苦いものであった。
そう感じているのは、雪人だけであろう。百合子は、嫉妬はしているものの、ある程度の諦めをもっており、今は、にこやかに夫に話しかけている。
継直の息子たちも平然としている。
長男の継晴を始め、次男で雪人と同じ年の継貴【つぐたか】、四男の継保【つぐやす】は、立派な一族の男だからだ。
雪人はこの中で、三男におかれていた。
静かに朝食を口にしていた雪人を現実に戻したのは、継保であった。
「そうそう、俺、帝国大学に受かったから。まあ、当然だけど」
東京帝国大学に籍を置くのは、一族の男たちの宿命であった。
七種家は、昔から名家として知られ、文武両道を求められている。
卒業後の進路は、各自に任されているとはいえ、各分野に影響を齎すのは必死であった。
それは、雪人には赦されない、外の世界であった。 雪人が赦されるのは、広大な屋敷のみでの自由だ。
「父さん、あの約束、覚えてる?」
「はて?なんだったかな」
「大学に合格したら、雪人兄さんを抱かせてくれるっていうやつ」
雪人は、びくりと体を震わせ、継直を仰ぎ見る。継直は、朗らかに笑った。
「ああ、その約束か。そうだな、雪人はどう思う?」
雪人に拒否権はない。そんな事をこの場にいる誰もが知っている。
百合子や、継晴の妻は、汚らわしい者を見るように雪人に視線を向ける。
雪人は震えたまま、沈黙した。
「兄さんたちはどう思う?そろそろ、俺に雪人兄さんを赦してくれても、良いよね?」
期待を寄せて、兄たちを見ると、兄たちも笑った。
「いいんじゃねえの?俺は、継保の年には、雪人を抱いてたし」
「寧ろ、遅すぎるくらいだろうな」
雪人と同じ年である継貴は、コーヒーを飲みながら同意する。継晴も異論はないというように、父を見ると、継直は笑った。
「ならば、今晩から、継保も列に加えるとしよう。ただし、順番は一番最後だ」
「わかってるよ。さすがの俺も、父さんや、叔父さんを敵には回さないって」
一族の当主が決めた事は絶対であった。喩え息子であれ、妻であれ、覆る事は赦されない。
雪人は、これ以上、朝食を食べる事ができず、フォークとナイフを持った手を止めた。
主である継直は、ベッドの端に座り、ベッドに横たわっている息子『雪人』の、流れるように艶やかな髪を玩んでいた。
精悍な顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。愛するものを、心底、いとしむ顔であった。
暫く髪を擽っていると、雪人が静かに瞳を明ける。
「おはよう、雪人」
そう云いながら継直は、額に口付けた。
「…おはようございます、…継直さん…」
雪人の口から自分の名が漏れたところで、更に笑みを深くし、今度は赤い唇に口付ける。ふたりきりのとき、継直は雪人に、父とは呼ばせなかった。
「起きれるかい?昨日は、酷くしてしまったからね、躰が辛いだろう?どうせなら、ベッドで寝ているかい?」
継直は、労わるような優しい声で問い掛けるが、雪人は首を振った。
「いえ…大丈夫です」
「なら、朝食を食べよう」
そういうと、継直は箪笥に近づき、その中から一枚の着物を持って現れた。
そこには鮮やかな、菊の絵が刺繍された、一目で一級品と知れる代物であった。
雪人は起こされて鏡の前に立たされると、それを着付けられる。
継直の手によって菊の着物を纏った雪人は、継直に手を引かれ、屋敷の食堂へと伴われた。
食堂には既に、直継の妻や息子たちが揃っている。 継直たちが現れると、長男である継晴【つぐはる】が立ち上がった。
「おはようございます、父さん、雪人」
ふたりに近づくと、継晴は雪人の手を取り、雪人の席へと誘った。
食堂には、継晴の妻も居るが、雪人の誘導は継晴の役目であった。雪人の場所は、テーブルの上座に座る継直の左斜めの席である。
継直の嫡男である継晴よりも上座に座らされる。
正面には、継直の妻である百合子が朝食を摂っていた。つまり、雪人の地位は、当主妻と同格であるという事だ。
「おはよう、雪人さん」
「…おはようございます、お母さん」
「今日も、遅いですね。継直さんは、一族の当主として少々の遅れは許されますが、あなたはそうではないのですから、気をつけて下さいませんと」
「申し訳ありません」
雪人は、瞳を伏せて謝る。
昨晩、継直のベッドに選ばれたのが、自分でないのが百合子は口惜しいのだろう。目元にも口調にも、皮肉を滲ませて、雪人を責めた。
一族の外から嫁いできた百合子には、当然のように雪人に愛情はない。
「百合子、あまり雪人を責めないでやってくれ。昨日は、私があまりにもしつこかったせいで、雪人は眠れなかったのだ」
妻と雪人の会話を聞いていた継直は、雪人を庇うように言う。
「あらそうでしたの?あなた、好い加減になさいませんと、雪人さんに嫌われてしまいますわよ」
雪人は、百合子の視線が一層きつくなるのを感じながら、フォークとナイフを使い、ベーコンを切り、口にした。
味などしない。口に広がるのは、苦いものであった。
そう感じているのは、雪人だけであろう。百合子は、嫉妬はしているものの、ある程度の諦めをもっており、今は、にこやかに夫に話しかけている。
継直の息子たちも平然としている。
長男の継晴を始め、次男で雪人と同じ年の継貴【つぐたか】、四男の継保【つぐやす】は、立派な一族の男だからだ。
雪人はこの中で、三男におかれていた。
静かに朝食を口にしていた雪人を現実に戻したのは、継保であった。
「そうそう、俺、帝国大学に受かったから。まあ、当然だけど」
東京帝国大学に籍を置くのは、一族の男たちの宿命であった。
七種家は、昔から名家として知られ、文武両道を求められている。
卒業後の進路は、各自に任されているとはいえ、各分野に影響を齎すのは必死であった。
それは、雪人には赦されない、外の世界であった。 雪人が赦されるのは、広大な屋敷のみでの自由だ。
「父さん、あの約束、覚えてる?」
「はて?なんだったかな」
「大学に合格したら、雪人兄さんを抱かせてくれるっていうやつ」
雪人は、びくりと体を震わせ、継直を仰ぎ見る。継直は、朗らかに笑った。
「ああ、その約束か。そうだな、雪人はどう思う?」
雪人に拒否権はない。そんな事をこの場にいる誰もが知っている。
百合子や、継晴の妻は、汚らわしい者を見るように雪人に視線を向ける。
雪人は震えたまま、沈黙した。
「兄さんたちはどう思う?そろそろ、俺に雪人兄さんを赦してくれても、良いよね?」
期待を寄せて、兄たちを見ると、兄たちも笑った。
「いいんじゃねえの?俺は、継保の年には、雪人を抱いてたし」
「寧ろ、遅すぎるくらいだろうな」
雪人と同じ年である継貴は、コーヒーを飲みながら同意する。継晴も異論はないというように、父を見ると、継直は笑った。
「ならば、今晩から、継保も列に加えるとしよう。ただし、順番は一番最後だ」
「わかってるよ。さすがの俺も、父さんや、叔父さんを敵には回さないって」
一族の当主が決めた事は絶対であった。喩え息子であれ、妻であれ、覆る事は赦されない。
雪人は、これ以上、朝食を食べる事ができず、フォークとナイフを持った手を止めた。
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