紅椿乙女

椿木ガラシャ

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 ――青山百合子が、七種家に始めて訪れたのは嫁ぐ1年前の事だった。女学校に通っていた17になったばかりの頃、大財閥家の一人娘であった百合子に縁談話が持ち上がった。
 百合子の父は年老いてできた百合子を溺愛していたため、縁談は断るかと思われていたが、存外にも早々と結納をすることになったのだった。それは、日本でも屈指の大財閥・七種家からの申し入れだったからかもしれない。
 帝国ホテルの一室で行なわれることになった結納で、百合子は夫となる継直の美男ぶりに一瞬で恋に落ちた。
 継直は、年の頃は19歳。帝国大学に籍を置き、スポーツも嗜むという文武両道の男だった。継直が二十歳を迎えれば、正式な婚姻関係を結ぶと約束され、百合子は輝かしい未来に心を躍らせた。
 若い娘にとって何よりの幸せは、良い嫁ぎ先に嫁ぐことであった。七種家より贈られた結納品は、京都西陣の反物が用意されていた。
 百合子の結納は、金持ちや名家の子女ばかりが集う女学校でも、一番乗りであった。
『百合子さんは、大日本国帝国で一番幸せな花嫁さんね』
 そう囁かれるのが、百合子の幸福であった。自身も大財閥の令嬢でありながら、嫁ぐ先はあの七種家なのだ。
 結納の2週間後、百合子は嫁ぎ先である七種本家へと招かれた。七種家は郊外の広大な敷地の中に立っていた。門から車のまま5分ほど走り、ようやく屋敷の前景が見えていた。
 平屋で伝統的な家屋の七種家は、玄関を入った途端、眼を疑った。玄関から中は、西洋のホテルを思わせる美しいものだったのだ。そう、帝国ホテルの内装にも引けを取らぬであろう。
「父は西洋びいきでね、わざわざ中を作り変えたんだよ」
 招き入れた継直は、豪華な内装に驚いている百合子に説明してくれた。継直と一緒に迎えてくれた継一郎と妻の昌江は、年若い百合子に穏やかに微笑んだ。
 時の大臣を務めていた継一郎は、多忙にも関わらずわざわざ出迎えてくれた。
「百合子さん、ようこそ我が家へ。あなたが嫁いでくださると聞いて、とてもうれしいわ。どうか、姑と厭わないでくださいね」
 結納の日に会ってはいるものの人となりまではわからない。しかしその言葉に百合子はほっと胸をなでおろした。
 名家の出身であり七種家に嫁いだ者として、昌江は百合子と同じ立場になる。大財閥の総帥の妻として厳しい面はあるだろうが、百合子に対しては敵対心をもっていないようであった。
 応接間に通され、暫く歓談していると、
「あれ、雪子と直倫はどこだろう?」
 継直が母に問いかけると、柔らかい顔立ちの昌江は一瞬ひくりと唇を動かした。強張ったように見受けられる昌江に、百合子は疑問を持つ。
「ここだよ兄貴」
 その時、声が響いた。百合子が視線を向けるとそこにいたのは、吊り上がった目元が印象的な美少年とその美少年に寄り添われて歩く人形のように美しい少女だった。
「部屋に鍵がかけてあって、姉さん出られなかったんだ」
 姉さんと呼ぶところを見ると、この二人が継直の弟妹である双子らしい。
「まったく、誰だよ。こんなたちの悪いことをして」
 直倫は気性が激しいらしい。美少年と持て囃されるであろう整った顔が、怒りの色に染まっていた。
「直倫、怒らないで。きっと、私が一人で出て転ばないように、誰かが鍵をかけてくれたのよ」
 風鈴のように涼やかな声が、辺りを包む。雪子が、紅を引かないでも真っ赤に染まる唇で言ったのだった。
 直倫は雪子に慰められて、怒りが収まったらしい。雪子に髪を撫でられ、手を握られたと、先ほどまでの気性からは想像できぬほど優しい仕草で肩にかかった雪子の長い髪を、指先で掬い後ろに流したのだった。さらりと流れる髪も艶やかで美しかった。
「とても仲の良い、双子なのね」
 美しい双子に感嘆し、百合子が継直に告げると継直は苦笑いした。
「仲が良すぎて困っているくらいだよ。直倫など、雪子がさびしがるだろうからって、同じ部屋で休もうとするくらいだ」
「あら…」
 年の頃は11だという直倫と雪子は、お互いの手をしっかりと取り合っていた。まるで対であると主張するかのように。
「ちょっと、気分が悪くなったので部屋で休みます」
 昌江は己の子である双子を見やることなく、すっと立ち上がり応接間を出て行った。突然の昌江の行動に、何か不手際があったのだろうかと百合子は継直を見上げる。
「すまない。百合子さん。昌江は数年前から、精神を患っていてね。こういうことは良くあるのだ」
「まあ、そうでしたの…お気の毒ですこと」
 継一郎が説明をすると、百合子も納得した。線の細い昌江に事だ、総帥の妻としての重圧に耐えきれないこともあるのだろう。
 百合子はふたごの前に立って、上品に頭を下げた。
「青山百合子です。あなたたちと縁あって兄弟となります。どうぞ、よろしくね」
 百合子はにっこりと笑うが、直倫はふんと顔を背けたのだった。
「直倫っ。ごめんなさい、百合子さん、愛想の悪い弟で」
 雪子は随分と精神的に成長している少女らしい。弟の無礼を詫びて、百合子に視線を向けるが、その視線が百合子と合わなかった。
 透明ガラスのように透き通った、黒曜石の瞳…。
「雪子ちゃん、もしかしてあなた目が…」
 雪子は頷く。どこを探してもこんなに美しい少女はいないだろうと思わせる雪子は、不憫にも盲目の少女だったのだ。
「雪子、こちらに来なさい」
「はい、お父さま」
 しかし、慣れた屋敷の中であればある程度の自由はあるのだろう。父の声に誘われるまま手を伸ばして継一郎に歩み寄る。その細く華奢な手を取った継一郎は、壊れ物を扱うかのように腕の中に包んでしまう。
 継一郎が美しい娘を溺愛しているのが見て取れた。
「産まれた時は、見えていたのだけどね。小さい頃高熱を出しているのに気付かないでしばらく置いておかれ、見えなくなってしまったんだ」
「そうだったのですか…」
 継一郎の言葉に、百合子は頷いた。
 花の頃でいえば蕾である雪子の置かれる状況が、困難なものだと知って同情心が沸いたのだ。
 百合子は七種家の夕食に誘われた。用意ができるまでの間、百合子は継直と雪子、直倫と閑談して過ごしていた。
 紅茶と百合子が土産に持ってきた焼き菓子が準備された。
「ほら雪子。頂きなさい」
 継一郎が雪子の掌に置くと、
「とっても甘い匂い…それにおいしい…」
「良かった。女子学校で評判になっていたのよ。」
「そうそう、評判と言えば…」
 継直が評判になっている銀座の珈琲店の話をすると、百合子も言ってみたいと告げると、次に休日に出かけることになった。珈琲は飲んだことがなかったが、己よりも大人である継直の手前、背伸びしたくなったのだ。
 向かいのソファに座る、雪子は本当においしそうにクッキーを頬張っており、百合子も嬉しくなった。
「姉さん、ついてるぞ」
 その口許を隣に座った直倫が拭う。
「ありがとう直倫」
 花が綻ぶように笑えば、その場にいる誰もがつられて笑顔になりそうだった。
 ――百合子は異母兄はいるが随分と年が離れていたため、兄妹で遊んだという記憶がなかった。そのせいか、昔から兄弟が欲しく、特に妹が欲しかった。
 継直と結婚すれば、雪子という義妹ができることに純粋に喜んでいた。
 ひとしきり歓談すると、百合子はさらさらと流麗に流れる雪子の髪を解き、髪を編みこんでいった。雪子の髪は一切の癖がなく、指から滑り落ちそうなほどだったが、幼い頃から家の女中の髪を遊んでいた百合子は意図も簡単に編み上げた。
「可愛くできたね」
 継直がいうと、百合子は安心して微笑んだ。
「ほら雪子、触ってみなさい」
 雪子の手を取り、継直が髪に触れさせると、嬉しそうに笑う。
「ありがとう、百合子さん。こんなことしてもらったの、初めて」
「あら、そうなの?」
「…お母様は、私のことを好きではないから」
 百合子は首をかしげた。あんなに優しそうな義母なのに、己の産んだ子が可愛くはないのだろうか。こんなに愛らしい雪子なのだから、自慢の娘になるだろうに。
 百合子の疑問も、夕食の用意ができたと告げに来た執事によって中断された。
 継直は優しい兄だった。目の見えない雪子の手をとり、食堂の椅子まで座らせたのだった。
 雪子の席は母である百合子と、弟である直倫の間だった。部屋で休んでいた昌江は、継直が雪子を座らせた途端、顔を歪め夫の方に顔を向けたのだった。
 百合子は、継直に案内され隣に座った。まるでそれが、本当に七種家の若嫁になったようで、密かに百合子は頬を染めた。
 食事は洋食だった。外食で洋食を食べる機会の多い百合子のテーブルマナーは完璧だった。静かに食事が進む中、ふいに床にスプーンが落ちる音がした。
「ごめんなさい…」
 スプーンを落としてしまったのは雪子だった。雪子が飲み物を取ろうとしたとき、手がスプーンに当たってしまったらしい。
「雪子、お客様の前で何をしているのっ。おとりなさい!」
 厳しい声で昌江が雪子に言い放った。実の娘に対して、厳しすぎる声だ。雪子はびくりと振るえ、あわてて手を伸ばして床を探った。
 しかし、それより先にスプーンをとったのは直倫だ。
「ババア。姉さんを苛めんじゃねえぞ」
 直倫は母に対するとは思えない口調で言った。
「まあ、直倫!母親に対してその言い草は何ですかっ」
 頭に血が上ったようで、昌江が言い返す。
「直倫、昌江。百合子さんがいるのだぞ、言葉に気をつけなさい」
 それを鎮めたのは継一郎だった。継一郎の声に、昌江ははっと気付いた。
「申し訳ございません、あなた。出すぎたまねをしました。百合子さんも、ごめんなさいね」
 優しい昌江の声に戻っていた。昌江は上品に頭を下げると、百合子に詫びたのだった。
「いえ、お気になさらず。雪子ちゃんは、目が見えないのですもの。仕方ありませんわ」
 雪子が言っていた、母親に愛されていないというのはどうやら本当らしい。それに、昌江は精神を患っているというし、仕方がない事なのだろう。
 昌江と雪子は、母子でありながら似ていなかった。似ていないというのは語弊があり、目尻や輪郭はやはり血の繋がりを感じるが、纏ったものが違うのだ。
 七種家直系の娘である雪子は、純粋な血を受け継いだのだろう。濃厚と呼べるほどの薫り高い趣は、母である昌江よりもこの屋敷に馴染んでいるのだ。
 雪子はこの七種家に生まれるべくして生まれた奇跡の少女なのかもしれない。
 母子のぎくしゃくとした関係を感じ、百合子は使命のようなものを感じた。昌江がなぜ、雪子を愛していないのかわからなかったが、その仲介となるべく、百合子は七種家に嫁ぐのではないかと思ったのだった。

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