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7.帰る家、そこで食べたい家の味
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帰るというなら栗原の家ではなく、ここが公一の家だろう。本当ならここが自分の帰るべき場所で、この家こそが公一が家族と暮らす家だ。
玄関先で、鍵穴とドアノブをガチャガチャと回す音がした。慌てたようなそれにバタンと大きく扉を開いた音が続き、バタバタと短い廊下を走る音が響く。
「かあさん? 帰ってきてるのか!?」
大きな声と、リビングのドアを開く音が同時に響く。公一がキッチンカウンターごしに目をやれば、父親がそこに立っていた。
「なんだ。……お前だったのか」
明らかにがっかりしたような声が、父親の本心を物語っている。
「いや、かあさんじゃないからどうだとか、そういう意味じゃないぞ。その、……おかえり」
公一は苦笑いしながら、それにただいまと答えた。
流しの汚れ物を洗う手を止めずに、公一は自分の手元に目を落とす。
「俺さ、今、会社の後輩のとこに世話になってて。今日は、ちょっと要るものを取りにきただけだから……」
そうか、そうか、と力のない声が答える。
手に持っていたレジ袋をそのままリビングテーブルの上に置いて、父親は溜息とともにどかりとソファーに腰をおろした。リモコンを手にテレビをつけると、平日昼間のうるさいばかりのワイドショーをザッピングし始めた。
テレビの音と、流しの水音だけが沈黙の中にしばらく響いた。
「公一。……お前、ちゃんとメシ喰ってるか?」
水音に、聞き逃しそうな声が落ちた。
公一が耳をそばだてていなければ、実際に聞き逃していたかもしれない。
先に沈黙の緊張を破ったのは、父の声だった。
「食べてるよ。父さんこそ」
言葉は不自然に途切れる。
ちゃんと食べているのか、という質問など愚問だ。
残っていたのはコンビニの弁当がらばかりだ。偏食の癖がある父親は、母が作った物でも気に入らなければ残すような人だった。
また、好きなものばかりを食べているんじゃないか。もう若くないだろ、それじゃあ体を壊してしまうのに――自分を棚に上げて、言いたい言葉はもう喉まで出そうになっていた。だが、公一はどれも言葉にすることができなかった。
「これ、お前が片付けてくれたのか」
物思いに沈みかけた公一を、リビングからの声が引き戻した。
カウンター越しにソファをみれば、部屋を見渡す父の姿があった。
「――すまんな。ありがとう」
顔も見ずに掛けられた感謝の言葉に、公一はとっさに「あ、うん」としか返せなかった。頑固な父親からの、思いがけないありがとうという言葉に、公一の胸にほんのり湧いたのは、ちいさな喜びと、疼くような寂しさだった。
「うん。でも……それたぶん本当は、母さんに言わなきゃいけなかったんだと思う」
ぽつりとこぼした本音は、そのまま夕方の乾いた空気になった。
そこから「じゃあ、俺行くわ」と公一が声をかけるまで、二人は結局、一言も言葉を交わすことができなかった。
父は、あんなに小さい感じのする人だっただろうか。
公一は、足早に自宅を出た。俺を育ててくれた人は、あんな寂しそうな顔をする人だっただろうか。
定年を迎えても、父は父だと思っていた。厳しいけれど懐が大きくて、部下に慕われて、いつも傍若無人で偉そうにしていた人だ。
おそらく、そんな姿はどうせこの先も変わらないのだろうと思っていた。
だが今の父は、息子の顔を見て「ありがとう」と言うことすら照れくさくてまともに言えないような、ひどくシャイで小さな人だった。
家に帰りたい。栗原のいる家に。
自宅を出て、栗原の家に帰る帰り道、公一は思いついて妹にメールを入れた。
『母さんのハンバーグとデミグラスソースのレシピを教えてほしい』
里心がつく、というのなら、今の公一の心境はまさにそれだったかもしれない。
だが、公一が帰りたいのは父親しか待っていないあの家ではない。無性に母親の味が懐かしかった。それが当たり前にあったあの頃が懐かしい。
今、できないことは、今から学べばいい。公一はこの数日でそれを知った。
知らないことは、これから知っていけばいい。食べたいものがあるなら、誰かが作ってくれるのを待つだけじゃなくて、自分で作るという選択肢だってある。
お兄ちゃん、どうしちゃったの? と驚いているような返信が、折り返してきた。
「急に、食べたくなったんだ」
妹の信じられないという声が、タイムラインに流れてくる。
まあ、信じられないのも無理はない。家にいたときは、料理どころか食べ終わった食器すら、そのままにしておくのが当たり前の生活だった。
「母さんのデミグラスソースのハンバーグが食べたくなった。だから、自分で作ってみようと思って」
レシピがあっても、上手くできるかどうかはわからないけれど。
丁度、最寄りのスーパーに公一がたどり着くころ、手書きのレシピを写真で撮ったメッセージが妹から送られてきた。
誰か、食べさせたい人でもできたわけ? なんてメッセージ付きで。
レシピには、材料の分量だけでなくどんな肉を選んだらいいのかというアドバイスまで、びっしりと書かれていた。メモ用紙の手書きの文字は、見慣れた懐かしい公一の母親の字だった。
ソースのレシピの最初には、『フォン・ド・ヴォーから作るデミグラスソースは時間がかかるから、出来合いのデミグラスソースでもOKよ』と但し書きがある。細かな字で書かれた手順を目で追いながら、スーパーのかごを手に、材料を探す。
合い挽き肉のミンチだけでなく、牛もも肉の塊も加える。
塊肉をわざわざ包丁でミンチにして混ぜるのは、粗く叩いた肉を加えることで、食感が良くなるから、らしい。
コショウに黒や白、粒や粗びきといった用途ごとの種類があることも、ナツメグなんて名前の香辛料があることすら、レシピを見ながら調味料の売り場に来るまで公一は知らなかった。
――こんな手間をかけて、あの食事は作られていたのか。
「料理は愛情よ、がんばってね」とメモの最後に添えられていた母親らしい一言に、公一の顔に苦笑いが浮かぶ。
レシピ通りに、上手く作れたらいい。それを、できたら栗原が喜んで食べてくれればいいと思う。
母の味がそのまま再現できるとは限らないが、このレシピがこれまで公一を育ててくれた味なのには違いないのだから。
玄関先で、鍵穴とドアノブをガチャガチャと回す音がした。慌てたようなそれにバタンと大きく扉を開いた音が続き、バタバタと短い廊下を走る音が響く。
「かあさん? 帰ってきてるのか!?」
大きな声と、リビングのドアを開く音が同時に響く。公一がキッチンカウンターごしに目をやれば、父親がそこに立っていた。
「なんだ。……お前だったのか」
明らかにがっかりしたような声が、父親の本心を物語っている。
「いや、かあさんじゃないからどうだとか、そういう意味じゃないぞ。その、……おかえり」
公一は苦笑いしながら、それにただいまと答えた。
流しの汚れ物を洗う手を止めずに、公一は自分の手元に目を落とす。
「俺さ、今、会社の後輩のとこに世話になってて。今日は、ちょっと要るものを取りにきただけだから……」
そうか、そうか、と力のない声が答える。
手に持っていたレジ袋をそのままリビングテーブルの上に置いて、父親は溜息とともにどかりとソファーに腰をおろした。リモコンを手にテレビをつけると、平日昼間のうるさいばかりのワイドショーをザッピングし始めた。
テレビの音と、流しの水音だけが沈黙の中にしばらく響いた。
「公一。……お前、ちゃんとメシ喰ってるか?」
水音に、聞き逃しそうな声が落ちた。
公一が耳をそばだてていなければ、実際に聞き逃していたかもしれない。
先に沈黙の緊張を破ったのは、父の声だった。
「食べてるよ。父さんこそ」
言葉は不自然に途切れる。
ちゃんと食べているのか、という質問など愚問だ。
残っていたのはコンビニの弁当がらばかりだ。偏食の癖がある父親は、母が作った物でも気に入らなければ残すような人だった。
また、好きなものばかりを食べているんじゃないか。もう若くないだろ、それじゃあ体を壊してしまうのに――自分を棚に上げて、言いたい言葉はもう喉まで出そうになっていた。だが、公一はどれも言葉にすることができなかった。
「これ、お前が片付けてくれたのか」
物思いに沈みかけた公一を、リビングからの声が引き戻した。
カウンター越しにソファをみれば、部屋を見渡す父の姿があった。
「――すまんな。ありがとう」
顔も見ずに掛けられた感謝の言葉に、公一はとっさに「あ、うん」としか返せなかった。頑固な父親からの、思いがけないありがとうという言葉に、公一の胸にほんのり湧いたのは、ちいさな喜びと、疼くような寂しさだった。
「うん。でも……それたぶん本当は、母さんに言わなきゃいけなかったんだと思う」
ぽつりとこぼした本音は、そのまま夕方の乾いた空気になった。
そこから「じゃあ、俺行くわ」と公一が声をかけるまで、二人は結局、一言も言葉を交わすことができなかった。
父は、あんなに小さい感じのする人だっただろうか。
公一は、足早に自宅を出た。俺を育ててくれた人は、あんな寂しそうな顔をする人だっただろうか。
定年を迎えても、父は父だと思っていた。厳しいけれど懐が大きくて、部下に慕われて、いつも傍若無人で偉そうにしていた人だ。
おそらく、そんな姿はどうせこの先も変わらないのだろうと思っていた。
だが今の父は、息子の顔を見て「ありがとう」と言うことすら照れくさくてまともに言えないような、ひどくシャイで小さな人だった。
家に帰りたい。栗原のいる家に。
自宅を出て、栗原の家に帰る帰り道、公一は思いついて妹にメールを入れた。
『母さんのハンバーグとデミグラスソースのレシピを教えてほしい』
里心がつく、というのなら、今の公一の心境はまさにそれだったかもしれない。
だが、公一が帰りたいのは父親しか待っていないあの家ではない。無性に母親の味が懐かしかった。それが当たり前にあったあの頃が懐かしい。
今、できないことは、今から学べばいい。公一はこの数日でそれを知った。
知らないことは、これから知っていけばいい。食べたいものがあるなら、誰かが作ってくれるのを待つだけじゃなくて、自分で作るという選択肢だってある。
お兄ちゃん、どうしちゃったの? と驚いているような返信が、折り返してきた。
「急に、食べたくなったんだ」
妹の信じられないという声が、タイムラインに流れてくる。
まあ、信じられないのも無理はない。家にいたときは、料理どころか食べ終わった食器すら、そのままにしておくのが当たり前の生活だった。
「母さんのデミグラスソースのハンバーグが食べたくなった。だから、自分で作ってみようと思って」
レシピがあっても、上手くできるかどうかはわからないけれど。
丁度、最寄りのスーパーに公一がたどり着くころ、手書きのレシピを写真で撮ったメッセージが妹から送られてきた。
誰か、食べさせたい人でもできたわけ? なんてメッセージ付きで。
レシピには、材料の分量だけでなくどんな肉を選んだらいいのかというアドバイスまで、びっしりと書かれていた。メモ用紙の手書きの文字は、見慣れた懐かしい公一の母親の字だった。
ソースのレシピの最初には、『フォン・ド・ヴォーから作るデミグラスソースは時間がかかるから、出来合いのデミグラスソースでもOKよ』と但し書きがある。細かな字で書かれた手順を目で追いながら、スーパーのかごを手に、材料を探す。
合い挽き肉のミンチだけでなく、牛もも肉の塊も加える。
塊肉をわざわざ包丁でミンチにして混ぜるのは、粗く叩いた肉を加えることで、食感が良くなるから、らしい。
コショウに黒や白、粒や粗びきといった用途ごとの種類があることも、ナツメグなんて名前の香辛料があることすら、レシピを見ながら調味料の売り場に来るまで公一は知らなかった。
――こんな手間をかけて、あの食事は作られていたのか。
「料理は愛情よ、がんばってね」とメモの最後に添えられていた母親らしい一言に、公一の顔に苦笑いが浮かぶ。
レシピ通りに、上手く作れたらいい。それを、できたら栗原が喜んで食べてくれればいいと思う。
母の味がそのまま再現できるとは限らないが、このレシピがこれまで公一を育ててくれた味なのには違いないのだから。
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