青の姫と海の女神

桧山 紗綺

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見知らぬ悪意

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「まだ早い時間だから、どこかに寄って行こうか」
 「? イリアス様はまだお仕事があるのではないのですか?」
  控えの間に戻ってくるなりイリアス様が言った台詞に首を傾げる。
  騎士としての警備か貴族として社交か、どちらにせよイリアス様は忙しいと思っていたので、セシリアは一人で帰るつもりでいた。
 「今日の僕の仕事は君のエスコートだよ」
  優しい声で囁かれて、胸が高鳴る。意識しないようにと思っていても、心は理性の命に従おうとしない。
 「どこにでも君のお気に召すところに……」
  笑みを含んだ声はとても幸せそう。甘い響きに聞こえるのは自分の感情の問題だと言い聞かせて落ち着こうと努める。
  気遣いからの申し出にこんなことを考えているなんて申し訳ないくらいだった。
 「あの、街に行ってみたいです」
  祖父の城と神殿というごく限られた所で育ったセシリアは、人が多く集まる場所にほとんど行ったことがない。
  この間呪い師の店へ行ったときは、呪いのことが気がかりで街の様子を気にする余裕はなかったから。
  見えなくても、雑踏というものに入ってみたい。
  どきどきしてきた。浮き立つ私の頭をイリアス様の手がそっと撫でる。
  うれしいのに鳴りすぎる胸の鼓動に息が苦しい。イリアス様の髪を撫でていたときはこんな感じはしなかったのに、何故だろう。
  眠るイリアス様の髪を撫でていたときに感じた幸福感と安らぎとは違う、うれしさとときめき。
  するのとされるのでは違うから?それとも想いが変化したから?セシリアにはわからない。
  わかるのはどちらにも幸せを感じているということだけ。
  子供を慈しむような手はすぐに離れていく。
  馬車を用意してくると言ってイリアス様は部屋を出ていった。
  控えの間として用意された部屋は多くの花が飾られているようで混ざり合う香りが心を楽しませてくれる。
  そこにふと、違和感が混じる。
  小さく音がした。
  さっきよりも強く香りを感じる。花の匂いでもイリアス様の香りでもない誰かの香り。
 「どなたですか?」
  セシリアが聞いても答えはない。ただ空気が一瞬だけ止まって、また動き出す。
  近づいてくる気配に後退りする。
 「誰? それ以上近づかないでください!」
  無遠慮に距離を詰めてくる人物はセシリアの言葉を無視して手を掴んだ。
  大きい、男性の手。それを感じ、ぞっとする。
  黙っている人物が恐ろしい。
 「貴方は誰? 私に何の用ですか?」
  掴まれた手を外そうとしても動かせない。殊更力を込めているわけでもないようなのに、すごい力だ。
  頬に感じた吐息に身の毛がよだった。
  男の息が首筋に落ちる。
  ぞっとする感触に必死に身を捩った瞬間―――。
 「何をしている!」
  イリアス様の声が響いて拘束が解ける。
  駆け寄る足音と立ち去る足音。
  手が離れたことに安堵して足から力が抜けた。
 「セシリア!」
  支えてくれたのはイリアス様の手。その手に縋り付くと胸に抱き寄せられる。
  座り込んだまま震える私をしっかりと抱きしめてイリアス様が問う。
 「セシリア、大丈夫か。 何があった?」
  落ち着かせるように優しい言葉だったけれど、先ほどの恐ろしさに言葉にならない。
  イリアス様は無理に聞こうとせず、宥めるようにそっと髪を撫でてくれる。
  肩を抱く手、頭を撫でる手も、大きい男の人の手だ。それでも恐怖は全く感じない。
  この手は怖いことはしない、絶対に。
  自分が無条件で信じられる人の腕の中、息を吸うとイリアス様の香りが胸いっぱいに入ってくる。
  胸に顔をぐっと押し付けると抱きしめる腕の力が強くなった。
 「一人にしてすまない」
  謝るイリアス様に首を振る。イリアス様は悪くない。あんな人が王宮に現れるなんて誰が考えるだろう。
  髪に、頬に触れる吐息に強張った身体から力が抜けていく。
  男の手や息の感触にあれほど感じた恐怖と不快感が、イリアス様にはまったく感じなかった。
  ゆっくりと髪を撫でる手の感触に心から安堵する。
  全身でイリアス様を感じていると段々恐怖が薄れていく。
  イリアス様は私が落ち着くまでずっと背を撫でていてくれた。
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