春にとける、透明な白。

葵依幸

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新章「春に舞う言の葉に告白を。」

1 - 先生と呼ばれる私たちは

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 ――春川先生、またね。

 そうやって生徒に声をかけてもらってむず痒くなるなるまで私は割と時間がかかった方だと思う。

 ずっと先生と呼び慕っていた存在に憧れ、志すようになってから6年。教員生活も2年目を迎え、私はようやく今の生活に落ち着きを覚え始めている。卒業した母校に割り振られ、慣れ親しんだ校舎とはいえど生徒と教師では見える景色も変わって来る。

「あ、そういえば春川先生。進路希望調査の回収、今週までですからね。忘れないでくださいよ」
「あー……はい……」

 指摘され、思わず視線が泳いだ。

 どうやら完全に忘れていた事は見抜かれているらしい。隣を歩く数学の吉河先生は丸眼鏡の向こう側でいつもは柔和な瞳を細めていた。伊達にこの一年、散々やらかして迷惑をかけただけはある。ミスを未然に防ごうとしてくれるのも先生なりの気遣いなのだろう、私よりも数年早くこの仕事に就いているだけなのに、どうすればそこまで要領よく出来るのか――、まだ肝心なところは教わりきっていない。もう、私は教える立場だというのに相変わらずあの頃のままだ。

「春川先生らしいですね」
「あはは……すみません。ご予定、もうすぐでしたっけ……?」

 肩を並べ、渡り廊下を歩きながらあまりの居心地の悪さに話題を逸らす。吉河先生のお腹は大きく膨らんでおり、もう8カ月だとか9カ月だとか、いつ産まれてもおかしくない程になっていた。

「そうなのよ。もう重くって――、」「大変だけど、楽しみですね」

 道中、部活へと向かう生徒たちが飛び跳ねるようにして廊下を走っていく。廊下は走らない――! なんて散々されて来た注意を私がしている光景を見たら高校生の頃の私はきっと驚くだろう。

 とはいえ、身長はあの頃からこれっぽっちも変わっていない。160もそこそこに成長が止まった私とでは今の生徒の方が背が大きく、女子生徒ならまだしも男子生徒となれば年下の子たちを見上げる事になる。だからといって別に舐められている訳でもなく、ただ単純に懐かれているだけなのだろうけど、友達のように接してしまう私を教頭先生は良い顔をしないし、理想としてきた教師像からは遠く離れてしまっているような……?

 まぁ、くよくよ悩むのは柄じゃないからそこまで深刻に考えてはいないのだけど。

「この後でよろしいかしら。文芸部への顔出しは」
「へ……?」

 言われて思い当たる節がないわけではない。が、あれ? どの話だっけ。とまた視線が泳いだ。

「私がいない間の臨時の顧問、お願いしますね。大丈夫、自慢じゃないけどお化け屋敷みたいなものだし、時々覗いてくれればいいですから」

 そういえばそんな話をされていた気がする。教頭にも話は通してあるからバスケ部の副顧問と掛け持ちで良いとかなんとか。
 ていうか、お化け屋敷って。

「大丈夫ですよ、私も若い頃はそんな感じでしたから」

 心配が顔に出ていたらしい。慰めの言葉がどうにも情けない。吉河先生だってまだまだ若い方だと思うし。聞くところによると「鬼の吉河」なんて呼ばれて不良を校正して回っていたとかなんとか。私には到底真似できそうにもない。

 若干の不安を覚えつつも職員室に着いてしまい、それと同時に教頭が吉河先生を呼び止めたのでその話はそこまでとなった。

 自分の席に戻るなり「文芸部」という懐かしい響きにほろ苦い思い出が蘇りそうになる。所属していた訳でもないが、バスケ部の練習に参加する傍ら、幾分かの青春の日々をそこで過ごしたのも事実だった。この高校に戻ってくることになり、気になりつつも足が遠ざかっていたのは後ろめたさを感じていたからって言うのもある。

 あそこは、あまりにも私にとって嫌な思い出が積み重ねられているから。

「名誉ある文芸部の伝統、……か」

 数日前に渡されていた文芸部に関する資料には私の知っている情報とそこから積み上げられた年月《としつき》の記録が綴られていた。かつてそこに籍を置いていた生徒が書いた作品が有名な新人賞を取り、一躍有名人となった事。それ以降、際立った成果はないものの、今もなお、活動している彼の軌跡として出来る限り部は存続させる意向である事、など。

 これといっためぼしい部活動の成果が見られない限りは過去の栄光に縋ろうという魂胆だろう。当人を呼んでの講演会は悉く断られているらしいが、それはまぁ、当然だろう。

「お待たせ、行きましょうか」
「あ、はい」

 吉河先生に連れられ同じく体育教師であり同じバスケ部の顧問である小林先生に少しだけ遅れることを告げてから図書室や視聴覚室が詰め込まれた特別棟に向かう。相変わらず文芸部は図書室の隣、図書準備室を占有する形で存続させられているらしい。

 通いなれた廊下にはあの頃と同じように文化系の部活の作品が飾られていたりと本校舎とは違い少しだけ芸術色に溢れている。何処からともなく吹奏楽部の音色が開け放たれた窓の向こうから聞こえて来て、いよいよ放課後の始まりといった感じだ。新入生を迎え、春の大会も近い。用事を済ませたら私もバスケ部の子たちと一緒に汗を流すことになるだろう。

 自分で試合に出られないのはもどかしいけれど、あの頃の私たちを応援してくれていた先生たちの気持ちが今なら分かるような気がする。応援する方だって、燃える。
 だからって訳ではないのだけど、どうにも私は文化系の部活が苦手だった。それぞれの目標とかコンクール入賞とか、色々掲げてはいるのだけど、自分一人の世界をただひたすらに追及していくような姿勢が怖くもあった――、なんて、人に言ったら笑われてしまいそうだけど。少なくともあの頃の私にとって「創作活動」ってものは畏怖の対象だったのだ。

「変わりませんね、あの頃と」

 職員室からは第二校舎を挟んで反対側。一番遠い場所に位置するその扉には本の貸し出しに関するお知らせや学生向けの作文コンクール募集に関するポスターなんかが張り出されていた。扉の右上に掲げられている板には「図書準備室」、その下にはカマボコの板みたいな安っぽい標識に「文芸部」と書かれている。張り出されているものが変わったぐらいでそれ以外はあの頃のままだ。

 つい癖で扉を開けようとすると鍵が掛ったままだった。吉河先生が苦笑しながら鍵を差込んで回し、カチャリとその錠が外れる。
 ガラガラと、古びた引き戸を開けるとやはり古臭い、何処か落ち着きのある古い紙とインクの匂いがひらひらと揺れるカーテンの向こう側から流れ出した風に乗って鼻先をくすぐる。
 薄暗い部屋の中、中央に並べられた会議用のテーブルの上でパラパラと原稿用紙が宙を舞っていた。

 誰かいる――?

 そう思ったのはそのゴミ山とも呼べる景色の中で蠢く影を見つけたからだ。
 パチリ、と吉河先生が壁のスイッチを押して電気を付ける。すると積み上げられた本の山の中に身をうずめていたその子は気怠そうに顔を上げた。

 長く、透き通るような黒髪と長い睫毛。同性の私でもドキリとしてしまいそうな透き通った瞳が私たちを見上げる。

「おはよう、藍洲あおしま夏帆かほさん?」
「……おはよう、ございます……? ……きょう、なんかある日でしたっけ……」
「臨時顧問の先生との顔合わせよ」
「はぁ……?」

 先生に促され、呆気に取られていた私は思わず周りを見回した。積み上げられた図書室に置き切れなくなった本の山。一部がへこんだロッカー。使われた形跡のない原稿用紙にいつの物かも分からない古いパソコン。ここは間違いなく文芸部の部室だった。

 ただ、あまりにも、他人の空似というにはあまりにも不自然な程に、藍洲夏帆と紹介された生徒が私の良く知っている人物に似ていたから、――苦い思い出が今度こそ脳裏に蘇ったのだ。

「春川……舞花です。体育教師の」
「ああ……、そう」

 興味がない。放っておいて欲しいと言われなくとも分かる態度でその子は再び本の山に顔を伏せる。
 よく見ると自分の上着を枕代わりに昼寝の途中だったらしい。

「確かに今日はいいお天気だし、眠くなりますけどね。これからお世話になる春川先生に何かいう事はっ?」

 無理やりその身体を引き起こして寝ぼけまなこを向けさせる吉河先生はまさしく鬼教師だ。優しい言葉の裏に有無を言わせぬ「凄み」というものを感じる。

 流石の藍洲さんも抵抗するつもりはないのか私の事をしげしげと見つめ、視線を逸らしたかと思えばただ一言「よろしく」と唇を尖らせて不満そうに息を吐き出した。

「はい、よろしいっ」

 それでおしまい。藍洲夏帆と呼ばれた少女はそのまま睡眠へと戻り、私たちもまた部室を後にする。
 ガチャリと外から鍵をかけ直したのは彼女への気遣いか、一体何の部活動だというのか私には分からないが「お化け屋敷」と言われた理由は少しだけ理解できたような気がする。

「幽霊部員の巣窟って事ですか……」
「そういうこと。だから気軽に付き合ってあげて?」
「へぁ……?」

 それでいいのか。我が伝統ある文芸部は。
 とはいえ、無理やり作品を書かせようとしたところで書けないものは書けない。私たちが誰でも100mを走りきることが出来ても新記録を打ち出せないのと同じように文字が書けるからと言って誰でも新記録《しんじんしょう》を取れるわけでもないのだ。

 かつてそこで綴られていたはずの物語は遥か昔にペンを置かれてしまっている。
 特に目立った活動も感じられない文芸部の扉からはそんなことを感じてしまった。

「んー、悪い噂は聞かないよねぇ? ちょっと近寄りがたいって話は聞くけど」
「けどたまに授業サボって学校抜け出してるっぽいよ? 友達が言ってた」
「そっかー……?」

 バスケ部の練習の合間に2年生の何人かに藍洲夏帆について尋ねてみると口をそろえて同じような反応が返ってきた。「友達は多くない」「いつも怖い目をしてる」「頭は良いけど不良」、お世辞にも「優等生だから心配いりませんね」だなんて言えるような生徒ではないらしい。それは第一印象でも感じた事だし、別段驚くようなものでもない。

 ただ、それが嘗ての友人と瓜二つともなれば話は別だ。

 ……ご親戚……、とかではないよね……。

 少なくとも、そういった話は聞いたことがなかった。同じ町に住んでいたのなら会っていないのも変な話だ。あの頃の私たちはよくあの人の病室を良く訪れていたのだから。

 8年前、人類が滅亡すると宣言され、隕石が私たちの元へと向かっていた空の下。たった一人で死に向き合い、そうして奇跡の名の下に救われることはなかった親友。
 心の傷口は塞がったと思っていても触れれば痛みを思い出す。

 鮮明に根付いたあの頃の記憶は、忘れようとしても忘れられないしがらみとなって私の中で大きくなりつつあった。きっとそれは彼女に対しての後ろめたさも関係している。
 ただ、物語を綴り続けた親友と、そんな彼女の読者に選ばれた幼馴染。二人の間に入り込もうと足掻いた、私というお邪魔もの。

 職員室に戻ると既に吉河先生は帰ってしまっていて詳しい話は聞くことが出来なかった。彼女の席がある2年3組の担任の先生に伺って個人情報も捲らせてもらったけれど、血の繋がりは伺えなかった。分かったのはただ一つ、彼女もまたあの8年前のあの日に大切な人たちを失っているという事実だけだった。

「……やだな、こういうの」

 ようやく過去に、思い出に変わり始めていた日々が、再び色を取り戻すかのように鮮明に浮かび上がる。

 しまい込んで曖昧に留めていた感情も、少しずつ前に進めているという実感も、全ては誤魔化しでしかなかったのだと突き付けられたみたいで、その日の帰り道は少しだけ、足取りが重くなったような気がした。
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