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6.巣立ちの時、居心地のいい家

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 もともと、公一は要領がいい方だ。教われば、家事を一通りこなせるようになるのも早い。
 ものの数日で食事の支度に手間取ることも少なくなり、洗濯機を回す間に布団を干し、掃除機をかけてしまう段取りも、あっという間に身についた。
 職場では分刻みのスケジュールをこなしていた営業部だ。俺はやればできるんだよ、とパン、と干したシーツの端を引っ張って、公一は誰も見ていないベランダでフフンとひとり胸を張った。
 さて、昼までにはまだ間がある。他にやることは残っていなかっただろうか。
 午後からは、書店にでも行ってこよう。そのうち会社から離職票と雇用保険の書類を貰って、ハローワークにも手続きにいかなくてはならない。転職のために履歴書も用意しておかなくては。そういえば、出汁用の煮干しがなくなっていた。みりんはまだあったが、醤油が切れたと昨日の夕食のときに栗原が言っていたのを、公一は思い出した。
 洗濯物を干す手を止めずに、公一は頭の中で一日の段取りを算段する。あれもこれもと脳内でリストアップしているうちに、残り物の始末にまで頭が及ぶ。
 冷蔵庫に小松菜が残っていた。買い出しに行く前に、痛みそうなものは今日の昼に全部使って食べてしまったほうがいいだろう。栗原が作っていた小松菜と油揚げとちりめんじゃこの炒め物が美味しかったから、あれと同じものを作ってみたい。さて、夕ご飯はなんにしようか――
 はた、と気がつけば、後輩の味覚にすっかり馴らされている自分に気が付く。さらには、夕食の献立を何にするか、なんて今から考えていることに気が付いて、旦那の帰りを待っている嫁じゃあるまいし、と公一は苦笑いした。
 そろそろ、焼くか煮るだけの魚料理ばかりでは物足りないと思っていた。さて、どんなメニューなら栗原も喜んで食べてくれるだろうか。

 そんなことを考えながら、その日の午後に本屋に寄った。料理初心者でもできそうなメニューが載った料理本を買い、スーパーで食材を揃え、レシピとにらめっこしながら夕食を用意してみた。
 全部ひとりで作ったのは、初めてだった。皿に盛りつけた料理の見栄えに、ニンマリした。スマホで撮影してSNSで披露したくなる人の心理が分かる。大成功とは言い難かったが、この達成感は悪くない。
 いつもより少し遅い時間に帰ってきた後輩は、公一の手料理を見て感動に打ち震えていた。まったく、大げさなやつだ。
 作ったゴーヤチャンプルーは、思ったよりも苦みが強く、豚肉を少し焦がしてしまった。だが、嬉しそうに食べてくれる栗原がいたから、やっぱり作って良かったと思えた。
 嫁でもあるまいし、なんて笑っていたが、こういうのも案外悪くないと公一は正直に思う。仕事でなくとも、自分の掛けた手間を、喜んでくれる相手がいるのは素直にうれしいことだった。
 気がつけば、公一が家を飛び出して、十日が経とうとしていた。

 古いタイル張りの風呂に浸かりながら、家にいる父親のことを思う。
 公一に独り暮らしの経験はない。薦められるまま選んだ大学も会社も、家から通えるところだったために、これまで公一は家を出る必要が一切なかった。必要は無かったが、独り暮らしにまったく憧れがなかったかと言われれば、それは嘘になる。人並みに両親は子供に口うるさく、一緒に暮らすことが煩わしいと思うことも、少なくなかった。
 よくある親子関係のように、親が煩わしいと思うたびに家を出たいと考え、そうすれば自分は自由になれる、なんて漠然と思っていた。それが証拠のように、公一と同じような煩わしさを感じていたのだろう妹は就職とともにさっさと家を出て行った。
 社会人になって、公一は昔よりもずっと打算的になった。親の煩わしさは聞き流してしまえばいい。日常生活のこまごまとしたことを自分で何とかしてまで、聞き流せばすむ小言から逃れるために独り暮らしがしたい、とまでは思わなくなってしまった。
 天井から滴る水滴を眺める。
 自分が大人になったからだとか、昔よりも分別がついたからそういう欲求がなくなったのだ、なんて気持ちはごまかしだ。そう己に嘯いて今まで安穏と実家に甘えていた。
 敢えて意識したことはなかった。でも今ならわかる。両親がいたあの家は、本当に居心地のいい家だった。
 結局、自分は生きていくのに楽な方を選び、子どもの特権で甘えられるという環境で、父や母に寄りかかっていただけなのだろう。ここ数日の経験で、漠然と公一はそう考えていた。

 
 どうせいつまでも、このままではいられない。躊躇いはあったが、公一の足は、自然に自宅へと向かっていた。
 十日ぶりの自宅の玄関先。分譲マンションの売りの一つだったプライベートポーチには、公一の母親が手入れしていたプランターが置かれたままになっていた。母はそこに季節ごとに花を植え、朝一番には花殻を摘んでは水をやっていた。それが今は、半年前に植えられたマリーゴールドと、日日草が枯れたままポーチの端に追いやられている。
 うらぶれた雰囲気を感じるそれを見て、公一は思わず顔を顰めた。この家から仕事に通いながら、公一自身もその放置されたプランターを毎日視界に入れていたはずだ。なのに今さらそれを目にして、まるで初めて気が付いたかのように不快感を覚えている。
 忙しいことを言い訳に、都合の悪いことや煩わしいことを、目に入れながらも見ないふりをしていた。それを今さら思い知る。これでどうして自分が父親だけを責められるだろう。
 
 施錠されていた玄関を開けて帰宅したものの、家の中に父親の姿はなかった。部屋は公一が出て行ったときのまま、荒れ果て汚れたままだった。
 公一は、漏れそうになる溜息を噛み殺して、まずは脱いでそのままになっている玄関の靴を、一足づつ下駄箱に収めた。
 それから手始めに、ほうきで玄関とポーチに降り積もった砂と埃を軽く掃き清めた。塵取りで集めたものを掃き取り、玄関先の上がり框にまで散らばるゴミくずを拾い集めると、少しだけすっきりした玄関に気持ちがちょっとだけ前向きになった気がした。

 いくらかやる気の戻ってきた気力を奮って、公一は家の窓を開け放し、リビングに散らばる雑誌や新聞を、拾い集めては軽くまとめていった。
 弁当がらやコンビニ袋を、ゴミ袋に次々に投げ入れていく。ペットボトルだけを集めてみれば、空のものから飲みかけのものまで、十本以上のボトルがリビングテーブルの周りに転がっていた。
 父も自分と同じなら、ペットボトルの捨て方など今でもきちんと知らないはずだ。
 片付けられないのは、自分で片付けたことがないから。言い訳じみているが、片付け方を知る機会もなかった。公一と違って父には、栗原のようにそれを教えてくれる親切な相手もいない。
 マンションのごみの日のカレンダーは、分別もしないままうずたかく積まれたごみ袋の裏側に埋もれていた。
 父はもともと酒を飲まない。荒れた生活を送っていても、公一のように酒に逃げた様子がないことにだけは、ちょっとだけホッとした。

 ひたすらゴミを拾い集め、脱ぎ散らかしていた服を脱衣所に運び、どうにか空いて覗いた床のスペースに軽く掃除機をかけた。
 埃のつもったリビングだけでも、やりたいことはいくらでもあったが、本腰を入れて掃除をする暇はなさそうだ。洗濯機を回して、汚れ物が山になっている流しを片付けたら、さしあたり自分の部屋で要るものをまとめてアイツの家に帰ろう。
 ――帰る?
 自分で思いもよらなかったその発想に、公一は失笑した。


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