おいしいごはんがまっている。~実践から学ぶやさしい家庭のつくり方~

にゃおん

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5.日々繰り返す、淡々とした毎日を

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 正直に言う。公一は家事を舐めていた。
 というか、舐めていたというレベルにすら達しないほど、日常で意識したことがなかった。
 母親に頼りきりで困っていなかったということもある。誰でもできるようなことだと心のどこかで思っていたのは間違いない。
 それを人は「家事という仕事を舐めている」というのだ。

 翌日、公一は、まず手始めに自分の着ていたものくらいは洗いたいからと、朝一番に洗濯機の使い方から教えてもらった。
 しかし、洗い上がったものは皺を伸ばして干す、ということもなにせ知らなかった。
 公一は乾いたものの、皺だらけの洗濯物を前に途方に暮れ、教える立場の栗原は、洗剤を入れてスイッチを押すところまでしか教えていなかったことを、アイロンの焦げ跡がついたシャツを目の前に、深く反省することになった。

「まあ、わりとありがちな失敗ですよね」

 苦笑いしながらも栗原は、その夜ベランダで公一と一緒に並んで洗濯物の干し方を実演して見せてくれた。

「こうして干すと、アイロンを当てるにしても、後が楽なんです」

 栗原は濡れた衣類を一枚一枚皺を伸ばして干す。
 公一はその手間に驚き、さらにその手際良さに、重ねて驚いた。

 ゴミの分別法も知らない。掃除機など使ったこともない。アイロンがけはおろか、洗濯物の畳み方もわからない。炊飯器で米を炊くだけのところから無理。なので炊事などはまるで戦力外。
 有り余る有給があっても、栗原の家にいて公一がひとりできることはまるで無い。
 初日で公一があまりに何も知らないことがバレ、栗原には心底驚かれた。
「いくら実家だからって! 先輩、今までどうやって生活してたんですか?」と、本来切れ長の目を丸くして尋ねられても、今まで母が全部やってくれてた、なんて小学生のような理由も正直に白状し辛い。

 夕食の前に、キッチンに一緒に並んで、米の研ぎ方から教わる。
 栗原は朝の忙しい時間帯に、手際よく公一の昼ごはんの用意までしていってくれた。しかも二日続けて。
 それがあまりに申し訳なくて、できれば自分で食べるものくらいは自分で料理できるようになりたいと思った。
 できるようになるためには、教えを乞うしかない。恥を忍んで公一は後輩に頭を下げた。

「そのくらいはいくらでも。作れるメニューは、ちょっとづつ増やしていきましょうか」

 栗原は驚きながらも、快く応じてくれた。
 困ったポンコツの居候に「一緒にできるようになりましょうね」と笑いかけ、むしろ教えることが楽しいとでもいうように、それはもう根気よく付き合ってくれた。
 先輩と後輩が逆転している。逆転どころか、もはや完全に先生と出来の悪い生徒だった。
 恥ずかしいところは、もう散々見られた。公一は今さら照れることも恥ずかしがることも諦め、腹をくくって居直って全部教えてもらうことに決めた。

 夕食のために、煮干しで出汁をとった味噌汁を作る。
 キッチンに並んで、公一は難しい顔をして不器用に豆腐を角切りにした。みょうがの切り方を教えてもらって、慎重に千切りにしていく。味噌汁にみょうがなんて初めてだった。
 なんだかもの珍しくて思わずそう言えば、「そうなんですか? じゃあ篠崎先輩の家の定番の味噌汁の具は何でした?」と聞き返された。
 そこで、はたと公一の思考が止まる。真顔で改めて聞かれても、とっさには出てこない。そもそも、公一はこれまで味噌汁の中身なんて気にしたこともなかった。
 母さんは、出汁は何でとっていたのだろう。煮干しか、昆布か、それとも鰹節だったのか。豆腐はよく入っていた。うちのはジャガイモとかキャベツも入っていた気がする、と言うと「ほんとうに?」と栗原からはびっくりされた。
 途中で、作っているみょうがの味噌汁を味見した時、自分の家の味噌汁とは味がずいぶん違うなと思った。違いはわかるが、どこが違うのかはわからない。これまで、食べることにそれほど興味がなかった公一の味覚など、せいぜいはその程度だ。

「うちはおばあちゃんが、こうやっていつも出汁をとっていたんですよね。だから、おじいちゃんはこれ以外の味は嫌だとよく言っていました」

 毎日のように口にしてきたものだから、余計に違いが気になるものなのかもしれない。
 みょうがの入った飲み慣れない味の味噌汁を飲みながら、またいつか、母さんの作った味噌汁が飲みたいと公一はふと思った。次に飲むときは、以前よりももう少し、椀の中身が気になってしまうことだろう。

 そこから数日、一緒に作るところから食卓を共にして気が付いたことは、栗原の作るメニューには和食が多く、主菜にも肉より魚を選ぶことが多いということだった。
 長いこと年寄りと一緒に暮らしてきたせいかもしれない。公一には少し物足りないくらいに塩気の薄いおかずと、食卓の定番になった古漬を食べながら、栗原はそういう環境で育ち、そういうふうに今の味覚を養ってきたのだなと、そう感じた。

 公一の下で新人教育を受けていた頃の栗原は、昼食はいつも弁当持参だった。営業の外回りで昼をまたぐ時でも、公園のベンチで持参した弁当を広げていた姿を思い出す。
 公一はその時から昼食は外食が当たり前だったため、コンビニで弁当や総菜を買っては一緒に外で昼食を取った。
 当たり障りのない世間話をしながらも、常に午後からのアポや、帰社してまとめる資料の内容などで頭がいっぱいだった公一は、そんな時に自分がどんなものを食べていたか、なんていちいち覚えてはいない。
 だが、いつか「栗原には毎日弁当を作ってくれる人がいるんだな」と特に深い理由もなく話の水を向けたことがある。
 その時の公一の質問に、「シルバー人材に働きに出ている祖父の分と一緒に、自分が毎朝、二つ作っているんです」と栗原は答えた。
 目の前の体の大きな新人が、朝から台所に立って弁当を作っている姿が想像できなくて、その時とても驚いたことが、なぜか強く印象に残っている。
 栗原の弁当といえば、茶色いばかりのおかずと、残りを全部白いご飯が埋めているような、食欲をそそるというには、見た目に味気なさすぎる色合いの弁当が多かった。茶色いおかずが多かったのは、それが祖父の好みの味付けだったからだ。それを公一はその時初めて知った。

 公一が知る手作りの弁当といえば、プリーツレタスやプチトマトで飾り付けられた、見た目も常に華やかなものだ。公一が高校生になった時から、父は結婚してから退職するまで、それを毎日食べていた。
 しかし、仕事で外回りの多い公一が、昼食が取れないことや外食する機会が多かったこともあって、無駄になるからいらないと断って以来、母が毎日のように作ってくれていた弁当は、それっきりになった。

 だからだろう。栗原が作るという質素な色合いのそれが、公一には物珍しかった。
 一口食べますか? と分けてもらった卵焼きが、だし巻で甘くなかったことに驚いて、しかもそれが美味しくて、「おまえ、意外な料理の才能とかあるんだな」なんてやりとりをしたことも覚えている。
 思えば、あれがきっかけで、それまで互いにどこか接し方を探り合っていたような栗原と公一は、急速に親しくなっていった。栗原が先輩である公一に懐いたのだ、と周囲からは思われていたが、公一の方も栗原に対して明らかに気安くなった。
 後輩が快く弁当のおかずを恵んでくれるのに味を占め、ちょくちょく口を開けては「一口くれ」なんて強請った。事務の女の子にはそれを「篠崎さん、男同士で何やってるんですか」とからかわれたりした。
 部署替えが本格的に決まった時、ああ、もう栗原の作った卵焼きを一口くれ、なんてやりとりもできなくなるのだな、と改めて思い、一抹の寂しさを感じたものだ。
 それは栗原が公一にとって、いかに得難い後輩だったのかという証明のようにも思えた。

 だが、部署が違えば、同じオフィスビルに居ても顔を合わせる機会はまるで無くなる。ただでさえ営業部は仕事が多い。日々の業務の忙しさは、移動になった元部下の近況を、たまに気に掛ける余裕すら公一から奪っていった。
 介護が必要になったという栗原の祖父が、その後入院していたことも、昨年亡くなったということすら公一は、ここに至るまで知らなかった。思えば薄情な先輩だったと今更ながら思う。

 栗原は、そんな公一に、なぜここまで良くしてくれるのだろう。泥酔して記憶を無くしてしまった、あの夜に、一体自分はどんなやりとりをしたのか――

「うん、おいしいですよ」

 まだたどたどしい手つきで、公一が作った味噌汁が褒められる。
 箸を動かしながら、ほんの少し物思いにふけっていた公一の意識が、ハッと現実に戻る。
 一つひとつ教えてもらい、公一がというよりどちらかと言えばふたりで一緒に作ったごはんと味噌汁と、焼いただけのおかず。
 料理スキルの低い公一のせいで、数日同じメニューが続いている食卓にふたりで一緒に手を合わせる。そして、美味しい、ありがとう、と今日も家主から感謝の言葉をもらう。
 胸を張って全部自分の成果だと言えない結果を褒められ、公一は毎回いたたまれない。
 しかし、他愛のない会話を交わしながら、ふたりで作った食事を一緒に摂る。それだけの繰り返しが、公一の気持ちを凪いだものにしていった。

 公一は栗原の家に来て、作ったものをおいしいと言われることと、洗濯をして掃除をする、それだけのことに「助かります、ありがとう」と感謝を貰うことの喜びを知った。
 なるほど、いごこちのよい家というのは、こういうふうにして作り上げるものなのか。
 思えば、自分はこれまで母に感謝を言ったことなどあっただろうか。
 家が常に綺麗なことを当然のように過ごして、掃除したり、片付けたり、食事を用意したり、そういうことの大変さをこれまで知りもしなかった。

 母の作るハンバーグが好きだった。シチューが美味しかった。カレーよりもハヤシライスの方が好きで、手作りのデミグラスソースが味の決め手なのよ、と笑って言っていたのを今更に思い出す。
 公一は作れと言われても、その作り方一つ知らなかった。

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