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「何ということだ…」
 ――北の辺境伯、ボルド・ミラーは突然舞い戻ってきた一人息子を前に唸り声をあげた。
 突然、実家に戻った息子と父は向き合っていた。
 ここは父の私室であった。執事や侍女もおらず、ふたりきりの親子対面にルーシェはやや気後れしたが、父はそれよりも怒りが勝っている。
『腹の中に子がいる。だけど、結婚はしない』
 と一人息子に言われてしまえば、誰だって驚くだろう。
 北の大地の人間らしくプラチナの髪と白い肌はしているが、その顔は厳つい。線の細さをいわれてしまうルーシェとは違い、逞しい美丈夫だがその眦は常に鋭い。蓄えた顎髭もよく似合っており、威厳のある辺境伯と言った感じだ。
 父の顔と比べると、迫力の掛けるこの顔はやはり母親似らしい。
「このバカ息子が。どこぞの馬の骨とも知れぬ男にまんまと孕まされよって」
 だが、ルーシェの口に悪さは父親譲りであるようだ。
「あのさ、もっと喜んでくれない?息子が8年ぶりに帰ってきたんだぜ。しかも孫っていう大事な後継ぎも…まあ、まだ腹の中だけど」
 理由が理由だけに歓迎されるとは思ってはいないが、父の怒りは相当なものであった。
「わしが怒っているのは、ガルシア様の側近というお役目がありながら、自分勝手に王城を辞してきたことだ」
「まあそこは、目を瞑って。ガルのそばにいたら、いつかばれてしまうんだからさ」
 ガルシアという名に、鼓動が逸る。結局、北の大地に来るまでに15日もかかってしまった。かなりゆっくりの旅になったが、体調を崩す前に休息をとることを心掛け快適な旅だったのだ。
「まあ、仕方ない。できてしまったものは仕方ない。
 ――アイーシャがおれば、喜んだであろう」
 母のアイーシャは残念ながらルーシェが幼いころに亡くなってしまったが、母への愛は尽きぬようであった。
 母が生きていてばときっと思っているのだろう。ルーシェから顔をそらした父は眦が、微かに赤くなっているのをルーシェは気づいていた。
 8年も実家を離れていたこともあり、父が年老いてしまったように感じる。北の辺境伯として国中にその名が轟いている父が、なんだか小さく見えた。
 子どもを孕んでしまい実家に逃げ帰ってきてしまったが、結果的には良かったのだ。
 いずれ辺境伯として跡を継ぐのはルーシェだ。父の仕事を手伝い、このまま北で身を埋めてもいいのかもしれない。
 ガルシアへの想いは無論ある。国を導いていくガルシアを支えたいという気持ちは強い。
 だがそれが王都である必要はないのかもしれない。
「親父悪い。疲れたから、部屋に行ってもいいかな」
 気が抜けた途端、なんだか体が重くなった。
「ああ、もちろんだ。ゆっくりと休むがよい。
 ――すまぬが、誰かルーシェの世話を」
「はい、旦那様」
 ボルドの声に、まもなく扉が開き、ひとりの女性が入ってきた。
「エルサ!」
「ぼっちゃま。お久しぶりでございます」
 ルーシェが生まれる前からこの屋敷に仕えているエルサだった。ふくよかな線が、更に彼女をやわらかい雰囲気にしている。
「まだ、屋敷に仕えていてくれたのか…親父の元なんて、大変だろうに」
「いえいえ、ぼっちゃま。こう見えて旦那様はお優しいご主人さまですよ」
 咳ばらいをし、ボルドがエルサに向き直る。
「エルサ、暫くはルーシェの世話を中心に頼む。赤子を産むのも不安だろうから、助けてやってくれ」
「はい、お任せくださいませ」
 エルサは笑顔で応じると、ルーシェの荷物を持った。
「まあ、北までの道中、これっぽっちの荷物で戻ってこられたのですか?」
「服とかは王都でもらったものが多いから置いてきたんだよ。俺の持ち物はこれ一つで収まった」
 まあまあとエルサはいいながら、ルーシェを自室へ案内してくれる。生まれてから15歳で旅立つため過ごした部屋であるが、この部屋に住むのは8年ぶりになる。
「あれ、ベッド大きくなった?」
「それはもちろん。もう、お小さくはおられないのですし、いつ戻ってきてもいいようにと、旦那様のご指示で用意していたのですよ」
「そっか」
 父ももしかしたら、ルーシェが北に戻ってくることを予感していたのかもしれない。
「エルサ。暫く休んでいるよ」
 ベッドに腰掛けながら伝えると、エルサは頷いた。
「お夕飯は温かいものを用意しますね。ごゆっくりお休みください」
「ありがとう」
 エルサが部屋をでると、ベッドに横たわったルーシェは自分の耳朶に触れる。最近どうも癖になっている。手のあたるピアスを指で弄る。
 ――旅の途中、ガルシアとの思い出が残るモノを、ルーシェは身に着けていることに気づいた。
 ルーシェの目の色であるミントブルーの宝石が飾られたピアスだ。
 当たり前のように耳にあったので、すっかり忘れていた。
 あの南のカサンドラ領で露店を見て回っていた時、原石をガルシアが見つけたのだ。
『ルーの瞳の色だ』
 ごつごつとした鉱石にしかルーシェには見えなかったのだが、ガルシアは嬉々として安くない金額を払った。
 その街で職人を見つけたガルシアはわざわざピアスに加工し、ルーシェに贈ってくれた。その頃にガルシアへの恋を自覚し、ルーシェは飛び上がらんばかりに喜んだ。
 ルーシェは起き上がり、リュックの底を探る。ガルシアの手紙を手にし、サイドテーブルの引き出しを開けた。
 ピアスも左右の穴から抜き取ってしまい、手紙と共に仕舞う。
(しばらくは何もつけないでおこう…)
 何も飾られていないのは、物心ついてから初めてかもしれない。ルーシェはどこか物足りなさを感じる耳たぶを弄っていた。

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