紅椿乙女

椿木ガラシャ

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 ――その日から、百合子は頻繁に七種家に出入りをするようになった。
 継直がいなくても、母である昌江に七種家の仕来りを学び、雪子と姉妹のように過ごしお茶を飲むのだ。
 そして幾度訪れたか数え切れない日の夜のことだった。
 いつものように、七種家で夕食を食べていた後、玄関まで送ってくれた継直と別れを惜しみ、玄関を出たところであった。
「…そうやって、…、を…」
 細々と聞こえてくる声に百合子は車に乗らず、七種家の庭を覗き込んだのだ。
「お嬢様、はしたないですよ」
 名家の子女にも関わらず好奇心の強い百合子は、運転手が嗜めるのに耳を貸さず、百合子は覗き込んだ。七種家の庭には、見事な鯉が泳いでいる池がある。その池の傍にいるのは、継一郎と昌江だった。
「雪子を、…までに」
 二人はどうやら言い争っているようだった。といっても、白熱しているのは昌江だけであった。昌江は、以前雪子を諌めたような厳しい顔で、夫に何かを訴えていた。『雪子』という名がはっきりと聞こえたので、今回も雪子のことらしい。
 しかし、継一郎は、平然とした顔でそこに佇んでいるだけだ。継一郎は雪子を溺愛している。
 何をするにも、長年連れ添った昌江よりも雪子をそばに置き、その機嫌を覗っているようにみえる。母親に愛されないことを、不憫に思い、愛しさが増しているのだろう。
 内容はわからないが、どうやら雪子のことで言い争っているらしい。
「お嬢様帰りましょう。いくら嫁ぎ先といっても、おふたりに失礼ですよ」
「そうね」
 憧れというべき二人の夫婦喧嘩をみて、百合子は少しだけ、気分が落ち込んでしまった。運転手が促すまま車に乗りこむと、七種家を後にするのだった。
 その翌日のことだった。昌江が溺死体で、発見されたのは。
 第一発見者は雪子で、見つかった場所は池とのことだった。正確には第一発見者は雪子だけではなく、日頃雪子の世話をしている老婆であったが、池に近寄るのは、たまたまその日の雪子の提案であったという。
 死体には不審な点はなかったが、屋敷内の池ということもあり、取調べが行なわれた。
 当然、雪子は疑われた。雪子が母親から疎まれていたのは屋敷内では周知の事実であったし、普段は近づかない池にわざわざ寄ったのだ。
 しかし、疑いは直ぐに晴れた。
 母の昌江が溺死したであろう時間には、雪子は弟である直倫と共に部屋にいたことを使用人たちも知っており、何より雪子の目では、何もすることはできないとのことだった。
 取り調べた警察官も、数年後の美貌を髣髴とさせる雪子に無体な取調べはできず、またその境遇を哀れんで、取調べらしい取調べはしなかったらしい。
 それの普段から、昌江は睡眠薬を服用していた。薬の影響で、昌江は自ら足を踏み外し溺死した、自然死とされた。葬儀は、七種家の菩提寺で行なわれることになった。
 百合子は、継直の婚約者であったこともあり親族の一人として対応に追われていた。義母となる女性の死に痛む気持ちはあったが、百合子は不謹慎ながらも嬉しかった。
 誰も彼もが百合子を継直の妻として扱い、行動を求めたからだ。百合子は七種家の女主人となるのが約束されたも当然だった。
 七種家には優秀な使用人がおり、用意は滞りなく進められたが、問題は雪子の支度だった。雪子の箪笥には、色とりどりの着物や、まるでお人形が着るような洋装はあったが、葬儀に手ごろなものが見当たらなかったのだ。
「まあ、どうしましょう」
 雪子の髪を結い上げていた百合子は困った。さらさらと流れる黒髪を丁寧に編み込んでいた時に、使用人から知らせを受けたのだ。
「実家から持ってきてもらおうかしら」
 百合子の御下がりで良ければ、手ごろなものが実家にはある。雪子も不安そうな顔をしていたが、百合子は微笑む。
「大丈夫よ雪子ちゃん。すぐに、うちの実家から持ってこさせるから」
「その必要はない」
 その時、雪子の部屋に訪れた人物がそれを解消した。
「雪子、これを身に付けなさい」
 兄弟の父である継一郎が、黒い洋装を持って現れたのだ。襟と袖がレースで彩られた少女らしい趣の、ワンピースだった。
 雪子が纏った途端、思わずため息を漏らしそうになったほど、美しい少女に似合っていた。
顔を覆いかぶさるベールもある。百合子の手によってベールを被された美少女は、父に伴われ亡き母の葬儀に出席した。
 七種本家の美貌に、臨席した人々は驚き嘆いた。殊に、父の手に縋りながら出席している盲目の美少女に人々の気持ちは打たれた。
 非の打ち所のない大財閥一家に突然の不幸が起こったのだ。
 しかし、世間の人々が思うよりも七種本家の人々は冷静であった。疎まれてはいても実の母が死んだことは雪子にとって衝撃だったのだろう、美しい瞳から涙を見せていた。
 だが、亡き人にとって長年連れ添った継一郎や、跡継ぎとして溺愛されていた継直、12歳になったばかりの直倫は一切の感情を見せなかった。
 百合子も一瞬不思議と思ったが、継直の妻としての対応を求められ、猜疑心は飛んでしまった。
 葬儀後、雪子を伴って継一郎は、早々と屋敷に戻った。喪主である父の代りに相互の後始末をしていた継直を手伝い、百合子も青山家の屋敷についたのは、日が変わる前の事であった。
 継直は遅くなってしまったことを、百合子の父に詫びた。年老いた父は婿となる青年を眩しそうに見つめ、静かに笑っていた。
「ありがとう百合子さん。葬式だけでなく、雪子の世話も見てくれて…。母が亡くなって男所帯になってしまう我が家をどうか支えてほしい」
 玄関で見送りをする百合子に継直は頭を下げた、
「そんな…私は当然のことをしたまでです。それに雪子ちゃんは本当にかわいいのですもの。私、お友達に自慢していますのよ、もうすぐ可愛い妹ができるって」
 百合子を慕ってくれる雪子は本当にかわいい。妹がいればこんな風に仲睦まじく過ごしたのだろうと思うと、ますます雪子に対する愛情が湧いてくるのだ。
「おや、その言い方ではまるで僕の妻になるより、雪子の義姉になるほうが嬉しそうだ」
「まあ!酷いわ。あなたにこんなに尽くしているのに」
 ふたりで笑いあう。
「百合子、本当にありがとう」
 継直は身を屈めると、百合子の額にそっと口づけた。今まで、継直からは口付けどころか手を握ってもらったこともない。それは、名家の子女である百合子への配慮があったのは確かだったが、いつも物足りなさを感じていた…。
額へのキスは初めて継直から返されたものだった。
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