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奥様は旦那様に愛されたい

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 成婚から一週間が経った今も、肇は自身の役目を全うできずにいた。
 二日連続でアレンに拒絶されて以来、彼に対してどう接していいのかわからなくなってしまった。
 寝台の上で身を固くしたまま震えるばかりの肇に触れる気も起きないのだろう。アレンから体を求められることもなくなり、寝台の端で背中を丸めて眠る日々が続いた。

「どうしたらいいのかな……」
「ニャーン」

 誰にも相談することができず、ついには裏庭に迷い込んだ野良猫に弱音を吐く始末だ。
 しゅんと肩を落とした肇を慰めてくれているのか。野良猫がザリザリと肇の頰を舐めてくれた。

「ふふ、ありがとう」
「ニャー」

 すりすりと鼻頭を擦り付けて感謝を示す。野良猫が嬉しそうに喉を鳴らした。
 ああ、動物は癒されるな。なんて現実逃避していれば、ガサリと背後で茂みが揺れら音がした。
 ハッとして振り返れば、頭から足先まで全身を深紫のローブに包んだ謎の人物が立っていた。手には薄紫色の大きな水晶玉を持っている。
 絵に描いたような占い師然りとした出立ちは逆に怪しかった。

「どなた、ですか……?」

 恐る恐ると問い掛ければ、ふっと占い師|(仮)が笑った気がした。

「私は通りすがりのしがない占い師にございます。貴方、近頃結婚したばかりの旦那様との関係に悩んでいらっしゃるのではありませんか?」
「え、へ?」
「ふふ、図星と顔に書いてありますよ。旦那様のお心が見えず、悩んでいらっしゃるのですね」
「えっと……」
「ご安心ください。私は通りすがりのしがない占い師ですので、私との会話が旦那様の耳に入ることはありません」

 他にも色々気になることはあるし、怪しすぎて全く安心はできない。けれどそれ以上に、猫でも人でも誰でもいいから悩みを聞いてほしいというのが本音だった。
 占い師の言う通り、この話がアレンやその周囲の人の耳に入ることはないだろう。それならばと、誰にも打ち明けることのできなかった胸の内を話してみることにした。

「仰る通り、夫との関係に悩んでいるんです。夫とは政略結婚で、両家のために後継を産むことが俺の責務です。それなのに、俺の容姿が見窄らしいばかりにその責務を果たすことができそうになくて……」
「そのようにご自分を卑下なさらないでください。ご主人から直接そのような発言があったのですか?」
「いえ、そもそも夫とは会話もほとんどなくて….でも、夫はすごくかっこよくて素敵な人で、誰がどう見ても俺なんかじゃ夫には不釣り合いなんです。それに、本来夫に嫁ぐはずだったのは俺の妹で、妹は俺とは違って誰もが見惚れるような美少女なんです。夫もきっと、彼女と結婚することを望んでいたと思います」

 画家が筆を誤らなければ、本人とは似ても似つかない肖像画によって二人の婚約が解消されることはなかった。肇が今こうしてブルストロード侯爵夫人になることもなく、アレンに子作りという名の苦行を強いることもなかったのだ。

「自分なりに努力してみたんですけど上手くいかなくて、もうどうしていいかわからないんです……」

 力なく笑った肇を見て、腕の中で野良猫が悲しげに鳴いた。

「悲しい話してごめんね、大丈夫だよ」
「ニャーン」
「ありがとう、慰めてくれるんだね」
「……肇様」
「あ、はい」
「よろしければこちらを」
「水、ですか?」

 占い師に手渡された小瓶の中には、サラサラとした透明な液体が半量ほど注がれていた。
 陽に透かしてみてもこれといった変化はない。一見するとただの水のようにしか見えないが、占い師は「いいえ」と首を振った。

「それは貴方が望んだ理想の姿になれる薬です」
「理想の姿に……?」
「はい。正確に言えば、貴方が好かれたいと意識している相手にとって最も魅力的な姿に見える薬です。その薬を飲めば、ご主人の目には貴方が誰よりも魅力的に映ることでしょう」

 占い師の話が真実ならば、この薬を飲むことで肇の悩みは解決できる。アレンにこれ以上の苦行を強いる必要もなく、彼にとって魅力的に思える相手との夜伽であれば、むしろ嬉々として受け入れてくれるだろう。
 ごくり、と喉を鳴らして、怪しさ満点の小瓶を改めて陽に透かした。

「これを飲めば、夫の目には俺が絶世の美人に見えるということなんですね」
「さようでございます」

 そんな上手い話があるけないと冷静な自分が首を振ったが、切羽詰まったもう一人の自分が、騙されていてもいいから最後のチャンスに縋るべきだと背中を押した。

「ありがとうございます。俺、頑張ってみます!」
「ご武運をお祈りいたします」
「はい!」

 元気よく返事をした肇に一礼し、占い師は再び茂みの向こうへと姿を眩ませた。

「そういえば、なんで俺の名前知ってたんだろう」
「ニャー?」

 今更ながらの疑問に、野良猫が不思議そうに首を傾げた。


 もしこの薬が毒薬だったら──最悪の結末が頭を過ったが、それでもいいからと決死の思いで小瓶の蓋に手をかけた。
 キュポンと音を立ててコルク性の蓋が開く。匂いを嗅いでみても怪しい香りはしない。無色無臭ときて、味まで無味だったなら本当にただの水かもしれない。
 やっぱり騙されただけなんだろうかと気落ちしながらも、覚悟を決めて小瓶に口を付けた。

「ん……」

 舌に触れた液体はやはり無味だった。
 粘膜を焼くような刺激もなくスルスルと喉を通っていく。
 得体の知れない液体を摂取することへの恐怖は拭えないが、ぎゅっと目を瞑って五十ミリリットルほどの液体を一息に飲み干した。

「……変わった、のかな?」

 寝室に備え付けられた鏡台をまじまじと覗き込む。磨き抜かれた鏡面に映る肇の姿に目立った変化は見られない。
 ぺたぺたと顔を触ってみたり頰を抓ったりしてみたが、鈍い痛みが走るだけでなんの変化も起こらなかった。

「やっぱりただの水だったのかな」

 空になった小瓶を見つめて肩を落とした肇だったが、『好かれたいと意識している相手にとって最も魅力的な姿に見える薬』という占い師の言葉を思い出してハッとした。

「そっか、他の人から見たら普通でも、アレン様の目には綺麗な人に見えるのかも」

 そうであってほしいと願いながら、夫夫の寝室で一人、アレンの訪れを待ち続けた。


 夜更け過ぎ、うとうとと船を漕ぎ出した肇の耳に、アレンの帰宅を知らせる馬車の音が届いた。
 公務によって多忙を極めるアレンは時折帰宅が深夜近くになることがあると聞く。そういえば、侍女のシルビアが『旦那様は本日郊外の視察へ赴かれるそうですよ』と教えてくれたのを思い出した。
 この屋敷に来てから一週間。不甲斐ないばかりの肇を奥様と慕い、甲斐甲斐しく世話をしてくれる心優しい女性だ。彼女のためにも、妻としての務めを立派に果たして少しでも周囲の人から認められたかった。

『もしここを追い出されたら、俺に帰る場所なんてない』

 父親はこの機会に肇を家から追い出せると大喜びしているに違いない。春子からは、ブルストロード公に嫁ぐ際に『お兄様は最低よ! 私のことを騙して婚約者を奪うだなんてあんまりだわ! もう二度と顔も見たくない!』と吐き捨てられてしまった。
 夫に愛想を尽かされて追い出されたと知れば、親族たちは淫売の子だからと肇を蔑むだろう。
 たとえ望まれていなくとも、この政略結婚が決まった日から、肇はもうアレンのそばでしか生きられないのだ。

「アレン様、俺頑張って綺麗になります。わがままも言わないし、下働きでもなんでもします、だからどうかここにいさせてください」

 ここにいさせてくださいと、本人に面と向かって伝える勇気はなかった。けれど、伝えなくてはいけないのだ。ここで生きていくために、土下座をしてでも頼み込むほかない。

「……大丈夫、今の俺はアレン様から見たらすごく綺麗な人なんだから、きっと大丈夫」

 緊張と不安から、心臓が壊れてしまいそうなほどに激しく鳴っている。

「はー、ふー、はー」

 気持ちを落ち着かせるために深呼吸を繰り返していれば、カチャリと扉の開く音がした。
 びくんと背筋を伸ばして扉に向き直る。寝台の上で正座をしたまま、恐る恐ると薄紗から顔を覗かせた。

「おかえりなさいませ」

 貞淑な妻らしく夫の帰りを出迎えた肇を一瞥し、アレンが形のいい双眸をわずかに和らげた。

「起きていたのか」
「は、はい。お帰りを、心待ちにしておりました」

 アレンが穏やかな眼差しを向けてくれた。微笑みというにはあまりに些細な機微だったが、不愉快げに眉を顰められなかっただけでも十分だった。
 胸がぽかぽかと温かくなる。夫が自分の存在を疎ましく思っていないと知って、嬉しさのあまり涙が出そうになってしまった。

『あの薬の効果は本物だったんだ』

 怪しげな占い師だなどと疑ってしまった自分が情けない。
 好かれたいと思う相手にとって理想の姿になれる薬、その効果は絶大で、アレンの目にはきっと肇がこの世の誰よりも美しく見えているのだろう。
 これでようやく、後継を産むという最低限の存在価値が生まれた。しばらくは、せめて子供を無事出産するまでは、見切りをつけられて捨てられることはきっとない。
 安堵と喜びからポロリと涙が一筋溢れた。肇を見据えるアレンの目が戸惑いに揺らぐ。
 そっと、冷たく硬い指先が肇の頰に触れた。

「なぜ泣く」
「……アレン様が優しくて、嬉しいのに涙が出てしまいました」

 へにょりと眉を垂らして笑えば、慰めるように優しく頰を撫でられた。
 肇の顔にかかる髪を耳にかけ、あらわになった額にアレンが唇を寄せた。まるで慈しむように、柔らかな唇が額に落とされる。
 耳元で、密やかな声が囁いた。

「肇、今夜、君に触れたい」
「っ……」

 待ち望んでいた言葉に、ドクンと心臓が跳ねた。
 うっすらと頰を染めた肇が潤んだ目をしてアレンを見上げる。ごくりと、張り出た喉仏が上下した。

「どうぞ、お好きなように触れてください。俺の身は全て、アレン様のものですから」

 アレンの手を取って、夜着の紐へと導く。しゅるり、と紐が解かれ、艶かしい裸体がアレンの目に触れた。
 骨ばった手のひらが襟元に忍び込む。柔く胸板を揉んだ指先が、きゅっと乳首を摘んで指の腹でこねた。こりゅこりゅと感触を楽しむように揉まれると、ピリピリとした甘い刺激が胸から全身に伝わった。

「ん、アレン、様……っ、んぅ」
「肇……」
「ん、は、ンゥ、はぁ、ン……っ」

 初夜以来、久しぶりにアレンと唇を交わした。
 互いの存在を確かめ合うように、何度も角度を変えて唇を合わせる。啄むような甘い口付けに胸が締め付けられた。
 アレンに求められている。そのことが嬉しいはずなのに、愛されているのは本当の肇ではなく偽りの麗人なのだと思うと、胸が引き裂かれたように痛んだ。

『アレン様に、本当の俺を見てほしい。俺自身を好きになってほしい』

 偽りの姿で愛されたことで、アレンに対して叶わぬ想いを抱いていることに気づかされた。
 優しい口付けに身体を溶かされながらも、秘めた心は人知れず涙を流していた。
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