雷鳴の歌

桧山 紗綺

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雷鳴の歌

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 月が雲に隠れた。
  薄灰色の雲に月の光が反射してとても綺麗。
  美しい空を見上げてひとりを待つ。
  誰もいないこの屋敷で唯一人。
  寂しいという感情も忘れた頃にやって来た不思議な人。
  ふわりと空気が動いた。
  振り返って微笑む。
  誰より愛しい人がそこにいた。
 「カナタ」
  冷たい白皙の美貌が私を見て嬉しそうに笑む。
  柔らかい笑顔を見ていると胸が暖かくなる。
  抱きしめられると袖から香る香が一際強く感じられた。
  灯りの乏しい月隠れの夜。
  こうした夜にしか現れない理由を私は知っていた。
  黒にしか見えない髪が夜色をしているのを。
  宵闇に隠れる瞳が血のような赤色をしていることを。
  都の外れでひっそりと抱き合う恋人が只人と違うことを知っていても、それでもひたすらに愛しかった。


 「ん…」
  目を覚ますと既に日が暮れていた。
  身体を起こそうとすると衣が掛けられているのに気づく。
 「カナタ…」
  彼が掛けてくれてものに違いない。衣を抱き寄せるとカナタの香の匂いがした。
  陽のある時間に来てくれたのだろうか、考えてから首を振る。
  日が暮れてから来たのだと思うけれど、屋敷の中にカナタの気配はない。
  衣だけ掛けて立ち去ったのだろう。
  月影だけが灯りの屋敷で恋人の存在を頼りに時間を過ごす。
  何も食べていないのにも関わらず、空腹は全く感じなかった。
  この明るさではカナタは来ない。筝を鳴らし無聊を慰める。
  誰もいない屋敷、辺りに気遣うこともない静寂に筝の音が響き渡った。


  夜が明けるまで眠気の訪れなかった頭は空が白み始めると共にぼんやりし始める。
  筝を片し横になる。ぼんやりとはしていたが意識を保ったまま瞼を閉じた。
  そのまま眠気に身を委ねようとしたとき、外から音が聞こえた。
  訪いもなく入ってきたのは見たことのある男達。
  以前住んでいた屋敷の家人達は身を起こした私を見て幽霊でも見るような顔をした。
 「な、何で生きて…」
  一人は失言を悟り言葉を切る。もう一人は震える指で私を指し「化け物…」と呟いた。
  その言葉が切っ掛けになり、男たちは転げるように屋敷から出て行った。
  何故生きているのか…、無礼な言葉だったが彼らの疑問も当然のものだった。
  この屋敷に連れて来られてからもう二月。食料も無く、自分で糧を得る方法も知らない深窓の姫君が生きられる訳がない。
  飢えに耐えられず庭に生えている草を食べたところで生きていられる期間ではなかった。
  最後に空腹を感じたのは何時だったか。
  カナタがやって来るようになったことと無関係ではないのだろうと思う。
  ばたばたと足音が聞こえて新たな男が現れた。
 「本当に生きてるとはな」
  これもまた知っている顔だ。父の屋敷で時折見かけた男。
  その風貌から碌な人間ではないと思っていたけれどそのとおりのようだ。
  抜き身の刀を下げこちらを見る目は、一切の躊躇いなく人を殺められると告げていた。
 「静かに死んでくれたら手間も省けたのにな」
  汚れたら色々と大変なんだと勝手なことを連ねる男にひとつだけ問いを向ける。
 「何故?」
  なぜ殺めようというのかとの問いに男がにやりと笑う。
 「さあな」
  ゆっくりと刀を持ち上げる男は私を逃がさないよう隙無く動きを見張っている。
  刀が振り下ろされるのがいやにゆっくりと見えた。
  肩口から斜めに肌が切り裂かれる。
  衝撃に倒れ傷口を手で押さえる。ふと、身体に違和感があった。
  笑っていた男の顔が恐怖に引き攣っていく。
  見下ろすと切り裂かれた場所から光が溢れている。
  血は一滴も流れず、光の粒が次々に溢れたかと思うと、切られた場所は跡形もなく無くなっていた。
  呆然と傷が治る様を見ていた男は私の視線を感じると恐慌のあまり刀を闇雲に振り回した。

  瞬間、光が弾けて昼と夜が反転する。
  目の前の光景が信じられず目を瞬く。
  明るかった空は暗雲が立ち込め、まるで夜のような暗さ。
  暗闇にいつもと変わらぬ香の匂いがした。
 「カナタ…?」
  名前を呼ぶと場違いにふわりと笑う。
  愛しい人の笑顔に笑みを返すとそっと抱きしめられる。
 「待っていたよ」
  カナタの表情は見たことがないほどの喜びに満ちていた。
  理由を問おうとくちびるを開いたとき耳障りな悲鳴が聞こえた。
 「やっぱり、化け物の娘だったんだな!」
  やっぱり? と感じた疑問を口に出す前にカナタが口を開いた。
 「我が妹を侮辱するか」
  底冷えのする怒りに触れた男は恐怖のあまり息も出来ずに倒れた。
  意識を失った男を一瞥もせず、カナタは私を腕に抱くと空に舞い上がった。


  見る見る間に小さくなる屋敷を下に見ながらカナタに問う。
 「カナタは…」
 「うん?」
  優しい声に勇気を得る。
 「妖なの?」
 「時によって妖とも神とも呼ばれる」
  呼称など意味がないと思っているのがよく伝わる。
 「私は?」
  刀傷が瞬時に治るというのは人間ではありえない。
 「我が妹と人の間に生まれた愛し子だ」
  告げられた事に衝撃を受けた。それならカナタと私は…。
 「人の間の決まりなど我らには無意味なことだ」
  心を読んだようにカナタが言う。
 「我らが生ずる理は人間のそれとは違う。 雷雲と雷光は同時に生ずるが同じものから生まれるわけではない」
 「…難しいわ」
 「これから知っていけばよい。 人の身とは違い時間は多くある」
  顔を上げるとカナタの赤い瞳と目が合う。
  雷光に照らされた瞳は思っていたよりも、もっともっと綺麗だった。
  カナタの腕に身を預けて都を見下ろす。
  屋敷の中で想像したよりずっとちっぽけなそれに未練は湧かない。
  カナタを見上げて腕を伸ばすとうれしそうに破顔した。
  抱き寄せられて目を閉じる。降ってくるくちづけに、得たことのない安らぎが胸を満たす。
  空の中、カナタに身を委ねてくちづけを重ねる。
  愛しさがあふれるままに、ただ抱き合った。
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