追憶

土岐鉄

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 ふちのえぐれた黒茶碗を見たとき、通崎老、皓太郎こうたろうは一瞬呆けた顔をして目の前の貴己へ視線をやった。
 青年が正座し手をついて頭をさげるのを見てかっとなり、立ちあがりざまに肩を蹴飛ばした。
 「この大莫迦者が!」
 怒鳴りながら何度も蹴った。
 「なんということをしてくれた。とりかえしがつかんのだぞ」
 「申し訳ありません」
 容赦ないとはいえ老人のふるまいに身体ごと転がされるようなことにはならず、貴己はこらえたまま叩頭の姿勢を保った。
 「なんということだ、あぁ……」
 やがて力なくがくりと膝をついて、皓太郎は茶碗を見つめたまま動かなくなる。
 しばらくして貴己が顔をあげてもその姿は変わらず、ただ、でていけ、とぼそりとつぶやきが漏れた。
 もう一度頭をさげて青年が退出する様子は常と同じだったが、明かりもつけず歩く廊下の床板がかすかに軋んだ音をたてたとき、思いだしたように足を止めた。
 ふりかえって老人の部屋を見た彼の顔にはうっすらと笑みにもみえる歪みがある。
 実際その表情に見合った心境だった。
 罵倒され暴行を受けるなど、どうということもない。
 皓太郎が最も大切にしてきたものであればこの程度、ぬるい仕打ちといっていいかもしれない。
 それよりもこんな状況であってさえ、彼が貴己の、通崎家継嗣としての立場にはわずかも言及しなかったことが嘲笑を生んだのだった。
 もし彼がその場の勢いででも、跡取りとして未熟だとか跡目には立ててやらんなどと言い放てば、貴己はむしろその評価を喜んだかもしれない。
 しかし老人は理性を失っていても、冗談でさえそんなことは口にしない。
 通崎当主の五代目への熱望はそれほど強いものだった。
 もとより貴己に対して期待と憎しみを同じだけ抱えてきただろう老人が、今まさに二つの感情を激しく拮抗させていることを思い、貴己は呆れと共にわずかな憐憫を感じていた。
 どうにかして家を存続させようと不義の息子に執着する老人が哀れで、また一方ではそういう心理が理解できず気持ち悪くもある。
 ある日、突然貴己の婚約者をとり決めたのも皓太郎だった。
 貴己が夜ほとんど家におらず、誰彼構わず刹那的な関係を持つような生活をしているのに気づいた彼が、呉服屋の娘だという二歳年下の相手を連れてきた。
 貴己自身に諌言することはまずないが、代わりに用意周到に外堀を埋めて進路を強制的に修正していくのが彼のやりかたで、そういった息子への異常な関与も根はすべて同じなのだった。
 気持ちが悪い。
 貴己はまだ遠くでかすかに蝉の声が聞こえる薄暗い庭へ目をやった。
 通崎皓太郎も三羽晃介も異常だと思った。
 そして自分はそんな人間の手にひたされてきたのだとくりかえし気づかされていっそう冷えた心地になる。
 放置されながら、絡みつくような執拗さですべてを監視される耐えがたさはひどく煩わしかった。
 貴己は外をながめたまま立ち止まっていた足を踏みだすと、自室で乱暴に和装を解いてラフなシャツとジーパンに着替え、逃れるように家をでていった。
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