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03 - 大きな歩調でゆったりと
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大きな歩調でゆったりと歩く青年の長い髪が、初夏の風にふわりと舞った。
ゆるくひとつに結っただけのエメラルドのそれはいまにも留め紐がほどけて広がっていきそうにみえる。
旅をするのに余裕のある者は馬を使うが、アイディーンはちょうど気候のいいときだからといって、徒歩で行くことを提案した。
カシュカイに否やがあるはずもなく、二人は路樹が均一に植えられ、石で舗装された道をのんびりと進んでいた。
ゴルシュを発ったときのあわただしさはすでにない。
出発時にはたしかに急いでいたが、転移の術陣を備えた役所から、運悪く状態が不安定で現在封鎖されていると告げられ、他に同様の施設が近場にないとわかった時点で地道に行くことにしたのだった。
「ギャレリヤ夫人のところで雇われ法術士ってのも、案外悪くなかったかもしれないな」
アイディーンのつぶやきに、スィナンの青年はわずかに首を傾けた。
主の言葉の意味をつかみかねたのだ。
マラティヤには、果たさなければならない責務がある。
それを終えたとしても、自身はともかくアイディーンは英雄としてシヴァスに凱旋し、名家シャルキスラの一員として栄華を約束された道がある。
また、そんな華々しい未来こそが彼にはふさわしかった。
あの小さな街で用心棒としてはした金で雇われることの、どこに魅力を感じたというのだろうか。
カシュカイの無表情の下に隠された疑問を読んだように、青年は小さく笑った。
「魔獣退治をしたり、たまには酔っ払いの喧嘩の仲裁なんかもあるかもな。暇になったら昼寝や釣りをして過ごせばいい。おまえと二人でそういうことをするのもいいかと思ったんだ」
彼は笑っていたが、口調は真摯で冗談を言っている口ぶりではなかった。
だからこそ、カシュカイのとまどいは大きい。
もしかすると彼は自分の身を案じてくれているのだろうか。
信じられないことに、アイディーンはことあるごとに自分を気遣う言動をみせる。
カシュカイがそれを感じとれたのは奇跡的といっていい。
これまで彼にとって人間とは、自分を恐れる者と憎悪する者、そして自分を支配する者以外になかったからだ。
他者から与え続けられる不快な感情と肉体的苦痛は、くりかえしうけいれるうちに慣れてしまった。
麻痺したといってもいいかもしれない。
また、そうでなければ生きるという苦痛に耐えられなかった。
だから、アイディーンの示す感情は初めて触れるものばかりで、どうにも彼の心情を推し量ることができず、カシュカイは苦しみを多く抱えていた。
しかし終の契約を交わしてから四か月のあいだ、完全にとはとうていいえないまでも、主が自分の存在をも抱えて悠然とかまえていられる懐の深い人なのだと、おぼろげながらも理解しはじめていた。
いや、この身ひとつなど数にも入らないと思っているのかもしれない。
ほんのついでにカシュカイを目にかけるのがどれほどのことかと、主がわずかな配慮を———いや、些細な興味をもってくれるなら、ただそれだけで従う者としてどれだけ充足感を得られるだろうか。
アイディーンは本当に過ぎた契約主だとカシュカイは思った。
むしろ自分が彼にとってどれだけの役にたっているかと考えると、暗澹たる気持ちはぬぐえず焦燥ばかりが重くのしかかる。
カシュカイは自らの存在に毛ほどの価値も見出せなかった。
人間たちに使役されマラティヤとしての義務を果たすことは、生きる理由になるはずもない。
「カシウ」
不意にアイディーンが名を呼んで、カシュカイのかぶっているヴェールをとり去った。
スィナンの青年は驚いて陽光のまぶしさに目を細める。
「周りに誰もいないからいいだろう」
主が笑んで言ったので、彼はつられてかすかな微笑みを向けた。
日の光をうけて、白金のように輝いた髪の毛先が風に踊っている。
その様子をアイディーンはただながめた。
純粋に美しいと思う、それ以上にスィナンの青年のささやかな笑顔が綺麗で、———そして悲しい。
ときおり彼はこんな表情をみせるようになった。
それは無意識に主の真似をしているのだった。
幼い子供が親を見てするように。
それなら人々が恐怖するスィナンの青年の冷徹な姿は、彼ら自身が作りだしたものだ。
自分のものではない恐怖や憎悪がカシュカイを蝕んでいる。
彼がいまだ無垢でありすぎるのをアイディーンは痛感していた。
さらにいえば、あのとき彼と関係をもったことをひどく後悔しているのだった。
きっかけはどう考えても衝動的なものでしかなく、またそれが原因でスィナンの青年の陰をのぞき見てしまった。
いや、暴いてしまったというべきかもしれない。
理性が戻ったとき、自分にできたのは彼に慈悲をかけることだけだった。
あのまま触れるのをやめていれば、カシュカイこそが正気を失っていたのではないかというとり乱しかたがあまりに痛々しく、つき放せなかった。
しかしそれでも、あのとき応えるべきではなかったのだ。
本当に彼を気遣うなら、あんなやりかたではなく対話によって彼に理解させなければならなかったのに。
カシュカイが、わずかにこわばった表情でうつむいた。
アイディーンはそれに気づいて軽く頬を撫でる。
スィナンの青年が敏感に主の心情を察するのを、彼は憐憫をもって見つめた。
カシュカイの白皙からはもう、かすかな笑みもこぼれることはなかった。
ゆるくひとつに結っただけのエメラルドのそれはいまにも留め紐がほどけて広がっていきそうにみえる。
旅をするのに余裕のある者は馬を使うが、アイディーンはちょうど気候のいいときだからといって、徒歩で行くことを提案した。
カシュカイに否やがあるはずもなく、二人は路樹が均一に植えられ、石で舗装された道をのんびりと進んでいた。
ゴルシュを発ったときのあわただしさはすでにない。
出発時にはたしかに急いでいたが、転移の術陣を備えた役所から、運悪く状態が不安定で現在封鎖されていると告げられ、他に同様の施設が近場にないとわかった時点で地道に行くことにしたのだった。
「ギャレリヤ夫人のところで雇われ法術士ってのも、案外悪くなかったかもしれないな」
アイディーンのつぶやきに、スィナンの青年はわずかに首を傾けた。
主の言葉の意味をつかみかねたのだ。
マラティヤには、果たさなければならない責務がある。
それを終えたとしても、自身はともかくアイディーンは英雄としてシヴァスに凱旋し、名家シャルキスラの一員として栄華を約束された道がある。
また、そんな華々しい未来こそが彼にはふさわしかった。
あの小さな街で用心棒としてはした金で雇われることの、どこに魅力を感じたというのだろうか。
カシュカイの無表情の下に隠された疑問を読んだように、青年は小さく笑った。
「魔獣退治をしたり、たまには酔っ払いの喧嘩の仲裁なんかもあるかもな。暇になったら昼寝や釣りをして過ごせばいい。おまえと二人でそういうことをするのもいいかと思ったんだ」
彼は笑っていたが、口調は真摯で冗談を言っている口ぶりではなかった。
だからこそ、カシュカイのとまどいは大きい。
もしかすると彼は自分の身を案じてくれているのだろうか。
信じられないことに、アイディーンはことあるごとに自分を気遣う言動をみせる。
カシュカイがそれを感じとれたのは奇跡的といっていい。
これまで彼にとって人間とは、自分を恐れる者と憎悪する者、そして自分を支配する者以外になかったからだ。
他者から与え続けられる不快な感情と肉体的苦痛は、くりかえしうけいれるうちに慣れてしまった。
麻痺したといってもいいかもしれない。
また、そうでなければ生きるという苦痛に耐えられなかった。
だから、アイディーンの示す感情は初めて触れるものばかりで、どうにも彼の心情を推し量ることができず、カシュカイは苦しみを多く抱えていた。
しかし終の契約を交わしてから四か月のあいだ、完全にとはとうていいえないまでも、主が自分の存在をも抱えて悠然とかまえていられる懐の深い人なのだと、おぼろげながらも理解しはじめていた。
いや、この身ひとつなど数にも入らないと思っているのかもしれない。
ほんのついでにカシュカイを目にかけるのがどれほどのことかと、主がわずかな配慮を———いや、些細な興味をもってくれるなら、ただそれだけで従う者としてどれだけ充足感を得られるだろうか。
アイディーンは本当に過ぎた契約主だとカシュカイは思った。
むしろ自分が彼にとってどれだけの役にたっているかと考えると、暗澹たる気持ちはぬぐえず焦燥ばかりが重くのしかかる。
カシュカイは自らの存在に毛ほどの価値も見出せなかった。
人間たちに使役されマラティヤとしての義務を果たすことは、生きる理由になるはずもない。
「カシウ」
不意にアイディーンが名を呼んで、カシュカイのかぶっているヴェールをとり去った。
スィナンの青年は驚いて陽光のまぶしさに目を細める。
「周りに誰もいないからいいだろう」
主が笑んで言ったので、彼はつられてかすかな微笑みを向けた。
日の光をうけて、白金のように輝いた髪の毛先が風に踊っている。
その様子をアイディーンはただながめた。
純粋に美しいと思う、それ以上にスィナンの青年のささやかな笑顔が綺麗で、———そして悲しい。
ときおり彼はこんな表情をみせるようになった。
それは無意識に主の真似をしているのだった。
幼い子供が親を見てするように。
それなら人々が恐怖するスィナンの青年の冷徹な姿は、彼ら自身が作りだしたものだ。
自分のものではない恐怖や憎悪がカシュカイを蝕んでいる。
彼がいまだ無垢でありすぎるのをアイディーンは痛感していた。
さらにいえば、あのとき彼と関係をもったことをひどく後悔しているのだった。
きっかけはどう考えても衝動的なものでしかなく、またそれが原因でスィナンの青年の陰をのぞき見てしまった。
いや、暴いてしまったというべきかもしれない。
理性が戻ったとき、自分にできたのは彼に慈悲をかけることだけだった。
あのまま触れるのをやめていれば、カシュカイこそが正気を失っていたのではないかというとり乱しかたがあまりに痛々しく、つき放せなかった。
しかしそれでも、あのとき応えるべきではなかったのだ。
本当に彼を気遣うなら、あんなやりかたではなく対話によって彼に理解させなければならなかったのに。
カシュカイが、わずかにこわばった表情でうつむいた。
アイディーンはそれに気づいて軽く頬を撫でる。
スィナンの青年が敏感に主の心情を察するのを、彼は憐憫をもって見つめた。
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