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その5

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 神崎邸 某部屋 ニコラが屋敷にやってきた翌日

 自分、ニコラは、目が覚めたとき、柔らかな寝具の中にいた。
 大きな部屋の、大きなベットの上だった。世界は明るく、窓から流れ込む柔らかな風が前髪を揺らしている。
 昨夜暴れて泣きはらした倦怠感はさりとて不快ではなく、むしろスッキリとした感覚を自分にもたらしていた。
 身体を起こせば、背後でじゃらりと音が鳴る。首には未だ大きな首輪がはまり、重い鎖が、背中に当たってひやりとその存在を主張した。
「……やべぇ、やべぇって、くそっ、早く逃げなきゃ……!」
 遅れてやってきた焦燥が腹の奥を焦がす。
 首輪に腕を伸ばすと、表面が加工されつるりとした革の質感が分かった。首輪には金具があり、ぐらぐらと揺れている。おそらく、これを外すことはそう難しくない。
(よし、よし……大丈夫だ、逃げられる……!)
 ガチャガチャと金具をいじって革の端を引っ張った、そんな時だった。
『私、キミのこと飼いたいなあ。どうだろう』
「……っ!」
 その記憶は艶やかに蘇った。
 暗い部屋で、悪魔のように悠然と微笑んだあの女の顔と、声。そして匂い。
『キミのこと好きだなあって思ってね』
 その声に呼応するように、あの時全身を満たした快感が、ゾワリと腹の奥で息を吹き返す。あの時触られた全ての場所が熱を持つ。
 気が付けば自分は背中を丸め、小さく身を竦めていた。はあ、と漏れ出た吐息は確かに、昨夜と同じ熱を孕んでいる。
「ちくしょ……」
 なんとか首輪にかけたままの手は、今やピクリとも動かない。
 力ならある。生まれてこのかた、こんなにも活力がみなぎっていたことなんてない。腹がいっぱいに満たされていて、暑くもなく寒くもなく、夢の一つも見ずこんなにも深く眠って目覚めた朝なんて、自分は知らない。
(違う、違うだろ、俺ははやく逃げないと)
 どこへ?
(ここから逃げて、帰るんだ)
 帰るって、あの星に?
(そう……そうだ、俺は……)
 ────あの家に?
 きゅ、と喉の奥が詰まった。言いようのない感情に顔がくしゃくしゃになって、真っ白なシーツを握り込む。
「………………っくそ」
 口をついた悪態は力なく、部屋の壁に吸い込まれていった。
 扉が開いたのは、その直後のことである。
 ガチャリ、と音を立てて開いた扉に、自分は驚きのあまり跳ね上がった。振り向けば、そこには扉の向こうからひょっこりと顔を出す、件の女が立っていた。
「や、調子どう?」
 予期せぬ来訪に心拍数が上がる。どうやら自分は混乱のあまり、この女の足音にさえ気付けなかったらしい。
 身構えるこちらとは裏腹に、女のまるで学校のクラスメイトにでも話しかけるみたいに、こちらへ歩み寄った。思わず後ずさったが、女はただこちらの顔を覗き込んだだけだ。
「ああ、やっぱり今日は顔色がいいね」
「……あ……ぅ、えっ、と」
「ん? どした」
 女が首を傾げると、長い黒髪がさらりと揺れる。そこから香る、華やかな匂いが鼻先を掠めていった。
「……あ、アンタ、言ったよな。俺を飼いたいって……」
「言った言った! 受けてくれるの?」
「いや、その……」
 女は部屋の隅から椅子を一つ引きずると、ベッドの横で腰掛けた。
 鼻から息を吸って、吐く。そうしてキッと女の顔を睨んだ。女もまた、ただじっとこちらを見つめていた。
「俺を飼って、どうするつもりなんだ。目的が……知りたい」
 女が楽しそうに眉を持ち上げる。
「なるほどね。うん、契約内容の確認は大事だ。目的、目的はー……共同生活? そうだなあ、君たちの世界にだって、ペット文化とかあるでしょ」
「……それと同じだって言いたいのか?」
「そうだね。入ってきたから捕まえただけだよ、私は。綺麗だし、面白いから、世話して飼いたいなーって思った……だけ?」
「……それで、飽きたら捨てるのか」
 ニッコリと女が微笑む。
「いいや。……って言ったら、キミはここに居てくれるのかな」
「……」
 長くて白い女の腕がこちらに伸びた。その手は頬を包み、顎を撫で、唇の輪郭をなぞる。まるで、精緻な彫刻を愛でるかのように。
「飼い主は責任を持って、ペットが死ぬまで面倒を見ましょう、って言うのは日本じゃ常識だよ。と言っても、種族間戦争とかになっちゃったら解放せざるを得ないだろうけどね」
「……なるだろうな。俺が本気で救難信号を送って、仲間に助けを求めたら」
「うふふ」
 微笑む女の顔に焦りの表情は見られない。けれども彼女が返答を誤魔化したのは確かだった。こちらの出方を伺っている。結構なことだ。
 ニコラは緊張で強ばる頬に精一杯力を込めて、広角を上に引き上げた。この状況で、他にする表情なんてあるはずもない。
「でも、そんなことにはならない」
 女がキョトンとした顔でこちらを見つめた。
 ドクドクと自身の心臓が高鳴っているのがわかる。それはきっと、自分たち悪魔の本能だ。我々は常に契約を望んでいる。あるいは力を求め、あるいは遊興を求め、あるいは自身の存在意義さえを求めて。
 そうしてそれが叶う時、この世で最も不敵で純真に笑うのだ。
「……ニコだ。ニコラ・ロト・アルルカン。飯は極上のものを用意してくれるんだろうな?」
「あははっ」
 女が子供みたいにはしゃいで立ち上がった。椅子がガタン、と音を立てる。
 腕を上げれば、彼女は迷いもせずその手を握り返した。
「神崎花。歓迎するよ、ニコ」
 そう言って、女は唇に触れるだけのキスをした。その一瞬の接触だけでも、ふわりと花開くように精力が自分の中へ広がっていくのが分かる。
 女は満足気に笑っていた。自分もまた、不思議と穏やかな胸中に、ただぼんやりと馳せていた。
 かくして、契約は成立した。こんなこと母星の仲間に知れたら罵詈雑言どころでは済まされないだろうが、関係ない。自分は選択したのだ。もう、あの星には帰らない。
「……あっ」
「ん? なに?」
 そこまで考えてふと、昨夜のことを思い出した。
 昨日、コトが始まる前に見せられた動画。そうだ、この屋敷にはすでに、自分の仲間が捕われているではないか。
「昨日の動画の男。アレ、花……さん、の言ってた通り、俺の仲間なんだ。アイツ今どうして……」
「ああ、グレン?」
 さらりと彼女の口からその名がこぼれ落ちる。思わず目を瞬かせるが、花は不思議そうに首を傾げるだけだった。
「……名前、知ってるのか。アイツが教えたのか!?」
「うん。聞いたら教えてくれたよ」
「……アイツも、ここに残るって……?」
「そうだなあ……」
 ふふ、と花が肩を竦めて笑った。
「直接聞いてみたら?」
 そう言って、花は扉の方へ振り返った。


   ×       ×

 現在 神崎邸

 穴が開くほど見つめた茶色い扉は、今日もゆっくりと開いた。
 ベッドの真ん中でうずくまるこの屋敷の“新入りサキュバス”は、現れた男の姿にフンと鼻を鳴らした。
「おっはよー」
 言いながら現れたのはニコラだ。彼は柔和な笑みをその顔に浮かべ、こちらに向かって片手を上げる。生憎と繋がれた腕ではそれに返すことは不可能だ。まあ、例えこの身が自由であったとしても、それに返す気などはないのだが。
「どーよ、少しは懲りたか?」
「……」
 返事はしない。頑なに窓の外を見続けたら、視界の外からわざとらしいため息が聞こえてきた。
「……あんたさあ、いい加減諦めなよ。あの女精力持て余してるんだから、これ以上怒らせたら昨日どこの騒ぎじゃないよ? 昨日のことだって、どこまで覚えてるのさ。俺とセックスしたの覚えてる?」
 その言葉に、思わず視界が揺らぐ。
 昨日? 昨日はあの女が来た筈だ。『ニコに外してもらおうね』繰り返し、繰り返し言われたその言葉だけは、鮮烈に覚えている。それから……どうなった?
 ゆっくりと振り返れば、ニコラはじっとこちらを見つめ返し─────プッと吹き出した。
「ウソ! ジョーダンだよ。ほんとはちんこしゃぶっただけ」
 そう言うと、指で輪を作り、口の前に持ってきてペロリと舌を出す。
 大きなため息でそれに返した。ニコラは悪戯が成功した悪童そのものの顔で、クスクスと笑っている。
「連れねぇなあ。昨日はあんなにヒンヒン喘いでたってのに」
「……あんなものは、拷問の一種だ。僕は力には屈しない」
「鋼のメンタルだな」
 ニコラは数歩こちらに近づいて、言葉を続けた。
「あのね? 俺が言いたいのは、お前のプライドなんてもんは花さんがたった3発ぶち込んだだけでぐちゃぐちゃに崩れちまうもんだってこと。昨日は手加減してくれたからちょっとキモチイイだけで済んだけど、死ぬまで外して貰えないことだってありえるんだぞ? 下手すりゃ一晩で発狂だ。分かってんのか? お坊ちゃん」
「……分かっているさ」
「だったら」
「僕はお前のような下衆とは違う。こんな異星の女の所有物として生きていくくらいなら、発狂して死んだ方がマシだ」
 そう吐き捨てると、ニコラの顔からゆっくりと笑みが消えていった。
「……そうかよ」
 ニコラがくるりと踵を返す。
 彼はもうなにも言わなかった。歩いて部屋から出ると、静かに扉を閉める。ガチャン、と響いた冷たい施錠音が、一人の部屋にこだました。

 次にその扉が開いたのは、数時間後のことだった。ベッドに横たわりぼんやりと天井を眺めていたら、足音が聞こえてきて、扉は空いた。
 そこには最早顔も見たくない、憎き女が立っていた。
「こんにちは」
「……」
 女はこちらへ歩み寄り、目線を合わせるように中腰になる。
「ニコをいじめたでしょ。泣いちゃったよ?」
「……だから?」
 低い返答と共に視線を返す。犯すなり嬲るなり好きにしろ、そんな意味を含んだ言葉だったが、女は怒った様子もなく、ただ穏やかに目を伏せただけだった。
「お仕置きにキミを精液漬けにするのも悪くないんだけど……今日は先約があるんだ。“彼”がね、キミと話しておきたいんだって」
「……は?」
 嫌な予感がした。最悪の予感だ。今この瞬間まで必死に考えないようにしてきた、最悪の現実。
 思わず身体を起こし、女を見つめる。女の真っ黒な瞳が静かにこちらを映し込んだ。
「おい、それ、まさか」
「入っておいで」
 女がそう言って振り返る。
 逃げ出してしまいたかった。こんな忌まわしい首輪と手錠がなかったら、この部屋を飛び出して、どこまでも飛んでいったに違いない。それを知ることのないよう、絶対にそれを解ってしまわぬよう。
 自分が声も出せずに凝視した扉から、ゆらりと人影が姿を表す。そこには自身の唯一にして一番の親友、グレンが立っていた。
「久しぶりだな」
 グレンは琥珀の瞳で、まっすぐこちらを見つめて言った。
「お前……本当、に……」
「会いたくなかったよ、お前にだけは」
 吐き捨てるような言葉とともに、彼の眉根がぎゅっと寄る。彼はただ、赤い首輪をぶら下げてそこに立っていた。ただそれだけのことが、息もつけぬほど絶望的な光景だった。
「正気、なのか……」
 言葉尻が部様に震える。
 すらりと高い長身と、黒くて短い髪。逞しい体躯はシワひとつない上質なシャツとズボンに包まれ、目尻の垂れた妖艶な顔立ちの中で、琥珀色の瞳には強い意志が宿っている。
 その姿は見慣れた彼そのものだった。だがその様子は、一ヶ月前に地球への出立を見送った時から随分と様変わりしていた。
 安価な量産品だった衣服は、見るからに高級な生地に変わっている。そして何よりその首から下がる赤い首輪と、無骨な鎖が、ギラギラと照明を照り返して仕方がない。
「俺は帰らねえ。自分の意思で、ここにいるって決めた。伝えたかったのはそれだけだ」
「……」
 彼が、すうと息を吸う。
「グレン」
 その名を口にしたのは、グレン自身だった。思わず顔を上げるが、グレンの表情は静かなものだ。女もまた、涼しい顔でこちらを見つめている。
 グレンはベッドの前に片膝をついた。そうして静かにこちらを見つめて、言った。
「俺が自分でコイツに教えた。忠誠を……誓ったからだ。なあ……」
 グレンの口が一度開いて、閉じる。聞かなくても分かる。彼は僕の名前を呼ぼうとした。だが呼ばなかった。
 彼はただ噛み締めるようにゆっくりと瞬きをして、口を開いた。
「もう、意味、分かってるんだろ」
 その言葉は音もなく胸の中に染み込んでいった気がした。
 その時自分は何を見つめていたのだろう。たしかにグレンの顔を見ていた筈だ。その琥珀色の瞳を見つめていた筈だ。だが気が付けば、視界には白いシーツと、はだけて剥き出しの自分の足しか映っていなかった。
「……ッハハ……アハハハハ……!」
 そうして自分は笑っていた。
「アハハハハハハハ……!!」
 ぐらりと頭をもたげて天を仰ぐ。
 じゃらじゃらと鎖が鳴って、首が突っ張ったが、もう全てどうでもいい。今はただ何もかもが可笑しくて仕方がない。
 グレンがこちらを見つめている。その顔さえ、本当に下らなくて滑稽で、どうしようもなかった。
「……殺してやる」
「……」
「貴様という醜い魔女も、この薄汚い星も、全部全部燃やし尽くしてやる!!」
 感情のままに吐き散らした怨嗟の声にも、女はにっこりと笑っただけだ。
「ふふ、そーんなこと言われちゃったら、ますます逃してやるわけにはいかないなあ」
「ッハハハ……! 覚えていろよ、ニンゲン。この僕を殺さなかったことが貴様の運の尽きだ。地獄で後悔するんだなあ!!」
 ガシャン、と鎖が伸びきる冷たい音が部屋に響く。グレンも、女も、それ以上は何も言わなかった。グレンは静かに立ち上がり、女はひらひらとこちらに手を振った。
 扉が閉まり、鍵が閉まり、足音が遠ざかっても、罵声は尽きず、自分は笑っていた。それは怒りか悲しみか、果ては自嘲だろうか。
 自分でもなんと呼べばいいか分からない感情が、透明な雫となって目からこぼれ落ちる頃。自分はまた口を閉じ、目を閉じた。そうして身体を蝕む疲労に身を任せ、眠った。もうほかにすることなんて残っていなかった。


   ×       ×


 一ヶ月前 地球及び日本、東京

 俺がこの屋敷に入ったのは、本当にただの偶然だったと思う。
 俺は偶然その屋敷の近くを飛んでいて、偶然その部屋は窓が開いていた。その日は大して空腹でもなくて、あの場所を飛んでいたのも、調査の一環として新しい地域に足を伸ばした、ただそれだけの理由だった。
 開け放たれた窓からはとてもいい匂いがして、それから、女の啜り泣く声が聞こえた。
「こんばんは、お嬢さん。今宵は月が綺麗ですね」
 ふわりと音もなく窓枠に降り立つ頃には、自身の姿はこの国の人間のそれに変わっていた。髪も目も黒く、肌は黄色。まぶたは一重で、背は15センチばかり縮んだだろうか。この国では見慣れた、線の少ない男の顔立ちだ。
 女は巨大なベッドの中心で小さくその身を竦ませていた。こちらの声に驚いて弾かれたように振り返ったが、逃げ出しはしなかった。長く艶やかな髪を妖艶に揺らし、細い身体を震わせて、けれどもその大きな黒い瞳は、真っ赤に腫れていた。見ているこちらまで胸が痛むほどだった。
「泣いているのですか? 辛く、悲しいことがあったのですね。もう大丈夫ですよ、僕が来ましたから」
 女が瞬きをして、大きな透明の雫がその両目から溢れ落ちる。その水滴は真っ白な頬をつたい、顎からシーツに落ちて広がった。
「……今日は、雨が降っているわ。月は見えない」
 存外しっかりとした口調に、にっこりと口角を上げる。部屋の中に下りても、女は何も言わない。
「ふふ、僕はね、空の上から来たんです。あのぶ厚い雲の上では、満月が燦然と輝いているんですよ。……だから、大丈夫。あなたの心も今は土砂降りかも知れません。けれど、止まない雨はないから。雨が上がればまた、満点の星空に出逢えるから。今はただ、僕の胸でお泣きなさい」
 そうしてキスをした。それだけでひどく甘くて、頭がくらくらしたことを覚えている。最高のご馳走を見つけたと内心興奮していたから、段々と目が霞んでいくのも、呂律が回らなくなっていったのも、そのせいだと思っていたけれど。
 服を脱がせたらαだった。立派なモノをしっかり勃たせておきながら、いつまでもめそめそと泣くものだから、こちらから跨ってやって……それから? 俺が覚えているのは、そこまでだ。
 意識がやっとハッキリしてきた頃には、その日から3日の時が経っていた。


   ×       ×


 ドアの開く音で目を覚ます。身体が余りにも熱いから、固くて冷たい床が心地いい。
「あーあー、また落っこっちゃって。痛くないの?」
 重い瞼をこじ開けた。女が頬に触れる、頭を撫でる。唇にキスをする。
「ねぇ、私気付いたんだけどさあ」
 はあ、と女の熱っぽい吐息が空気を掻き回した。
 自身の肌はどちらの体液ともつかぬものでベタベタで、もうどれだけの時間こうしているのかもよく分からない。
「キミ、もしかして私の精液がよくないんじゃない?」
 じゃらじゃら、じゃらり、冷たい鎖が床を這った。立ちあがろうにも、女に近付こうにも、この鎖が邪魔をする。
 縛られて、一人では何もできない。触れない。ただ女の帰りを待つことしかできない。
 女がいなくなれば眠って、女が帰れば気絶するまで抱かれた。ずっとその繰り返しだ。
「そうだよね? ヤればヤるほど元気になるなあって思ってたけど、多分ご飯の食べ過ぎだよね?」
 でも、足りない。まだ全然足りない。
 もっと欲しい。もっと続けたい。もっともっと、気持ち良くなりたい。触って欲しい。犯して欲しい。イキたい。出したい。もっと、もっと。
「抜いてみるかあ……」
「ひっ、ぁああん」
 女が触れた自分の中心から、甘い快楽が全身に広がった。細長い指が輪を作って、それを上下に動かされるだけで、全身が溶けていきそうな快感に襲われる。
「いっ、あ、ああぅ、うぅっ、あっあっ!」
 身体がビクビクと痙攣して背骨が反り返った。腹の奥がぎゅうっと縮んで、白く濁った精液が尿道を通り抜けていく。その感覚の、甘美なことと言ったら。
「いっかーい」
「はあっ、あっ、っはあ、っうぁ」
 女の手は止まらない。
 女が陰茎を擦るたび、全身に甘い痺れが広がって涙が出た。バタつかせた足はあっさりと女に押さえつけられ、止めどなく喘ぎ続けるせいで顎がワナワナと震えてくる。
 女が繰り返し繰り返しこの身に注ぎ込んだ、現実離れした濃度の精気。その異常な魔力の塊は、身体に終わらぬパニックをもたらした。耐えられない、死んでしまう、吐き出さなければ、何よりも優先して精気を外に出さなければ。
 思考は溶けて、身体は反り返って、馬鹿みたいに絶叫して。もしも外敵がいたなら即死ものの失態だろう。それでもこの激薬に内側から壊されてしまうよりは良い。
 我々サキュバスにとって“射精”とは、そういう死に瀕した緊急事態に行われるものの一つでもあった。ただそれには問題がある。精気という性質上、その苦しみはどうしたって快楽に結びついてしまうのだ。
「ひゃ、あっ、はあ゛っぁあ……!」
「ななかーい。すごいな、どれだけ入ってるの?」
「ふあっ、あ゛っ、ひゔぅ」
「さあ、どんどん行ってみよう~。ふふ」
「ひ、ま、まっでぇ、も、もうむり、むりぃしぬ、しんじゃう」
「おっ」
 女がまん丸にした目を覚えている。
 その手は頬に触れて、ひんやりと冷たかった。今にして思えば、自分があまりに熱かっただけかもしれないが。
「久々に日本語喋ったねえ。いいんじゃない?」
「もう、も、ちんこ、いたいぃ……さわ、ないでぇ」
「そうは言っても、キミのおちんちんはまだまだ元気だよ?」
「ひゔっ」
 女が勃ち上がる身体の中心を指で弾いた。擦られ過ぎて今や痛みさえ発するそこはぶるりと震え、痛みとも快楽ともつかぬ感覚に腰が浮く。
「それとも、キミはこっちの方がお好きかな」
「あっ、んぁあ、はあ」
 そう言って、女はぬらりと後孔に指を差し入れた。その刺激に、身体中の細胞が歓喜するのが分かる。散々使い込んだそこは最早指ごときではなんの違和感も訴えない。
 女が指を動かすと、ゾクゾクと全身が粟立った。消えかかっていた欲望がまた、グラグラと煮え立ち初める。
「あひ、あ、はあ、っおく、奥にもっと、ほしぃ……ねぇ、はなさ、おねがい、いっぱいそそいでぇ」
「……とっても魅力的なお誘いだけど、それじゃあ同じことの繰り返しになっちゃう」
「あうぅ、おねがぃ、しま……んぁ、たくさん、たくさんほしぃ、奥に、おくに欲しいの、おれのこと、犯してぇ」
「わかった、わかった。じゃあ代打を立てよう。ほら」
「んぇ……?」
 女がベッドの影から棒状の何かを取り出した。彼女がそれを目の前の床に押し付けると、その棒はまっすぐ天を仰いで床に直立する。
 そこまで見ていてやっと、その物体に焦点があった。ディルドだ、吸盤付きの。それもかなり長いブツだった。太さは彼女のものほどではないが、ここまで長ければ……一体、どれほど腹の奥深くにまで突き刺さることだろう。
「じゃーん、買ってきちゃった♡ って言っても、そのうち使えればいいかなって思ってたんだけど……ちょうどいいね」
 言いながら、女はそのハリボテにローションを塗りたくった。細い指先がそれを根本から先端まで撫で上げて、くるりと円を描く。
「さ、自分でやってごらん」
 顔を上げれば、女はこちらを見て、ゆっくりと目を細めた。
「見ててあげるから」
 う、とよく分からない音が喉奥で鳴る。女はそれきり黙り込んで、何も言わなくなった。ただ挑発するように、ディルドの先をくるくると愛撫している。
 腹の奥がドクドクと疼いて、自分はおもむろに動き出した。女の両目がじっとこちらを睨めつける。自身の呼吸が、震えが、一挙手一投足全てが見られている。そう思うだけで股間が熱くなった。
「がんばれがんばれ~」
 膝がガクガクと笑って、ほんの1mを移動するにも一苦労だ。腕が後ろ側で縛られているせいで、バランス一つ上手く取れやしない。
 やっとのことでそこまで辿り着いて、それを跨いで腰を下ろしても、ローションでヌルヌルになった玩具は中々自分の中に入ってきてくれなかった。つるり、つるりと滑って、すぐ目の前にある筈の快楽に、自分はまるで近付けない。
「もうちょっと後ろかな? 落ち着いて」
「うぅ、あ、はぁ……っ」
 ああ、焦れる。身体に上手く力が入らなくて、ただそれを挿れるだけのことに何度も失敗する。
 できない、たすけて、そんな弱音を吐いてやめてしまいそうになる。焦れて、焦れて、耐えられない。
 だがそれは突然やってきた。女が少しディルドを支えて、腹に手をやった時、それはぬるりと身体の中に侵入した。
「んぁあ、あっ、はぁあああっ!」
 少し肉を押し分けられただけで全身が粟立って、足から力が抜ける。あんなに長かったディルドが止めどなく身体の中に入り込み、押し出されるように自分は射精した。
 少しの間、意識が飛んでいたように思う。気付けば腰は完全に落ち、自分はすっかり床に座り込んでしまっていた。それはひどく長くて、今まで感じたことのないような身体の奥深くに突き刺さっている。息苦しくて、意識が朦朧としていた。
「あ゛、っかは……はあ゛っ、ふか、ふかいいぃ……っ」
「よくできました~。さあ、自分で自分の気持ちいいとこ探してごらん」
「う、くっ、あぁ、はあぁ……っ!」
 ゆっくりと腰を持ち上げると、腸が一度に擦れて、内臓全部が引き摺り出されていくかのような心地がする。ディルドの凹凸が腸壁を揺らして、前立腺がゴリゴリ刺激されて、陰茎の先からは白い液体がだらしなくあふれた。
 その全てを女が楽しそうに見ている。自ら腰を振って漏らす甘ったるい嬌声を、女が全て聞いている。
「うあぁあっ、く、はあ、あぁあ、すごぃ、ぃいこれ、ひぅうぐ、っんあ、はあぁ、とまんな、ぁあっ!」
 ぐぽ、ぐぽ、と卑猥な音が空気を揺らした。
 身体の中で無限に生まれ、広がっていく快感。自分はすっかりその奴隷だ。抗えもせず、ただ喘ぐことしかできない。
 そうして頭の中全部が快楽で埋まりかけた頃。不意に、女が息を吸った。
「マテ」
 女の言葉はまるで呪いか何かのように、ビシリと身体を縛りつけた。
 腰を一等持ち上げて、ディルドが抜けかかるところ。一番気持ちがいいところの直前で、姿勢が固まる。
 異星人の自分にだって、彼女の言葉が命令であることくらいは分かった。どうしてかこの時の自分は、それを無視するだなんて考えはこれっぽっちも浮かばなかった。
「わ、えらいねえ」
「あぁ、ぅ……っ!」
 女は満足気に微笑むと、はちきれんばかりに怒張する中心を指先で突く。それだけでビリビリと電流が身体の奥に広がって、ぴゅくり、と透明な液体が出た。
 自分に、女の視線がねっとりと絡みつく。
 熱い。股間が、腹の奥が、全身が熱い。一体いつまで待てばいい? ここからが一番気持ちがいいところなのに、腰さえ下ろせば射精できるのに。はやく、はやく、気持ち良くなりたい。これを腹の一番奥まで差し込みたい。出したい、出したい!
「マテ」
 女がこちらの思考を見透かすかのように、一段低い声で言葉を繰り返した。
「っゔ……はあぁ……っ」
 足にぐっと力が入る。腹の奥で欲望が叫んで、ギリギリ張り詰める音がした
 獣のような呼吸を繰り返しながら、奥歯を強く噛み締める。欲しい、たのむ、はやく、早くしてくれ、おねがいだ、はやく、ほしい、出したい、ほしいほしいほしいほしいほしい────
「よしっ」
 女の短い声を聴き終わるよりも先に、自分は一気に腰を下ろしていた。じっと待っていたお陰で、腸は収縮していて、今まで以上の巨大な異物感が内臓に襲いかかる。待ち侘びた快感に、腹の中全部が爆発したみたいになって、自分はただ大きな悲鳴を上げた。
「ひあぁああ゛っ!! あーっ! あっ、はあ゛っ、うああぁ、あっ、でる、でっ、でちゃうぅ」
 全身が大きく反り返ってガタガタ痙攣する。自身の痙攣で腹の中のディルドまで揺れて、その刺激でまたイって、絶頂はいつまでも終わらなかった。
 本当は、時間にすれば数秒だったのかも知れない。けれども自分にとっては永遠にも思えた地獄のような快楽が去っていった頃、ディルドはズルンと自分の中から抜けた。頭が床に当たって硬い音を立て、初めて自分が倒れたのだと分かる。
「はあ、ぁ、あぅ……」
「もう全部出たのかな?」
 声と共に伸びてきた女の腕が、腹を無遠慮に押し込んだ。そうしてそこをグラグラ揺する。
「んぁ、お゛っ、ぃああっ!」
 同時に空いた手は、すっかり萎えた性器を掴んで扱き始めた。ひどく敏感になった身体はそんな荒っぽい行為にも大袈裟に反応して、ガクガク痙攣した。無理矢理いかされて、腹の中が痛いほどに収縮する。
 自分は地を這う芋虫のように身悶えたが、女の方はどこ吹く風だ。まるで故郷のヤブ医者みたいじゃないか。
「ぁあ゛っ! がっ、はあぁあ゛っ」
「うんうん、何も出ないね。正真正銘、空っぽだ」
「あっ、ぅあ、はあぁ……っ」
「よく頑張ったね、もう終わりだよ」
 女の手が頭を撫でる。女はそのまま口にキスをしようとして、思いとどまり、その唇を頬にくっつけた。だからその接触にはなんの魔力移動もなかったのだけれど、なにか魔力とは違う心地よさが、自分の中に広がっていった。
「かーわいー顔しちゃってえ」
 くく、と女が喉を鳴らして笑う。
 その声を聞きながら、自分は目をつむった。そうしてやっと、意識を手放すことができた。

 次に目を開けた時は、ベッドの上だった。
 目を覚ましてすぐ、腕の拘束がなくなっていることに気付く。首まで手を伸ばせば首輪も軽く、手繰り寄せた鎖は途中で途切れていた。
「お、もしかしてかなり正気?」
 ぼんやりと鎖の端を眺めていたら、横から声をかけられる。首をひねれば、女が木漏れ日の中で本を広げ、こちらを見つめていた。
 女はパタンと本を閉じ、こちらに向き直る。
 身体を起こすと、カーテンが揺れ、柔らかな風が部屋に吹き込んだ。
「いやあ重いなキミ。ベッドまで引き上げるのが大変だった」
「お、前……オレ、オレは……どうなってた……?」
 状況を理解しようにも、記憶がぼんやりとしてよく思い出せなかった。かろうじて覚えているのは、自分が朝から晩までこの女に犯され続けていたこと、それだけだ。
 ふふ、と女が笑う。
「キミがこの家にきてから今日で4日目だよ。その間キミはこーんな状態だった訳だけど……」
 そう言って、女は携帯端末を取り出した。その画面には、ひっくり返ったカエルみたいな格好で嬌声を上げる、自分の姿が映っていた。
『あっ、あぁ、はなさ、はなさん好きぃ、おく、おくっ、もっと、っちょうだ、あっ、はあぁ』
「…………」
 果たして自分はこれを見せられて、どんな顔をすればいいのだろう。
 行為を撮影されたことはぼんやりと記憶にあって、たしかにあの時の自分はこの女に言われるがまま、カメラの前で足を開いた気がする。
 とはいえ、この3日の記憶がほとんどないのは事実だった。今目の前で流れている動画がいつ撮られたもので、この時自分が何を思っていたかなんて、まるで思い出せやしない。
 だが、それでも、少しだけ。画面の向こうで心底よさそうに喘ぐ自分に、腹の奥が疼く。
「改めて自己紹介するね。私は神崎花。あなたのお名前は?」
 端末を下ろしながら、女は言った。
 だが残念ながら、こちらには名乗る道理なんてない。我々にとって名は神聖なものだ。異種族との契約の証であり、楔であり、魂。命そのものと言ってもいい。間違っても、行きずりの女に教えていいものじゃない。
 だからこの問いに対する答えは“沈黙”だ。それ以外に、選択肢なんてない。……はずだった。
「……グレン」
 ────あれ?
「苗字は?」
 違う。こんなはずじゃあ。
「ただのグレンだ。苗字はない」
 違う、違う。喋ってはダメだ。
「ふうん? 日本じゃ“赤”って意味だね。赤い蓮の花の色、燃え盛る炎の色……それを、紅蓮って言う」
「へえ……」
 ダメだ。これ以上口を開いてはいけない。この女に情報を与えてはいけない。元の生活に戻りたいと思うなら。あの星に、仲間のもとに帰りたいと思うなら。これ以上はダメだ、絶対に────
「素敵な名前だね」
 女がふわりと、目を伏せて微笑んだ。
 それを見なければよかったと、今でも思う。きっと、そうすればまだ、踏みとどまれたのかも知れないから。
 気付けば自分はゆっくりと顔を伏せていた。そうして静かに目を瞑った。
「……俺は孤児でね。その名前も、最初に俺を育てたジジィがつけたもんだ」
「そうなんだ」
 心中は不思議と穏やかだった。
 思い出すのは、今まで餌にしてきた女たちのことだ。最初こそ魔力に浮かされ、熱を孕んだ瞳を瞬かせた女たちも、ヤッた後には落ち着いた目で喋りだした。
 先輩に褒められたこと、取引先に怒鳴られたこと、男に振られたこと、新婚旅行を楽しみにしていること、学校で友人の上履きを隠したこと、母親に蹴られて悲しかったこと、酔った親父に指を突っ込またのが初めてだったこと。明るい奴から暗い奴までたくさんいた。でもその全員が、ことの後には穏やかに喋った。
 きっとこういう気持ちだったんだ。だからみんなあんな顔で、俺なんかに自分のことをよく話した。
「……アンタ、サキュバスって聞いてなにを思う。若いか、老いているか、男か、女か」
 女が小さく首をかしげる。長くて黒い髪が艶やかに揺れた。
「私のイメージだと若い女だな。妖艶な、さ」
「っはは、だろう? だがなあ、男にもいるんだよ。サキュバスって種族は。ほんとに、食えねえ生きもの」
「私みたいなαを狙ってるの?」
「いやいや。女のα性は希少過ぎる。俺も初めてお目にかかったよ」
 肺からたっぷりの空気を吸って、吐く。まっさらなシーツが心地よかった。木漏れ日が当たってキラキラと光り輝いていた。
「元来は女サキュバスと同じように、異性を相手に粘膜接触で魔力を奪う……でも、精を吐き出す男とそれを享受するだけの女じゃあ、どっちがいいエサかなんて明白だよな。なのに男サキュバスってやつは女サキュバスときっちり同数、この世に生まれ落ちる。神様ってやつは、どうしてこんなに不平等なモンを作っちまったんだかね」
 自嘲気味に笑った言葉に、されど女は同調しなかった。彼女は少し眉根を寄せて静かに言った。
「苦労してきたんだね」
「……っ」
 女の腕が伸びてきて頭を撫でる。
 なんだか涙が出そうになって、慌ててそれを振り払った。
「……っアンタは」
「へ?」
「アンタはなんなんだ。なにが目的で、こんな」
 そう言って女の目を睨んだら、女は振り払われた右手をそのまま自身の口元に持っていった。そうして唇を撫でてから、聞き慣れた声でコロコロと笑った。
「ああ、趣味だよ、趣味。両親にいきなり死なれてしまってね、それで落ちぶれるような歳でもないんだけど……お家目当ての男や友人はみんな離れていってしまったよ。おかげで時間も、この馬鹿でかい家も、持て余してる」
「……」
 しばらく待ってみたが、この花とかいう女はそれ以上言葉を続ける気はないらしかった。ただ無聊を慰めるためだけに、単なる遊興で、通りすがりの悪魔を3日間も犯し続けたと、そういうことなのだろうか?
「……狂ってんな」
「あはは、突然家に押し入ったレイプ魔が言うこと?」
「俺のは食事だ。そして同意だ」
「この3日間も、同意だと思ってたけど」
「……」
 押し黙ったら、花は立ち上がりベッドに座り直した。そうしていっそう近くなったら距離から、真っ直ぐにこちらの顔を覗き込む。
「あんまり覚えてないのかな? 凄かったよ? すぐ気絶して、時々起きて、また気絶して。私は何度か出掛けたけど、帰ってくるとガチャガチャ鎖を鳴らして喜んでさ。『もっと』『早く』『犯してくれ』って、ぷるぷるお尻を振って……」
 花の真っ黒な目が愉しげに細められる。黒いまつ毛と相まって、もうどこまでが彼女の瞳なのか分からない。
「サキュバスってやつは腰が抜けるほど好みの姿で現れるって、本当だったんだねえ。とはいえ、姿が変わってもキミは可愛かった。でも、ふと、キミってなんなのかなって思ってね」
「……3日も経ってからか」
「そ。明らかに人間じゃないよなあって。初めてここに来た日も、気絶するなりキミの姿は見る見る変わっていったしね。流石にあれは驚いた。淫魔の類だろうなあと思って、じゃあ私の精液のせいでこんな頭おかしくなっちゃってるのかな? って……聞いてみたけど、キミはもうあんまり言葉通じなかったし」
「……それで、せっせと抜いてくれたわけだ。覚えてるよ、その辺りは」
 ふい、と彼女から目を逸らす。
 少しばかりのぬるい沈黙の後、再び口を開いたのは花だった。
「逃げたいって言わないんだね」
「あ……?」
 流し目に視線をやる。それだけのことにも花は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「普通、野生動物を捕まえると逃げようと躍起になるものなんだけど」
「野生動物扱いか」
「似たようなものだよ」
 しばしその返答に逡巡して、自分の首から下がった鎖を掴み上げる。その端はどこにもつながっていなかった。
「そういうアンタこそいいのかよ、俺が逃げないよう縛っておかなくて」
「逃げたいの?」
 そう言って彼女は真っ黒な目を、キィ、と細めた。思わず長いため息を吐き出す。
「……ちょっと、考える」
 そう言って彼女に背を向ける。
 花は、わかった、とだけ言って部屋を後にした。開け放たれた窓からは、変わらず、初夏の穏やかな風が部屋に流れ込んで来ていた。


   ×       ×


 3日後 神崎邸 一室

「そうだなあ……直接聞いてみたら?」
 そう言って、花はこちらに振り返った。
 こっそり盗み聞きするつもりだったのだが、どうやらそんな魂胆はとっくに見透かされてしまっているらしい。ニコラの動揺する気配が分かる。このまま無視して踵を返してもよかったが、もうそうやって距離を置くことさえも、自分にとっては面倒だった。
 開けっ放しの扉から姿を現せば、呆然とこちらを見つめるニコラの間抜け面と目が合う。その首には自分と同じ、真っ赤な首輪がはまっていた。
「……お前まで捕まったのかよ。ったく、やっぱりロクな場所じゃなかったな、地球」
 そう声をかけてやれば、ニコラは複雑な表情でその口を歪ませた。もしやあれで笑っているつもりなのだろうか。悪魔のくせに、表情作りの下手な男だ。
「……名前、教えたんだな。意外だわ」
「お前だってそうだろ」
「俺みたいなちゃらんぽらんとアンタじゃ違うでしょ。しかもさー、そんな顔しちゃって」
 クスクスとニコラが笑う。
 思わず顔をしかめるが、それはニコラの機嫌を余計に良くするだけだった。ニコラは自分のことなどはすっかり棚に上げ、こちらを指差して子供のように笑った。
「あっはっは! ほらそういう顔! 無自覚なん? ウケるわ~」
「……」
 返す言葉も思い付かずに黙り込む。
 以前ならここまで言われたら殴りかかっていた気がするが、今はどうしてかそんな気も起きなかった。何より花がいる前で暴力は気が引ける。
「ニコ、笑い過ぎ」
「はーい」
 花はニコラをたしなめると、こちらにくるりと振り返った。
「ニコはここにいてくれるって。どうする、グレン?」
「……」
「えっ、まだ帰るとか言ってんのコイツ!?」
 ニコラがわざとらしくおどけて見せる。花は、ふふ、と息を漏らして微笑んだ。
「悩んでるんだって」
「へーえ」
 愉しそうに目を細めるニコラに、舌打ちを返す。自分が身の振り方を決めたから、高みの見物というわけだ。
 ニコラを無視して花の方に視線をやれば、彼女の真っ黒な目と視線が合った。
「断る、って言ったらどうするんだ」
「ううん、それはオススメしないなあ」
 花が肩を竦める。
「なぜ」
「本当に逃げたいなら、私にバレないように、こっそり計画を立てて全力で逃げ出しな。逃げると分かってる子を黙って見逃すほど、優しくないよ」
「……わかったよ」
 それだけ言って、自分は部屋を出た。
 花は追いかけてこない。ちょうどいい。しばらく花の顔を見ずに頭を冷やしたかった。ここのところ寝ても覚めても花のことばかり考えていたから、少しの間、1人になって考えたかった。


   ×       ×


 同日 夜 グレンの部屋

「おっまえ、猿か!?」
 重い音を立てて扉が開いたのはその日の夜のことだ。そこには花が立っていた。ニコラの部屋を後にしてから、6時間しか経っていなかった。
 花は問答無用で部屋に入り、ベッドで仰向けになっていた自分に跨って、襟ぐりから服の中に腕を突っ込んだ。慌てた自分が思わずその手首を掴んだのだって、仕方のないことと言えるだろう。
「顔見たくなっちゃった。セックスしよ~」
 悪びれもせず、花が言う。
 掴んだ手首は驚くほど細くて、あっさりとその動きを制止できたことに、自分は少々戸惑った。白くて、華奢な、女の腕だ。きっとこのまま力を込めたら簡単にへし折れてしまうだろう。
 そんなことを考えていたら、おもむろに花の顔が近付いてきた。
「ちょっ、ま……っ」
 最後まで言うより先に口を口で塞がれる。唇を割ってぬらりと舌が入り込んできて、歯列をなぞった。その舌に上顎をくすぐられて、舌を裏返されて、あっという間に意識がぼんやりとしてくる。
 口の中に流れ込んできた彼女の唾液がひどく甘くて、無意識に飲み込んだ。やっと彼女の口が離れていく頃には、自分の呼吸はすっかり震えていた。
「あぅ……あ、っは……」
 花の手が膨らむ股間を撫でる。思わず眉根を寄せるが、彼女は満足気だった。
「ふふ、元気。食事のたびにこんなことになってたら大変じゃない?」
「っ馬鹿、アンタだけだ、こんなことになんのは……!」
「あはは、殺し文句」
 彼女が笑う振動さえ、腹に響く。
 花は両手を持ち上げて、こちらの顔を両側から包んだ。そのまま近付いてきたからキスをされるのだと思って、目を瞑ったが、いつまで待っても彼女の唇は降ってはこなかった。
 そっと目を開けると、まつ毛の本数さえ数えられるほど近くに、花の顔があった。
「考えたんだけどさあ」
 言葉とともに、彼女の真っ黒なまつ毛が揺れる。
「キミ、うちの子になりなよ」
「……」
「まだ正式にお誘いしてなかったなーって思って」
 ふふ、と漏らした息が唇をなぞった。
 彼女はまだ、キスをくれない。
「好きなだけご飯をあげるし、好きなだけ愛してあげる。だから、うちにいて欲しいな」
「……だ、めだ」
 やっと口から出た言葉は、情けなく震えていた。
「俺を……待ってるやつが星にいる。そいつを、裏切ることに」
「そうだよ」
「……!」
「裏切ってくれって言ってるの」
「……ぅ、いや、俺は……」
 花の言葉に、ぎゅっと喉の奥が詰まった。
 ふざけるな、と叫ばなければいけない。そんなのは絶対にお断りだと啖呵を切って、今すぐ窓から飛び出さなければいけない。この黒い、黒い瞳から目を逸らさなければ。
「グレン」
 静かに呼ばれた名前に、一瞬息が止まる。何も言えなくなって中途半端に開いたままの口に、花はそっと自身のそれを重ねた。
 下唇をやわくはんで、吸い、ちゅ、とリップ音が響く。離れた彼女の唇は穏やかに弧を描いていた。
「私を選んで」
 彼女の笑顔は静かなものだった。
 自分はどうだっただろう。未だにそれは思い出せないし、思い出したくもない。
 ただ確かだったことは、この時の自分はついぞその場所から逃げ出すことが出来なかったということ。それから、こんな風に名前を呼ばれたシェオルの存在が、その誘惑に逆らえるわけなどなかったということだ。
「……悪魔だ、あんた」
 やっと彼女から視線を落とせたとき、自分の口から出た言葉はそれだけだった。花が、フフン、と鼻を鳴らす。
「へへ、本場悪魔のお墨付き」
 この時の自分はもう、彼女に合わせて笑っていたように思う。そうでなければ契約などできるはずもない。
 ベッドから降りて片膝をついた。月光を背にこちらを見下ろす花は、驚くほど綺麗だった。
「花、俺はアンタを選ぶ。サキュバス、グレンは……あなたに忠誠を誓うよ」
 手を伸ばしたら、何も言わずとも花は手に手を重ねた。その甲にそっと口付ける。
 彼女は珍しく、照れ臭そうに肩をすくめて笑っていた。
「ありがとう。でも、なんで忠誠?」
「これは契約だろ? それに……」
 肩の力を抜いてベッドサイドに座り直す。そうして花の手に手を重ねた。ここだけ見れば、まるで同じ種族の恋人同時みたいだ。
「サキュバスが性行に及ぶのは、子供を作るときと、食事をするときだけだ。それ以上でもそれ以下でもない」
「なるほど? 私のは食事枠だよね」
「違う」
「……?」
 花がこてんと首を傾げた。
「食事でも、繁殖のためでもない。……だから、俺はアンタに忠誠を誓う」
 花の手を掴んで、今度は額に当てる。
 だから彼女の顔は見えなかった。花がこの時どんな顔をしていたのかは分からない。
 けれども彼女は、驚いたように一瞬その腕を引いた。それから返答までには今までより多くの時間があった。それだけで、こんな歯の浮くような台詞を吐いた対価には十分すぎるほどだった。
「いや……いや、不器用か」
 珍しく動揺した声色に、思わず肩を揺らす。
 この時から俺はこの屋敷の、神崎花の所有物になった。もう、3週間も前の話だ。
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