追憶

土岐鉄

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 黒くざらりと光る茶碗をさしだした通崎老人は、彼にしては柔らかい表情で言った。
 「どうですか、この楽茶碗は。楽家三代の作でして、色も形も傑作といっていい出来です」
 「なるほど、素晴らしいですな」
 御角久也はうなずいて茶碗を手に取った。
 正座する自分の前へ置いて一礼すると、まだ湯気をたてている茶を三口で飲みほす。
 父の隣でそれを見ていた令一は機械的に干菓子を口へ運びはしたものの緊張は去らず、ましてや目の前で茶を点てる貴己を観察する余裕などなかった。
 父に通崎家へ連れてこられたのは家具を譲ってもらった礼の挨拶のためだったが、丁度稽古日だとかで、弟子のひけた茶室に招じ入れられてしまった。
 老人が、息子に茶を点てさせましょう、と言って貴己を呼んだとき、令一は以前の別れが気まずいものだっただけに顔を合わせにくかったが、現れた青年はやはりというべきか垣間見える感情の片鱗もなく、型通りの挨拶をして淡々と点前を始めた。
 令一は気が抜けたと同時に一片の茶道の心得もないことに焦心が移ってしまい、父の仕草を横に見よう見まねのありさまだった。
 そもそも伝統芸能は苦手なのだ。
 ざらついてでこぼこした黒い茶碗が老人の珠玉らしいのは見たこともない崩れた相好から容易に想像できるが、令一は作った人物の名も知らなければどれほど価値あるものかもよくわからない。
 計算されつくした曲線と直線が形作る現代アーティストのデザインした椅子のほうが余程美しいと思ったものの、もちろん口にはださなかった。
 令一にも茶が供され、父の仕草を思いだしながら茶碗をまわしていると、老人と父の話題はいつの間にか貴己のことに移っていた。
 「最近は茶会も息子さんに任せることがあるそうですな」
 「ええ、わたしもこの歳ですし、早く跡目としての自覚を持ってもらいたいのですよ」
 「では婚約者の……ああ、南場さんとの式も間近というところですか」
 父の言葉に、令一は自分でも驚くほど過敏に反応して思わず貴己を見てしまった。
 一瞬目が合ったと思ったが、貴己の視線は流れるように逸れていったので本当に目が合ったかどうかはわからない。
 今、なにがこれほどの衝撃を与えたのかもわからず、令一はただ鼓動が速まっていくのを感じた。
 「いえ、結婚はまだ。実は再来月から家元での内弟子の話が決まっておりましてな。その後ということになっています」
 「では二、三年はずっと京都に?」
 「はい。その間この家を守るのが、わたしの最後の大仕事となりますでしょうな」
 家元で内弟子になるのは、茶道に関わるなりわいの家の継嗣が通る道で、宗家で数年間修行して伝統や教養を身につけるのが通例なのだった。
 通崎家は四代続く茶の家で、貴己も例外ではない。
 しかし本人は自分が話題の中心になっているとも思っていないような無関心ぶりで、口を挟むこともなくただ淡々と作業をこなしている。
 通崎老人と父も貴己に声をかけるというわけでもなく、奇妙に噛みあわない居心地の悪さを令一は感じていた。
 それに、貴己が京都へ行くというのは本当だろうか。
 衝撃的なことを次々に聞いて、驚きと焦りばかりが広がった。
 もう一度改めて貴己と話をしたいと思っていたのが、不意に全部意味のないことのように色を失っていく。
 会って話したところでなにが変わるというのだろう。
 過去の誤解がとけるとでもいうのか、彼と新しい関係を築きたいとでも?
 令一にはどうする自信も強く持つことはできなかった。
 凪いだ湖面のように静かで冷たい貴己の様子はそれだけで令一の意気をしぼませるに充分で、彼の真黒い瞳はなおさらに昔の色々な感情を蘇らせて令一を複雑な心境にさせた。
 なにかおちつかない心持ちでもあり、この場にいるのが苦痛なのだった。
 「もう一服いかがですか」
 通崎老人の勧めを御角久也は丁重に断った。
 「いえ、もう充分頂戴しました。倅が不作法をしないうちに失礼させていただきます」
 「若い方に正座はつらいでしょうからな。では洋間でコーヒーでもいかがです。丁度良い豆をいただいたところで」
 「いいですね、お言葉に甘えさせていただきます」
 自分の意思がなにひとつとして介入する余地のない場の空気に令一はげんなりした。
 苦行じみた正座から解放されるのはありがたいが、この顔ぶれで向かいあって茶を飲むのも気が重い。
 しかしここで父の言葉に逆らうことはできず、沈黙を保った。
 ―――通崎の家は奥深くいくつかの和室があるらしい、そのさらに奥に比較的新しい板間がある。
 いかにも高級そうな毛足の長い絨毯が敷いてあり重厚な雰囲気だが、置かれたソファのセットはクリーム色のスタイリッシュな革張りのもので、令一は目を引かれた。
 「うちからご購入くださったのはもう五年前になりますか、丁寧にお使いのようですね。ほとんど傷みがない」
 御角久也が満足げに言ったので令一は納得した。
 見たことのあるラインだと思ったが、自社で扱っているものだった。
 「お蔭様で重宝しています。……貴己」
 通崎老人は息子を呼んで、手に持っていた黒茶碗を手渡した。
 「清めて蔵へ持っていきなさい。すぐにだ」
 「はい」
 貴己は両手でそれを受けとり奥へ退いた。
 室へ案内され、コーヒーが運ばれてくるころになっても彼は戻らず、令一はいよいよ苦痛になってきて、手洗いを借りると断って席を立った。
 増築したらしい複雑な造りの廊下を多少迷いながらトイレにたどりつき用を済ませると、すぐに戻る気には到底なれず、意味もなく外をながめながらのんびりと歩く。
 庭はさほど広くないと思っていたが、木の配置や柵でそう見えるだけで、屋内と同じで奥は深いのかもしれない。
 そういえば通崎老人が、蔵がどうとか言っていた。
 これほどの家ならば道具をしまう土蔵があってもおかしくない、それも庭のどこかにひっそりと建っているのだろうか。
 そう思って少しガラス戸に身を乗りだすようにすると裏戸があり、貴己の後ろ姿がちらりと見えた。
 令一が驚愕したのは、もう一人、年輩の男が戸口のすぐ外にいたからだ。
 「あれは」
 つぶやいてとっさに右手の先の勝手口を開けると、下足が揃えてあるのを蹴飛ばすように履いて外へとびだした。
 漆喰の塀を曲がったところで、じゃり、と土を擦ってしまい、貴己がはっとこちらを見る。
 目が合って思わず足を止めると、彼はためらいなく近づいてきて言った。
 「御角さん、これを母屋へ持っていってもらえませんか。玄関に置いておくだけで構わないので」
 「え……」
 令一がうろたえると貴己は有無を言わさず黒い茶碗を押しつける。
 「父が一番大切にしているものなので。お願いします」
 「あの」
 「行って」
 貴己はこれまでになく強く早い口調で言って令一を押しやった。
 それから返事も聞かず背を向けると塀の奥へ消えてしまい、令一はわけがわからず茶碗を握りしめる。
 そのまま一歩踏みだそうとしたとき、荒い男の声がして息を詰めた。
 「貴己、おまえは……!」
 「こんなところまで来るなど、あんたらしくもない」
 聞いたことのない貴己のぞんざいな口調に令一は驚いた。
 いや、それでも静謐として品があるのがむしろ不思議に思える。
 対する男の激情はより煽られるようだった。
 「おまえやあの爺さんのところに誰が好きこのんで来るか。おまえ、最近尚輝と会っているんだろう。全て調べはついているんだ。三羽には関知しない、しゃべらないととり決めたのを忘れたとは言わせんぞ」
 「俺はなにも口にしていないし関わろうともしていない。尚輝が近づいてきたのはそちらの勝手だ」
 「おまえがたぶらかしでもしたんだろう。全部知っているんだ、男でも女でも相手にするような節操なしが!昔からそうだった、御角の息子も……」
 「黙れ、下種」
 心底冷えた声が場を凍らせた。
 「執拗に俺のことを調べてどうしたいのか知らないが、悪評をたてて立場が悪くなるのはあんたのほうだろう。事が明るみにでて困るのはあんただけだ」
 「貴様」
 男が、ぎり、と歯を噛み締めたのがわかった。
 令一は聞くべきではなかった貴己のプライベートな部分に少なからず衝撃を受けたが、男の口から御角の名がでたことで急にふんぎりがつき、その勢いのままに足を踏みだした。
 「あの」
 予想外だっただろう第三者の出現に二人は弾かれたように令一を見た。
 「三羽のおじさんですね、俺」
 「凌!?……いや、まさか、令一か」
 緊張しながら口を開いた令一を遮って、男が驚きと蔑みと他のなにかを含んだ複雑な顔でつぶやいた。
 それから徐々に怒りがとって代わり、射るような鋭さを向ける。
 「久也……御角も一枚噛んでいるのか。こそこそと俺の目を盗んでなにを企んでいる!」
 「御角さんは仕事で来ているだけだ」
 貴己の制止をふりきって男は荒々しく令一に近づき、どんと肩を強く押した。
 とっさのことで構える間もなく、令一はよろめいて後ろの塀に思いきりぶつかった。
 その拍子に持っていた茶碗が手から離れ地に落ちるのを、やたら緩慢に感じる。
 あ、と思った時には、飛び石の端にあたって乾いた音をたてていた。
 その瞬間、令一の身体から一斉に血の気が引き、少し遅れて男も下を見つめたまま息をのむのがわかった。
 ごろりと転がる茶碗はふちが十センチほどぱっくりと欠けている。
 固まった二人をよそに、貴己は小石でも拾うように茶碗と飛んだかけらを取って立ちあがった。
 「い、いくらするのか知らんが俺は関係ない。俺はちょっと押しただけだ。そいつが勝手に落としたんだからな!」
 男はたたみかけるように言ったが、引きつった表情と口調が茶碗の価値を熟知していることを雄弁に物語っていた。
 しかし、なにもわかっていない令一の方がむしろ驚愕は大きかった。
 貴己に託されたものを落としてしまった。
 値段云々よりも、芸術品が壊されることの意味を知っている。
 この世に二つとないものが二度と元に戻らないことを知っているから、令一は足元が崩れるような思いのまま、機械的に貴己を見た。
 黒いかけらを手にした青年はほんのわずかに目を細めた。
 それ以外にはなんの感情の変化もなく、そのまま男に向かって言った。
 「でていけ、父とこれ以上騒ぎをおこしたくなければ」
 「お、俺じゃないからな、それは」
 後ずさりしながらくりかえし、男はひどく慌てて戸口をでていった。
 客観的に見れば滑稽な姿だと笑えたかもしれないが、令一は男の言葉などわずかも耳に入っていなかった。
 「……さん、御角さん」
 肩を軽く揺さぶられて顔をあげると、貴己の墨色の目がじっと見ている。
 「すいま、せん。俺が」
 「御角さんの責任ではないです。誰が見てもあの男に非があるのは明らかだ」
 「けど俺が、あんたは母屋へ持っていってくれって頼んだのに」
 「それは俺が押しつけただけです。御角さんに責任はありません」
 「でもその茶碗はもう元には戻らない」
 「金継ぎをすれば問題ありませんから。……このことは忘れてください。いいですね」
 染みこむような声で貴己は言った。
 なおも反論しようとした令一の口を左手でふさいで、言葉を重ねる。
 「茶碗は俺が持っていて、あの男がぶつかってきたから茶碗が落ちたんです。御角さんは偶然居合わせただけだ。それが一番面倒がないんです。どうしても罪の意識が消えないというなら、俺の顔をたててそういうことにしておいてください」
 一対の目が間近から見下ろして令一を捕らえる。
 催眠術にでもかけるような静かな声が耳を侵して、令一は操られるようにかすかに首を縦に傾けた。
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