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2 恋心はまだ知りません

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「おはようございます。お嬢様」
 カーテンの開く音。
 唯一身体が休まる日曜日は、いつも起きるのは昼前。
 メイドの芳江に起こされて起きるのが、伊吹の日常だ。
 芳江は今年15才になったばかりだ。
 田舎から奉公しにやってきた。
「今、何時だ?」
「11時です。お嬢様。登喜子様と2時に待ち合わせではございませんか?」 
「そうだった。まぁ、多少遅れてもいいだろう」「そうですか?」 
「登喜子も【赤いルージュ劇場】で虜になっていつも遅くなるから」

 【赤いルージュ劇場】は、レビュー劇場で、この街の歓楽街にある。インテリの溜まり場でもあった。あまり映えておらず、よく伊吹の叔父が父親の謙三に泣きついてくる。
 チョコレイトを持って。出世払いと言ってお金を借りて去るが、返された記憶はない。謙三はよく情けない兄だと愚痴を溢していた。

「お嬢様も見に行けばよろしいのに」
「芸事は興味ない。それにあそこのマスターは叔父さんがやっている」
「それもそうですけど、いい方ですよ。会う度にチョコレイトを下さります」
「それはよかった......」
「みんなは、何をしている?」 
依子よりこ様は、奥様方とお茶会、お姉様のひより様は、勉学へ没頭しております。お兄様の太一様は、今日は気分が優れているようで、本を読んでおられました」
 伊吹は目を輝かせ、
「それなら先に挨拶をしてこよう!」 
 と、嬉しそうに言い、身支度をして部屋から出て行った。

 ドアをノックすると、兄、太一の声。24才だ。
「お入り」
「おはようございます、お兄様!」
 伊吹は太一の側に寄り添うと、太一はニコリと微笑み、よしよしと頭を撫でた。
「......顔に傷をこしらえて...」
「戦地で戦っている兵隊にくらべたらこのくらい、まだ軽い方です」
 その言葉を聞いて、太一の表情が曇る。
「わたしが軟弱なばかりに、苦労掛ける」
「いえ! お兄様のためなら、苦労なんてございません」
 太一の表情は曇ったまま。
「その格好は、逢瀬かい?」 
「え? 逢瀬...?」
 軍服とは違い、花柄のワンピース。髪はボブ。「いえっ、友達と待ち合わせです」
「なんだ、そうだったの?」
 太一はがっかりした。
 日常とはまったく違う伊吹だから、誰かと逢瀬でもするのかと思っていた。
「友達とは、登喜子さんか?」
「はい」
「それでは......」
 と言って、ナイトテーブルの引き出しから、手紙を渡す。
「これを登喜子さんに」
「ラブレターですか?」
「ふふっ」
 くだらない看板俳優に一途かと思っていた友達も、なかなかやるものだ。
(お見舞いに来た時か...)
「お兄様も早く元気になって、登喜子とデイトなさるように」
「そうゆう伊吹もな。池山君とはどうなんだい?」
「え......?」
 首を傾げた。
 
 まだそんな感覚は芽生えないのかな? 

 太一はそう思い、溜め息。

「それでは昼食に行ってきます」
「...僕も行こう。今日はとても元気だ」
「それなら外で日向ぼっこでもどうですか?」 
 心臓を煩っており、つねに安静にしていないとすぐに胸を煩ってしまい、あまり外へ出れないので、つねに青ざめていた。
「...それもいいね」
「ご飯食べたら、散歩しましょう」 
 太一は微笑んだ。
 伊吹は太一といる時は、唯一女の子らしい振る舞いをする事が出来た。

 
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