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しおりを挟む時折吹く強い風に乗って物が焼ける臭いが鼻先をかすめた。
夜の海で燃え続ける船は港からは遠ざけられたが、その熱気と煙は未だに周囲を包んでいた。
まるで戦場の後方にいるような現場で怪我をした人間に黙々と応急処置を続けている。
「ヴィルヘルム!おいヴィルヘルム!!」
桟橋の向こうから私の名を叫びながら走って来たローレンツに反射的に返事をした。
「見付かったぞ!!生きてたんだっ!!!」
息を切らして桟橋の向こうを指差すローレンツの言葉を最後まで聞かずに、手にしていた包帯を近くにいた同僚に押し付けて駆け出していた。
広くない桟橋を走ると所々に座り込む人々が何事かと声を上げるが、今は気にならなかった。
薄暗い桟橋の上でそこだけ少し明るく見えた。イツキが私に気が付いて私の名を呼ぶ、その声が止まない内に急いでイツキを腕の中に捕まえた。
そのまま抱きしめると彼から生きている人間特有の温かさを感じて、イツキが生きていてくれた事にじわじわと実感が湧いた。
生きていてくれて良かった、本当に良かった……。
何度も謝るイツキに何に対して謝っているのだろうかと思う、彼はあの時船から飛び降りた行為にもエルミアの身代わりになった事すら後悔をしていないだろう。
ここで口にする謝罪は私や周囲に心配を掛けた事に対してのみで、決して自分の行動を考え直してはくれないのだろうなと悟る。
「……許さない」
少し震えた彼の身体が海水ですっかり冷え切ってしまっている事にやっと気が付いた。
「無茶をするなと、約束したばかりだったろう……」
海に飛び込むなんて、その後私がどう思うかなどこの人は想像もしないのだ。
それはある意味とても残酷な事だと思う。
「泳ぎには自信があったし、自分に出来る事をしたかったんだ」
私の事も待たずにかと間に合わなかった私が言えた義理では無いのに、つい彼を責める言葉が漏れそうになる。騎士として全ての国民の為に献身を惜しまないと考えている私も、彼ほど自己犠牲を厭わないかと言われると素直には頷けないだろう。
少し冷たい彼の手が私の頭をおずおずと撫でる。
頭を撫でられるなど子どもの頃以来だが、こんな事で誤魔化されると思われたくない。止めてくれと顔を上げると、夜の闇よりも深い瞳と目が合った。
「……もう無茶はしないと誓ってくれるまで、君を離さない」
「離さないって……このまま?ずっと?」
呆れたように聞き返すイツキに、そうだ一生このままだと答えた。そうでもしないとイツキは私など置いてどこにでも行ってしまいそうだ。
本当は守護騎士の誓いだって、彼が自分の安全を少しでも優先する要素になるなら、このままで良いと思っている。
「それは、困る……かも」
既に困ったように笑ったイツキは燃え続ける船からの灯りを受けて、本当に綺麗だ。
そして今一生共にいると言った私の事を、これだけ簡単に手放す彼は優しく残酷だ。
「もう危ない事はしない」
神妙な顔で言う彼に私は今まで何度騙されただろう。
「……信用出来ない」
「えっ!どうしろと!?」
少しも私を頼ってくれないイツキの事を、自分より他人を優先する彼だからこそ私はイツキを信用出来ない。
「君のこれからの行動で、生涯をかけて私に証明してくれないか」
どうか無茶はしないでほしい、例えこの世界がこの国が君にとってどれだけ生き辛くても何処にも行かず私の傍で生きてほしい。その為なら私はどんな事でもするだろう。
見詰めていたイツキの顔が、表情が僅かに微笑むように緩められた。
「約束する……」
深黒の瞳がキラキラと揺れて、瞬きと共に涙がその柔らかそうな頬を伝うのを見て動揺した。力加減を間違えないようになるべく優しく指の腹でその涙を拭う。
初めて見るイツキの泣き顔は不思議とすぐに泣き止んでほしいとも思えず、到底年上とは思えないその顔をもっと困らせてみたくて、吸い寄せられるようにその下の唇に顔を寄せた。
「ごほっごほん!」
もう声を掛けてこないのかと思ったが、隣に立つローレンツの咳払いでイツキが慌てて私から距離を取った。せめてもう少し待ってくれても良かったのではないだろうか。
疲れた顔のローレンツを見ると向こうも言いたい事があるという顔をしていて、仕方なく礼を言って先に引き揚げさせてもらう事にした。
宿舎までの道程もイツキが何処かに行かないように手を引いて歩くが、後ろから聞こえた小さなくしゃみに彼の状態を思い出したが貸せる物がマントしかなく急いで羽織らせた。
明かりのついた宿舎に戻ると、自警団の人々とエルミアさんが温かく迎えてくれた。
明かりのついた宿舎に到着し、留守を任せていた自警団の面々に状況と礼を伝えてエルミアには早々に休むように伝えた。
エルミアとイツキの間にも積もる話があるのも分かるが、どちらも体力の限界だろう。
寝所をどうするか考えていた所でオスカー団長が到着し、不寝の番を買って出てくれた。本来なら勿論部下である私の仕事だが、姉をしっかり休ませろという指示でエルミアと共に寝室に向かう。
「ねぇヴィル、イツキさんって優しいわね」
やっと笑った姉に、彼の本領はまだまだあんな物ではないと口を開いた。
翌朝、習慣で早くに目が覚めた私は早速昨晩団長とイツキを2人きりにした事を後悔した。
明らかに泣き腫らした様子のイツキの寝顔を見て、椅子で伸びていた団長に詰め寄る。
「どうして彼を泣かしたのですか、一体何をしたらこんなになるまで泣くと?」
「おいおい目が据わってんぞ!朝っぱらから物騒なヤツだなぁ」
「団長……」
誤魔化して茶化すのがこの人のいつもの調子なのだと分かってはいるが、余裕が無い時は上手く受け流せない。
「だから~なんだってお前はそんなに俺に信用が無ねぇんだ」
「ご自分の胸に手を当てて考えてください」
オスカー団長に限ってイツキが嫌がる事をわざわざするとは考え難いが、実際泣き腫らしたようなイツキの様子から理由を聞いているだけなのに原因を話そうとしないこの人に朝から疲労感を感じた。
我々の声で起き出したイツキによく眠れたかと聞くと、眠れたとは言うが団長に何か言われたかと続けると曖昧な返事が返って来た。
朝食の途中でイツキの務め先だった時計工房のヘレナ嬢が訪ねて来たが、男だと分かったイツキの手を握る姿に思わず握った拳に力が籠ってしまった。自分の狭量さに辟易していると隣に立つ団長が笑う気配があり、慌てたように詰め所に戻ると言い残し玄関から出て行った。
「すまんな、下手すりゃ隣と戦争なんだ」
午後一番に団長の不穏な言葉と共に連れ出される事になり、急な外出にイツキとエルミアは慌てて身支度を始めた。
嫌な予感がして団長に行き先と経緯の説明を求めると、簡潔に説明してくれた。
隣国のフォンヒューズ帝国から捜索願いが出ていた第一皇女のルーシャ様が昨晩の救出現場から無事に見付かったという吉報と、その容体があまり良くないという凶報が同時にもたらされた。我が王国の領土内で摘発された事件に皇女が巻き込まれているだけでも大きな問題だが、その健康も損なっているならば外交問題に発展する事は間違いない。
「他に頼れる治癒師がいない……すまん」
私に頭を下げる団長に、無理をするのは私ではなく姉ですと伝えて皇女が待つという例の常宿を目指した。
「入ってくれ」
一等客室の中から聞こえた綺麗な発音の帝国語に、その場に一気に緊張が走った。
帝国の伝統的な衣装に身を包んだ男を見て、その佇まいに妙に納得した。山中の廃墟に囚われたイツキを救出する際には随分助けられたが、只の商人ではないと思っていた自称ジャミエルトという年若い青年が悠然と立っている。
年の頃と外見の特徴からフォンヒューズ帝国の気分屋の第三皇子とは彼の事だろう。
イツキは終始心底驚いた顔をしていたがベッドの上の幼い皇女の姿を認めると、その表情は痛ましいものに変わった。
姉さんの心配いらないという言葉に一同安堵して退室の機会を窺うと、皇子自ら我々と共に表に出ると言い出した事にまた驚いた。
冷戦状態とはいえ帝国と王国の公式な場面での交流はまだなく、我々王国騎士団でも帝国の皇族を目の当たりにするのは初めてだ。それを護衛もなく皇子自らが一緒に来るという事はそれだけ今回の件で我々が彼らの信頼を勝ち得たという証拠だろう。
「イツキは帝国の言葉どこで覚えましたか?」
独特の発音で発せられる母国語に思わず肩の力が抜けそうになるが、これも計算の内かもしれない。
先程までの滅多に聞かないような綺麗な帝国語の発音と比べ、およそ同じ人物の言葉とは思えない片言の王国語は彼らと我々の距離感をよく表していた。
困ったように私の方を振り返ったイツキに、先程から皇子が交互に話す帝国語と王国語に柔軟に対応している事を伝えると、本人に自覚は無かったようで驚いた様子だ。
いつの間にそんなに距離を縮めていたのか親し気に話すイツキと第三皇子の背中を見守っていると、皇子からイツキに握手が求められた。
思わず止めに入ろうかとも思ったが、流石に失礼に当たると思い様子を見守る。金で出来た腕輪を贈られて碌に抵抗も出来ないイツキだが、あの華奢な腕輪1つで一般的な騎士の年収と同じくらいの価値があるとは想像もしていないだろう。
わざわざ王国の言葉で我々にも分かるように目の前でイツキを口説くこの男が帝国の皇子でさえなければ……。
「イツキが成人したら、きっとワタシの国にも来てくださいね」
領主の屋敷の前で皇子が別れ際に言った言葉が気になり団長に聞くと、あの皇子と皇女から内々でイツキを帝国に招待したいという打診があったそうだが断る口実が思い付かず”彼はまだ未成年なので国外に出る事を許可出来ない”と返答したらしい。
先方はその質問ですんなりと納得したそうで、帝国の成人は二十歳と定められていたはずだが……イツキには黙っておこう。
予定していた時刻より遅れて到着した詰め所は、独特の気まずい空気に包まれていた。
昨晩の作戦中に騎士団では負傷者が出なかった筈だが、まるで仲間を失ったかのような雰囲気に何事かと同僚達を見回した。
「お前はまだ若いっ!いや早過ぎたきらいすらある!!」
私を励まそうとする先輩の言葉に心当たりがなく、逃げ出そうとしていた団長を捕まえて事情を聞くとどうやら私が新婚早々イレーネに逃げられた事になっているらしい。その話を聞いてやっと同僚達からの憐れみを含んだ視線に納得が出来た。
確かに王都でこの偽装夫婦を押し通す事は難しいので、どう説明しようかとは思っていたが団長が自分に任せておけと言っていたので油断していた。
次々に王都に近い親族や友人を薦めてくれる同僚達に”当分は考えられない”と言うと、納得してくれたようで一様に口を閉じてくれた。
宿舎に帰る途中立ち寄った食事処ではイツキの機嫌がすこぶる良かった。
店内を見渡し厨房の奥へ熱心に視線を送る姿を見て、そういえば彼にとって外食の機会はそう多くなかった事に気が付いた。なにもかもが新鮮なようだ。
少しだけ口をつけた食前酒で足取りの軽くなったイツキと宿舎への道を辿る。
彼からは先程から際限なく食事についての話ばかりで、そんなに興味があるなら時計の職人といわずに料理人になるのもひとつではないかと一瞬考えたが、多くは体力勝負で屈強な身体の料理人が多い厨房で大きな制服に着られるイツキを想像すると思わず笑い出しそうになってしまった。
「食べ物で何処に住みたいか決まるかもしれないだろ」
そんな事を言う彼に改めて自分とは別の世界から来たのだなと実感する。
「イツキは自由で良いな」
そんな考え方は今までの人生でした事がなかった。
何を食べたいかで住む場所を決めるなら、誰を護りたいかで生き方を変えても良いのだろうか。私の”自由”という言葉を繰り返して、イツキが晴れやかな顔で振り返った。
「王都に着いて”守護騎士の誓い”を解いてもらったら、ヴィルヘルムも自由だよ」
虚を衝かれたようで言葉に詰まった。
今までの礼を述べる彼の口をどうにかして塞げないかと思う。誓いはこのままでも良いと、むしろイツキを護る為の口実になるならこのままが良いと覚悟している。
だが彼にとって自分以外の命を無条件に預かるという事は決して彼の言う”自由”ではないのだろう。呪いのような誓いの言葉で彼を縛ろうとしているのは私の方だと自覚している。
守護騎士としてではないなら、私は彼のなにに成れるだろうか。
この時なんの返事も出来なかった私は、王都までの道程でずっとこの疑問の答えを考える事になった。
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