追憶

土岐鉄

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 「関西のほうへ行っちゃうんだって?」
 ベッドの端に腰かけてストッキングを足に通しながら女が言った。
 貴己がわずかに眉をひそめたのが、なぜそんなことを知っているのかと訝っているのだとわかった彼女は小さく笑う。
 「この間ヨウイチと会ってたんでしょう。あいつがまた会いたいって誘ったら、しばらく関東を離れるから無理だってふられたって言ってた」
 「それだけで、なんで関西だと?」
 女の口にした名の人間を明確に思いだせないまま貴己は問うた。
 「貴己ってたまに関西弁がでるじゃない。だからかな」
 相槌も打たないまま、貴己は女が身支度を整えるのをながめていた。
 自分でもときどき言いまわしや言葉のイントネーションが関西訛りになっているのには気づいていた。
 たびたび帰省していたとはいえ、小学校から高校までずっと京都住まいだったので、それも無理なかった。
 「私も残念。貴己とは相性・・良かったのに」
 「じゃあ代わりにヨウイチの相手をしててくれ」
 「ゲイ相手になにしろって言うのよ」
 女は仕様のなさそうに肩をすくめた。
 そこでようやく、貴己は彼女の名前がアヤコだったと思いだして、口にだして呼んでみた。
 女は、なに、とふりかえって身を寄せてくる。
 彼女とは互いに時間と気が合えば関係を持つといったつきあいで、馴れ初めなどはわずかも憶えていなかったが、何度か会っていて気心も知れていた。
 しかし相手を独占したいと思ったことはないし普段は思いだしもしない。
 都合がつかなければ替えのきく存在で、それは彼女にとっても同じに違いない。
 貴己の相手はいつもこんな人間で、そのほうが後腐れがなかった。
 誰かのことが尾を引くことなどなかったのに。
 惰性で、押しつけられた身体を緩く抱いたまま黙ってしまった貴己を、彼女は不思議そうに見あげた。
 「あら、珍しくなにか考えてる顔ね。なあに、悩みごと?」
 特に深く知り合った仲でもないのに、妙に鋭いところがある。
 女というのは皆こうなのだろうか。
 それとも自分の周りが無関心なだけかもしれない。
 「数年ぶりに会った人がいて気になるのは、昔好きだった人に似ているからなのかと考えてた」
 貴己の突飛な発言に、彼女はぽかんとした顔をした。
 それから少し呆れたような、揶揄も交えた目を向ける。
 「あなたね、自分がどれだけ淡白な人間かわかってる?好きだった人のことだって、その人に会うまで思いだしもしなかったんでしょう。だったら答えは一つじゃないの。その人に本気だってこと。シンプルすぎて悩みにもなりゃしないわよ」
 貴己が意外な表情をしたので、アヤコはおかしくなって彼の頭をひきよせると盛大に口づけた。
 「貴己に本気なんてあったのね!恋愛機能壊れてると思ってたけど、ちゃんと動いてるじゃない。貴重なんだからこんなところで時間無駄にしてないで本命落とすのを頑張りなさいよ」
 貴己はそんなわかりやすい感情だとは思わなかったが、反論はしなかった。
 御角令一のことをはっきりと気にし始めたのは茶碗の件があってからだ。
 とり乱した彼に言った言葉は事実だが、しかし彼を思いやったのではなかった。
 三羽晃介に謝罪や賠償を求めるつもりもなく、ただあの老人がどんな反応をするだろうとわずかに思ったことが、自分がすべての責を被った理由に過ぎない。
 それもつまらない罵詈雑言を聞かされただけの結果で貴己を失望させ、その件は彼のなかでもう終わってしまった過去のできごとになっていた。
 残ったのは、令一はまだ自らを責めているかもしれないという気がかりだ。
 気は強いが繊細でもある青年の印象は昔から変わっていない。
 彼からは良い印象を持たれていないことも充分にわかっていたが、貴己にとってはただ懐かしく、憶えていてもいいと思える数少ない記憶なのだった。
 無理に彼をどうこうしようとは微塵も思わないが、もう一度会ってフォローするべきかもしれないとは考えている。
 それとも彼はもう顔も見たくないと言うだろうか。
 貴己はとりとめない思考をめぐらせたままアヤコと別れ、駅へ向かって歩いた。
 早くも気温があがり始める朝日のなか、かすかに電車の走る音が聞こえる。
 もう始発がでているのかと気づいて、同時に茶人の客があるのも思いだしたが、家へ戻る気はしなかった。
 茶碗のことがあってから数日、老人の質はいっそう頑なになって煩わしい。
 原因が三羽晃介にあると知ったら、彼は男の家に怒鳴りこんでいくか憤死でもしてしまうに違いない。
 どちらにせよ騒ぎになればおのずと話が貴己と母親のことになるのは明白で、そんな面倒な展開を思えば老人が口もきかず子供じみた態度をとるくらいどうということはなかったが、通いの家政婦にまで、食事を摂ってくれないとか様子がおかしいなどと訴えられるのは正直うっとうしいことだった。
 貴己が無理に話をしたところで最終的に返ってくるのは悪態と暴行だけで、謝罪にも意味はなく放っておく以外にしようがない。
 貴己は増して帰宅する気の失せた自分の心に逆らうことなく、家へ向かう路線とは反対方面への電車に乗りこんだ。
 ―――結局、家へ戻ったのは日もほとんど没して薄暗くなったころで、それでも鬱とした気分は晴れないままだった。
 鍵をとりだして顔をあげた先、門扉の傍に誰か立っている。
 少し凝視して憶えのある背格好を確かめ、貴己はため息をついた。
 「尚輝」
 「遅い!ケータイも持ってなかったんだろ」
 随分待ちぼうけをくわされたらしい、尚輝は前もって約束していたわけでもないことなど棚にあげて、開口一番文句を言った。
 確かに貴己が身につけているのは腕時計と財布くらいのものだったが、昨夜家をでる時は終電までには帰るつもりでいたからだ。
 結局は丸一日家を空けることになったが、尚輝がいるならもう一日どこかへ行っていればよかったかとちらりと思った。
 しかしそんな貴己の思考など気づかないのか歯牙にもかけないのか、尚輝は気安く近づいてきた。
 「何回もかけてんのに留守電にもならなかったんだからな」
 「部屋に置いてきた」
 謝るでもなく事実だけを告げた貴己に、尚輝は不平そうな目を向けたもののそれ以上は追及せず、貴己の腕を引っぱって玄関から離れ裏手側へまわった。
 彼は通崎老人とは顔を合わせたくないらしく、この行動も声や姿に気づかれないよう警戒したのに違いない。
 薄明るい街灯の下、尚輝はもう機嫌を損ねてはいなかったが、少し探るような目を向けてきた。
 「こんな時間になにをしにきた」
 「貴己、最近変わったことないか」
 「変わったこと?」
 貴己はかすかに首を傾けて尚輝を見おろした。
 三羽晃介がここまでのりこんできたことを言っているのだろうか。
 いや、あの男のことなら尚輝はもってまわった言いかたなどしない。
 現に以前、貴己と会っているのがばれたかもしれないと、諍いがあったようなことを軽々しく口にしていた。
 ましてこんな夜更けにわざわざ家にまで来て尋ねる内容でもない。
 尚輝は貴己のことを妙に気にして干渉しようとするところがあるが、あの一連の件はもし尚輝が知っていたとしても笑い話程度のネタにしかならない。
 では他になにが、と訝しく思って見たのを尚輝は気まずく感じたらしい、目を横へ逸らしながら言いあぐねる様子だった。
 しばらく思案して、彼は言葉を探すようにきりだした。
 「……昔さ、うちに御角凌って子供預かってただろ。あの弟が」
 「令一と会ったのか」
 思いがけず強い声で遮られて、尚輝は驚いて貴己を見た。
 「なに、貴己も令一と最近顔合わせたことあるの」
 「仕事の関係で会っただけだ。おまえは会ったのか、どこで」
 「どこって、実家だよ。家に戻っててたまたま出くわしたんだ。親父に話があるとか……」
 尚輝はそこで口をつぐんだ。
 貴己が険しい顔をしたのに気づいたからだ。
 彼は、それでも不思議と静かなままの目を尚輝にあて、それで、と先を促した。
 「親父は今、学会だかで長期出張中なんだよ。令一は結局そのまま帰ったと思うけど。……なァ、あいつが気になるのか」
 尚輝の問いに責めるような響きが含まれた。
 彼は貴己がひどく淡白な人間だと知っている。
 そうでありながら昔、一人の人間にだけは心を傾けていたのも。
 尚輝はそれが悔しくてたまらなかったが、その相手はもういない。
 それからの貴己は一層人に関心をなくしたようだったが、尚輝はそれで満足していた。
 貴己が特定の誰かのものでさえなければ、自分のものにならなくても構わなかった。
 しかし今になって、令一もまた貴己の心を捕らえるというのか。
 確かに彼は幼いころの凌の面影にも通じる容姿をしているが、それ以外は気性も嗜好もまるで違う。
 到底凌の代わりになどならないと思えるのに、貴己は彼の話に常にないような感情を垣間見せたのだった。
 尚輝は徐々にわきあがってくる不快感そのままに声を荒げた。
 「令一は凌じゃない。貴己、まだ死んだ人間のことを気にしてんのか」
 貴己が鋭いまなざしを向けてきたが、尚輝は構わなかった。
 「誰かにふりまわされたり気にしたりするのなんか貴己らしくない」
 言い放って貴己をにらみつける。
 勝手に過ぎる言いように貴己が眉をひそめた、そのとき、尚輝がはっとして貴己の肩ごしに向こうを見た。
 つられてふりかえると、玄関側に人が立っている。
 すぐに、令一だとわかった。
 彼は家を見あげたかと思えば俯いたりして、迷いがあるらしい様子だった。
 「あいつ」
 貴己の後ろで舌打ちするのが聞こえ、彼が口開く前に尚輝は飛びだしていった。
 「おい、令一!」
 「おまえ……」
 裏手から突然現れて、乱暴に呼びかけられたのに完全に不意をつかれ、令一は身体を強張らせて尚輝を見た。
 なぜこんなところにいるのかという懐疑はお互いにあっただろう、しかし一歩先に尚輝のほうが感情を高ぶらせて令一につめよった。
 「貴己には近づくなって言っただろ!」
 「なんでおまえに従わないといけないんだ。俺が誰に会おうと関係ない」
 苛立ちをあらわにする尚輝を見て、反対に冷静さをとりもどした令一は理不尽な言いがかりにとりあわなかった。
 「おまえがあの人に気があるっていうならやりたいようにすればいいだろう、俺は止めない。でも俺の邪魔をされるのは不愉快だ」
 「こいつ」
 尚輝は言いざま拳をふりあげた。
 さすがに手をだされるとは予想しなかった令一はとっさに目をつぶってしまったが、殴られる衝撃はなかった。
 かわりに、だん、と音が弾けた。
見ると、殴られたのは尚輝だった。
 うめき声を漏らして塀にぶつかった尚輝を、貴己が右手を硬く握ったまま見おろしている。
 「令一に絡むのはやめろ」
 「貴、己」
 一瞬なにがおこったのかわからずぼんやりとした尚輝に、貴己は明確な侮蔑を含んで見た。
 「消えろ。もう俺の前に現れるな」
 静かだが底冷えする声音に尚輝はびくりと身体を強張らせて塀から離れ、殴られた左頬を押さえたままよろめいて二、三歩下がった。
 なにか必死に言葉を探すふうだったが、貴己が冷徹な真黒い目をあてると怯えたようにきびすを返し、暗闇のなかへ走り去っていった。
 令一は呆然と尚輝の後姿をながめていた。
 状況がよくのみこめない。
 ゆっくりと首をめぐらせて貴己を見ると、彼も令一を見ていた。
 「あ、の」
 令一が意図もなく言葉を発したとき、貴己はついと家のほうを見やった。
 つられて見れば家のなかで人の気配がし、玄関の電気がついたところだった。
 これだけ騒げば家人が不審に気づくのも無理はない、令一がどうしようかと思っていると、不意に貴己に腕をとられた。
 「こっちへ」
 引きずるというほど強くはないが、確かに引いて先導しながら、貴己は先程尚輝と話をしていた裏口の方へまわる。
 「貴己、さん」
 令一は無意識に名で呼びかけ、すぐにそうと気づいて慌てて口をつぐんだ。
 驚いたかどうかもわからないほどわずかに目を見開いてふりかえった貴己は、それから小さく笑んだ。
 「そんな呼ばれかたをするのは随分久しぶりだな」
 微苦笑とも違う複雑な笑みに、令一はどっと鼓動を速めた。
 いや、敬語ではない親しげな物言いのせいでもあるだろうか。
 「茶碗のことで来たのか」
 「あ、あぁ……」
 令一はぎこちなくうなずいた。
 常と違う貴己に戸惑っていたし、自分の彼に対する意識も以前と変わってしまっていた。
 それでも、どう説明するべきかと口を開きかけた令一に先んじて貴己が言った。
 「それはもう内々で始末がついたことで令一が気にする問題じゃない。……いや、これ以上騒ぎが大きくなると俺の都合が悪くなるといったほうがいいかもしれない。勝手な話だが、もうこのままにしておいてくれないか」
 以前とは違う切実な響きを感じて、令一は言うべき言葉を持たなかった。
 貴己が抱えるなんらかの問題に令一か、あるいは三羽晃介は都合の悪い存在らしい。
 じ、と合わされた黒い瞳のなかにはかすかな焦燥らしきものもあって、それで令一は、わかった、とうなずいたのだった。
 貴己の表情がかげるのを見るくらいなら、わずかな後ろめたさを抱えるほどのことはなんでもなかった。
 「もうこのことは口にしない」
 「ありがとう」
 貴己は真摯に礼を告げた。
 その声に幾分かの安堵が含まれたように思ったのは、令一の気のせいかもしれない。
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 「尚輝はなにを言ったんだ」
 「なにも……」
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 尚輝は明らかに貴己が三羽家に身を置いていたことを示唆していたし、過日の三羽晃介の言葉からも複雑な事情は窺えたが、貴己自身は頑として認めなかった。
 しかし今、彼がみせる柔らかい表情と口調はその過去を彷彿とさせるに充分で令一はおちつかず、また昔と同じように吸いこまれそうな真黒い目に惹かれずにはいられなかった。
 「俺には近づくな、か」
 令一の返答に追求はせず、ぽつりと貴己はつぶやいた。
 はっとして令一が見ると、彼は自分の右手をながめていた。
 それは尚輝が令一に言った言葉だ。
 「―――知りたがっていたな、令一。なぜ凌の葬式にもでなかったのかと」
 不意に核心をつかれて、令一はとっさに反応できなかった。
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 その横顔には以前と同じ、捕らえようのない静謐さがあったが、続けて言った声に冷たさはなく誠実だった。
 「俺には十八年上の姉がいると言ったことがあるのを憶えているか」
 「ああ……いつかのパーティで」
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 つまり貴己は三羽晃介と通崎老、皓太郎の娘の子供ということだ。
 令一は思いがけない話に相槌もうてなかった。
 通崎老人はともかく、三羽の血を受け継いでいるというのもにわかには信じがたい。
 あの一族の人間と貴己とは完全に気質が異なっている。
 そこでふと疑問がわいた。
 「貴己さんには上の兄弟がいた、よな。春輝だったか、一つ年上の。おじさん結婚してたんじゃ」
 「なにかの折りに見かけた母に懸想したらしい。母を孕ませて捨てたが、彼女が出産後すぐに自殺したと知ると子供をひきとらざるを得なくなった。彼女はなにも言わず家をでて独りで子供を産んだから、親も子供の父が誰なのか知らなかったし、大騒ぎになると思ったんだろう。
 医者というのは色々つて・・があるらしい、養護施設を介して子供をひきとり、ひきとり人の身元がわからないようにしてこの件をうやむやにしてしまった」
 子供、と貴己は自分のことを言った。
 その表現があまりに客観的でありすぎて寒々しく、令一は一向に気温のさがらない熱帯夜の下でひとり身震いした。
 「なんでそんなことを知ってるんだよ。貴己さんが生まれる前の話だろう」
 「知りたくなくても、向こうから昔のことを蒸しかえしては子供に罵るからしようがない」
 弱々しい問いに、貴己はかすかに肩をすくめ、また朗読でもするような静かさで続けた。
 「三羽晃介はあの通り自尊心が高く、病的に世間の目を気にするところがある。子供を小学校から地方の寮制校へ入れたのも他人の目に触れさせないためだった。私生児の男の子を迎えたらしいという近所の口さがない噂を耳にしたあの男は、子供が帰省するたびに女の服を着せて周囲の目をごまかそうとしたし、その恰好でいてさえ外出もろくにさせないような徹底ぶりだった。
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 「貴己さんは……おじさんを憎んでいるのか」
 令一はためらいながら問うた。
 貴己の整いきった無表情からはなんの感情も読みとれない。
 その目が、緩慢に令一を見た。
 「憎む、というより、ただただ消してしまいたい。ああ、そういう意味では殺意を持っているといえるかもしれないな。あの男は狂ってる。通崎皓太郎も……」
 怒りも蔑みもなくさらりと言ったので、令一は一瞬その激しさを捉えそこねた。
 すぐにぎょっとして貴己を見ると、彼はそこでようやく目を細めわずかに首を傾けて、表情らしい表情を浮かべた。
 うっすらと笑んでいたのだった。
 黒髪が流れ落ちて目にかかるのも構わず、彼は令一を見ていた。
 「おまえのそういうところにすごく安心する。令一がそばにいてくれていたら、俺は多分もっとまし・・だったかもしれないな」
 殺意などという言葉に驚くのはごく当然だろう。
 その反応に安心すると笑う貴己の意図は、令一には到底つかめなかった。
 しかし貴己が自らを卑下したことはわかったので、令一は眉をひそめた。
 いわゆる良家の出で端正な造作をしていて、性格も穏やかといっていいだろう、さらには将来を嘱望され安定した人生を歩んでいるかにみえる青年の暗い思いは、遠い過去に端を発し、いまだ囚われたままでいる。
 そうでありながら、押しつけられた境遇に恭順ともいえる態度を保ち続けている理由も令一には思いおよばず、言葉がでなかった。
 貴己はひっそりと困ったような笑みをはいた。
 「俺が話せることは全て話した。……おまえは通崎にも三羽にも近づかないほうがいい」
 「通崎家へ最初に俺をよこしたのは、父さんだ」
 「ああ、あの人は」
 貴己は不意に口をつぐんだ。
 表情は変わらなかったがそれは明らかに不自然で、令一は、なんだ、と問うた。
 「父さんもなにか関わりがあるのか」
 そうじゃない、と貴己は首を振り、やがて重い口を開いた。
 「……通崎と御角とは古くからのつき合いがあって、おまえの父親―――久也さんが初めに三羽晃介に母を紹介した。そのことを彼はずっと気にしていて、三羽晃介の手前目立ったことはしなかったが、時折俺の様子はうかがっていたらしい。久也さんが令一を通崎へやったというなら、それも彼なりの配慮だったのかもしれない」
 「けど、俺が貴己さんのことを聞いたとき、父さんは知らないと言った」
 「それは……彼が三羽晃介の親友でもあるからだと思う。余計な事情が漏れるのを警戒したんだろう。実際、以前彼に言われたことがある。三羽晃介の不利にならないかぎり、俺のためにできることがあればするつもりだと」
 父はやはりすべて知っていたのかと、令一は苦々しく思った。
 立食パーティへ行かせたのも、貴己と顔を合わせると承知のうえだったかもしれない。
 そしらぬふりの裏で複雑な罪悪感を抱えていたのかと思うとなんともいえない気持ちだが、真実を教えてくれていれば、再会した貴己に理不尽な暴言を吐くこともなかったという憤慨はあった。
 「父さんのやってることは、俺でも自己満足じゃないかと思う。なのになんで貴己さんはそんなに冷静なんだよ。なんでこの状況を受けいれていられるんだ」
 貴己の話を聞いても彼に対して嫌悪や侮蔑はわかなかった。
 しかし三羽晃介や通崎皓太郎への憤りは令一にとってさえ相当なもので、殺意を持っているとまで言った貴己の平穏さがもどかしいのだった。
 「俺は自分の環境を受けいれているわけじゃない。……ただ、母のことを考えると踏みとどまるというだけだ。彼女は自ら命を絶ったが、わずかも三羽晃介を愛していなかったのかはわからない。通崎も彼女にとっては大切な家だったかもしれない。
 そうでも思わなければ、俺は今ごろ三羽も通崎も滅茶苦茶にしていた……」
 ぎくりとして令一が顔をあげると、貴己はじっと彼を見ていた。
 「それとも令一は、俺があいつらを刺し殺しでもするべきだったと?」
 「違う、そうじゃない」
 必死に首を振ったのは、貴己が失意とも悲しみともつかない感情を滲ませたからだった。
 そんなつもりで言ったのではなかった。
 ただ貴己が自己中心的なな人間たちの食いものになっているのが、たまらなく嫌だ。
 すべての犠牲になりながら自らを律しようとする姿を見るのは、令一にとっていかにもつらかった。
 うまく言葉にできない令一を、貴己は責めなかった。
 令一が心配してくれているのだということはよくわかっている。
 自分とは違う、ごく健全な精神を持つ彼の示す反応はいつもまっすぐで安心できる。
 ときに率直でありすぎてその言葉が重くもあったが、向けられる感情にねじれのないことが貴己にはありがたかった。
 だからこそ、そんな大切な人間を自分のそばに寄せることを密かに恐れたのに、今はもう手離せないように思われて、貴己は苦く口の端を歪めた。
 「令一」
 呼びかけて身体を少し近づけると、塀を背にして立つ青年は一瞬目を泳がせた。
 彼が自分へ好意を持っているのを確信する。
 いや、好意を持っているのは年上の少女・・・・・にだろうか。
 それならそれで構わないと貴己は思った。
 あれがきっかけだったというなら、多感な時期に強要された屈辱的な恰好に内心ひどい羞恥と嫌悪を抱えていたことも消化できると思えた。
 「おまえが他人のことにそれほど感情的になれるのは、それが俺のことだからだと……自惚れていいのか」
 令一ははっとしてしばらくためらい、それでもかすかにうなずいた。
 「俺の周囲は面倒が多い。……それに、以前三羽晃介と話していたのを聞いていたんだろう、俺は誰とでも関係を持つと。それでも?」
 試すように言うと、令一は今度はきつい視線で貴己を見返した。
 「貴己さんは昔から……凌しか見ていなかった。多分今もそうかもしれない。貴己さんの家の事情もなにをしてようと関係ない。俺にとって重要なのは、もし俺を凌の代わりだと思ってるんなら……」
 言葉が続けられなくなって小さく舌打ちした令一を、貴己は、ごめん、と言って抱きよせる。
 まだ三十度は超えている蒸し暑さのなかで、しかし令一は抵抗しなかった。
 「令一と凌は全然違う。そんなこと昔から知ってる。……凌には確かに特別な感情を持っていた。でもそれは自分に似た澱みや鬱屈を互いに感じていたからだ。一種の居心地の良さはあっても、凌とはどうにもなりようがない関係だった。おまえはそうじゃない―――俺のそばにいてほしい。できるなら……」
 「……貴己さんのほうが」
 令一はくぐもった声を漏らした。
 「京都へ行って戻らないんじゃないか」
 「うん……」
 「結婚も決まってるって」
 「うん」
 貴己は否定せず、しかし令一の身体を離さなかった。
 それでも、と囁いた彼の声がひどく切実で、令一はふと目の端に熱さがのぼってきて、ただ無言で深くうなずいた。
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