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52 漲る思い

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 裕太郎はアパートに戻り、珈琲を作るためにお湯を沸かし始めた。
 椅子に腰掛け、鼻歌。
 午前一時を回っている。
 ニ、三日前まで伊吹がいたのに、今はいない。
 むしろ、記憶すら忘れてしまっている。

(俺を好いてくれていたから、記憶を失くした......)

 溜め息しか出ない。

 今酒と女に溺れてしまったらろくな事はないので、あえてアパートに戻った。
 じっくりと自分のミスを考え、これからどう行動するか......。
 ここまで女性の事を考えたのは初めてだ。
 
 プレゼント......。
 と言っても、パトロンから貰ったお金で、プレゼントを買ったって嬉しくないだろう。
 珍しく珈琲に砂糖を入れて、それを飲んでみる。

「甘いな......」
 苦笑い。
 
 砂糖入りの珈琲を飲んで気付いた。
 今まで甘えていたのかも知れない。
(金がないからってマスターのせいにしちゃいけねぇな...)
 どうやってさらに上を目指すか。

 伊吹のあの調子なら、記憶が戻ったところで戻ってくるとは限らないだろう。

 やれるべき事をやろう。

 翌朝。
 裕太郎はいつものように、路面電車の始発を待つようにした。
 劇場についたら、その行動を緑里に見られる。
「待つ必要ある?」
「.......伊吹はああ言ったが、もし記憶が戻って、来ていたら悲しい思いをするだろう?」
「.........よっぽど好きだったのね」
「手に届かないほど、気付くなんてな.......」
「そんなもんなのね。わたしも気をつけよっと」
「......順調だろ? 緑里は」
「嫉妬深い評論家さんは大変。珈琲ちょうだい」
 そんなの初めて聞いたが、たいした事ないだろうと思い、聞かないふりをした。
「分かりました。プリンセス」
 裕太郎は珈琲を煎れた。

 午前の部が終わり、裕太郎たちはお昼で街に出る。
 歌劇団のスタッフがチラシを配っているのを裕太郎は貰う。
「裕太郎、チラシを貰う必要あるか?」
 と言ってきたのは、スタッフの前田。
「チャンスを掴まないとな。正一もいるし」
「まぁ......稼げないんじゃな」
「なんでかねぇ」
「奥様に貢いでいるからさ」
「.........えっ?」
 いきなりの情報に、目を丸くする。
「なんでも付き合っていた頃、酷い事をしたらしい。それの償いだとか、話していたよ」
「それで........俺たちに回ってこないのか?」
 険しい表情になっていく裕太郎。
「こ、この事は内緒な」
 慌てる前田。
「......お昼、奢れよ」
「分かった、分かった」
「チラシも内緒にしておいてくれよ」
 前田は頷くが、
「でも、どうして?」
 と、聞いてくる。
「俺から話すから。もし、話がマスターの耳にはいったら前田がばらしたって分かるからな」
 裕太郎の真剣な顔に、前田は頷いた。
 
 チラシを見ると、今度やる劇で、主人公の友人を募集している。オーディションは一週間後。日曜日だ。
 
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