春にとける、透明な白。

葵依幸

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新章「春に舞う言の葉に告白を。」

2 - 流れゆく時に溺れて

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― 2 —

 ……気が重い。

 部室で割と時間を潰して出て来たというのに、傾いていく太陽を横目に歩く河川敷はどうにもぼんやりとしていて頭が靄がかっているような、頭が重く、もしかすると寝すぎを疑った。とはいえ、寝る子は育つというし寝るのは間違いじゃないハズだ。言っていて馬鹿みたいだけど。

 馬鹿繋がりでお腹が随分と大きくなった顧問の先生が暫くの間休みに入るからと言って連れて来た若い先生の事を思い出した。「私の悩みは生徒たちの力になれるだけの経験が足りない事です!」なんて、真顔で言いそうな顔をしていた眩しい体育教師。私とは正反対に、思いの強さが力になるなんて思っていそうだった。まっすぐに伸びた背中が私とは対照的だ。私は多分、ああはなれない。まるで真夏の太陽みたいで苦手だ。ああいう人は。

「…………」

 太陽の光が白色からオレンジ色に変わり始めたこともあってか吹く風は少しだけ冷たく、ただ火照った肌には心地良い。文芸部は私のプライベートスペースな訳だし、余計なお節介を企んでくれなきゃいいけど。

 その時は別の居場所を探すだけだと早々に考えを畳んだ。部室に未練はない。……いや、ないっていったら、嘘にはなるけど。固執するほどの物ではないだろう。個室だけに……? 

 見下ろした先。河川敷沿いに作られた運動公園では学校帰りの小学生が広場で走り回り、散歩の途中だろうか、犬を連れたお爺さんがベンチで一休みしていた。
 地球に隕石が落ちて、ここら辺の景色は大きく姿を変えた。雑草が生い茂り、秘密基地でも作れそうな自然と人工の入り乱れた空間は今となっては綺麗に整備されていて、運動公園になっている。この街に訪れた悲劇を風化させない為にと追悼慰霊碑なんてものまで作られていて、少なからず、いまもまだ誰かが花を添えに来たりもしている。

 市街地の方も随分と悲惨な事になっていたけれど、殆どの建物が復興を終え、空き地は目立つけれど瓦礫の山はなくなりつつある。踏みにじられた雑草がいつの間にか根を張り芽吹くように、いつの間にか新しい日常は築き上げられていくのだろう。きっともう、あそこで遊ぶ子供たちはあの天体ショーを知らない。

 大きな川を遡るようにして道を歩き、夕日を背にしてイヤホンから聞いている訳でもないのに曲を永遠と流し続ける。愛が大切だとか、泣けることが生きている証拠だとか、世界に向けて叫び続ける声は私の耳にまで届いているくせに見える景色が変わったという事もない。

 それを馬鹿にするつもりはないけれど、この声に救われた人たちが少なからずいるんだろうと川の流れを眺める。
 バシャバシャと、何かが水面みなもを騒がせている影があった。鳥か、魚か。何かが暴れているんだろうと思っていたら人だった。人が、何かを抱えて溺れている。

「え、ぁ、はっ……?」

 思わず足を止めるとジョギングしていたおじさんも釣られて足を止めた。二人して川の流れを睨む。夕日が反射して良く見えないけれど、「人、だよねぇ……? あれ」おじさんが確認してくる。「人……ですね」思わず頷き返した。

 助けに入った方が良い……? けど、まだ水は冷たい。制服が濡れたら明日はどうしたらいいだろう。いや、そんなことよりあの人、どんどん沈んでるような――?
 違う、溺れてるんじゃない。暴れる犬を抱えて、必死にこっちに戻ってこようとしている。

 不格好な泳ぎ方で、少しずつ。

 散歩していた人たちも、公園のベンチでいちゃついていたカップルも、その様子に気付いたらしくて視線が集中する。
 けど、だれも助けようとはしない。見えているのに、自分には関係ないみたいに茫然と眺めて、私も、同じだ。

「っ……、」
「あっ」

 私が河川敷を駆け下りるのと同時におじさんが小さく声をこぼした。

 当たり前だ。私だってあの人が誰なのか知らないし、自分も溺れたらどうしようって思う。危ないことをしている人がいたら「危ないですよ!」って叫ぶことぐらいは出来るかもしれないけど、自分自身を危険にさらしてまで助けようとは思わない。だから、馬鹿だと思う。こんなこと――、分かってるのに、一度走り出した身体は止まらない。

 何度も川の中に沈みながらも顔を出す様子に周りの人が声を上げ、その度に気持ちがはやる。カバンを投げ出すと靴が濡れることも構わないで川に駆け込む。幸いにも溺れそうに見えていた男の人はもうすぐそこまで戻って来ていた。足も付く。ただ緩やかに見える川の流れでも犬を抱きかかえながら戻ってくるのは相当大変みたいで膝から転んでは溺れそうになる。足を進める度に絡みつく流れの力は強くなって、膝上、スカートの裾がギリギリ濡れるかどうかって所で水を跳ねて制服が濡れた。何も考えず踏み込んだ川の水はやっぱり冷たくて思わず奥歯を噛み締める。けど、その人はもう、手を伸ばせば届く。

「その子、渡してください」
「ぇ……」
「早くッ」

 突然近寄ってきた私にお兄さんは驚いたようだけど腕を差し出すと大人しく犬を受け渡し、膝に手を付く。そのまま流されてしまうかもって思ったけど私の背中を押す力は強くて、寧ろ助けられる形になった。びしょ濡れの犬は思ったよりも重く、こんなの、よくもまぁここまで運べたものだと心底驚く。その上、抱きかかえても暴れるのでこっちまで転んでしまいそうになった。かといって、ここで手を離せばまた溺れてしまいそうだし悪態を吐きながらも抱きしめ、川辺まで何とか運ぶ。

 ただ、辿り着いたが最後。ほっと息を付いた拍子に犬は私の腕の中から飛び出して走り去ってしまった。河川敷の方から駆け寄ってきたらしいおばさんがその犬を受け止めて、ああ、なんだ、飼い主はあの人かって尻餅突きながらその光景と茫然と眺める。

 じゃあ、この人は、なに……?

 てか、いきなり走ったりしたからかドキドキと心臓が煩い。ひんやりとした足の感触は川から上がっても背筋を駆け上って来ていて若干後悔し始めていた。

「ごめんね……なんだか手伝ってもらっちゃって……」
「いえ。あのままだとお兄さんまで流されちゃいそうだったから……」

 びっしょりと濡れた服の上からでもそれほど立派な身体をしているようには見えない。髪は伸びきっているし、髭だって手入れしているわけではないらしい。犬を助け出してたってしらなきゃ全身ずぶ濡れの、ただの不審者にしか見えないだろう。

「お兄さんの犬ってわけじゃないんでしょ?」
「まぁ……、うん……? ぼんやり川眺めてたら流れて来てさ。思わず飛び込んじゃったんだよね……」

 ていうか、ありがとうございますの一言もなくおばさんは帰ってしまったらしい。野次馬気味に眺めていた人たちも興味を失って早々に解散してしまっている。

 別に何かの見返りが欲しくて助けたわけじゃないんだろうけど、なんとなく釈然としない。私は足が濡れたぐらいで済んだけど、この人はそうじゃないわけだし。なんだか可哀そうだなぁってただのずぶ濡れお兄さんを見て思う。ていうか、流石にずぶ濡れのタイツが冷たくなってきた。靴を脱ぎ捨てると人前ではあるけれど脱いで丸める。素足は寒いけど、濡れたままのを履いているかはマシだろう。絞ってみればぽたぽたと水が滴った。

「てか、顔。めっちゃ引っかかれてるじゃん。……ちょっと待ってて」
「あ、うん……?」

 幸いにも最近よく転ぶので絆創膏と消毒液は常備してある。放り出したままだったカバンの中からタオルも探し出してお兄さんの元へと戻ると膝をついて顔を拭く。

「ばい菌はいると危ないから」

 覗き込むけどそんなに深い傷ではなかった。ただ、水に滲んだ血の筋が痛々しい。一言心の中で謝ってから消毒液で傷口を洗い直し、髭が邪魔だったけど絆創膏を張り付けておく。

「……見知らずの人助けるのが変だって言うならお互い様でしょ」

 あまりにも珍しいものを見るような目で眺められて流石に睨み返してしまった。
 確かに私もどうかしてるとは思うけど、見捨ててあの時ああすればよかっただなんて思うのは御免だ。

 だけどお兄さんは暫く呆気と似られたように固まって、「――ふ、あはは、そうだね?」だなんてよく分からない笑い声を溢す。

 上から下までずぶ濡れで、その上頭もおかしいだなんて、完全に不審者だ。

「なにはともあれ助かったよ。……これも、ありがとう?」
「あ、……うん」

 なんとなく髭を剃ったら結構童顔なんだろうなってその笑顔を見て思う。

「大丈夫? 家まで送ろうか?」

 そんな様子を見ていたお兄さんが気を遣ってくれる。

 だけどその申し出は余計なお世話って奴だ。悪い人ではないんだろうけど女子高生と一緒に歩いてる姿はあまり想像したくない。それこそ近所の人に通報されかねない案件だ。私だって、そんな厄介ごとに巻き込まれたいとは思わない。

「気にしないで。私も好きにしただけだから。――それより自分の心配しなよ。風邪ひくよ、それ」
「あー……そうかもね……」

 風邪、ひきたいのかなこの人。ってちょっと思った。
 困っているようには見えなかったから。

「なんで助けようと思ったの。あの犬」
「へ?」

 まさか私が話しかけて来るとは思っていなかったらしく、お兄さんは「え、なんて……?」と首を傾げる。

「だから、あの犬。……なんで溺れてるの助けようって思ったのさ」

 少なくとも他の人はそんなことはなかった。見て見ぬふりとまでは言わないものの、誰かが助けるだろうって関わろうとはしなかった。

 お兄さんが飛び込んだ時に周りの人がどうだったのかは分からないけれど、川に入っていたのはこの人、独りだけで、川から出て来た後も、誰も声を掛けてはこなかったし、飼い主だってあのまま帰っちゃって。お兄さんは誰にも褒められることもなく、感謝されることもなく、それなのに「犬が助かってよかった」って顔で笑ってる。

 自分の命だって危なかったかもしれないのに投げ出せるのはただ単純に馬鹿なのか、それとも死にたがりなのか。
 特に深い意味があるわけではないし、興味もないのだけれど、かつての光景が脳裏をよぎり、無視することが出来なかった。

 忘れかけていた記憶は、嫌なタイミングで顔を覗かせる。

「理由かぁ……、理由って聞かれれば色々答えられるだろうけどさ、突き詰めれば咄嗟に身体が動いたってのが答えなんじゃない……? 俺だって毎回困ってる人がいたら飛び込めるかって言われたら分かんないし、今回はたまたまだよ」
「たまたま……」
「そ。偶然。――思いがけず?」

 まぁ、言われてみればそうだ。誰だって助けなきゃいけないって理屈では知ってる。だけど、周りの人がそうだったように頭で分かっていても身体は動かない。理由なんてあってないようなもので、その答えは後付けか、綺麗ごとでしかないのかもしれないのかもしれない。――自分の命を犠牲にするかもしれないリスクを負いながらも行動する。それはきっと頭で考えるような事ではなく、それこそ咄嗟に、たまたま身体が動いてくれたから、そうしたまでだという話なんだろう。

 だだ、それを聞いて少しがっかりしている自分がいる。都合のいい答えを期待していた。犬を助けたこの人に。身勝手にも。けど、なにを、期待していたのか自分でも分からない。分からないって言うのも誤魔化しなのかも。分かってる。本当は、けど、怖い? ――……だめだ、やめとこ。

「ですよね。すみません、変な事を聞いてしまって」

 なんだか不思議な人だなぁって気持ちと後悔と。何はともあれ、長居は不要だ。

「それでは」

 言いながら靴を履くとカバンを拾って河川敷を登る。すると私を呼び止めるようにお兄さんが声を張った。君はどうして飛び込んだのか、と。
 見下ろせば何処か寂しげな、虚ろな瞳が私を見上げていた。

 夕日が、――沈む。

「そんなの、決まってるじゃないですか」

 なんなんだろう、とは思う。不思議な人だと。
 ただ、悪い人ではないと感じたから皮肉を込めて告げる。

「身体が動いたんですから。仕方なかったんです。私も」
「……そっか? ――気を付けて帰るんだよ。僕みたいな怪しい人に出会わないように」

 怪しい人って。自分で言う? 普通。

 返事には片手で返してさっさと坂を登りきるとイヤホンを耳に差し込んだ。そうしてスマホの画面を操作しながらふと思い出す。どっかで見たことがある人だと思ったら、たまに昼間、学校を抜け出したときに見かけるお兄さんだ。
 あんまりにも河川敷のベンチでぼんやり川を眺めている後ろ姿を見るもんだから「あの人、仕事してないのかな」って関わらないようにしようって思ってたのに。緊急事態だったとはいえ軽率だったかもしれない。
 とはいえ、なにがどうなるって訳でもないんだろうけど。

 すっかり紺色に染まってしまった空を眺めながら帰路に着く。なんだか後ろの方でお兄さんが誰かと話している声が聞こえて来た。
 何処かで聞いたような女の人となんだか楽し気に言い争っているように聞こえる。どうやら知り合いが通りがかったらしい。びしょ濡れの理由だとか、犬が溺れてたとかいろいろ説明して、その度大袈裟すぎる程の反応を女の人が返している。恋人?

 ただ、私はそれ以上関わるつもりもなくて画面を操作して音楽を流し始めた。
 空は紺色で、夕焼けは遥か彼方。僅かに残された街の姿を浮かび上がらせる程度で、街路灯がチカチカと点灯を繰り返す。
 世界は美しい、私たちは命の繋がりの中で生きている――。

 多分そんな感じの歌詞が英語で流れ出して、幾度となく繰り返し告げられたフレーズの中にふと違和感を覚えるけれど、多分それはリスニング力が上がったからいままでより聞き取れるようになってるとか、そんな感じ。

 嘘だけど。

 多分、自分を庇って死んだ両親の事が原因だ。
 暗くなりそうな顔を、きつく目で睨み直して頬を吊り上げる。大丈夫。私は、大丈夫――。

 全身びしょ濡れにならなくて本当に良かった。もしそんなことになっていたら祖父母からの追及は避けられない。ただでさえ気苦労が多いというのに、これ以上の迷惑は掛けられないし掛けるつもりは毛頭ない。これ以上、おじいちゃんの頭が禿げるのは可哀そうだから。禿げだけに。もうとうない。
 だから自宅に着くころにはいつものように笑みを顔に張り付けて、何食わぬ顔で告げる。

「ただいまー」

 上辺だけの、ただの習慣となった言葉。
 私を迎え入れてくれる二人は、暖かく優しい、自慢の親代わり。
 だけどこの家は私の居場所ではない。そんな風に思ってしまう私は、……親不孝者だろうか。

 後ろ手に扉を閉めながら、あのお兄さんはちゃんと家に着いているだろうかと振り返った。見える訳、ないのに。足元から込み上げて来た冷えに根負けして早々にお風呂に入り湯船に浸かりながら瞼を閉じる。今日も一日、つつがなく、日々を終える。
 少しずつ、成長している身体。
 あの頃のままではいられないのに、変わる必要なんてないと思っている自分。


 ――本当に?


 少しだけ、動きそうになった好奇心が憎い。

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