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03 - 今暗黒期に生を受けた大地の
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今暗黒期に生をうけた大地のマラティヤ、アイディーン・シャルキスラは午後の陽気のなか、急ぎ馬を駆った。
手早く封印をすませなければ、樹海から魔属がでてきてしまうからだ。
魔に属する種族は太陽を嫌う傾向があり、日中は森などの奥深くにいるが、この場合魔属とは魔獣のことをいう。
一般的にはすべてを魔属と呼ぶものの、正確にいえば魔属とは瘴気を有する二種の総称で、アイディーンや法術士など知識層の者は人の形をとるものを魔族、獣のような人外の姿であれば魔獣と呼びわけている。
虫や植物といったより原始的な生態になると、もとより種族の区別もない。
魔族と魔獣には知能も能力も大きな差があり、太陽を露骨に嫌がるのも魔獣だけで、魔族にはほとんど影響がなかった。
しかし人型である魔族はあまり人前に姿を現さないため、魔獣だけが魔属と思われることはよくある。
くだんの島長が言った魔属というのも魔獣で、アダナ樹海で数を増やしているという話だった。
「毎度ながら、ひとりで魔種狩りは無理があるよな……。はやく相棒を紹介してもらわないと身がもたなくなりそうだ」
馬の歩を進めながら独りごちるアイディーンは先ごろ二十歳になったばかり、精悍な美貌と意志の強そうな表情が、社交界の伊達人という周囲の評判を大いに納得させる、大地の神カースの紋章を額にもつ青年である。
彼は成人をむかえた十七歳から魔種狩りを続けて国々を旅しているが、先日もうひとりのマラティヤに会わせるとの知らせで、シヴァスへ呼びもどされた。
そんなおりに今回の騒動を聞き、まだ相手もシヴァスに到着していなかった事情もあって、彼が征伐を請け負ったのだった。
それにしてもいまさら急に大気のマラティヤに会わせようなどと、シヴァスの法術士たちはなにを考えているのかと、アイディーンはいぶからずにいられなかった。
過去、国にひきとられたマラティヤの子供たちは、シヴァスとビジャールどちらの国で過ごすにせよ別個という例はなくともに生活するのが慣例だが、彼はこれまで一度ももうひとりのマラティヤに会ったことがない。
聞いたところではビジャールで生活しており、十五の歳にはすでに単独で魔種狩りをしていたというが、関係者の口は重く、離れて暮らす理由や本人の人となりなどなにひとつ語られなかった。
ただ、面会する機会が過去二度あったのは憶えている。
ほんの幼少のときに一度、そして一年前に一度。
いずれももうやむやのうちにとり消されてしまったので、アイディーンは今回もさほど期待していない。
その暇つぶしも手伝ってシールの魔種狩りをひきうけたのだが、魔獣は群れで行動するため、強い法力をもつマラティヤといえどひとりではやりにくい相手には違いなかった。
通常マラティヤが狩るのは、単独で行動する大型の魔獣や人型の魔族など、一介の法術士では相手にならない強大な力をもつものたちなのである。
「どぅっ」
アイディーンは手綱を引いて馬をとめた。
目前にはいかにも下級魔獣が好みそうなうっそうとした森がひろがっている。
馬をおりると、魔獣を森に足止めしておくために木々の外側に沿って小さな術陣を描いていった。
一定間隔をあけながら五つめの陣に手をつけようとしたとき、彼はすでに陣が刻まれているのに気づいた。
「これは、招集の法陣か」
特定の相手を呼びよせる法術のようである。
島の者のしわざかと思ったが、島長はなにも言っていなかった。
ふと、アイディーンは彼の言葉を思いだした。
各地に出没していた魔属が、少し前からアダナ樹海でしかみられなくなったという話である。
「これのせいか」
綺麗に円形に描かれた陣を感心してながめながら、アイディーンはこの法術を施した人物を推測してみたが、島に法術士が訪れたという話は聞いていない。
疑問は残るものの日暮れまで時間がなくなってきたため、彼は残りの陣を手早く地面に描くと、両手で印を組んで術文を唱えた。
陣がほの青く光を発し法術が成立したことを示す。
これで魔に属する気流をもつものは樹海からでられないはずだ。
今夜はひとまずこのまま魔獣を留めておき、明日の日中に森へ入るつもりだった。
アイディーンは息をつくと、さすがに長旅の疲労を感じながら再び馬を操り、是非の滞在を望む島長の屋敷へ戻った。
島長の多大なもてなしは、なにも彼にかぎったことではない。
アイディーンは魔種狩りのため一年のほとんどを旅先で過ごすが、行く先々でその地の名士や人々の歓迎を受けてきた。
それが切実なまでの期待や神への崇拝を含んでいるのはよくわかっており、そのうえですべてを楽しむしたたかさももっている。
「樹海の様子はいかがでしたか」
島長はシール島でしかとれない珍しい果実の酒を惜しみなくアイディーンの杯にそそぎながら尋ねた。
「魔属の数はそれほど多くなさそうです。明日、夜が明けたらすぐに森へ入ります」
大地のマラティヤの返答に島長はほっとして、しかし次に口にした言葉は抜け目ない島の統治者のものだった。
「ところで、あなたはシヴァスの名家シャルキスラのご出身とか。わしには二人の娘がおり、十七と十九でどちらも似合わぬ歳ではない。親の贔屓目ながら器量も悪くありません。いかがですか、侍女としてでもかまわないのでシヴァスへ連れていただけませんか」
そしてあわよくばアイディーンの手がつけば、という期待が透けてみえるのがあからさまで、さすがに青年も苦笑するしかない。
「自治を任されるシール島の長のご息女をいち貴族の侍女にというのは、分不相応なことです。それにシヴァスへお連れしても俺は一年の大半は国外にいるので、後ろ盾がなくてはご息女も心許ないでしょう」
さらりとかわせるのは、それだけ言われ慣れているからだ。
実際この手の話は一度や二度ではない。
それほど大地の紋章やシャルキスラの名は多くの者にとっては魅力的なのだろう。
島長はアイディーンにまったくその気がないのに落胆した様子だったが、大国シヴァスにつながりをもつ好機には違いなく、愛想をたやすことはなかった。
翌朝、島長も家の者たちもまだ目覚めない静寂の空気のなか、青年は用意を整えると馬を駆って昨日通ったばかりののどかな田園を走らせた。
アダナ樹海は変わらずうっそうと木々をしげらせて訪問者をむかえている。
周囲を警戒しながら薄暗い小道を進んだ先に、やがてかすかな気配を感じた。
その気配をたどっていくと木のひらけた場所があり、木漏れ日がさしこんで他より明るい。
小さな花や草でおおわれたその広場の端に、灰色の毛を乱した獣が血まみれで倒れていた。
犬のような姿ながら犬よりもふたまわり以上大きなそれはすでに息絶えていて、全身に切り傷があり首を深くかき切られているのが致命傷となったようだ。
見れば、奥の木の陰にもう一頭横たわっているのがわかる。
どれも鋭い刃物による傷にみえるが、この手の魔獣に道具をあつかう知能はなく、仲間割れというわけではないだろう。
とすると相手は魔族か人間のどちらかだ。
しかし、魔族がこんな人里近くにはほとんど現れないのを知っているアイディーンは、森のなかで迷っている島の民がいるのかと推測した。
複数の魔獣を倒してしまうほどの手練れかもしれないが、間の悪いことにアイディーンは昨日、魔に属する気流を含むものが樹海から外にでないよう法術をかけてしまった。
そのため瘴気が森の内一帯にこもり、すでに普通の人間では耐えられない濃度に達している。
彼は瘴気を吸いこまないよう身のまわりに結界を張っているので影響はなかったが、まだこのあたりで島民が森からでられず迷っているとしたら、昏睡状態におちいっているかもしれない。
そんなところを魔獣に襲われたら、ひとたまりもないだろう。
魔種狩りの最中にはちあわせるのもまずいので、アイディーンは先にその迷い人をさがすため気配をさぐりながら草むらのなかへわけいった。
半刻も過ぎたころだろうか、魔獣の瘴気を避けて歩いていたが、遠吠えが聞こえたかと思うとあっという間に三頭の獣に道をふさがれてしまう。
さきほど殺されていたのと同じクバという魔獣だ。
「ここは、よほどおまえたちに居心地のいい場所らしいな」
大地のマラティヤは腰にさげていた大剣を抜く。
クバは彼を殺された群れの仇とでも思っているのか、あきらかな憎悪をもって襲いかかってきた。
青年はすばやくその場をしりぞくと、剣を両手でかまえ一気に間をつめる。
ギャン、と鋭い悲鳴とともに、真ん中の一頭が血をふきだしながらもんどりうった。
剣の切っ先は正確にクバの心臓を貫いている。
恐るべき剣技を見せつけられても逃げるという選択肢は獣たちになかったらしい、残った二頭は散開して左右から牙を向けてきた。
「貫け」
アイディーンが片手で印を結び短く命じると、彼のまわりの地面から何十という土の針が突きだし一瞬で二頭の魔獣を串刺しにする。
詠唱も術文も必要とせず求める言葉だけで術を発動できるのは、彼が多大な地属の力を有しているからだ。
声もなく絶命したクバはわずかな痙攣のあと、完全にその動きをとめた。
「とっさのときは法術がでるな。剣より法術が楽っていうのは騎士としてどうなんだか。兄上がみていたらまた小言をくらいそうだ」
小さくぼやきながら刃の血を落とし剣を鞘に戻す。
そのとき、森のさらに奥からかすかにクバの声が聞こえた。
苦悶を訴えるような悲鳴は一度きりで、あとは葉ずれの音だけがあたりを満たす。
アイディーンは即座に声のしたほうを見極めると、全力で走りだした。
わずかながらも鳴き声が聞こえたのは風下だったためで、当のクバの死骸をみつけるまでにかなりの距離を走るはめになった。
見おろした先に横たわる魔獣は、やはり全身を深い切り傷でおおわれている。
いったい誰が、といぶかって傷口をよく見るために膝をつこうとしたとき、背後の大きな樹木ががさりと音をたてた。
直後、人間が落ちてくるのがわかってアイディーンは反射的に手をだしたものの、一緒に倒れこんでしまった。
木の上から落下してきたのは若い男だ。
この男がさがしていた島民だとはすぐに気づいたが、懸念したとおり瘴気を吸いすぎたらしく気を失っており身体は冷えきっていた。
「しっかりしろ」
アイディーンは声をかけながら、青年にも瘴気を遮断する結界を張ってやる。
さらに自分たちの周囲に目くらましの法術をかけて魔獣から身を隠すと、冷たい胸の上に手のひらをあてて術文を唱え、体内の不浄をとりのぞいて応急治癒を施した。
肉体の衰弱は時間でもって回復しなければならないが直接的な原因は解消できたので、アイディーンは安心して青年の顔をのぞきこむ。
歳は同じくらいだがずいぶん痩せて肌が真っ白なため、食べるにも事欠くほど何日も森のなかをさまよっていたのかと思うほどだ。
しかし、日中なら光のさす方向をめざせば数刻で外へでられる程度のこの樹海では、遭難するほうが難しい。
島民ならなおさら迷いそうもないが、よく見ればこのあたりの人間とは顔だちが異なっている。
青ざめているものの、ひどく整った容貌をしていることにも遅まきながら気づいた。
身につけている衣は着古されてはいるが仕立ての良い絹織物で、東方の民が好んで着る型のものなので、東の大陸カプランかオルルッサの富家の子弟といったところだろうか。
しかし、奇妙なのは青年の髪がようやく肩にとどく程度の長さしかないことだ。
たいていの国では、成人をむかえると男女とも髪を肩より長くのばす慣習がある。
そしてどの国でも共通するのは、肩より短く断髪するのは奴隷だという事実だ。
当然、奴隷なら絹の衣など与えられないし、青年の手足は指先まで柔らかく綺麗に整えられており、あきらかに労働に慣れた身体つきではない。
とうてい奴隷という雰囲気ではないので、不慮の事故かなにかで髪を失ったのかもしれないが――それでも普通は奴隷と間違われないようかつらを用意する――富民が好む貴金属や宝石の装飾をなにひとつ身につけていないのも違和感がある。
通常、外見や言動でだいたいの身分は推し量れるものだが、この青年に関してはそれが難しかった。
これほど目立つよそ者の存在を島長が知らないというのもおかしな話だ。
ともかく一時しのぎの目くらましの法術では心許なく、森の外に病人を連れだそうと腰をあげたとき、なんの前触れもなく青年の目が開かれる。
アイディーンが気づいた瞬間にはもう身をおこし、身の丈二つ分ほども後ろに跳びすさっていた。
「烈風よ、射よ」
すばやい印とともに発せられた攻撃術文に、アイディーンはとっさに叫んだ。
「阻め!」
地面から大きな一枚岩がつきあげるのと、鋭い風がそこを襲うのは同時だった。
岩の表面には一瞬にして無数の溝が刻まれ、削りとられた破片が飛び散ってアイディーンの腕に浅い切り傷をつくる。
「おちつけ、俺は魔属じゃない」
「マラティヤ……!」
アイディーンの説得に、驚愕の声が重なった。
「それで、森が……」
とぎれたつぶやきは荒い呼吸にかわり、青年はゆらりとかしいで地に膝をつく。
「無理をするからだ。かなりの風属の力をもっているようだが、詠唱なしの法術は負荷が大きい。瘴気にあてられた身体で使わないほうがいい」
アイディーンは青年の無茶な行動をいさめたが、昏倒していた彼が一瞬でくりだした法術の速さと規模には内心感心していた。
よほど優れた法術士に違いない。
もはや返す言葉もなく不調に耐えて不規則な呼吸をくりかえす青年を、アイディーンは無頓着にかつぎあげた。
「やめろ」
かすれた声が発せられた。
「あんたはスィナンだろう。悪かった、俺が森に結界を張ったからでられなかったのか」
アイディーンの言葉に、弱々しくもがいていた青年はびくっと身体を震わせて過剰な反応を示す。
おし黙りかたくなった身体を抱えなおして、アイディーンは歩きだした。
青年がスィナンだと気づいたのは、濡れたような漆黒の髪が光にあたったとたん透けそうな薄茶になったからだ。
翡翠色かと思った瞳も、またたくたびに紫がかったり青を含んだり変化してみえるのは、魔属の特徴である。
そしてそれは、スィナンと呼ばれる少数種族の特徴でもあった。
かの一族は古い時代、人と魔の交わりから始まったといわれている。
冷酷で排他的な性質でありながら一族間の結束は強い。
魔の血をたしかに受け継ぐ彼らは魔族と同様に人々を惑わせる蠱惑的な美貌をもち、二百年を超える寿命を有していた。
その長命と魔の血をもつゆえの強い力は、非情な行いによって永いあいだ人々の犠牲を強い、スィナンの名は恐怖とともに広く知らしめられた。
しかしついに前暗黒期のとき、混乱に乗じて各国の法術士たちが、甚大な損害をこうむりながらも一族を最北の地に封じた。
いまだ封印を解かれることのない彼らは緩慢な死をたどり続け、あと十年もすれば種を絶やすだろうといわれている。
スィナンの一族が封印されたのは百年近く前だが、恐怖の伝承は色あせず、ごく若い者でもスィナンを知っているほどその存在は身近だった。
「まだ呼吸が荒いな。森の外でもう一度法術をかけるから少し我慢してくれ」
アイディーンは青年へ声をかけるが返答はない。
スィナンの一族はそのなりたちから身の内に魔の気流――瘴気をもつため、アイディーンの張った結界のせいで森の外へでられなくなってしまったのだろう。
さきほどの優れた法力をみるかぎり結界を破って脱出するのは容易と思われたが、これほどせっぱつまった状況になってもそうしなかったのは、他に理由がありそうだった。
アイディーンは青年を外へ運ぶと馬をつないだ木陰へおろす。
草を食んでいた馬は瘴気を感じたためか、急に緊張して耳をたて、二人から遠ざかってしまった。
青白い面持ちの青年はなんの反応もなく憂鬱そうにうなだれる。
アイディーンはさきほどやったように彼の体内を浄化してやった。
「しばらく休んでいればすぐ回復する」
「なんの望みが……」
不意につぶやかれた声に、アイディーンは意図がつかめず見おろした。
「望み?」
「なぜ、こんなことを」
「なぜと言われても、そんな目にあわせたのは俺だ。それに、目の前で人が倒れたら介抱くらいするだろう」
「それで見返りに、契約を……」
青年はやがて、沈みこむように意識を手離した。
アイディーンはため息をついて、自分の外套をかける。
どうやらこの男はかたくなな人物のようだ。
とうとう失神するまで警戒を解かなかった。
「契約と言ったのか」
唐突な言葉の意味はさっぱりわからなかったが、彼の体調が戻ればすべてあかされるだろう。
アイディーンはそのまま彼を休ませ、島長の屋敷へ帰る前の一仕事をかたづけるために立ちあがった。
手早く封印をすませなければ、樹海から魔属がでてきてしまうからだ。
魔に属する種族は太陽を嫌う傾向があり、日中は森などの奥深くにいるが、この場合魔属とは魔獣のことをいう。
一般的にはすべてを魔属と呼ぶものの、正確にいえば魔属とは瘴気を有する二種の総称で、アイディーンや法術士など知識層の者は人の形をとるものを魔族、獣のような人外の姿であれば魔獣と呼びわけている。
虫や植物といったより原始的な生態になると、もとより種族の区別もない。
魔族と魔獣には知能も能力も大きな差があり、太陽を露骨に嫌がるのも魔獣だけで、魔族にはほとんど影響がなかった。
しかし人型である魔族はあまり人前に姿を現さないため、魔獣だけが魔属と思われることはよくある。
くだんの島長が言った魔属というのも魔獣で、アダナ樹海で数を増やしているという話だった。
「毎度ながら、ひとりで魔種狩りは無理があるよな……。はやく相棒を紹介してもらわないと身がもたなくなりそうだ」
馬の歩を進めながら独りごちるアイディーンは先ごろ二十歳になったばかり、精悍な美貌と意志の強そうな表情が、社交界の伊達人という周囲の評判を大いに納得させる、大地の神カースの紋章を額にもつ青年である。
彼は成人をむかえた十七歳から魔種狩りを続けて国々を旅しているが、先日もうひとりのマラティヤに会わせるとの知らせで、シヴァスへ呼びもどされた。
そんなおりに今回の騒動を聞き、まだ相手もシヴァスに到着していなかった事情もあって、彼が征伐を請け負ったのだった。
それにしてもいまさら急に大気のマラティヤに会わせようなどと、シヴァスの法術士たちはなにを考えているのかと、アイディーンはいぶからずにいられなかった。
過去、国にひきとられたマラティヤの子供たちは、シヴァスとビジャールどちらの国で過ごすにせよ別個という例はなくともに生活するのが慣例だが、彼はこれまで一度ももうひとりのマラティヤに会ったことがない。
聞いたところではビジャールで生活しており、十五の歳にはすでに単独で魔種狩りをしていたというが、関係者の口は重く、離れて暮らす理由や本人の人となりなどなにひとつ語られなかった。
ただ、面会する機会が過去二度あったのは憶えている。
ほんの幼少のときに一度、そして一年前に一度。
いずれももうやむやのうちにとり消されてしまったので、アイディーンは今回もさほど期待していない。
その暇つぶしも手伝ってシールの魔種狩りをひきうけたのだが、魔獣は群れで行動するため、強い法力をもつマラティヤといえどひとりではやりにくい相手には違いなかった。
通常マラティヤが狩るのは、単独で行動する大型の魔獣や人型の魔族など、一介の法術士では相手にならない強大な力をもつものたちなのである。
「どぅっ」
アイディーンは手綱を引いて馬をとめた。
目前にはいかにも下級魔獣が好みそうなうっそうとした森がひろがっている。
馬をおりると、魔獣を森に足止めしておくために木々の外側に沿って小さな術陣を描いていった。
一定間隔をあけながら五つめの陣に手をつけようとしたとき、彼はすでに陣が刻まれているのに気づいた。
「これは、招集の法陣か」
特定の相手を呼びよせる法術のようである。
島の者のしわざかと思ったが、島長はなにも言っていなかった。
ふと、アイディーンは彼の言葉を思いだした。
各地に出没していた魔属が、少し前からアダナ樹海でしかみられなくなったという話である。
「これのせいか」
綺麗に円形に描かれた陣を感心してながめながら、アイディーンはこの法術を施した人物を推測してみたが、島に法術士が訪れたという話は聞いていない。
疑問は残るものの日暮れまで時間がなくなってきたため、彼は残りの陣を手早く地面に描くと、両手で印を組んで術文を唱えた。
陣がほの青く光を発し法術が成立したことを示す。
これで魔に属する気流をもつものは樹海からでられないはずだ。
今夜はひとまずこのまま魔獣を留めておき、明日の日中に森へ入るつもりだった。
アイディーンは息をつくと、さすがに長旅の疲労を感じながら再び馬を操り、是非の滞在を望む島長の屋敷へ戻った。
島長の多大なもてなしは、なにも彼にかぎったことではない。
アイディーンは魔種狩りのため一年のほとんどを旅先で過ごすが、行く先々でその地の名士や人々の歓迎を受けてきた。
それが切実なまでの期待や神への崇拝を含んでいるのはよくわかっており、そのうえですべてを楽しむしたたかさももっている。
「樹海の様子はいかがでしたか」
島長はシール島でしかとれない珍しい果実の酒を惜しみなくアイディーンの杯にそそぎながら尋ねた。
「魔属の数はそれほど多くなさそうです。明日、夜が明けたらすぐに森へ入ります」
大地のマラティヤの返答に島長はほっとして、しかし次に口にした言葉は抜け目ない島の統治者のものだった。
「ところで、あなたはシヴァスの名家シャルキスラのご出身とか。わしには二人の娘がおり、十七と十九でどちらも似合わぬ歳ではない。親の贔屓目ながら器量も悪くありません。いかがですか、侍女としてでもかまわないのでシヴァスへ連れていただけませんか」
そしてあわよくばアイディーンの手がつけば、という期待が透けてみえるのがあからさまで、さすがに青年も苦笑するしかない。
「自治を任されるシール島の長のご息女をいち貴族の侍女にというのは、分不相応なことです。それにシヴァスへお連れしても俺は一年の大半は国外にいるので、後ろ盾がなくてはご息女も心許ないでしょう」
さらりとかわせるのは、それだけ言われ慣れているからだ。
実際この手の話は一度や二度ではない。
それほど大地の紋章やシャルキスラの名は多くの者にとっては魅力的なのだろう。
島長はアイディーンにまったくその気がないのに落胆した様子だったが、大国シヴァスにつながりをもつ好機には違いなく、愛想をたやすことはなかった。
翌朝、島長も家の者たちもまだ目覚めない静寂の空気のなか、青年は用意を整えると馬を駆って昨日通ったばかりののどかな田園を走らせた。
アダナ樹海は変わらずうっそうと木々をしげらせて訪問者をむかえている。
周囲を警戒しながら薄暗い小道を進んだ先に、やがてかすかな気配を感じた。
その気配をたどっていくと木のひらけた場所があり、木漏れ日がさしこんで他より明るい。
小さな花や草でおおわれたその広場の端に、灰色の毛を乱した獣が血まみれで倒れていた。
犬のような姿ながら犬よりもふたまわり以上大きなそれはすでに息絶えていて、全身に切り傷があり首を深くかき切られているのが致命傷となったようだ。
見れば、奥の木の陰にもう一頭横たわっているのがわかる。
どれも鋭い刃物による傷にみえるが、この手の魔獣に道具をあつかう知能はなく、仲間割れというわけではないだろう。
とすると相手は魔族か人間のどちらかだ。
しかし、魔族がこんな人里近くにはほとんど現れないのを知っているアイディーンは、森のなかで迷っている島の民がいるのかと推測した。
複数の魔獣を倒してしまうほどの手練れかもしれないが、間の悪いことにアイディーンは昨日、魔に属する気流を含むものが樹海から外にでないよう法術をかけてしまった。
そのため瘴気が森の内一帯にこもり、すでに普通の人間では耐えられない濃度に達している。
彼は瘴気を吸いこまないよう身のまわりに結界を張っているので影響はなかったが、まだこのあたりで島民が森からでられず迷っているとしたら、昏睡状態におちいっているかもしれない。
そんなところを魔獣に襲われたら、ひとたまりもないだろう。
魔種狩りの最中にはちあわせるのもまずいので、アイディーンは先にその迷い人をさがすため気配をさぐりながら草むらのなかへわけいった。
半刻も過ぎたころだろうか、魔獣の瘴気を避けて歩いていたが、遠吠えが聞こえたかと思うとあっという間に三頭の獣に道をふさがれてしまう。
さきほど殺されていたのと同じクバという魔獣だ。
「ここは、よほどおまえたちに居心地のいい場所らしいな」
大地のマラティヤは腰にさげていた大剣を抜く。
クバは彼を殺された群れの仇とでも思っているのか、あきらかな憎悪をもって襲いかかってきた。
青年はすばやくその場をしりぞくと、剣を両手でかまえ一気に間をつめる。
ギャン、と鋭い悲鳴とともに、真ん中の一頭が血をふきだしながらもんどりうった。
剣の切っ先は正確にクバの心臓を貫いている。
恐るべき剣技を見せつけられても逃げるという選択肢は獣たちになかったらしい、残った二頭は散開して左右から牙を向けてきた。
「貫け」
アイディーンが片手で印を結び短く命じると、彼のまわりの地面から何十という土の針が突きだし一瞬で二頭の魔獣を串刺しにする。
詠唱も術文も必要とせず求める言葉だけで術を発動できるのは、彼が多大な地属の力を有しているからだ。
声もなく絶命したクバはわずかな痙攣のあと、完全にその動きをとめた。
「とっさのときは法術がでるな。剣より法術が楽っていうのは騎士としてどうなんだか。兄上がみていたらまた小言をくらいそうだ」
小さくぼやきながら刃の血を落とし剣を鞘に戻す。
そのとき、森のさらに奥からかすかにクバの声が聞こえた。
苦悶を訴えるような悲鳴は一度きりで、あとは葉ずれの音だけがあたりを満たす。
アイディーンは即座に声のしたほうを見極めると、全力で走りだした。
わずかながらも鳴き声が聞こえたのは風下だったためで、当のクバの死骸をみつけるまでにかなりの距離を走るはめになった。
見おろした先に横たわる魔獣は、やはり全身を深い切り傷でおおわれている。
いったい誰が、といぶかって傷口をよく見るために膝をつこうとしたとき、背後の大きな樹木ががさりと音をたてた。
直後、人間が落ちてくるのがわかってアイディーンは反射的に手をだしたものの、一緒に倒れこんでしまった。
木の上から落下してきたのは若い男だ。
この男がさがしていた島民だとはすぐに気づいたが、懸念したとおり瘴気を吸いすぎたらしく気を失っており身体は冷えきっていた。
「しっかりしろ」
アイディーンは声をかけながら、青年にも瘴気を遮断する結界を張ってやる。
さらに自分たちの周囲に目くらましの法術をかけて魔獣から身を隠すと、冷たい胸の上に手のひらをあてて術文を唱え、体内の不浄をとりのぞいて応急治癒を施した。
肉体の衰弱は時間でもって回復しなければならないが直接的な原因は解消できたので、アイディーンは安心して青年の顔をのぞきこむ。
歳は同じくらいだがずいぶん痩せて肌が真っ白なため、食べるにも事欠くほど何日も森のなかをさまよっていたのかと思うほどだ。
しかし、日中なら光のさす方向をめざせば数刻で外へでられる程度のこの樹海では、遭難するほうが難しい。
島民ならなおさら迷いそうもないが、よく見ればこのあたりの人間とは顔だちが異なっている。
青ざめているものの、ひどく整った容貌をしていることにも遅まきながら気づいた。
身につけている衣は着古されてはいるが仕立ての良い絹織物で、東方の民が好んで着る型のものなので、東の大陸カプランかオルルッサの富家の子弟といったところだろうか。
しかし、奇妙なのは青年の髪がようやく肩にとどく程度の長さしかないことだ。
たいていの国では、成人をむかえると男女とも髪を肩より長くのばす慣習がある。
そしてどの国でも共通するのは、肩より短く断髪するのは奴隷だという事実だ。
当然、奴隷なら絹の衣など与えられないし、青年の手足は指先まで柔らかく綺麗に整えられており、あきらかに労働に慣れた身体つきではない。
とうてい奴隷という雰囲気ではないので、不慮の事故かなにかで髪を失ったのかもしれないが――それでも普通は奴隷と間違われないようかつらを用意する――富民が好む貴金属や宝石の装飾をなにひとつ身につけていないのも違和感がある。
通常、外見や言動でだいたいの身分は推し量れるものだが、この青年に関してはそれが難しかった。
これほど目立つよそ者の存在を島長が知らないというのもおかしな話だ。
ともかく一時しのぎの目くらましの法術では心許なく、森の外に病人を連れだそうと腰をあげたとき、なんの前触れもなく青年の目が開かれる。
アイディーンが気づいた瞬間にはもう身をおこし、身の丈二つ分ほども後ろに跳びすさっていた。
「烈風よ、射よ」
すばやい印とともに発せられた攻撃術文に、アイディーンはとっさに叫んだ。
「阻め!」
地面から大きな一枚岩がつきあげるのと、鋭い風がそこを襲うのは同時だった。
岩の表面には一瞬にして無数の溝が刻まれ、削りとられた破片が飛び散ってアイディーンの腕に浅い切り傷をつくる。
「おちつけ、俺は魔属じゃない」
「マラティヤ……!」
アイディーンの説得に、驚愕の声が重なった。
「それで、森が……」
とぎれたつぶやきは荒い呼吸にかわり、青年はゆらりとかしいで地に膝をつく。
「無理をするからだ。かなりの風属の力をもっているようだが、詠唱なしの法術は負荷が大きい。瘴気にあてられた身体で使わないほうがいい」
アイディーンは青年の無茶な行動をいさめたが、昏倒していた彼が一瞬でくりだした法術の速さと規模には内心感心していた。
よほど優れた法術士に違いない。
もはや返す言葉もなく不調に耐えて不規則な呼吸をくりかえす青年を、アイディーンは無頓着にかつぎあげた。
「やめろ」
かすれた声が発せられた。
「あんたはスィナンだろう。悪かった、俺が森に結界を張ったからでられなかったのか」
アイディーンの言葉に、弱々しくもがいていた青年はびくっと身体を震わせて過剰な反応を示す。
おし黙りかたくなった身体を抱えなおして、アイディーンは歩きだした。
青年がスィナンだと気づいたのは、濡れたような漆黒の髪が光にあたったとたん透けそうな薄茶になったからだ。
翡翠色かと思った瞳も、またたくたびに紫がかったり青を含んだり変化してみえるのは、魔属の特徴である。
そしてそれは、スィナンと呼ばれる少数種族の特徴でもあった。
かの一族は古い時代、人と魔の交わりから始まったといわれている。
冷酷で排他的な性質でありながら一族間の結束は強い。
魔の血をたしかに受け継ぐ彼らは魔族と同様に人々を惑わせる蠱惑的な美貌をもち、二百年を超える寿命を有していた。
その長命と魔の血をもつゆえの強い力は、非情な行いによって永いあいだ人々の犠牲を強い、スィナンの名は恐怖とともに広く知らしめられた。
しかしついに前暗黒期のとき、混乱に乗じて各国の法術士たちが、甚大な損害をこうむりながらも一族を最北の地に封じた。
いまだ封印を解かれることのない彼らは緩慢な死をたどり続け、あと十年もすれば種を絶やすだろうといわれている。
スィナンの一族が封印されたのは百年近く前だが、恐怖の伝承は色あせず、ごく若い者でもスィナンを知っているほどその存在は身近だった。
「まだ呼吸が荒いな。森の外でもう一度法術をかけるから少し我慢してくれ」
アイディーンは青年へ声をかけるが返答はない。
スィナンの一族はそのなりたちから身の内に魔の気流――瘴気をもつため、アイディーンの張った結界のせいで森の外へでられなくなってしまったのだろう。
さきほどの優れた法力をみるかぎり結界を破って脱出するのは容易と思われたが、これほどせっぱつまった状況になってもそうしなかったのは、他に理由がありそうだった。
アイディーンは青年を外へ運ぶと馬をつないだ木陰へおろす。
草を食んでいた馬は瘴気を感じたためか、急に緊張して耳をたて、二人から遠ざかってしまった。
青白い面持ちの青年はなんの反応もなく憂鬱そうにうなだれる。
アイディーンはさきほどやったように彼の体内を浄化してやった。
「しばらく休んでいればすぐ回復する」
「なんの望みが……」
不意につぶやかれた声に、アイディーンは意図がつかめず見おろした。
「望み?」
「なぜ、こんなことを」
「なぜと言われても、そんな目にあわせたのは俺だ。それに、目の前で人が倒れたら介抱くらいするだろう」
「それで見返りに、契約を……」
青年はやがて、沈みこむように意識を手離した。
アイディーンはため息をついて、自分の外套をかける。
どうやらこの男はかたくなな人物のようだ。
とうとう失神するまで警戒を解かなかった。
「契約と言ったのか」
唐突な言葉の意味はさっぱりわからなかったが、彼の体調が戻ればすべてあかされるだろう。
アイディーンはそのまま彼を休ませ、島長の屋敷へ帰る前の一仕事をかたづけるために立ちあがった。
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