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14 裕太郎のパトロン①

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 時計を見ると夜中の10時を回った。伊吹は満天国の言語学本を閉じ、いそいそとワンピースを着る。鏡の前に立って確認した。
「うん、これでいいだろう」
 そうして、鏡の前でニコリ。

 広い廊下を通ると、ドアが開く。
 執事の前崎だ。
「お嬢様、こんな夜更けにどこへ...」
「びっくりした。なんで分かる」
「ヒールの音がしたものですので、ひよりお嬢様かと思いまして」
「ヒールか......」
 これからはヒールを脱ごう、と伊吹は思った。「......ワンピース、逢瀬ですか?」
(......どうして、ワンピースを着るとみんなそう言うんだ......)
「こんな時間に会う男となんて、おやめになった方がよろしいですぞ。ろくな男ではございません」
「前崎、見てもない人物に対して、批判はよくないぞ」
「失礼しました。ですが......」
「逢瀬と決めつけるのもよくない。心配するな」
「は、はぁ......」
「行ってくる。ちゃんと帰ってくるから。ゆっくり休んで」
 と、優しく声を掛けて、扉を開けた。

 19年生きてきて、夜中の外に出るのは初めての事だった。

 裕太郎は夜の部が終わったあと、マスターのいる部屋を尋ねてみた。
「あっ......」
 伊吹がいるかと思ったのだが、マスターだけだった。
「おぉ、裕太郎か。珈琲でも飲んで行くか?」
「えっと......」
「伊吹が高級豆を買ってくれたんだ」
「......それでは、頂きます」
 裕太郎は微笑した。

「......その笑顔...」
「え?」
「あぁ、いやね、たまに寂しそうになるのは、どうしてかと、思ってね。わたしの気にしすぎかも知れんが。その笑顔が、たまらなく女性を虜にさせてるんだと思うのだが.....」
「...はぁ......。働き過ぎではないですかね?」
「それは、困った」
「そして、安月給」
「うーん......」
「パトロンがいないと困らない生活が早く来て欲しいものです」
「それは、ぐうの音も出ない」
「出てるじゃないですか」
 裕太郎は笑う。

「婦人に使わされているのか?」
「婦人......よりも、お嬢様の方ですがね」
「困った」
「何がです?」
「あまり伊吹と変わらない年齢だろう」
 和夫は少し探りを入れてみた。
「姪っ子さんですか?」
「ああ」
「中性的な方で、対応に戸惑う時があります」
「......そうかも知れんな。軍人になると、言ってからだ......。周囲の伊吹への態度が変わった」
「.........」
 裕太郎は何も言わず、珈琲を飲んだ。
「少しずつでもいいから、男のように育てて行った。それが、今の伊吹だ」
「苦労なさったでしょう」
「......すべてにおいてな...。だが、おかげで今は少尉だ。裕太郎、ここへ来たわけは、伊吹がいるとでも思ったのか?」 
 和夫はハッキリ言った。
「あ、いや......」
「深入りするな。そして、わたしたち一族に深入りもするな。職場の人間として付き合ってるだけだからな」
 物の言い方は穏やかであったが、和夫は釘を差した。
「お互い、傷付くだけだ」

 すると、ドアのノックする音。

「どうぞ」
「裕太郎さんを迎えに来ました」
 企業飲料会社取締役の令嬢、静子である。
 シックなドレスでやってきた。
「これはお嬢様」
 と言ったのは、和夫である。

「こんな夜に1人で?」
「まさか、執事を控えてますわ」 
「......わざわざ執事を抱えてまで来なくても、伺いますよ」 
 裕太郎はニコリと微笑んだ。
「なかなか来てくださらないから、迎えに来たのです」
「...それは、悲しい思いをさせてしまいました。これからは、こまめに会いに行きましょう」
 見つめながらそう話した。
(色男め。歯の浮くような事を平気で言ってのける。まぁ......、あのお嬢様に目をつけられておけば、伊吹に泣き付く事もあるまい......)
 和夫の思惑と姑息な考えである。
「珈琲でも飲みませんか」
「いいえ、いりませんわ。ミルクを飲んで、裕太郎様に癒して頂きますから」
(ガキかよ、経験しただろうに済まして...)
「そうでしたか」
 心とは裏腹に、そう言った。
 なんせ、家族分を藤宮一族に齧っているのだから、これで別の人が泣き付くようなら困ってしまう。
(新人踊り子の習い事や、住まいだってあるし、家内にも...)
 足るに足りないのだ。
 道楽を貫いての行為だ。
「裕太郎さん、参りましょう」
 その声と共に、腕を組んだ。
「はい。お嬢様」

 裕太郎はどこかのホテルマンのような振る舞いをした。
 


 
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