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第一章『転生』
第八話:お前の胸は、暖かいんだな
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広大な中庭で体術の修行に励む弟子たちの、気合いの入った声が仙城中に響き渡る。
汗にまみれながら正拳突き千本を打ち込む若者たちを、居室の広々とした窓から見つめていた余楽清は、眠たそうに瞼を擦り、大あくびをしながら退屈そうに頬杖をついていた。
「おーおー、頑張ってんなぁ。ファイト~」
ひらひらと中庭に手を降る余楽清の横で、洛星宇がぶすっとした表情を浮かべながら仁王立ちをしている。
先日、護衛隊長へと任命された洛星宇は、あの時貰った芥子色の道衣を身に纏いながら、今現在はまるで本当のSPのように常時余楽清に寄り添って目を光らせていた。
仙城の中であれば安全が保証されているからと平然とした顔で護衛の任を自ら退こうとした洛星宇を、余楽清が断固拒否したために、妹との癒しの時間以外は常にこの男の傍にいなければならないというもどかしさが日を追う事に増していく。
黒化前後の時期であれば、とっくに遥か彼方へと逃げ出していてもおかしくはないほどに面倒な事この上ない今の状況に、目一杯のため息をつきたい思いでいっぱいであった。
ふと、のどかな風が流れ行く居室の扉がコンコンと軽やかにノックされた。
『どなたですか~?』とこれまたあくびをしながら余楽清がそう呟けば、外から高雨桐の慎ましい声が聞こえてくる。
「師尊、李汀洲 殿がいらっしゃっています」
その名前に、余楽清はビクッと肩を揺らした。
前々から、己を邪な瞳で見つめてくるあの変態おやじがまた来たのかと思うと、心なしか頭痛が酷くなってきた気がする。
李汀洲 がいったい何をしに来たのか定かではないが、ここで客人を追い返すというのはさすがに失礼だろう。
余楽清は苦い顔をそのままに、張りのない声で高雨桐に返答した。
「……あー、通せ」
言い終わるか終わらないかのうちに、扉がゆっくりと開かれていく。
その隙間からひょっこり顔を出したのは、案の定、どこか胡散臭い笑みを携えた李汀洲 であった。
李汀洲 は無遠慮にズガズカと居室へ入ると、洛星宇や高雨桐には見向きもせず、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら余楽清が座っている椅子の前へと立ち塞がった。
「久しいですね、楽清。あれから身体の具合……は……」
「……ん?どした?」
ドヤ顔で仁王立ちしたかと思えば、今度は余楽清の姿を視界に入れた途端、目を大きく見開いて驚愕したかのような表情を浮かべ、固まる李汀洲 。
地蔵のようになってしまった李汀洲 を訝しげな表情で見つめつつ余楽清が声をかければ、彼は壊れたロボットのようにギギギと顔を動かし、今度は洛星宇へと視線を向け始めた。
「……噂には聞いていましたが、まさか本当にあの妖王・洛星宇を側に置いているのですね」
「あー、昨日から俺の護衛隊長に任命したんだよ。強いしめっちゃ打ってつけの人選じゃね?」
「……俺はまだ納得しきっていない」
ふふんと鼻高らかにドヤ顔をする余楽清とは裏腹に、洛星宇はやれやれといった具合に深いため息を吐き続ける。
一見、真逆の雰囲気を醸し出している二人だが、その間には不思議と険悪さなどはなく、むしろどこか穏やかで凪いだ空気が流れていた。
『かの戦いの後も、もう一戦交えるくらいにはギスギスとした関係なのだろう、余楽清は何か仕方のない理由があって洛星宇を傍に置いているのであろう』とたかをくくってここへと訪れた李汀洲 は、二人のその和やかでさえある雰囲気に思わず顔をしかめた。
「……前から思ってましたが、口調も性格もずいぶんと変わりましたね、楽清…それに、道衣もこんなにも美しく派手なものになって……」
広々とした椅子に一人座る余楽清に少しずつ近づいてきたかと思えば、ふと夜の蒼色に染まった道衣の裾をそっと指先で摘まむ李汀洲 に、余楽清はゾゾッと背筋を凍らせた。
自身を性的対象として見てくる年上の男にこうして服であれ触られるなぞ、いい気がするわけがない。むしろ殴りたい気持ちでいっぱいになる。
李汀洲 は、青い顔をして全身に鳥肌を立たせる余楽清から色を含んだ視線を外したかと思えば、今度は彼の傍に寄り添っている洛星宇へと鋭い視線をぶつける。
万物を射殺すようなその鋭い視線を間近で受けてもなお、洛星宇は眉一つ動かさずに、美しい顔を能面のようにピクリともせずに見返すばかりだ。
そんな余裕綽々とした洛星宇の様子に、李汀洲 はますます眼光に殺意を宿しながらぽつりと呟き出した。
「……貴方ですか?洛星宇。貴方が、彼を変えたのですか?」
「……知らん。コイツが勝手に色々やらかしてるだけだ。むしろ俺は巻き込まれた側の立場だ」
二人の間に、バチバチと閃光が飛び交う。
そのあまりの静かな迫力に、扉の入り口で突っ立っていた高雨桐は顔を真っ青に染めながら心の中で祈り続けた。
早くこの修羅場を誰か何とかして、と。
一方、洛星宇からの凍てつくかのような冷たい視線を浴びていた李汀洲 は、再び余楽清へと視線を移した。
先ほどまでの、殺意が限界までに籠った物とは打って変わって、今度はまるで恋人を愛おしむかのように甘く、しかしどこか沼のようにドロッとした怪しげな瞳を一身に浴びる事となってしまった余楽清は、そのあまりの不快さにひくっと喉を絞めて悲鳴を噛み殺す。
この視線は、危険。
余楽清の本能がそう告げている。
逃げなければと、脳が警告を出している。
しかし、脳の指令とは裏腹に、余楽清の身体は恐怖から指先一つ動かす事は叶わなかった。
黒化から解かれた洛星宇と対峙する事になってしまった時でさえ、ここまでの恐怖心を抱いた事はない。
「……お綺麗ですよ、楽清。でもできれば、貴方が着る服は僕が用意して差し上げたかった」
恐怖で硬直する余楽清をいい事に、李汀洲 はその糖蜜のようなドロドロとした笑みを浮かべながら、どんどんと距離を縮めてくる。
そしてついに、椅子に座る余楽清の左右の腕をそれぞれの手で掴み、身体全体で覆い被さるかのような体勢で彼の美麗な顔に自身の顔を近づけた。
ビクッと身体を震わせる余楽清など、気にも止める様子はない。
あと少しでも顔を動かせば唇同士が接触してしまう程に距離が縮まったのをいい事に、李汀洲 は目の前にある長い睫毛に息を吹きかけるかのように甘く囁き出す。
「……相手に服を贈るというのは、自分がその服を脱がせたいという意味があるので……ね?」
その言葉を合図に、李汀洲 は余楽清の服の前開きの襟部分に手をかけ、道衣を裂くかのように勢いよく左右に開いた。
開いた服の隙間から、余楽清の白く艶やかな鎖骨が露になり、李汀洲 はほぅっと甘美のため息を漏らした。
こんなのは、まるで強姦だ。
しかも、洛星宇や高雨桐もいる中で。
突如として襲ってきた今まで感じた事のない種類の嫌悪感と恐怖心に、余楽清は硬直していた身体を無理に動かして必死に手足をバタつかせた。
「……や、めろ……どけよっ……!や、やだっ……!」
「……酷いなぁ。僕はこんなにも貴方を抱き締めたくて仕方がないのに……それに、貴方に治癒を施した褒美の逢い引きもまだ果たされていないのですよ?」
「っ……さわんなっ……!」
暴れる両手を片手で一纏めにされ、頭上へと押さえ込まれる。
両足の間には、李汀洲 の身体が自身の身体に密着する形で入り込んでくるため、蹴る事も叶わない。
何より、恐怖で上手く身体に力が入らず、ましてや神通力を使う余裕なぞこれっぽっちもないため、余楽清は迫ってくる『雄の色を宿した顔』からただひたすらに顔を背ける事しかできなかった。
あまりの出来事に、深い蒼の瞳からは自然と涙が一筋溢れる。
これはさすがにまずいだろうと、同じく恐怖と驚愕で硬直していた高雨桐が渾身の力を込めて駆け寄ろうした瞬間、突如として部屋の中に突風が巻き起こった。
「えっ!?なんですか!?」
束の間ではあったが、その強い風にあてられ思わず目を閉じた高雨桐が、風が収まったのを察しゆっくりと瞼を開いていくと、そこには李汀洲 の右腕を片手で掴み上げている洛星宇の姿があった。
どうやら今の突風は、洛星宇があまりにも俊敏に動いたために発生した物のようだ。現にあの風のせいで、居室の中は散乱した物で溢れ返り、見るも無惨な有り様になっている。
骨が折れそうな程に握り絞められる右腕の痛みに顔をしかめながらも、李汀洲 は冷や汗をかいた顔に柔和な笑みを浮かばせる。
「……何で、邪魔をするのですか?貴方には関係ない事ですよね?洛星宇」
李汀洲 からそう言われつつ、洛星宇は自身の真下で怯えている余楽清をチラッと見やった。
顔は青色を通り越して真っ白、荒い息を細かに吐きながら、涙目でガタガタと身体を震わせているその姿は、見ていてあまりにも切ない。
無意識にこめかみに青筋を立てた洛星宇は、未だ自身の握力で苦しそうな顔をする李汀洲 に向かって血反吐を吐くような声色で呟いた。
「……嫌がってるだろ。この辺でやめておく事だな。じゃないとこの腕、へし折るぞ」
視線だけで誰も寄せ付ける事は叶わないであろう冷たい黄金の瞳、振動が伝わってきそうな程に迫力のある低音を奏でる声、ミシミシと確実に腕を折りに来ている片手。
その全てから、この男に敵うわけがないと悟った李汀洲 は、再び冷や汗を吹き出しながら降参するかのようにもう片方の手を上げた。
それを合図に洛星宇が掴んでいた手から力を抜けば、李汀洲 は痛む腕をさすりながらすぐさま余楽清の上から退く。
チッと悔しそうに舌打ちをし、李汀洲 はそそくさと出口へと向かいながらも余楽清の方へ振り向いた。
「……僕は、どんな事があろうと貴方を追い続けますよ、楽清」
そう言い残し、今度こそ仙城を去る事にした李汀洲 の気配が消えていくのを皮切りに、余楽清はゆっくりと椅子から立ち上がる。
まさか男である自身が、同じ男に襲われかける日が来るなんて思いもしなかった。そしてそんな危機的状況において、自身は何もする事ができずに悔しい思いでいっぱいだった。
まだ恐怖で足が震えるが、それでも懸命に洛星宇の前へと立つと、乱れた髪の毛をそのままにペコリと頭を下げた。
「……ごめん、助かった」
「……礼を言われる程じゃない。俺もアイツが気に食わなかっただけだ」
「……てかさ、護衛なんだからもうちっと早く助けろよな……」
「……お前ほどの実力があるなら、自分で何とかできると思ったんだ……でも、すぐに助けなかったのはすまない」
口調はそっけないながらも、その声色自体は余楽清を安心させるかのように甘く優しい色を携えている。
一見冷たく見えるこの男は、本当は長男気質で心優しい性格をしているんだという事を、今改めて知る事ができ、余楽清はこの場に似合わず少しばかり笑みを浮かべた。
しかし、先ほど性的に襲われかけた事への恐怖心がまだ癒えたわけではなく、ふるふると震える両手をどうにかしようと意を決したかのように言葉を紡いだ。
「……あの、星宇……」
余楽清の必死に振り絞った己の名に、洛星宇が返事をする間もなく、ふと暖かな温もりが自身の胸の中に飛び込んできた。
何事かと頭一つ分程下にある心臓付近に感じる温もりに目をやれば、余楽清が自身の胴体に身体を密着させ、その細い腕を背中に回していた。
所謂、余楽清に抱き締められている体勢となっていた。
不安や恐怖に打ち勝つには、人の温もりが一番の特効薬になるかもと考えたが故の、余楽清なりの必死の行動だった。
急に抱きつかれた事により驚愕で固まった洛星宇だが、未だふるふると震える細い身体を放ってはおけず、おずおずと目線の先にある小さな頭に片手を乗せる。
もう片方の手の行き所は迷った末、その華奢な背中に添える事にし、洛星宇は余楽清の耳元に極力優しい声で囁いた。
「……怖かったのか?」
「うん……俺ってこういうセクハラみたいなのって今まであんまり気にしなかったんだけど、何かさっきのはどうしても生理的に無理な感じがして……ごめん」
「……俺の腕の中は大丈夫か?」
「……うん、不思議。安心する」
「……なら、気が済むまでこうしていればいい」
そう言いながら、洛星宇は未だ頭に乗せている片手を今度は子供をあやすかのようにゆっくりと撫で付けていく。
艶のある、蒼色の混じる不思議な色合いの髪の毛をサラサラと指ですきながら、時折ポンポンと軽く叩いてやれば、先ほどまでガチガチに硬直していた余楽清の身体から自然と力が抜けていくのを感じた。
「……お前は不思議な奴だなぁ」
ぽつり。今までずっと口を閉ざしていた余楽清がわずかに涙の混じった声でそう呟くと、洛星宇はムッとした表情を浮かべる。
「……お前にだけは言われたくないが……」
「へへっ、確かに一理ある」
だいぶ硬直が解け、少しずつ笑顔を見せる事ができるようになった余楽清は、ふと先ほどからずっと部屋の出入口付近で立ち尽くしていた高雨桐の方へと振り向いた。
「雨桐、ちょっと二人だけにしてくんねぇ?星宇と話したい事あるから」
心配をかけないようにニッと無邪気な笑みを浮かべる余楽清だが、その目元は赤く腫れており、未だ鼻声であるため、高雨桐は見ている事しかできなかった罪悪感から返事を言い淀んだ。
しかし、今この場にいる中で余楽清を支える事ができるのは、洛星宇だけであろう。
「……御意」
焦燥と心配の入り交じった複雑な思いを抱きながらも、高雨桐はその場で一礼した後、後ろ髪を引かれる思いでしぶしぶと余楽清の居室を後にした。
『後はよろしく、我が推し』との願いを込めて。
一方、二人きりになって少しばかりの沈黙が流れ行く中、ふと余楽清が赤くなった目元をぐしぐしと擦りながら洛星宇の胸から一歩離れ、努めて明るい声色で今さっきまで抱き締め合っていた目の前の男に語りかけた。
「なぁ、せっかく俺たちすこーしだけ仲良くなってきてるわけじゃん。だから、カウンセリング的な感じでお前の今思ってる事とか、今までの事とか話してくんねぇかな?」
「……かうんせりんぐとかいうのは知らんが、そんな事をして何の意味がある?」
再び訝しげな表情を浮かべる洛星宇にクスクスと笑みを溢しながら、余楽清はとりあえず立ったままじゃ何だろうと彼を椅子に座らせ、自身もまた隣に勢いよく腰を下ろした。
怪しんだ顔でこちらを見つめる洛星宇に再び小さな笑い声を漏らしつつ、余楽清は彼に向かってピシッと人差し指を立てた。
「意味とかそういう事じゃなくて。お前らがここから出ていく事になるまで一緒にいるんだしさ。少しでもお前の事を俺は理解したいわけよ。だから、何でもいいからお前の事について教えて」
その言葉に、一瞬ぐっと言葉を詰まらせた洛星宇だが、余楽清の真っ直ぐに突き刺してくる純粋な瞳に絆されてしまったのか。
頭を抱えながらも、意を決して少しずつ自身の気持ちを語らい始めたのであった。
汗にまみれながら正拳突き千本を打ち込む若者たちを、居室の広々とした窓から見つめていた余楽清は、眠たそうに瞼を擦り、大あくびをしながら退屈そうに頬杖をついていた。
「おーおー、頑張ってんなぁ。ファイト~」
ひらひらと中庭に手を降る余楽清の横で、洛星宇がぶすっとした表情を浮かべながら仁王立ちをしている。
先日、護衛隊長へと任命された洛星宇は、あの時貰った芥子色の道衣を身に纏いながら、今現在はまるで本当のSPのように常時余楽清に寄り添って目を光らせていた。
仙城の中であれば安全が保証されているからと平然とした顔で護衛の任を自ら退こうとした洛星宇を、余楽清が断固拒否したために、妹との癒しの時間以外は常にこの男の傍にいなければならないというもどかしさが日を追う事に増していく。
黒化前後の時期であれば、とっくに遥か彼方へと逃げ出していてもおかしくはないほどに面倒な事この上ない今の状況に、目一杯のため息をつきたい思いでいっぱいであった。
ふと、のどかな風が流れ行く居室の扉がコンコンと軽やかにノックされた。
『どなたですか~?』とこれまたあくびをしながら余楽清がそう呟けば、外から高雨桐の慎ましい声が聞こえてくる。
「師尊、李汀洲 殿がいらっしゃっています」
その名前に、余楽清はビクッと肩を揺らした。
前々から、己を邪な瞳で見つめてくるあの変態おやじがまた来たのかと思うと、心なしか頭痛が酷くなってきた気がする。
李汀洲 がいったい何をしに来たのか定かではないが、ここで客人を追い返すというのはさすがに失礼だろう。
余楽清は苦い顔をそのままに、張りのない声で高雨桐に返答した。
「……あー、通せ」
言い終わるか終わらないかのうちに、扉がゆっくりと開かれていく。
その隙間からひょっこり顔を出したのは、案の定、どこか胡散臭い笑みを携えた李汀洲 であった。
李汀洲 は無遠慮にズガズカと居室へ入ると、洛星宇や高雨桐には見向きもせず、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら余楽清が座っている椅子の前へと立ち塞がった。
「久しいですね、楽清。あれから身体の具合……は……」
「……ん?どした?」
ドヤ顔で仁王立ちしたかと思えば、今度は余楽清の姿を視界に入れた途端、目を大きく見開いて驚愕したかのような表情を浮かべ、固まる李汀洲 。
地蔵のようになってしまった李汀洲 を訝しげな表情で見つめつつ余楽清が声をかければ、彼は壊れたロボットのようにギギギと顔を動かし、今度は洛星宇へと視線を向け始めた。
「……噂には聞いていましたが、まさか本当にあの妖王・洛星宇を側に置いているのですね」
「あー、昨日から俺の護衛隊長に任命したんだよ。強いしめっちゃ打ってつけの人選じゃね?」
「……俺はまだ納得しきっていない」
ふふんと鼻高らかにドヤ顔をする余楽清とは裏腹に、洛星宇はやれやれといった具合に深いため息を吐き続ける。
一見、真逆の雰囲気を醸し出している二人だが、その間には不思議と険悪さなどはなく、むしろどこか穏やかで凪いだ空気が流れていた。
『かの戦いの後も、もう一戦交えるくらいにはギスギスとした関係なのだろう、余楽清は何か仕方のない理由があって洛星宇を傍に置いているのであろう』とたかをくくってここへと訪れた李汀洲 は、二人のその和やかでさえある雰囲気に思わず顔をしかめた。
「……前から思ってましたが、口調も性格もずいぶんと変わりましたね、楽清…それに、道衣もこんなにも美しく派手なものになって……」
広々とした椅子に一人座る余楽清に少しずつ近づいてきたかと思えば、ふと夜の蒼色に染まった道衣の裾をそっと指先で摘まむ李汀洲 に、余楽清はゾゾッと背筋を凍らせた。
自身を性的対象として見てくる年上の男にこうして服であれ触られるなぞ、いい気がするわけがない。むしろ殴りたい気持ちでいっぱいになる。
李汀洲 は、青い顔をして全身に鳥肌を立たせる余楽清から色を含んだ視線を外したかと思えば、今度は彼の傍に寄り添っている洛星宇へと鋭い視線をぶつける。
万物を射殺すようなその鋭い視線を間近で受けてもなお、洛星宇は眉一つ動かさずに、美しい顔を能面のようにピクリともせずに見返すばかりだ。
そんな余裕綽々とした洛星宇の様子に、李汀洲 はますます眼光に殺意を宿しながらぽつりと呟き出した。
「……貴方ですか?洛星宇。貴方が、彼を変えたのですか?」
「……知らん。コイツが勝手に色々やらかしてるだけだ。むしろ俺は巻き込まれた側の立場だ」
二人の間に、バチバチと閃光が飛び交う。
そのあまりの静かな迫力に、扉の入り口で突っ立っていた高雨桐は顔を真っ青に染めながら心の中で祈り続けた。
早くこの修羅場を誰か何とかして、と。
一方、洛星宇からの凍てつくかのような冷たい視線を浴びていた李汀洲 は、再び余楽清へと視線を移した。
先ほどまでの、殺意が限界までに籠った物とは打って変わって、今度はまるで恋人を愛おしむかのように甘く、しかしどこか沼のようにドロッとした怪しげな瞳を一身に浴びる事となってしまった余楽清は、そのあまりの不快さにひくっと喉を絞めて悲鳴を噛み殺す。
この視線は、危険。
余楽清の本能がそう告げている。
逃げなければと、脳が警告を出している。
しかし、脳の指令とは裏腹に、余楽清の身体は恐怖から指先一つ動かす事は叶わなかった。
黒化から解かれた洛星宇と対峙する事になってしまった時でさえ、ここまでの恐怖心を抱いた事はない。
「……お綺麗ですよ、楽清。でもできれば、貴方が着る服は僕が用意して差し上げたかった」
恐怖で硬直する余楽清をいい事に、李汀洲 はその糖蜜のようなドロドロとした笑みを浮かべながら、どんどんと距離を縮めてくる。
そしてついに、椅子に座る余楽清の左右の腕をそれぞれの手で掴み、身体全体で覆い被さるかのような体勢で彼の美麗な顔に自身の顔を近づけた。
ビクッと身体を震わせる余楽清など、気にも止める様子はない。
あと少しでも顔を動かせば唇同士が接触してしまう程に距離が縮まったのをいい事に、李汀洲 は目の前にある長い睫毛に息を吹きかけるかのように甘く囁き出す。
「……相手に服を贈るというのは、自分がその服を脱がせたいという意味があるので……ね?」
その言葉を合図に、李汀洲 は余楽清の服の前開きの襟部分に手をかけ、道衣を裂くかのように勢いよく左右に開いた。
開いた服の隙間から、余楽清の白く艶やかな鎖骨が露になり、李汀洲 はほぅっと甘美のため息を漏らした。
こんなのは、まるで強姦だ。
しかも、洛星宇や高雨桐もいる中で。
突如として襲ってきた今まで感じた事のない種類の嫌悪感と恐怖心に、余楽清は硬直していた身体を無理に動かして必死に手足をバタつかせた。
「……や、めろ……どけよっ……!や、やだっ……!」
「……酷いなぁ。僕はこんなにも貴方を抱き締めたくて仕方がないのに……それに、貴方に治癒を施した褒美の逢い引きもまだ果たされていないのですよ?」
「っ……さわんなっ……!」
暴れる両手を片手で一纏めにされ、頭上へと押さえ込まれる。
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何より、恐怖で上手く身体に力が入らず、ましてや神通力を使う余裕なぞこれっぽっちもないため、余楽清は迫ってくる『雄の色を宿した顔』からただひたすらに顔を背ける事しかできなかった。
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「えっ!?なんですか!?」
束の間ではあったが、その強い風にあてられ思わず目を閉じた高雨桐が、風が収まったのを察しゆっくりと瞼を開いていくと、そこには李汀洲 の右腕を片手で掴み上げている洛星宇の姿があった。
どうやら今の突風は、洛星宇があまりにも俊敏に動いたために発生した物のようだ。現にあの風のせいで、居室の中は散乱した物で溢れ返り、見るも無惨な有り様になっている。
骨が折れそうな程に握り絞められる右腕の痛みに顔をしかめながらも、李汀洲 は冷や汗をかいた顔に柔和な笑みを浮かばせる。
「……何で、邪魔をするのですか?貴方には関係ない事ですよね?洛星宇」
李汀洲 からそう言われつつ、洛星宇は自身の真下で怯えている余楽清をチラッと見やった。
顔は青色を通り越して真っ白、荒い息を細かに吐きながら、涙目でガタガタと身体を震わせているその姿は、見ていてあまりにも切ない。
無意識にこめかみに青筋を立てた洛星宇は、未だ自身の握力で苦しそうな顔をする李汀洲 に向かって血反吐を吐くような声色で呟いた。
「……嫌がってるだろ。この辺でやめておく事だな。じゃないとこの腕、へし折るぞ」
視線だけで誰も寄せ付ける事は叶わないであろう冷たい黄金の瞳、振動が伝わってきそうな程に迫力のある低音を奏でる声、ミシミシと確実に腕を折りに来ている片手。
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それを合図に洛星宇が掴んでいた手から力を抜けば、李汀洲 は痛む腕をさすりながらすぐさま余楽清の上から退く。
チッと悔しそうに舌打ちをし、李汀洲 はそそくさと出口へと向かいながらも余楽清の方へ振り向いた。
「……僕は、どんな事があろうと貴方を追い続けますよ、楽清」
そう言い残し、今度こそ仙城を去る事にした李汀洲 の気配が消えていくのを皮切りに、余楽清はゆっくりと椅子から立ち上がる。
まさか男である自身が、同じ男に襲われかける日が来るなんて思いもしなかった。そしてそんな危機的状況において、自身は何もする事ができずに悔しい思いでいっぱいだった。
まだ恐怖で足が震えるが、それでも懸命に洛星宇の前へと立つと、乱れた髪の毛をそのままにペコリと頭を下げた。
「……ごめん、助かった」
「……礼を言われる程じゃない。俺もアイツが気に食わなかっただけだ」
「……てかさ、護衛なんだからもうちっと早く助けろよな……」
「……お前ほどの実力があるなら、自分で何とかできると思ったんだ……でも、すぐに助けなかったのはすまない」
口調はそっけないながらも、その声色自体は余楽清を安心させるかのように甘く優しい色を携えている。
一見冷たく見えるこの男は、本当は長男気質で心優しい性格をしているんだという事を、今改めて知る事ができ、余楽清はこの場に似合わず少しばかり笑みを浮かべた。
しかし、先ほど性的に襲われかけた事への恐怖心がまだ癒えたわけではなく、ふるふると震える両手をどうにかしようと意を決したかのように言葉を紡いだ。
「……あの、星宇……」
余楽清の必死に振り絞った己の名に、洛星宇が返事をする間もなく、ふと暖かな温もりが自身の胸の中に飛び込んできた。
何事かと頭一つ分程下にある心臓付近に感じる温もりに目をやれば、余楽清が自身の胴体に身体を密着させ、その細い腕を背中に回していた。
所謂、余楽清に抱き締められている体勢となっていた。
不安や恐怖に打ち勝つには、人の温もりが一番の特効薬になるかもと考えたが故の、余楽清なりの必死の行動だった。
急に抱きつかれた事により驚愕で固まった洛星宇だが、未だふるふると震える細い身体を放ってはおけず、おずおずと目線の先にある小さな頭に片手を乗せる。
もう片方の手の行き所は迷った末、その華奢な背中に添える事にし、洛星宇は余楽清の耳元に極力優しい声で囁いた。
「……怖かったのか?」
「うん……俺ってこういうセクハラみたいなのって今まであんまり気にしなかったんだけど、何かさっきのはどうしても生理的に無理な感じがして……ごめん」
「……俺の腕の中は大丈夫か?」
「……うん、不思議。安心する」
「……なら、気が済むまでこうしていればいい」
そう言いながら、洛星宇は未だ頭に乗せている片手を今度は子供をあやすかのようにゆっくりと撫で付けていく。
艶のある、蒼色の混じる不思議な色合いの髪の毛をサラサラと指ですきながら、時折ポンポンと軽く叩いてやれば、先ほどまでガチガチに硬直していた余楽清の身体から自然と力が抜けていくのを感じた。
「……お前は不思議な奴だなぁ」
ぽつり。今までずっと口を閉ざしていた余楽清がわずかに涙の混じった声でそう呟くと、洛星宇はムッとした表情を浮かべる。
「……お前にだけは言われたくないが……」
「へへっ、確かに一理ある」
だいぶ硬直が解け、少しずつ笑顔を見せる事ができるようになった余楽清は、ふと先ほどからずっと部屋の出入口付近で立ち尽くしていた高雨桐の方へと振り向いた。
「雨桐、ちょっと二人だけにしてくんねぇ?星宇と話したい事あるから」
心配をかけないようにニッと無邪気な笑みを浮かべる余楽清だが、その目元は赤く腫れており、未だ鼻声であるため、高雨桐は見ている事しかできなかった罪悪感から返事を言い淀んだ。
しかし、今この場にいる中で余楽清を支える事ができるのは、洛星宇だけであろう。
「……御意」
焦燥と心配の入り交じった複雑な思いを抱きながらも、高雨桐はその場で一礼した後、後ろ髪を引かれる思いでしぶしぶと余楽清の居室を後にした。
『後はよろしく、我が推し』との願いを込めて。
一方、二人きりになって少しばかりの沈黙が流れ行く中、ふと余楽清が赤くなった目元をぐしぐしと擦りながら洛星宇の胸から一歩離れ、努めて明るい声色で今さっきまで抱き締め合っていた目の前の男に語りかけた。
「なぁ、せっかく俺たちすこーしだけ仲良くなってきてるわけじゃん。だから、カウンセリング的な感じでお前の今思ってる事とか、今までの事とか話してくんねぇかな?」
「……かうんせりんぐとかいうのは知らんが、そんな事をして何の意味がある?」
再び訝しげな表情を浮かべる洛星宇にクスクスと笑みを溢しながら、余楽清はとりあえず立ったままじゃ何だろうと彼を椅子に座らせ、自身もまた隣に勢いよく腰を下ろした。
怪しんだ顔でこちらを見つめる洛星宇に再び小さな笑い声を漏らしつつ、余楽清は彼に向かってピシッと人差し指を立てた。
「意味とかそういう事じゃなくて。お前らがここから出ていく事になるまで一緒にいるんだしさ。少しでもお前の事を俺は理解したいわけよ。だから、何でもいいからお前の事について教えて」
その言葉に、一瞬ぐっと言葉を詰まらせた洛星宇だが、余楽清の真っ直ぐに突き刺してくる純粋な瞳に絆されてしまったのか。
頭を抱えながらも、意を決して少しずつ自身の気持ちを語らい始めたのであった。
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