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 私がこの世界に連れてこられてからしばらくたった。この世界には苦しみがない。痛みも、悲しみも、悲しみも。この世界の人は成人してから姿かたちが変わることはない。つまり、老いることがない。そして、死ぬという概念が存在しない。この世界はあの世界に比べてずっと楽である。何より苦しくない。あの世界にいたときは苦しいことはたくさんあった。ただ、あの世界は楽しかった。私はあの世界が恋しいのだ。それゆえに私は苦しい。私はこのような思いをこの世界にてすることが無くなるはずだった。私のつけている羽衣には、この世界にはなく、あの世界にある「感情」というものや苦しさを無くし、月の住人と同じようになるという機能がついている。が、なぜ私は「感情」や苦しさというものを今感じることができ、あの世界での記憶があるのか。その理由は私が月に連れ去られるときにある。
 
 「さあ、かぐや姫。このような穢れた世界でお過ごしになってさぞかし苦痛だったことでしょう。この羽衣をつけて月に帰りますよ。」
 私は翁や媼、帝への別れのあいさつやお礼のものを手配したところで、とうとう観念し、羽衣をつけようとした、その時。

 「姫様。お待ちください。」
 
 その声の主は先ほど急かしてきた月の役人だった。

 「姫様、よく聞いてください。あなたはこの羽衣をつけてもこの世界での記憶は残ったままです。」
 
 私はあっけにとられた。そして役人が続けて話す。

 「私としたことが本物の羽衣をどこかに置いて来てしまったようで…一芝居売っていただけますか。」
 
 私は頭が回っていなかったこともあって、その言葉に従うほかなかった。私はあの世界で過ごした記憶を無くしたふりをして、感情が無くなったように振る舞った。そうして今ここにいるのだ。もちろんこのことはほかの月の住人も知らない。そして肝心のあの役人は別件で月の世界から追放されたらしい。宴で大はしゃぎして、月の世界の王に失礼なことを言ったとか。なんとも情けない話である。まあとにかく、私があの世界での記憶が今でも残っている理由は役人のうっかりなのである。つまり、ただの偶然である。そういえば、あの役人がこんなことを言っていたような気がする。

 「姫様、この羽衣は偽物なので、当然、空に浮くことができません。今は私が支えるふりをして姫様と一緒に飛んでいる状態です。当然、私が手を離せばあの世界に逆戻りです。月の世界についたらあの世界に逆戻りすることは基本ありませんが、ただ…」
 
 なぜか役人の口角が上がっている。

 「まあ、万が一姫様が思い切り地面を蹴って飛ぶような真似をすればあの世界に行ってしまうことはあるかもしれませんね。」
 
 なぜこのようなことを役人が口走ったのかわからない。ただ、私はこの言葉に希望を抱いている。もう一度、あの世界に行けるのなら…私はそのような願いを抱いてとりあえず地面を蹴って飛んでみた。
 
 体が浮いている。まずい、体が落ちてくれない。引っ張られない。私の体はもう、月の世界に近づくことはなかった。ゆっくりと、でも着実に月の世界と離れていっている。私はもう決意を固めた。
 私はもう、誰も悲しまさせない。もう体は、上へ上へと加速を始めていた。
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